おーばのつぶやき

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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人間らしさ…法という独自のシステム
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    人間らしくあると言っても、
    人間はどうしたって種の始まったころから自分勝手であり、相争う存在なのだ。
    だからこそ、マルクスは闘争によって社会が発展するとまで言ったのです。
    それもまた、“人間の姿”。
    だから法律が必要になり、賞罰をもって社会をコントロールする必要がある。

     

    群棲する動物の中には掟のようなものが発生しますが、彼等の掟と人間の法は同じでしょうか?
    群れの序列は力関係での服従と考えられるでしょう。
    同族のけんかで殺し合いは、しないというのは何だろうか?
    群れを維持するための本能でしょうか?
    動物は本能の中に自然の摂理とも言えそうな秩序を守る性質を持っているのかもしれませんね。
    だとすると親子で殺し合う事さえある人間は法を守ることも犯すことも可能な奇妙な性質を持っていることになります。

     

    親子殺しもあれば地球を思いやる心もある...人間らしさとは果たして定義可能なのかと恐ろしくなってきます。
    人間の内部には必ずしも秩序的な性質がないので、外部に従うべき“法”を設けなければならないようです。

     


    “法”というのは元々宗教用語です。
    日本語での“法”は仏教用語から来ていますし、英語で“law”と言えば聖書の十戒から来るものです。
    宗教の世界でも、法をもって人々の争いを調停し、残忍な殺戮を避けようとしてきました。
    人間とは、宗教からは切り離せない存在であり、宗教性を持つが故に共同体を築き上げてきたとも考えられます。
    なのですが、この宗教が争いの原因になっていることも否定できない現実です。
    ミッターマイヤーさんのコメントの通りです。
    同時に宗教は、権力に利用されてきた歴史も持っています。

     

     

     

    だから宗教から離れて神様とは関係がない人間の理性によるシステムを創りたがっているのが無神論者たち。
    しかし、理性によって正しさを追求できるという考え方は、14世紀のルネッサンス後の“啓蒙思想”から来ているもので、一つの思想に過ぎません。
    16世紀頃には、理性の出どころも神様だったようですが、現代では理性の根拠は科学的であることのようです。
    科学もまた、16世紀頃から発達が目覚ましいのですが、当初は神様の創造の業の美しさ偉大さをたたえようとする動きでしたが、
    20世紀にはその神様は忘れ去られたようです。
    「神様に祈らなくても、科学的な手続きを踏めば望みはかなう。」と考えるようになったからなのでしょう。

    病気の原因は悪霊ではないし、天変地異も神の怒りなんかじゃなくて、それなりの“理屈”があってのこと。

     

    迷信からは離れて合理的に社会運営をして“豊かな暮らし”を実現しましょうと、考えるわけですが、
    この“豊かな暮らし”が曲者なのです。
    これも“良い”ものと同じで客観的な絶対性がありません。
    何が豊かなことが暮らしの豊かさでしょうか?

     


    人はそれぞれの価値観を持って暮らすことが現代的な自由の定義ではありませんか?
    価値観を他人から押し付けられることは現代的な人権の思想に反します。
    個人は思想信条の自由を保障されなければなりません。
    そうすると、豊かさの定義は個々人によってバラバラにならざるを得ません。

     

     

     


    物事の判断を他人任せにしていませんか?

     

    ビートたけしが言いました。
    「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」

     

    「皆がやっているんだから自分もやって大丈夫。」という発想です。
    ルール破りを推奨するような発言ですね。
    そしてもう一つ、「怖くない」とか、「大丈夫」という考え方に問題があります。
    考え方の根底に、「自分だけは」という思いがあるのです。
    ルール違反をしても、みんなと一緒ならひどい罰を受けることはないだろうとか、
    ルール通りではないけれど、大勢が一緒なら、反対側の車は道を譲るはずだとか、
    そういう考え方、相手のことを考えない保身の考えですね。

     

    この迷言のおかげで、日本人のマナーはずいぶんと落ち込んだ気がします。

     


    相手に配慮できないのは人間的な行動ではありません。
    人間相手に配慮できない人が環境相手に配慮できますか?

    最近では、忖度(そんたく)とか、慮る(おもんばかる)とかいう配慮が変だという報道が話題ですが、
    自分が優遇されたいとか、利益を得たいとかいう動機で強者に配慮する考え方とは全く違います。
    長上への尊敬と配慮は必要なことですが、それはその人たちが全体への配慮と責任を持っていることを前提としたものです。
    そして、同等の立場、或は弱者に対する配慮は、人間らしく生きるには必要不可欠な配慮です。

     

    価値判断を放棄してはいけません。
    それは自らの幸福に背を向けることです。

     


    “法”の中には配慮すべき最低限度のことが書かれています。
    赤信号を渡ってはいけないというのは道路交通法に書かれていると思います。
    だからと言って、私自身信号無視をしたことがないわけではありません。
    人もいないし車も来ない、ただ目の前の信号が赤だという場合には、自分自身で確認の上無視するケースは多々あります。
    その場合は自己責任による判断です。
    車が来ないからと言って、隣で小さな子供が信号を守っていたらその子供を尊重して信号を守ります。
    判断力が十分ではない子供は、信号を守ることで身の安全を確保するのですから、判断を誤らせるような行動はいけません。
    近くにお巡りさんがいた場合にも、彼の職務を尊重して信号を守ります。

     


    “法”は国や地域によって違います。
    国や地域の法は、人が制定するものなので間違いがまぎれる可能性は大きいです。
    宗教の法は宗教が変われば変わりますし、法自体が難解で、どうにでも解釈できるようなこともあります。
    特定の団体ごとに定められた規則も広い意味では“法”と言えるでしょう。
    どの法にも言えることは、ある程度の成員の合意の上にあるというところでしょうか。
    (神託だとか言っても、それを神託と認めるのは人間です。)

     


    法は裁きを持って、ある程度の秩序を生み出すことに成功しています。
    しかし世に完璧な法は存在し得ず、グループごとに異なる法がグループの対立を呼んでいる部分もあります。
    近代法の多くは宗教色をそぎ落として合理的に判断できる方向へと向かっていますが
    この合理的判断というのも価値観の表れ方の一つに過ぎず、人々の完全な合意を得られるものではありません。

     

    時として、“超法規的措置”などというのが世間から歓迎されることもあるのです。

     


    法を中心に考えてみる時、人には様々な段階が見えてきます。

     

    罰を恐れず、ばれなければ自分の思うとおりにしていいと考える人。
    罰が怖いので法に厳密に従おうとする人。
    法の文言に捕らわれるのではなく、その精神に則って行動する人。

     

    一様ではありません。

     

     

    | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 22:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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