サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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人間らしさを追求しましょう
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    共産主義思想は、資本主義社会では人間性が阻害されていると訴えています。
    だからと言って、共産主義や社会主義の社会で人間性が生かされた生活ができるかと言うとそうではありません。
    この問題を解決するためには、『人間らしさ』とはいかなることかを明確にしなければなりません。
    『自由』も一つの人間らしさの表出ですが、これは人間らしさというよりは生き物らしさと考えられます。
    人はよく、「鳥のように自由になりたい」などと表現します。
    本質的に『人間らしさ』を明確にした上で、それを実現する社会の在り方を見いだす必要があります。

     

    共産主義思想は、世界は対立抗争をしながら発展してゆくと考えます。
    争いがなければ発展しないと言うのです。
    争いが、論争だけで済むのならばまだいいのですが、進化論に倣って、相手を淘汰する必要性まで説きます。
    共産主義には平和があり得ません。
    停滞や退化の中にしか平和はありえないことになります。
    議論することだけで争いを止めることを考えなければなりません。
    もっと言えば、争わずに発展する思想があった方がいいに決まっています。

     

     

    資本主義は個人的な欲求を追求することを自由の権利として貴びます。
    しかし、これは過度な競争社会を生み出し、貧富の格差を容認します。
    ここに共産主義的な闘争の概念が入り込みます。

     

    また、資本主義は『商品価値』として新しいものを追求するものですから、
    成熟することが軽視されています。
    技術もデザインも思想も、新しいものがもてはやされて成熟することがおろそかにされています。
    新しいものを受け入れる能力は若いうちの方が柔軟ですので、人材としても若者がもてはやされ、
    若さばかりか幼さまでが商品化されています。
    人は成熟することを毛嫌いしているかのように見えます。
    幼さとは、新しいものを吸収する力でもありますが、

    これは古いものを知らないから新しいものが入るのであって、
    理解力の容量を満たしてしまえばさらに新しいものは入りにくくなるものです。

    そして新しいものを追求しようとする傾向は世代間ギャップの拡大に通じています。
    コミュニティ崩壊の要因ともなっているのです。
    同世代だけでコミュニティを構成すればいいのでしょうか?
    同世代で構成された地域はかつて『ニュータウン』と呼ばれましたが、最近では都市近郊部で『限界集落』として問題になっています。
    人間を使い捨てにするような社会になりつつあるのです。

     

     

    つまり、共産主義でも資本主義でも、平和な社会は実現できないことが分かります。
    人間は、平和を嫌う存在なのでしょうか?
    必ずしもそうではありません。
    争うことなく幸福を追求したいと願う人たちは大勢いるのです。
    争わない自由を追求する権利を私たち人類は持ちえないでしょうか?

     

     

     

     

    人は幸福感を心で感じます。
    ですから理論理屈で幸福の条件を物質的に整えても必ず幸福になれるものではありません。
    幸福な心の在り方、真の人間性とは何か、それを実現する社会とはどのようにあるべきかが課題になります。
    その理想像を提示して実現することが勝共運動の真髄となるべきでしょう。
    そして、その理論は勝ち負けを問うような『勝共』ではなく、争いを好まない『頭翼』でなければなりません。
    争いに向かうことは弁証法の実践となり共産主義思想に向かうことになります。

     

     

     


    何故弁証法はもてはやされるのでしょうか?
    弁証法は真理なのでしょうか?

     

    これは人の思考方法に関連すると考えます。

    二つ以上の事柄を区別するときに、どのように区別をするかと言うと、
    それぞれの間に何らかの違いを見いだして区別します。
    二者がそっくり同じものであれば、そこに区別は存在せず、単に二つのものがあってどちらを取っても同じことになります。
    存在それぞれに個性があって違うものと認識できるとき、人は自分の目的により叶うものを選び取ろうとします。
    そこには“More”の欲求が働きます。
    欲求は満たされれば喜びになりますから、人は世界が均質であるよりも、選択する喜びがある多様性を好みます。
    “差”があることはとても大切なことだと先ず認識して下さい。

     

    “差”があれば誰もが“良い”方をほしいと思う。
    これは当たり前の心理だと誰しもが考えるでしょう。
    “差”を明確化して、どちらが“良い”かを問うのが弁証法だと言えます。
    差がなければどっちでもいいんです。
    良いものを選ぶことに人が喜びを感じるかぎり、弁証法は喜んで受け入れられます。

     

    そうすると、喜びを得るための当たり前の心理であれば、弁証法は『真理』と認定してよいでしょうか。

     


    問題は“良い”という価値観にあります。
    良し悪しは、人の好みや目的によって適合するかしないかで決定するものでしょう。
    そこには主観的な絶対性があったとしても、客観的な絶対性は存在せず、

    真理としての普遍性を追求出来ないのです。

     

    唯物弁証法では、『適者生存』というダーウィニズムが適用されます。
    これは環境を主体と考えて、そこに適しているか否かということです。
    環境が変われば結果が変わるので、相対的な価値しか見出すことはできないでしょう。
    普遍性を見出すことはできません。

     

     

     

    私が商品を選び取るとき、比較して良いと感じるものを選び取ります。
    複数の人が同じものを選べば喧嘩が起こるかもしれません。
    喧嘩を始める前に、それを求める人たちの中で誰が最もそれを必要としているかを考える余地があれば喧嘩にはならずに済むでしょう。


    また、代用品や共同使用などの代案も出し得るかもしれません。

     

    同じ環境の中で、どちらか一方しか生きることができないと言われれば、
    それは相手を殺してでも自分が残ろうとするかもしれません。
    しかし、その前に共存の道を探ることの方が平和的です。

     

    人間にはその様な調和的な解決を見出す叡智が備わっているものかと思いますが幻想でしたか?

     


    キリスト教会の重圧から解放され、自由と平等な権利とを得た人々には、
    自分の欲求を他者のために犠牲にする義務はありません。
    自由に権利の行使を競って行えばよいのです。

     

    ...と、考えるから世界から争いは消えません。
    そして、自らの優位性を示すために更に差異を持ち出し、強調して争うのですから争いは複雑化の一途をたどります。

     

    喧嘩すること、生存のための殺し合いをすることと、
    話し合って相手の立場まで考えて知恵を出し合うことと、
    果たしてどちらが“人間的”な行動でしょうか?
    どちらが人間的かと問うことより、
    前者は滅亡へのアクションであり、後者は繁栄へのアクションであることを理解すべでしょう。

     

     

     

    欲求と調和は共存し得ないことでしょうか?
    少なくとも共産主義においては、適者生存の理論故に、平和共存はあり得ません。
    共産主義思想は、自分は搾取された被害者であるという立場をとります。
    適者生存を唱えつつも、何に適応するのかは考えていません。
    自分の都合だけです。

     

    私たちは人智を持って平和を希求しながらも、暴力的な隣人に油断ができないという難しい立場にいます。

    | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 18:15 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
    お久しぶりです。
    >つまり、共産主義でも資本主義でも、平和な社会は実現できないことが分かります。
    共産主義・資本主義などという概念が無い時代から、戦争・争いが絶えたことは無いと思います。
    人間&生物には生存本能が必ずあるはずです。自分が生きていくために必要ですね。同様に、闘争本能も必ずあるはずです。
    根本的には、生きたいという本能がある以上、争いの種はつきないでしょう。
    ただ、これまた生きていく為に、共存・共生という生存の道筋もありますね。サメとコバンザメ・動物と腸内細菌・細胞の集合体である生物etc。古典的な適者生存というだけでは、進化は説明できません。

    >人間は、平和を嫌う存在なのでしょうか?
    平和を真っ向から否定する人間など、そんなに多くはありません。ほとんどの人は争いは嫌いで、平和を好みます。
    ゲームの理論ってご存知でしょうか?政治学などの学問でいわれている思考実験で、相手が戦争を仕掛けるかどうかわかならい場合、常に先制攻撃を仕掛けたほうが、有利で被害が少ないという学説です。つまりお互いが平和を望んでいても戦争が起こることはあるのです。
    これも今に始まったことではなく、大昔からある問題ですね。

    頭翼思想にしろなんにしろ、争いを好まないだけでは、平和にはなりません。というかほとんどの人は争いを好みません。争わないで生きたほうが、生存確率が高いし、楽ですからね。
    | ミッターマイヤー | 2017/07/11 12:57 PM |
    ミッターマイヤー様お久しぶりです。

    コメントありがとうございます。

    いちいちもって最もな話で、人間の理性に訴え、性善説で平和な社会を築けるなんてことは私も考えてはおりません。

    このシリーズはソフト共産主義というキーワードから始めてしまったので「共産主義」「資本主義」「頭翼思想」などの概念を用いています。

    争いをせずに生き延びる方法。
    簡単なことであれば人類はとっくにそれを実践しているでしょう。
    臨まないのに争わなければならない現実をいかにすれば抜け出せるのか?
    結局個々人が変わらなければどうにもならない話なんですが、いかに変えていくのかというところにスポットを当てていきたいと考えています。
    個々人が理想的な人間であれば、資本主義だろうと共産主義だろうと、専制君主制だろうと、封建社会でもなんでも、大概のシステムで人間は平和な社会を築けると思います。
    問題は人間そのもの。
    | 桜葉佳代 | 2017/07/13 1:05 PM |
    こんな文章を書くのも久しぶりです。
    決して悲観的な意味ではなく、私は最近はこの世界から、戦争・争いは無くならないのではないかと思っています。もちろん最小化する努力・無くして行く努力は必要ですが。
    ソ連の崩壊で、世界は平和に向かうのではないかと思ってからすでに4半世紀。混迷と戦争のリスクが増大しているとは思いませんが、人間社会は科学が進歩して豊かになっても、争いの種はつきないようです。

    私の観点からすると、宗教はむしろ平和への妨げになっているのではないかと思います。イスラム原理主義はもちろんですが、キリスト教の歴史も血で塗られています。
    今は違う・我々は違うと、ほとんどの宗教信者は言うかもしれませんが、自分の信じる神は絶対であると強く信じる事自体が、他の宗教信者・神観を持つ人・無神論者に対する全否定につながり、それが摩擦・争いへ。このあたりは、協会&食口の言動がみごとに証しています。
    | ミッターマイヤー | 2017/07/14 2:40 PM |









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