サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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七つの封印-13 神のはじめ
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    つぶやきと呼ぶにはなんだか長ったらしい文章ばかりなのでブログタイトルを変更してみました。
    サクラ・Leafって、名前そのまんまですが、葉っぱというのは書き記された用紙を意味するものなのでいいかなと。
    ついでにサクラも日本を象徴する花なので和風な考え方(?)という意味合いも載せましょう。

     

     


    私たちは、そもそも三次元の世界に生み出された存在なので、存在と言えば三次元的なものを思い浮かべがちですし、三次元空間自体は神以前に広がっているもののように捉えがちです。
    あったのかもしれませんが、空間が空間として認識されるには三次元的な存在が生まれてからのことになります。

     

    認識することで存在が確定されるというのは量子論的な考え方ですが、
    統一原理も実はそのような発想で書かれているところがあります。
    創造本然の価値を語るときに、素晴らしい博物館を建てても観客たる人間がいなければ存在価値がないと言います。

     

    価値があるかないかと存在するかしないかは別だろうと思われるかもしれませんが、
    これを分離して考えるのは唯物思考あるいは物心二元論です。
    統一原理は唯物論ではありません。
    霊的存在を貴重に考えています。
    では、唯心論でしょうか、物心二元論でしょうか?
    宗教と科学の統一を図ることから、科学をも尊重する立場をとるため、物心二元論的立場を模索していたようですが、あいまいです。
    物心二元論の弱点は、精神と物質がどうやって関係を持っているかというあたりのあいまいさです。
    神を奉じる立場であれば、精神の優位性を信じる傾向が強い事と思いますが、その優位性をどのように説明するかと言う問題です。

     

    唯物論と言うのは比較的理解しやすいと思います。
    精神は物質の副産物であるという考え方で、人間の心は脳内で作られているので脳の活動が終わったら精神は消えてしまい、霊など存在しないという立場です。

     

    唯心論というのはその逆になります。
    物質は人間の精神が作り出しているもので、実は実体がないという考え方です。
    これをそのまま受け入れてしまうところころ変わる人間の考えによって世界が影響されてしまうため現実世界との整合が悪くなります。

     

    唯心論で世界の合理的な説明を付けられないと考えることが普通のようで、理性的な主張の多くは物質を客観的存在として考えます。
    そもそも、人々の心がバラバラで、個人においても考えが替わることがよくあるのが人間です。
    そんな人の心を基準として世界が構築されていたとしたら安心して生活することはできません。

     

    それでも私はこのブログ上では唯心論をとろうと考えています。
    唯心論と言っても、個人の考え方で客観的現実がデタラメに変わるわけではありません。
    主観と客観の関係性について冷静に思考できればと思います。
    そこに至高の精神と言うべき神の霊が、宗教と科学の根源であり統一体として存在する世界観の可能性を語っていきたいと考えます。

     

     

     

    さて、唯心論的立場を表明しましたので、創造の初めに神ご自身が一次元的な存在であれば、世界もまた一次元的存在であったと言えます。
    唯心論的立場からは、世界は精神に認識される場・環境でしかありません。
    精神のための器です。
    二次元キャラクターはモニタまたは紙の上の二次元に収まっていますね?三次元空間を必要としません。
    そして一次元の神は一次元の場に収まっています。
    これは性相と形状の二性性相でもあります。
    精神が形状としての環境と相対基準を結んでいる状態です。
    精神が表れる以前はその環境も無かったということです。

     

     

     

    ★記憶としての存在


    創造の始まりは、一次元的でしかありえないのは、三次元や二次元の概念が、一次元を経ずには現れ得ないからです。
    そのステップをもう少し丁寧に記述してみましょう。

     

    前記事で書いた最初の「感じ」も、三次元的な気配ではなく、二次元的・視覚的な色や光でもありません。
    何かしら、痛みの様な感覚かもしれません。
    想像するのが難しいですが、その「感じ」が強弱をもって拍動するのです。

     

    拍動とか、振動とか何か存在しているならば、それが運動することは理解できます。
    しかし、存在しないものが運動するでしょうか?

     

    逆なのです。
    『運動』を『感覚』したので、その『感覚』を対象化して存在としたのです。
    存在とは、感覚された『そのもの』を指します。

     


    一次元的感覚というのは、一瞬の時には一つの感覚でしかありません。
    二次元的な言葉で表現すると、辺り一面真っ白とか、真っ赤とか真っ黒とか、一色しか見えないみたいなものです。
    視界に映る一面が一色で塗りつぶされていたなら、私たちはそこに何かがあるとは感じにくいものです。
    暗闇や、あるいは雪の中で「ホワイトアウト」して道に迷うような感覚でしょう。
    しかし、その前の瞬間に、あるいは次の瞬間に、別な色があればどうでしょうか?
    時間の流れを通じてコントラストを味わうことができます。
    「意味」が表れてくるのです。
    有無の拍動は、過去と現在のコントラストによって生じてきます。

     


    過去と現在のコントラストを味わうために必要なものがあります。
    「記憶」です。

    今と違った過去があったことを思い出せなければ、今が過去とは違うことを認識することができません。
    現代科学では人の記憶は脳に書き込まれているものだと考えているようですが、どうなんでしょう?
    少なくとも、原初の神様には脳みそは無いでしょう。

     

    記憶に「運動記憶」というのがあります。
    身体が覚えてるというやつで、自転車の乗り方などは頭で覚えているというより運動記憶らしいです。
    慣性の法則など、運動が保存されている状態も、そのものが運動を覚えていると言えないでしょうか?
    一定方向に進みつつ、突然方向を変えたりしませんよね?
    心臓や肺も一定のリズムで動いています。
    脳が動かしていると言いますが、全てが脳の指令ではありません。
    水産物などでは、捌いてる最中にも筋肉が動いたりしますが、その動きはデタラメな方向に動くわけではありません。
    運動の中に記憶が息づいている例は少なくないでしょう。
    三次元世界での記憶は、物質そのものに刻まれています。
    過去の運動の結果が今の物質の状態を決定しています。
    柔らかい地面の上を動物が歩けばそこには足跡が残ります。
    それもまた、物質に残された記憶です。

     

    一つの運動を繰り返せば、その動きは無意識に繰り返されることがあります。
    しかし、一次元的な運動が記憶化されるには、そうとうな繰り返しによる定着が必要だったのではないかと想像します。

     

     

     

    ★記憶と時間の矢

     

    記憶とは、運動パターンとして蓄積されている可能性を感じますが、その分析は置いておくことにします。
    過去の瞬間の記憶と、現在の瞬間の感覚との差異が、構造を生ぜしめて有無の存在を決定していると考えると、
    存在の根源に記憶があると言うことができます。
    現在の存在を過去の記憶が支えているということです。
    その前に、過去と現在の間に差異を生ぜしめるものが感覚内容の変化であるということは、運動がさらにその根源であるということです。

     

    運動が時間を生み、記憶がそれを支える。
    運動による変化が時間を生み、変化を支えているのが記憶。
    (運動がない静止した瞬間には過去の概念が立ち入る余地さえもない。)

     

    0次元というのが座標原点であり、
    1次元というのは、0次元に時間運動を加えた直線である。
    2次元平面は、1次元直線に時間運動を乗じたものである。
    3次元は、2次元の時間運動の結果である。

     

    つまり、加算あるいは乗ぜられた記憶が存在を支えている。
    そうすると、現存在である私は、過去存在に支えられている存在であるので、
    過去存在を記憶として閲覧できるけれど、過去存在当事者にはなることができない。
    現存在は確定した過去存在があるから存在が可能であるから、過去存在と現存在は存在として兼ねることはできないし、
    過去存在は変更可能な現存在と同じ可能性を持つことはできない。
    過去存在の変更は、現存在を否定することになる。
    『過去への介入の禁止』これはSF小説やコミックでよく出てきますよね?

     


    存在そのものはプラス方向にしか向かえず、時間は逆行しない。
    反物質と虚数空間はまさに虚構であり概念上の存在でしかありえない。
    (では、何故概念上に現れたのか?思うところはあるのですがそれは別な機会に論じてみたい。)

     

    そして在って在る神は、在ることを選ばれたので後戻りせず、イザナキノミコトも産むことを選んでいる。

     

     


    ★意思の発生

     

    『運動・変化』(変化は運動の副産物なので以下運動とのみ記述)と『時間』と『記憶』と『存在』について記述しています。
    ここまでは過去を参照する現在までの存在です。
    神を信ずる立場は、神に人格性を見出します。
    人格とは、喜怒哀楽の感情と、意思性です。

     

    運動、時間、記憶、存在の中で、
    『記憶』というワードは明らかに知的分野のワードです。
    『存在』については、対象格位、過去の裏打ちを持つ客観性の可能性です。
    『時間』は『運動』により生まれ、過去と現在に次いで未来の可能性を示唆します。
    『運動』はエネルギーを秘め、興奮など、情緒的可能性が見出せます。(エネルギーが満ちれば喜び、枯渇すれば悲しみ。)

     

    心や精神は、情知意と表現されます。
    ここまでに、『運動』と『記憶』という形で『情』と『知』が登場しました。
    では、『意』が何かというと、『意識』としての現在であり『意思』としての未来への要望。

     

    正の位置に『運動』(無意識的原因)

    分-主体の位置に『記憶』(原因認識)

    分-対象の位置に『時間』(認識対象・付随的)

    合の位置に『存在』(結果)

     

    第一次的にこうしていいかもしれない。

    運動によって生じた記憶であり時間です。

    第二次以降は、

     

    正の位置に『存在』(在って在るという目的)

    分-性相の位置に『運動』(情緒的方向性-快・不快)

    分-形状の位置に『記憶』(目的達成のための方向性判断対象・存在基盤)

    合の位置に『時間』(意思的未来)

     

    かな?

    少しすっきりしない。

    『記憶』というのはそれ自体にエネルギーが感じられないが、

    神の全知性を支える体のように感じている。

    おそらくワードの選択の問題だと思います。

    まだ言い当て切れていないのでしょう。

    ニュアンスで拾っていただければいいのですが…。

     

     

    Twitterで二世の男性が
    「意思とは物理現象であることにまちがいない」
    と、つぶやいていた。
    三次元物理世界に生きる私たちにとって、それは真であろうと思い印象に残っています。
    この世界では『存在』とは物理現象であることはまちがいない。

     

    しかし、意思が二次元的にも一次元的にも生じ得るとすればどうでしょう?
    それは物理現象とは限らなくなりそうです。

     

    | おーば | - | 13:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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