サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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七つの封印-1 律法と堕落論
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    八段階の知覚的相関図

     

    何度か書いていると思いますが、私が八段階の内容を考えるベースになっているのは信仰の三段階です。

     

    四位基台に根拠を置く、蘇生・長成・完成の三段階については原理講論にも書かれているので考える材料は結構ありました。
    旧約時代を蘇生期とし、行う事によって義とされる僕の信仰。
    新約自時代を長成期とし、信じることで義とされる養子の信仰。
    成約時代を完成期とし、自ら悟って侍ることで義とされる実子の信仰。

    そのように位置付けた説明を原理講義だったか信仰講座の中で何度も聞きました。
    そして旧約以前を無原理圏、僕の僕と称していた記憶があります。

     

    3年前に取り上げましたが、18世紀、英国教会のジョン・ウェスレーが似たような表現をしているものも見つけました。
    http://blog.o-baka.com/?eid=311

     

    私は献身していたころには行義の信仰から抜け出すことができなくて非常に悩みました。
    成約、侍義の時代に何をやっているのだろうかと思ってました。
    もっとも、養子圏から実子圏に上がるには祝福を通過する必要は語られましたが。

     

     


    それらの話と現実を見聞きして今回の図を作りました。
    異論を唱えられそうなところは自覚があります。

     

    先ず、律法と堕落論を同列に於いてあるところに多くの人が疑問を感じると思います。
    そして、福音(新約聖書)と四研の成約原理を同列にしてあります。
    更に更に、上位段階に原始仏教などという項目が書かれています。

     

    そもそも、成約時代の真理であるはずの堕落論が何故律法と同列になるのでしょうか?
    それは『僕』の性質を考慮してのことです。

     

    僕段階というのは、心に喜びや感謝がありません。
    主人の言うがままに行動して自分で善悪判断などしません。
    主人の言うことが正義です。
    行動の根拠は〜せねばならない、〜してはならない等の義務形です。
    律法はまさにそのごとくですね。
    そして、自由気ままに生きる僕の僕とは一線を画して妙なエリート意識を持っています。
    律法を誇りとして受け入れているので非情に排他的です。

     

    ここに僕段階の厄介さががあります。
    僕の僕を極端に嫌う傾向です。

     

    食口たちの多くはクリスチャンとして生活してきたわけではありません。
    多くは、自由主義と個人の権利の中で自身の喜びに生きる世界、

    つまりは僕の僕的な世界から、いきなり信仰の道へと飛び込んできました。
    そこにより高い栄光への道があると信じたのです。
    自由奔放な僕の僕を否定して修身の世界に飛び込んだわけですが、
    堕落論の戒めがその入り口になっているのです。
    まさに信仰としては蘇生的な段階から順当なスタートを切っているのです。

     

    前々回ちょっと書きましたが、僕の僕=個人の段階は八段階全体の核心です。
    この段階では情操を自由に成長させる必要があります。
    人間らしい喜怒哀楽の感性の基がここで育ちます。
    善いことも悪いこともとりあえずは気にしないで好奇心の赴くままにエネルギーを蓄える必要があります。
    個人と言う段階なのでひたすらに自己中心ですが、だからこそ家庭の内側で保護されて育てられます。
    一部の祝福二世たちは、物心ついたころからいきなり『神の実子』の基準を求められて、
    この情操部分を育てることができずに悩んでいるようです。

     

    神の実子の基準と言っても、僕の段階ではそれがどんなものだかも実は理解していませんので、
    自分たちが生命視する戒めをとにかく守らせることが大切なんだと考えてしまいます。
    僕たちにとっては、僕の僕の自由奔放さこそが『罪』と感じられているのです。

     

    結果、情緒的なエネルギーを持つことのないままコアが空っぽの状態で戒めで固めた上に僕としての家庭生活を送るようになります。
    コアが弱いので、次の段階に進み出るのに十分なエネルギーが湧いてこないのです。
    本人たちにとって、これは非常に深刻な問題としてのしかかっています。

     

    祝福二世に限らず、一般の家庭においても似たような事例は見られます。
    それは『機能不全の家庭で子供時代を送って成人した人たち』=『アダルトチルドレン』と呼ばれていますので
    関心のある方は調べてみてください。
    一世自身もこのアダルトチルドレンであるケースが少なくありません。
    アダルトチルドレンについては一般には親側の責任を追及しがちです。
    親子の問題には間違いありませんが、そう単純な問題ではありませんので状況理解にとどめて対策を丸呑みしないようにご注意ください。

     


    僕たちの信仰動機は基本が個人的な動機になっています。
    目標値は「神様のために」と言いますが、自身が地獄に落ちないことという本音を我知らず抱えているようです。
    僕の僕の段階が個人だと考えやすいのですが、僕の僕は『個人』と言う意識さえなく相手を全く考えない段階です。
    情緒性を完成して初めて『個人』としての歩みが始まります。
    奔放な情緒性から他の人を認識して我慢しなければならないこともあるのだと認識を持つこと、
    そこに個人的な存在としての自覚が生まれます。
    我慢することで自身の身を護り、争いを避けらることを知り、戒律を受け入れるようになります。

     

    戒律的な宗教の教えの多くを、この封印の列に加えることが可能です。
    律法と堕落論は全く同等でしょうか?
    少し違うのは、堕落論には、その先の封印を解くための伏線が隠されています。

     

     

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