サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
<< 七つの封印-11 『無』への理解 | main | 七つの封印-13 神のはじめ >>
七つの封印-12 『無』から『有』へ
0

    『無』について書きましたが、これが『ペアシステム』とどう関係するのか理解することができるでしょうか?

    恐らく簡単ではないと思います。

     

    『無』に至って、そこから何ができるのか?

    原初の『無』の瞬間には時の流れさえもありません。

    時が移るべきコマが無いのですから。

     

    次の瞬間に『有』が現れたとしても、その『有』という存在には何の歴史もありません。

    歴史を持たないその存在には『記憶』もありません。

    無垢の『有』は、いったい、何をもって『有』と主張できるでしょう?

    それはささやかな『構造』を持つことです。

     

    この、構造をもって『有』と主張した存在が「あってあるもの」としての創造主他なりません。

    私たちは全ての存在が創造主によって創られたと考えるからです。

    この存在が、「いや私は某乃何兵衛だよ」と名乗ったとしても、私たちが信頼する創造主はこの存在です。

    経験しえない『無』の記憶を持たれる唯一の方。

    そして、『有る』ことを選択し、『有る』ことを愛された方です。

     

     

    何の記憶も持たない存在が、いきなり複雑な構想を持つことは不可能です。

    知識の乏しい幼い子供の発想は、時に大胆にはなりますが、緻密さは持ち得ません。

     

    幼い子供とは何事か、神と言えば、それが一神教の創造の主であるとするならば、

    全知全能の何も欠けたところのない存在としてイメージすることが普通でしょう。

     

    しかし、無から有を生み出した瞬間に、一体何を知っていることができるでしょうか?

    知りうることは「世界には何もない」ということだけではありませんか?

    未来を知っているのでしょうか?

    未来はそこから創られるものであれば、空想したとしても知ることではありません。

    空想するにしても、そこには感覚できる内容が何もないので、色も形も音さえも無いのです。

    感覚できないということは、経験することができないということです。

    経験できないということは何の記憶も持ち得ないということです。

     

     

     

    本当に単純な構造とは、無と有を分け隔てるところから始まらざるを得ません。

    無と有を隔てることで時間が生まれます。

    『無』の瞬間と『有』の瞬間です。

    『有』と言っても何かの物質的な存在であるわけではなく、ぼんやりとした何かの、かすかな『感じ』程度でしかないでしょう。

    何しろ身体さえも持ち得ない瞬間です。

    オカルトか、何かのファンタジーの世界のようですね。

    (ああ、そういえばミヒャエル・エンデのネバーエンディングストーリーに書かれている脅威は『無』でしたね。

    人が書く、様々な物語の中にも実は啓示的な内容が少なからず含まれます。

    その出所は様々なので、有益なものを見極める、あるいは有益に読み取る心を持つのが庶子です。)

     

     

    時間を刻むことはリズムを産むことができます。

    『無』を訪ねたときに最後に残った心音のようです。

    人は母の胎に居たときには、母の心音に包まれています。

     

    原初には音でさえもなかったでしょう。

    『感じ』の粗密が感覚され強弱となり、音として意味づけることでそれは音になるのです。

    途方もないプロセスを経て、『感じ』は『音』になり、やがて『声』になるのでしょうか。

    古事記において独り神が現れては身を隠すプロセスが重なってきます。

     

    ゼロと1だけで書かれた言語がありますね?

    バイナリ―データです。

    バイナリ―データはコンピュータ言語ですから、その表現内容はとんでもない世界です。

    あるいはモールス信号も音と無音の組み合わせで表現される言語です。

    そしてこれらは立体であるはずもなく、平面でさえありません。

    直線的な一次元の世界でしかありません。

     

    そうして創造主は様々な幾何学パターンから複雑な意識を構築されていったと考えられます。

    人が神様と言うときに、意思をお持ちになる存在であることはあまり注目されませんが重要なポイントです。

    創造神にせよ、八百万の神がみであろうと、人が神様と呼ぶ存在はそれぞれに意志を持つ存在です。

    神様が意志をお持ちなので、御機嫌を損ねることのないようにお祭りするのです。

    信仰を持っていなくても、宇宙に根本的な原因があるはずだと人は考えます。

    科学者たちはビッグバンを宇宙の始まりだと言いますが、そこには誰かの意志を認めません。

    偶然の産物だというのが多くの科学者の暗黙のルールでしょう。

     

     

    このように、意識を構築されるプロセスは夜の神様と呼ばれる「光あれ」以前の神様の経験です。

    神様の自己創造でもあったと言えます。

    このご自身の意識が神様にとっての最初の『対象』です。

    ご自身の意識を対象化して自己分析するかのように成長されたということです。

    これは内的な陽陰の授受作用と表現されるところかもしれません。

    陽陰の中和体であられた存在が陽と陰をあるいは性相と形状を分立されて授受作用をされたと言えるかもしれません。

    多くの宗教は「光あれ」以前の神様に注目することはありません。

    統一食口の一部がみ言葉の中から『成長する神様』に注目をするようになってきました。

    また、シュタイナー思想の中に、神様とは認識せずに神様の成長の歴史に触れる部分があるようです。

     

     

    『無』から『有』を見出され、それを選択された神様の御意。

    『有』の根源となる『対象』の存在はどれほど愛おしいものでしょうか。

    気の遠くなるような『無』を意識することによって、対象を愛おしむ神様のご心情への信頼を深めることができるのです。

    | おーば | - | 18:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









    http://blog.o-baka.com/trackback/435
    1234567
    891011121314
    15161718192021
    22232425262728
    2930     
    << September 2019 >>
    + 自画像・ホームページ
    + ブログ村ランキング
    + SELECTED ENTRIES
    + RECENT COMMENTS
    + CATEGORIES