おーばのつぶやき

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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七つの封印-5 原罪について
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    ここで『原罪』にも触れておきます。

    『原罪』が関わるのは『僕』と『養子』の段階です。

    『僕の僕』は原罪どころか『罪』など犂愀犬ない畴Ъ韻靴覆の場。

    『庶子』以降は原罪を狠Δい性畩況であると考えます。

     

     

     

    そもそも、堕落せずに成長していれば、『原罪』としての概念は生じるものではありません。

    だったら八段階と原罪は親和性のない話になりますから、ここで出すのもちんぷんかんぷんに見えるかもしれません

     

    『僕』にとっての原罪は、戒めと同じ様に存在します。

    戒めを守るための『根拠』とでも言いましょうか。

    原罪と関係がない本然での『僕』は家庭の中で保護者の指導のもと成長してゆきますので、

    戒めを守ろうとする『根拠』は保護者からの働きかけに対する応答の必要です。

    実際の家庭内での子供の躾はそのようになっています。

     

    しかし、神様との関係が“切れた”状態では神様の指導を直接受けるわけにはいきませんので、

    神様の子供になるというご褒美を動機付けとしているのです。

    もっとも、ご褒美の内容はよく理解できていませんので、第一イスラエルであるユダヤ教では取り立てて原罪を意識しているものではないそうです。

    とにかく戒律を守ることが大切で、戒めを破ると地獄へ落ちる。

    地獄に落ちるのはそもそも人間始祖が約束破ったからだと。

    モーセの十戒が記された石磐は『契約の箱』に収められていましたね。

    『原罪』もまた、『契約条件』の一項目のように捉えられているのです。

    先に手形が切られているので、逃げたりさぼったりしてはいけない、堕落した『僕』の行動の動機付けです。

    約束破りの物語が失楽園の物語であり、その物語のエピソードとしての原罪なのですね。

     

    そういう物語ですので、ある程度の成長を遂げてこの物語に対してみると様々な疑問が生まれます。

    天使の立場は同情に値します。

    先に来て、多くの働きをして、愛し、愛されて、ヤキモチを焼くくらいの情緒性を備えているのに、

    あっさりと棄てられたような立場に立たされるわけです。

    人間始祖が受けた試練などよりも何倍大変な立場ですか?

    それでも、「彼は悪者なんだ」と教えられた子供は、悪者の気持ちを想像できるほどの情緒はないので、彼を徹底的に嫌うのです。

    そして、彼は仕えることが使命であると教われば、対等に考えることなどありません。

    とても傲慢な心を育てかねないのです。

     

    相手の事情を思いやるのは『養子』になってからなので、『僕』の立場からは『原罪』の背景とか、理論的な意味合いは関係なく、

    守ったらもらえるご褒美だけが重要なのです。

    直接指導できる養育者がいないので伝えられた、子供をやる気にさせるためのシステムの一環と言っては言いすぎでしょうか?

     

    自分はこれだけのことをしたのだから、それに見合った報酬が与えられるのは当然の権利である。

    あたりまえなこの主張が僕の主張です。

    気を付けなければならないのが、『僕』としての報酬を受け取ってそれで満足してしまうと、『養子』の段階に進むことができなくなります。

    イエスの時も、福音を受け入れたのは『罪人』とされていた取税人や遊女、あるいは穢れた病人でした。

    戒めの限界に対峙した先にあるのが福音だったのです。

     

     

     

    『養子』になると少し様子が変わります。

    養子の特徴は対等な関係性なので、自分の事情だけ主張しては周りとの関係を築くことができません。

    だから相手の事情が気になるのです。

    そうすると、戒めにも意味を問いますし、『原罪』にも意味を問います。

    「神との約束に不従順だったことが罪となった。」

    「戒めを破ったことの責任を男と女とで擦り付け合った。」

    などというのがキリスト教会での代表的な見解でしょうか。

     

    失楽園の物語も、その場面で猜_擦棒犬る立場瓩らはどのようにすべきなのかを問うのです。

    つまり、堕落論で言うところの『堕落性本性』を持っていることが『原罪』がある証であり、『原罪』そのものだと捉えられています。

    ですから、失楽園の物語が具体的な史実であるかなども関係なくなります。

    どこまでがセーフでどこからがアウトかという問いもありません。

    キリストの再臨にあって最後の審判で問われるのは『信仰』であって行動ではないのです。

    旧約の信仰を『行義』と言い、新約の信仰を『信義』というのも聞いたことがあるでしょう?

     

    『原罪』に対する懲罰はキリストの代贖によって回避されていますので、戒めを守る必要は必ずしもありません。

    戒めを、福音の教えを、守ろうとしても守り切れない弱い存在、不完全な存在であるのが罪人としての人間である。

    その様な認識の下でなお、福音によってもたらされた『隣人愛』に生きようとするのが、『養子圏』にあるクリスチャンの生き方です。

    しかしそれにさえ原罪ゆえに徹しきれない現実も、イエスの代贖により許されていて懲罰を受けることはないと信じます。

    そして再び主にまみえる時(最後の審判)、完全に罪なき者として栄光に包まれる。

    原罪は主の再臨の時に赦されるというのがクリスチャンの信仰ですね。

     

     

     

    こうやって見ると、堕落論は堕落性本性を開設していることから『僕信仰』と『養子信仰』を見据えた上で二段構造をとっているようにも見えます。

    神様の前に信仰初心者である人々には、戒律的『僕信仰』が求められます。

    そのためにまず、天使との淫行を強調した具体的な罪科を示し、それを克服するための『信仰基台』として献金・伝道を義務化しています。

    信仰が育った上で、堕落性を脱ぐ人格完成が求められるのでしょう。

    しかし最初の僕信仰の段階から『堕落性を脱ぐ条件』としての『実体基台』を形骸化して説いてしまったが故に、歪んで愛のないアベルカイン原則が横行し、

    言われるがままの信仰生活を送るしかなく、『僕信仰』がいつまでも強要されるようになってしまったのではないでしょうか?

    『実体基台』は兄弟との関係です。

    親の前にはフラット、対等な関係性です。

    ちなみに、『信仰基台』と『実体基台』を合わせて『メシヤのための基台』なので、メシヤを迎える前に『養子信仰』完成の必要を原理講論は訴えてるわけです。

    ネット上の情報を散見するうえでは、『僕信仰』を徹底するのみで「祝福(メシヤを迎えた)によって原罪は清算された」という論が多く見られます。

    いつのまにかメシヤに侍ることが実体基台であるという考えになっているようですが、メシヤに会う前に立てるのが実体基台ですから。

     

    | おーば | - | 13:13 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
    全く関係ないかも知れないですが、そして、
    ご存知かも知れないですが、武田鉄矢のYoutubeで知ったことです。彼は朝鮮半島のこととか、びっくりする程勉強し、本も読んでます。
    同じ九州人です。
    あの国の歴史は完全にねつ造されてますね。

    第2次大戦直後の話です。
    真珠湾の攻撃指令官(隊長)が、渋谷ハチ公の所でキリスト者に伝道され、イエスキリストの愛に覚醒しました。
    アメリカハワイをへゼロ戦で攻撃に向かった彼(淵田 美津雄(ふちだ みつお))が、今度はイエスキリストの愛を伝える為に、アメリカへ船で向かったんです。
    当然の如く、皆から罵倒されました。
    しかし、何とも思わず、意に介さず、これまで敵だったアメリカ人たち、マッカーサーはじめ。次々出会い、神の愛、イエスの愛を伝えに全米を旅したそうです。
    彼は、アメリカ海軍の学校へも向かいました。
    「真珠湾攻撃キャプテン」と紹介されましたが、全員の拍手で迎えられたそうです。学校には教会があったそうです。逆に、日本軍は心の拠り所は無いので、皆それぞれ悩みいろんな本(宮沢賢治とか仏教とか)を胸に抱いてたそうです。

    また、彼の落とした爆弾で死亡した父親の息子さんにも出会い、その息子さんを涙で抱きしめ、和解したそうです。
    そして、
    ハチ公で伝道されたのは、東京大空襲で攻撃した米兵のことが書かれた書物がきっかけだったそうです。

    そういえば、クリスチャンに転向した人ブログで見たなと思い、書きました。
    | toramaru | 2019/03/26 7:35 AM |
    ふむふむ。
    確かに記事とは関係うすいですが全く問題ありません。
    私も現在プロテスタントの教会にも籍がありますので関心は強いですよ。
    「和解」はクリスチャンにとって大切なテーマの一つみたいです。
    ただ、和解すべき相手を選り好みする傾向もあるので、あれ?っていうこともありますが。
    神様の摂理はUCに留まるものではありませんよ。
    そんなに小さな神様ではありません。
    もっと言えば仏教や神道にも働かれる神様ですね。
    表れ方がそれぞれですが。

    しかし韓国。
    ここのところネットニュースも頻繁ですが頭の痛い民族性が露ですね。
    嘘をつけば真実は失われていくのでしょう。
    だから真実の歴史は見えないすべてが虚構。
    最低のところから出発ってそういうことなのかもしれません。
    | 桜葉佳代 | 2019/03/26 6:41 PM |









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