サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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原罪についてどう考えるのか?続き・完結
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    前記事からの続きです。

     

     

    新しい切り口とか、角度とか、どうしたらいいのでしょう?
    既成概念を捨てなければならないかもしれません。

     

    既成概念と言っても、教会内での概念です。

     

    統一原理の従来の読み方の基本は創造原理よりも堕落論に重きを置いているように感じます。
    これは、内容のショッキングさとストーリー性が強いので印象に残りやすいのとが影響していると思います。
    ストーリーとして認識されるというのは生活感に直結するため従来の考え方と容易に結びつきます。
    そして原罪について語られているのも堕落論です。

     

    私達は、日常生活に近い感覚で語られるストーリーの中で、自分や身近な人の堕落性が指摘されることにより堕落論に共感します。
    私の視点で創世の物語を見ているのです。
    そしてその物語が導き出す結果について、私が願う次の展開を求めています。
    私が、あるいは私と近い立場の存在が救われることを願うので、次には“how-to”を求めてしまいます。
    私の視点から抜け出せていないのです。

     


    堕落論とは、あくまでも堕落論であり堕落原理ではありません。
    原理的な話ではないので絶対視するべきではないのです。
    原理を逸脱した物語なので堕落なのです。
    ですから逸脱した元々の原理をきちんと学ばなければ何が過ちとなったのかを正しく知ることはできないでしょう。
    原理をきちんと理解しなければ原罪の意味などわかりません。

     

    創造原理には神様の創造目的とその手順が語られています。
    そこに書かれているのは私の願いではなく神様の願い基づくものです。
    重点を移すだけでも切り口、角度を変えることが可能でしょう。

     

    堕落論の主要な登場人物はアダムとエバとルーシェルです。
    アダムとエバは人間ですから、人間存在、陽陰を表す男女としての意義と価値については創造原理でも語られています。
    しかし、ルーシェルは天使長として書かれ、天使存在というのは創造原理ではほとんど触れられていません。
    堕落論の、蛇の正体としていきなり現れるのです。
    これは一体何者かと疑問に感じたことは無いでしょうか?
    聖書にこう書かれているという引用だけで私たちは天使という存在を受け入れているのです。

     

    聖書は象徴や比喩だらけで様々な解釈を生んできたことを原理講論は語っています。
    しかし、天使の創造原理的な位置は聖書を根拠とする事柄以外何も語られていません。
    罪が生まれる前から存在するのであるから善を目的として創られた被造物であり、
    神様が世界を創造されるときに協助と讃美を持って参与した霊的存在とは説明されています。
    そして、明けの明星として、創造の初期に造られたものであると言われています。
    そして仕える霊。

     


    原理講論は1967年に初版発行されています。
    (これは手元にある原理講論第19版の奥付から)
    その後改定されて若干の記述の変更とカラー印刷になっていますが、原理内容に大きな変更はないと認識しています。
    総序にはまだこれから新たな御言が発表されることを心待ちにしているという旨の弟子(劉孝元先生)の言葉が記載されてます。
    原理講論には間違ったこともあるのを先生は知っているけれどもそのままにしておかなければならないというアボジの御言もあります。

     

    原罪と祝福の問題について(祝福については原理講論には書いていないけど)完全な答えを私たちは持っているのかと、疑ってもいいと思います。

     

     

     


    アボジが語られたみ言葉の中で、これは『原理』だと感じるものが一つあります。
    八定式の御言で心情の八段階についての御言です。
    これはこのブログでも何度も取り上げていますが、誰しもがいかなければならない道であるとされるからには『原理』として扱われてしかるべきかと思います。
    この御言についても、公式に詳しい解説は聞いたことが無いのですが、
    縦段階の“僕の僕”“”“養子”“実子”については“無原理”“旧約”“新約”“成約”としての講義を何度も受けてきました。
    横段階ではそれぞれ“個人”“家庭”“氏族”“国家”が対応しています。
    これ、“自犯罪”“遺伝罪”“連帯罪”“原罪”に対応しているように思えたのです。
    “庶子”=“民族”が抜け落ちてるのと、“遺伝罪”と“連帯罪”の順番が逆転してるのが気になりはしますが、“庶子”が多く語られ始めたのは八定式後なので仕方ないのかな...。

     

    『罪とは、サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、天法に違反するようになることをいう。』
    を考えてみると、授受作用というのは四位基台の要素でもあります。
    神を中心とした個体的四位基台の造成が自犯罪を脱ぐことに対応し、
    神を中心とした家庭的四位基台を造成することが遺伝罪を脱ぐことになり、
    神を中心とした氏族的四位基台(?)を造成することが連帯罪を脱ぐことになり、
    神を中心とした国家的四位基台(?)を造成することが原罪を脱ぐことかなと。

     

    (?)をつけたのは主体格位と対象格位に入るものがまだ明確化できていないから。
    氏族的四位基台はホームチャーチとか家庭教会とか表現されるものだとは思います。
    家庭的四位基台も個性完成前には合成体(子女)の位置にしか立てませんよね。(あ、だから新生されないといけないのか…)
    国の祝福を受けなければいけませんというのはそうしないと原罪が脱げないよという意味にとれますね。

     

     

     

    だとすれば、国の基盤を持たずに生まれたメシアは神の実子=無原罪には立てません。
    (おっと、四研の主張と重なっちゃいますね。導き出した根拠は違うけど。)
    そうするとオモニはおろかアボジさえ無原罪ではなくなってしまう。
    だから罪とは関係がない立場に“庶子”が必要なのかもしれません。
    罪の世界から捨て去られた立場。

     

     

     

     

    ここからは私の思想的な話になりますが、ご要望なので書いてみます。

     

    天使の件ですが、ここを真剣に考えれば考えるほどに、堕落論の物語が昼メロのように見えてしまうのです。
    全き愛のお方であるはずの神がなぜ“僕”の立場をおつくりになったのか?
    天使が僕であったとは考えにくいのです。
    讃美者であり協助者であるのは、人間的に考えれば妻の立場に見えるのですがいかがでしょう?

     


    『神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成し人間の一個体のように、
    神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。
    従って、この有機体も性相と形状とを備えなければならないわけで、
    その性相的な存在が神であり、その形状的存在が被造世界なのである。
    神が、被造世界の中心である人間を、神の形状である(創一・27)と言われた理由もここにある。
    従って、被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、
    形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。
    コリント欺衆貍錬契瓩法◆崔砲蓮⊃世里たちであり栄光である」と記録されている聖句は、まさに、
    このような原理を立証しているのである。
    このように、神は性相的男性格主体であられるので、我々は神を父と呼んで、その各位を表示するのである。
    上述した内容を要約すれば、神は本性相と本形状の二性性相の中和的主体であると同時に、
    本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体としておられ、
    被造世界に対しては、性相的な男性格主体としていまし給うという事実を知ることができる。』

    創造原理第一節、本部教会員試験の時に丸暗記させられた部分ですね。

     


    『被造世界が創造される前には、神は性相的な男性格主体としてのみおられたので、
    形状的な女性格対象として、被造世界を創造せざるを得なかったのである。』

    ここに注目してほしい。
    創造せざるを得なかった存在を創造するまでに、神はどうやって存在していたのか?
    『性相的男性格主体』が存在するためには『形状的女性格対象』は必須なのです。
    六日間も待ってはいられません。即必要なのです。
    無ければご自身が存在できませんから。

     


    晩年の御言に
    「夜の神と昼の神とがある。そして夜の神は間違いを犯さなかった。身体の神としての昼の神が堕落した。夜の神が男性であるとしたら、昼の神は女性だ。そして彼女が堕落した。」
    とありますが、身体=形状、そして女性(格)であれば、昼の神が最初に現れた『形状的女性格対象』ですね。
    天使=昼の神としても何ら違和感はありません。

     

    天使長ルーシェルはエバと姦淫したのだから女性であるはずがないと多くの人が思うところでしょうが、
    ルーシェルは自己の位置を離れています。
    つまり女性格位=対象格位から離れて、男性格位=主体格位に移ったということです。
    エバの主体格に立ってエバを主管したことを姦淫と表現したと考えられます。
    エバの自主性を奪っているのだと思われます。

     

    「自分が中心に立ってみよう、そこから堕落が始まった」(うろ覚えで不正確ですスミマセン)
    これも対象格位から離れて主体格位に移ったことを表現しています。

     

     

     

    堕落とは、主管性転倒して主体性を失った立場であり、無責任で怠惰な状態なのでしょう。
    では改めて原罪とは?
    先の罪の種類からすれば国家を失ったことになってしまいますね。
    日本語では何故出身国のことを母国というのでしょう?父ではなくて母です。
    八段階で実子の次は母です。
    母が母の位置を放棄したことが原罪なのかもしれません。

     

    なんでしょうね、人間の罪の話ではなくて(昼の)神様の罪の話になってしまいます。
    『私が責任を持っていくんだ』という心構えがない人にこんな話をすれば、讒訴の嵐になります。
    それこそ復帰の道は閉ざされてしまうでしょう。
    讒訴することは神様を中心とする四位基台をつくることにはなりません。

     

    そして

    『神を中心として完成された被造世界は、ちょうど、心を中心として完成し人間の一個体のように、
    神の創造目的のままに、動じ静ずる、一つの完全な有機体である。』

    とあるように、神様の問題はそのまま私たちの問題なのです。

     

     

    | おーば | - | 21:20 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
    原罪、深くて難しい内容ですね。
    一度だけでなく、何度も読ませていただきました。

    心に残ったのは、
    「改めて原罪とは?…罪の種類からいうと国家を失ったこと…」のところです(他にもありますが…)。
    神の国を失う、家庭を失う、息子と娘(アダムとエバ)を失う、エデンを失ってしまった。
    親としての神さまはずっと苦しいんだと思います。今も。

    一方、祝福を受けた人は、どれだけその心情を感じているか。
    祝福を受けて、満足感で終わってないか、少なくとも自犯罪は脱ごうと努力したか?霊の成長は止まったままじゃないの?と思いました。自分を含めて。

    原罪、よくわからないです。
    ただ、神さまの言ったことを守らなかったのが罪の始まりになったような…。
    うー、まとまらないです、すみませんー。
    | koguma | 2019/02/26 1:27 PM |
    この記事、読み返すととりとめないですね。
    kogumaさん何度も読んでいただいてありがとうございます。
    もうすこし違ったアプローチでも書いてみますね。
    (すぐには書けないかもしれないですけど。)
    | 桜葉佳代 | 2019/02/27 11:58 AM |









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