サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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七つの封印-3
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    私の文章の根拠というのは、自らの信仰経験に基づくとしか言いようがない。
    み言葉を探して研究するというスタイルではありません。
    個人の見解と言ったらそれっきりですが、信仰の証は共有され多くの実りをもたらす性格のものでしょう?
    そもそも信仰自体がみ言葉に沿った人生であり、み言葉を検証し続ける生き方なんですから。

     

     

     

    さて、人はいつまでも家庭の中だけに留まることはできませんので、次の段階に進みます。
    公園デビューなのか、幼稚園入園とか、小学校入学なのか。
    とにかく対等な関係の他者との出会いです。

     

    家庭にある『僕』段階では、ルールの決定権がない代わりに一方的に保護を受ける立場でした。
    『養子』の立場は氏族という環境に入りますが、ここでは相手との関係によりルール設定を自分たちで話し合いの上創ることが可能になります。
    なぜなら、相手との関係が対等だからです。
    これが『福音』です。
    福音は隣人愛を説くものであり、隣人と私の関係は対等であることが前提です。
    僕と主人のように一方的な関係ではありません。
    そして、『隣人』であるからには、顔が分かり、どういう人なのかが分かるのです。

     

    家庭環境の中で調和的愛に至った私たちは、氏族圏の中で対等な関係の隣人を『知り』
    今までのように一方的な保護ではなく、ある時は容赦なく要求を持ってきたりする隣人との付き合い方に『葛藤』し、
    葛藤を越えたところで関係の中に喜びを見出して調和的な『愛』に至ります。

     

    この時に、前の段階での戒めとの葛藤を解決せずに来てしまうと、次の段階の福音は受け入れることができません。
    すると関係ないローカル・ルールを持ち込んでみたり、
    理不尽な要求を受けたと感じて、相手を裁くようになるのです。
    それは家庭内で保護される一方だった時には何も責任がなかったのですが、
    氏族圏では一定の責任を果たす必要があることを理解できていないが故なのです。

     

    そして相手のことを理解しようとはせず、保護者から与えられたルールにのみ従い、
    そのルールさえ一面的な考え方で捉え、一方的な権利の主張をするに留まります。
    僕のルールは行動を規定する義務です。
    責任とは、行動がもたらす結果を見据えることです。

     

    『権利と義務』の発想は僕的発想。
    『自由と責任』の発想は養子的発想
    と言えるのでしょう。

     

    なんだか子供が育っていくうえで当たり前のことばかりを書いているように見えるかもしれません。
    私たちの信仰生活と何の関係があるものでしょうか?

     


    現代社会は養子・氏族段階が社会的に展開されています。
    出所性別関係なく平等であるべきことが謳われる社会です。

     

    しかし、全ての家庭、全てのコミュニティが円満な環境をつくることができているわけではありません。
    ですので、知的には社会や国家、世界を知っていても心情的には僕の情から抜け出せていない人たちも多くいるのです。
    当然のことですが、『庶子』『実子』『母』『父』『神』の情に至っている人などほぼいないのですから『国家』『世界』に生きるにふさわしい人などまだほとんどいないのです。
    なので円満な安定した国家は現れませんし、国際紛争も絶えることがありません。

     


    つまり、多くの人たちが知的な成長のみで世の中を構成しているのです。
    心情世界が付いて行っていませんし、心情的成長の必要性を説く思想もありません。
    ここの理解がないので、『平等』の名の下、心情の幼さが放置されています。
    この心情教育を何とかしようとするのが宗教団体の使命かもしれません。

     

     

     

     

    私は今キリスト教会に籍を置いているのですが、
    統一原理ではイスラム教を僕の信仰と呼び、キリスト教を養子の信仰、統一教会を実子の信仰と位置付けてきました。
    どの教会にいるから僕だ養子だという問題ではないのです。
    教えを受け入れる個人が、その教えを義務的に感じているのか、使命的に感じているのか、
    そういう問題なのです。

     

    キリスト教会にも色々あって、大きくはカトリックかプロでスタンとかはたまた正教会かとあります。
    私が籍を置く教会はプロテスタントのバプテスト連盟に所属する教会です。
    この教派は各個の教会の自治を尊重し、自治なもんですから独立会計ですし、牧師の給料も各教会で工面するものですから牧師がいない教会まであります。
    牧師の任免権は信徒会にあり、信徒会が教会の中心という事なんでしょう。
    プロテスタントでも、中央組織から牧師が派遣されるところも多く、そういうところは中央からの規制も多くあるそうです。
    自由の大きさと責任の大きさは比例するという事ですね。

     


    この教会に来て5年ほどだと思いますが、やっとクリスチャンの信仰というのがどんなものなのかおぼろげに見えてきたような気がします。
    彼等の救済観はあくまでも個人的な救済のようです。
    責任は負うのだけれど実績を伴わなくとも責め立てられるものではありません。
    なんでそれで責任を負ったことになるのかというと甘受しちゃうからなんです。
    力及ばず結果を出せず、苦難を受けるようなことになっても、その苦難を受け入れて時を待つ。
    そうすればこの世を離れた暁にはパラダイスが待ってるという事です。
    勿論、苦難のさなかにはイエス・キリストが共に歩んでくださるから恐れることはないのです。

     


    ナルホド、眠りの中なのですね。
    個人的な救済というのは『僕の僕』の情を家庭的調和、氏族的調和の『養子』まで引き上げます。
    しかし、家庭そのもの、氏族そのものを救済するには至りません。
    その様な思想は持っていないのです。

     


    一時期氏族メシヤという言葉をよく耳にしました。
    氏族とは養子の群れです。
    養子たちを救済できるのは養子以上でなければ困難です。
    つまり、庶子か実子でなければなりません。
    統一教会にはそういう思想がありましたが、庶子・実子の情に至る人材が育っていたでしょうか?


    ここまでの書き方でお気づきの方もいらっしゃるでしょうか?
    『家庭』に調和して『僕』を完成し、『氏族』に調和して『養子』として完成する。
    つまり、『庶子』として完成するには『民族』基盤、『実子』として完成するには『国家』基盤が必要と言うことになります。
    堕落世界には未だ神の国が立っていないので、天の側の実子は完成することができないという理屈になってしまいますね。

     

    「氏族復帰」「国家復帰」はただの掛け声ではなく深刻な問題だったのです。

     

     

    | おーば | - | 00:09 | comments(10) | trackbacks(0) | - | - |
    ある番組(ドキュメンタリー)で、
    母親が他界、父親が末期がんの状態で、全盲の一人娘が父親の介護をしながら生活してる、そういう内容だったそうです。
    しかも、この娘さん言葉使いがとても丁寧ということでした。
    こういう愛情深さをもつ人こそ、人を動かします。

    ちなみに、人間は堕落とかしてないですよ。
    他と比較する思いがすべての発端です。また、
    忌まわしき血統転換など完全なデタラメです。
    | toramaru | 2019/02/25 4:09 PM |
    桜葉さん、こんにちは。

    個人ー家庭ー氏族ー民族ー国家と
    僕の僕ー僕ー養子ー庶子ー実子 が連動しているという事を実生活を通して見事に語られていますね。
    なるほどなーと思いました。さすがです。
    | hiruma | 2019/02/26 10:37 AM |
    toramaruさん、コメントありがとうございます。

    全盲の娘さんが病の中の父親の介護ですか。
    すごいことですね。
    きっと、ここに至るまでにご両親が与えた愛が素晴らしかったのでしょう。
    あるいは彼女を支える環境の中に、表に出ない素晴らしい人があるのでしょうか。
    美しい言葉は誰かとの関係の中で育まれると思います。

    人間は堕落しているんだと言うのは簡単なことです。
    でも、その言葉は人を見下したり、どうせ堕落人間なんだからと自暴自棄にさせたり後ろ向きな発想に繋がることが多いように思えますね。
    | 桜葉佳代 | 2019/02/26 11:43 AM |
    hirumaさん、いつもありがとうございます。

    実感をもって言葉を受け止めている人が少ないように感じます。
    さらに実体を伴う人なんて皆無なのかもしれません。
    私も実態は。。。いかがなものかと思います。

    せめてその言葉の実体がどんなものなのか想像だけでもできるようにならないと、先には進めませんものね。
    | 桜葉佳代 | 2019/02/26 11:47 AM |
    コメントでご忠告頂きありがとうございます
    中々、違う感性を受け入れるのは難しいです
    考えた結果該当記事は削除しました
    ただ今回の事件については思うところがありますので引き続き考えていきたいと思っています
    | fatherF | 2019/02/28 12:01 AM |
    おはようございます。桜葉さんの記事やコメントは、いつも本質をついている内容ですね!御言葉やその背後に流れる心情までも、深く汲み取ろうと真剣に向き合っておられる事を、読む側も強く感じます。

    だからこそなのか、桜葉さんの記事やコメントに向き合う側の姿勢も問われているような気持ちになります。

    今回のfatherFさんの記事へのコメント、昨日の朝読みました。コスモスさんも桜葉さんもUC圏の問題を良く理解しておられた深いコメントだと思いました。

    こういうコメントこそUC圏で共有し、反省というか、信仰観の原点を見つめ直すきっかけになれたかも知れないのにと思いました。だから削除された事が残念だと思いました。

    また機会があったら桜葉さんの考えを聞きたい気持ちです。コメントを読んだ者としての感想です...。
    | 海がめ | 2019/02/28 9:02 AM |
    fatherFさん
    わざわざありがとうございます。
    先のコメント承認されないんだろうと思って書きましたが汲んでいただき感謝です。
    出会った出来事について深く考えることは大切ですよね。
    その時に、一方的な見方をしていないかというのは、自分自身にも常に問い続けたいと思っていることなんです。
    fatherFさんには「考えさせられる記事」期待してますので宜しくお願いします!
    | 桜葉佳代 | 2019/02/28 2:05 PM |
    海がめさん
    温かい言葉をありがとうございます。
    人の言葉は流れていくものなので、すぐに消えていくものなのだと思います。
    誰かの心に留まるものがあったときにまたどこかで反復されて共鳴することができるのだとも思います。

    だからみ言葉がこれだけ多くの兄弟姉妹たちの口に繰り返されているのはすごいことなんだと思っています。

    私のようなものの言葉に心を留めて下さってありがとうございます。
    | 桜葉佳代 | 2019/02/28 2:16 PM |
    こんにちは。

    「氏族とは養子の群れ」という言葉に、目からウロコです。ハッとさせられました。
    私の目には、一体どれくらいのウロコがあるのでしょう。。。
    「心情の幼さ」も、その通りだと思いました。

    たぶん、これからも私の目からウロコが出てくる記事を書かれると思います。
    楽しみです。
    オフ会、過去にされたんですね。うらやましいです。ああ、遠いー(涙)。
    | koguma | 2019/05/25 4:26 PM |
    kogumaさん こんにちは

    八段階は考えてゆくととっても面白いです。
    ただの階段だと思ってしまうのはもったいないです。
    ヨコの段階を一緒に考えることで人間関係が立体的に見えてきます。

    もし、里帰りとかで東京近辺にいらっしゃることがあれば是非直接お会いしたいです!
    (私が出不精でなかなか遠征しないものですから申し訳ありません)
    | 桜葉佳代 | 2019/05/27 11:05 AM |









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