やーーーー、書きたくってうずうずしてるんですよ。
中身が伴うかは別として、書くことつまり共有することに、私の存在価値があるような気がするんです。
すみません。ここの所全く更新できてなくって。
11月で仕事はピークを越えるはずだったんですが、今年はイレギュラーな動きがひどくてまだよれよれです。
それでも毎月のアクセス数があまり変わらないのは過去記事も読んでくださる読者さんがいらっしゃるということですね。
感謝です。
さて、中途半端になっている『無から有へ』『神のはじめ』
なぜこのテーマを『実子』の項目にいれているのかというと、夫婦愛とペアシステムの根源に触れたいからです。
人が存在を認識できるのは自分自身とそのほかに他者存在を感覚できるからです。
無をイメージする為に書いた四つ前の記事(7月5日)にあるように、究極的には自身の肉体を客体化して観察(感覚)するところへ行き着きます。
だから『有る』=『存在』と言うのは自我が自信を客体化して観察することから始まるんです。
観察主体と観察対象。
つまり、一者であって二者。
この感覚の発展、展開した先に陽陰とペアシステム、夫婦愛が表れるのではないかと考えるわけです。
感覚とは何でしょうか?肉体を持つ私たちには視・聴・嗅・味・触の五感がすぐに思い浮かびますが、これらは三次元空間上で様々な物質に囲まれているから生まれる感覚です。
しかし、三次元的なこれらの刺激を受けたときに、人の内部で何が起こっているかと言うと、とりあえず脳内では『脳波』に変化が表れます。
詳しくはありませんが、脳波と言うのは電気信号みたいなものでしょう?
つまりエネルギー変化です。
感覚主体が感覚対象から影響を受けて変化する授受作用をもって、存在の基本である四位基台が成立する。
一者(正)が自らの中に形状化した対象を見出して二者になった所が天の三位基台。
存在としての自覚が合成体として存在の四位基台となる。
最初に感じたご自身の姿(二者として分割された時点)とは、まだ五感のような複雑な感覚はありませんから極単純な感覚でしかなかったはずです。
多分概念的な無と有、あるいは白と黒、1とゼロのような明滅的、二値的なものだったでしょう。
しかし二値の表現でモールス信号やバイナリーデータは様々に複雑な意味を書き出すことが可能です。
そして先に書いたように記憶の重要性ですね。
この記憶、単に明滅の記憶では複雑な意味は書き表すことができません。
ここに必要なのは離散化メッシュです。
『明』がいくつ続いたのか?『滅』がいくつ続いたのかという単位です。
※追記-----以下に図を入れていますが、これはあくまで二次元的な表現です。
一次元的に感覚するならば、このように俯瞰することはできません。
仮に無と有、明滅を光と闇に例えるならば、闇と光が交互に通過していくだけです。---追記終わり※
デジタルデータの場合は0と1という文字数=一文字一枡で離散化され、モールス信号の場合には『時間』という見えざるメッシュで区切られて「トン」と「ツー」が判別されます。
離散化メッシュという言葉は数学で使われる表現です。
今書いているのは一次元的な話なのでメッシュ(=面)ではありません。
ラインです。
言語学で使われる『離散化』の内容の方が多分近いです。
言語学の離散化は、人の話す言葉の「音素」を解析します。
機械的な時間や距離で離散化するのではなく対象の状況に応じて離散化するんですね。
アフリカ大陸の国境線とヨーロッパ大陸の国境線くらいに違います。
離散化される対象(=記憶)のラインと、離散化する目盛付きのメジャーのようなライン。
二本のラインが並んで意味を織りなす。
これをイメージした時に、私はDNAの二重螺旋の原型がこれなのかなと思いました。
そして
「神様が拍子をとるのに合わせて皆さんは踊る」
みたいな表現が御言の中にあったと思います。(毎度うろ覚えで申し訳ありません。)
これもまた、メトロノームが一定のリズムを刻むのとは違う、指揮者とオーケストラが互いに呼吸を合わせて振られるタクト、
或はライブの楽器の掛け合いでベースのリズムを叩くドラムがイメージされます。
これが杓子定規だったり、メトロノームだったりすると、おそらく天国はあり得ない。
白人が勝手に引いたアフリカ大陸の国境線も不幸だよね?
ヨーロッパ大陸が幸せかと言うとまた別の問題が絡むけど。
ここで観察主体は観察対象から刺激を受ける情緒、
観察対象は観察主体の形であり記憶となる。
今、刺激を求める心は情緒と呼ばれ、刺激を与える観察対象は体であり過去記憶と考えることができます。
観察主体はリズムを刻む、拍動するエネルギーということになる。
形状化した過去記憶がどこに蓄積されるのかと言うと、やっぱりエネルギーによって再演されるしか蘇りようがない一者であるジレンマ。
原初、主体と対象の関係は性相と形状の関係である。
四位基台の主体と対象には陽陰があてられることが多い。
陽陰は対象の形状の中に主体が感じ取る内容ではないか。
次に考えられる展開は二次元平面展開にです。
二次元に展開するとはどういうことなのか?
一次元の場合には一つのエネルギーが明滅しながら過去を積み重ねることによって時間軸というラインを形成する。
二重螺旋のような形状は、右手と左手で別々のリズムを叩くような、一体不可分の一筋のラインである。
これを二次元化するには直交する二軸にする必要がある。
しかしこれは結果である。
一次元存在から二次元は創造し難い。
三次元存在であう私たちに四次元が概念的にしか空想できないのと同じく、実感的には捉えどころがないのである。
要は記憶を俯瞰したいと願ったのではないかと思います。
自身を複製して眺めるという、究極の自己愛の世界ですが、存在が自身しかない場合には他者を愛することなど不可能です。
材料は、自身の記憶(形状・体)とそれを支えるエネルギー(性相・心)のみです。
それを分割して自立する対象、他者存在を形成する。
この場合、喜びの対象としての創造の第一歩と考えられます。
そうすると良いものだけで構成することを考えるでしょう。
そして、自身の存在を懸けて対象を創造するのですから手を抜くことはありません。
恐らく、自立した他者のイメージはありませんからあくまでも自身を複製するイメージです。
対等なものを造りたいと考えたのではないかと思います。
エネルギーを分割して、そこに形を与えていく。
或は、形を強くイメージしてそこにエネルギーを乗せていく。
どちらだろうか??
自身を複製するのだからそれは性形の存在であり、形があればそこに陽陰が備わる。
自立するエネルギーは同時に外部からの影響を受け得る感性を持つ。
エネルギーは波なので、波は干渉を受ける性質を持ち、干渉こそが外部刺激に対する反応であり感覚の原型なのです。
過去記憶と現在感情が揃えば未来を求める意思も付いてくる。
もう一つの『意識的存在』が立ち上がってくることになります。
しかしこれも、先にあるものと後から来たものとの差がありますが、これをもって陽陰の関係とは言いにくい。
この二者も一体不可分の関係です。
繋がっていなければ元の木阿弥の孤独な世界に戻ります。
それぞれが自立しつつ一体であるとき、二つの軸を持つ二次元世界を形成できます。
つまり視覚的要素が存在しうる世界を形成する。
この二つの意識的存在が「夜の神と昼の神」だと考えています。
昼の神は夜の神の対象(相対?)として現れた。
対等存在として産み出されているのに何故男神と女神なのだろう?
美しく生み出されたことは疑う余地がない。
対等とはいえ、後から来ればスタート時には小さな存在であったかもしれないから、大小の観点からは陰性?
小さければ弱いから陰性?
とりあえず、絶対的な『無』を経験していない。
喜びの存在として産まれたならば、負の記憶は与えられていない可能性がある。
だったら陽性?
いずれにしても、性相的な要素を持つ以上は主体性を持つ存在になる。
主体性を持った対象という矛盾が堕落への導引であったと想像できる。
経緯から考えて、二者の性質には次のような差があると思われます。
夜の神
孤独への耐性が強いが孤独を嫌う。
何もないところから構築していく創造性に長ける。
単純作業をこなせる。
昼の神
受動的性質
有ることが当たり前なので、もっぱら応用力に長ける。
夜の神と比べれば思慮は浅いかもしれない。(無自覚)
これを男性的性質と女性的性質と考えるのは短絡的かもしれないし、世の人間を見渡しても必ずしもその通りではない。
個人差と普遍性の問題もあります。
そして御言が正しいのなら、世の中の人間は男も女も昼の神様の影響下にある。
夜の神様の性質は庶子段階に求められる性質でもあるなぁ。
昼の神様の性質は、この段階では僕の僕。
生み出されたばかりだから当然のことですね。
この後二柱の神として創造を進めることで成長するはず。