サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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現代的な価値観の問題-人間とは?欲望について
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    前記事で現代の民主主義のベースにある問題を三つ整理しました。
    私たちは自身の行く道の判断において、また、対象者を指導するうえで、これらの問題を意識し対処しなければなりません。
    同時に共産主義の特徴に、弁証法と人間疎外論をあげています。
    こちらへの対応も忘れてはいけません。

     

    私たちはアベルカインの法則を学んだので、天側、サタン側と分けて考えるようになっています。
    サタン側は当然よくないものとして見ますが、天側は必ずしも完全な善の存在ではないのです。
    両方ともが堕落圏にある二者なのです。

     


    現代の思想の底流には民主主義の中にも弁証法があることを前記事で書きました。
    教権勢力と専制君主制の圧政に対する『反』です。
    その『反』から出た自由競争に勝利した人たち者の理論が『資本主義的自由競争』であり、敗北した人たちの理論が『共産主義』と見ることができます。

     

    教権勢力に反発した人たちは人間の本質を自由におき、自由を行使するために『欲望』に重きを置くようになります。
    『欲望』には『義なる欲望』と『不義なる欲望』があると言います。

    (『義』の欲望もあるのです!)

    『欲望』とは、悪なる方向に向きやすいというのは原理講論に書かれていることですが、
    原理講論では善と悪の定義がよく分かっていないのが堕落人間であるとしています。
    神の願いに沿うのが『義なる欲望』と言われても、
    そもそも神の願いが何なのか分からないから指導者任せになっているのが食口においても現状です。

     

    ましてや、メシアを迎える前に一体どうやって『義なる欲望』と『不義なる欲望』を見分けることができるのでしょう。
    ルターの「聖書に帰ろう」というのは神を中心としていますから『義』であったでしょう。
    しかし、教会に反発することで、教会もろとも神を否定したなら『義』の根拠の求めようがないのです。
    これが資本主義と共産主義が“悪魔の双子”と感じさせる所以です。
    自由競争は常に勝者と敗者を生み続けるため、資本主義は常に共産主義の温床となります

     

    マルクスは『資本』が人間から人間らしさを疎外した(奪い去った)と主張しました。
    ヘーゲルによれば、人間は労働とその成果である商品の交換によって他者と認め合い互いの必要性を見いだす(承認の欲求:後述)としたのですが、
    マルクスは短絡的に『労働すること』そのものが人間らしさを作るとしてしまいました。
    人間が社会的存在であることは間違いない事だと思いますが、人間が人間としての社会性を失ったのは弁証法的思考であると私は見ます。
    つまり過去の権威を否定するときに、過去の伝統的な社会的知恵を否定してしまったことにその原因があると考えます。

     

    人間が人間としての心情を成長させるためには横軸との関係が必要なことを心情の成長八段階は教えてくれます。
    一般に認められている説では、心理学者アドラーが共同体感覚として説明しています。
    (参考サイト)

    http://yukiduke.jp/kyodo/

     

     

     

    民主主義社会においてはより一層個人の自由と権利が主題になっています。
    他人に左右されないことが重要と考えるので社会性に乏しくなることは否めません。
    共産主義がその思想の中に社会性を含んでいることを考えると、民主主義よりは“多少まし”な気もします。
    しかし共産主義が掲げる社会性は欺瞞でしかなく、人間の倫理性によって互いを尊重し合う社会ではなく、
    指導者によって決められた枠の中に押し込められる関係になっています。
    実体は全く伴っていないのですが、理論的に多少マシなので、
    運営の仕方によっては上手くいくんじゃないかと考えるインテリさんが後を絶たないのでしょう。

     


    一方、資本主義は勝者の理論なので、常に勝つことを想定して夢を売ります。
    勝ち負けの問題なので競馬やパチンコ同様、常に勝つはずはないのですが、
    誰でもが平等にチャンスに恵まれるという幻想と、
    敗者である共産主義の現実の悲惨さを宣伝することで自らの正当性をアピールします。

     


    資本主義社会が勝利のご褒美として宣伝しているものはどの様なものでしょうか?
    人間の自然な欲求を満たすことがテーマになります。
    ここに少々問題がありますのでご紹介します。

     

     

    欲求の分析としてもっとも有名なのがマズローの五段階ピラミッド

     


    マズローピラミッド

     

     

     ○自己実現の欲求 (Self-actualization)
     ○承認(尊重)の欲求 (Esteem)
     ○社会的欲求 / 所属と愛の欲求

         (Social needs / Love and belonging)
     ○安全の欲求 (Safety needs)
     ○生理的欲求 (Physiological needs)


     


     

    ピラミッドの下の方に書いてあるものが下位欲求で、先端に行くほど上位欲求です。
    下位欲求が満たされるごとに次の欲求を持つようになるという説。
    自己実現欲求の後に『自己超越の欲求』があるとも言っています。

     

    勿論のこと、これは真理ではありません。
    あくまで一つの説ですが、あちこちで引用されているのを見ると、
    これに共感している人が多いことが分かります。

     

    マズローは『生理的欲求』については動物的であることを指摘していますが、
    これ以上の欲求は動物には殆ど見られないとしています。
    私には
    『安全の欲求』までは普通に動物も求めていると思うのですが皆さんはどう考えますか?
    更に言えば
    『社会的欲求・所属と愛の欲求』についても、群れをつくって暮らす動物たちには備わっていると思うのです。
    そういう欲求があるから群れが成立するのではないかと思います。
    『承認の欲求』というのは、尊敬される存在になりたいというもの。
    マズローはこの欲求については低いレベルと高いレベルに分けて考えています。
    低いレベルとしては他者からの承認。
    高いレベルとしては自分で自分を承認すること、自己評価ですね。
    動物たちも群れにおいてはボスの座をかけて争いますが、下位の欲求はそれと大差なくも思えます。

     

    『自己実現欲求』については、ここまでくると人間的欲求に思えますね。
    自分自身の持つ能力の全てをいかんなく発揮したいという欲求です。
    この欲求は持つことはできてもかなえることは不可能です。
    自分の能力の限界を見極めることが困難です。
    そもそも人間は脳みその数パーセントしか使っていないということなので、100パーセントの能力ってどんなものなのでしょう。
    それに一時的にそれを成し遂げたと感じる瞬間があったとしても、その状態は維持し続けることが不可能です。
    人間の肉体は疲労や老化を避け得ません。
    マズロー自身、この欲求を満たした人物を具体的に調査できていないようです。

     


    このように自己の限界を知ると、人は神を求めることができるように思います。
    神即ち超越者です。
    『自己超越欲求』は非常に宗教的ニュアンスの強いものになっています。
    自己超越者の特徴として、
     1.「在ること」 (Being) の世界について、よく知っている
     2.「在ること」 (Being) のレベルにおいて生きている
     3.統合された意識を持つ
     4.落ち着いていて、瞑想的な認知をする
     5.深い洞察を得た経験が、今までにある
     6.他者の不幸に罪悪感を抱く
     7.創造的である
     8.謙虚である
     9.聡明である
     10.多視点的な思考ができる
     11.外見は普通である (Very normal on the outside)
    となっていますが、ここに至ることができるのは全人口の1パーセント程度だとしています。

     

     


    この欲求の分析説が支持されている現実は何を意味しているのでしょう。
    人間という存在を、実に動物的に理解しているという事です。
    人間と動物の違いとはどこにあるでしょうか?

     

    二足歩行?
    火の使用?
    ことばを話す?

     

    実は、考古学上では『埋葬』の習慣だそうです。
    『埋葬』が意味するのは死者への追悼、冥福を祈る、つまり宗教性を持っているということ。

     

    民主主義も共産主義も人間の人間らしさをきれいさっぱりと忘れ去って、人間を動物的に貶めているのです。
    『人間』というハードルがとても低く設定されているため、ヒトは本来の『人間』らしさを追求することなく、
    低いレベルで欲求の追求を当然の権利とし、主張し争っています。

     

    | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 00:44 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
    こんにちは。
    アブラハム・マズローはアメリカの心理学者ですね。

    彼は「自我の確立」の一歩先に「自己実現」を想定していたようです。創造原理の個性完成がここに到達して初めて見えてくる感じがしますね。

    ところが現実世界(堕落社会)では、この到達点から先、人間の自己実現欲求にも二つの流れが生じてくるのです。

    ひとつは、神と富を同時に崇拝する果実としての自我の成功と熟成を望む企業哲学です。

    もうひとつは、一度は自我の否定(破壊)による、個の超越の道です。

    私たちは当然、後者の道を歩まなくてはいけません。なぜなら、神を崇拝する(利用する)するのは僕(しもべ)でもできるからです。

    神様も創造前夜においては、ご自身を否定されておられるので、神様と同じ血統になる(一体化する)ためには、自己否定は通過しなければならない成長の節目なのです。マズローや心理学者にはなかなかわからないメシアだけが知りえる分野なのです。

    これを悟って、私たちも氏族メシアとして出発できるわけです。
    | goojob | 2017/05/05 8:39 AM |
    ダム兄コメントありがとうございます。

    さすが、マズローはご存知ですね?
    私はマズローの場合の自己実現は自力で行けるMAXのような印象を受けました。
    自己評価での自力のMAXは瞬間的にはあり得るのかもしれませんが持続し続けることは不可能に思えます。
    他者からの評価でそのように見せかけることは可能かもしれません。
    見せかけるための神(=権威)と富なのかもしれませんね。
    見せかけることができても本心は知っているんですから安息はありません。
    否定についてはニーチェの方がいい線をついていると思いますが難解です。

    『神様も創造前夜においては、ご自身を否定されておられる』
    やっぱりそうなのですよね。
    これを受け入れるのは四研くらいでしょうか。
    創世記の『おおぞらの上の水』がそれを表しているのかなと感じています。
    創世以来初めてご自身を否定できた方がイエス様だったのでしょうか。
    それがメシアの道という事ですね。
    | 桜葉佳代 | 2017/05/05 12:05 PM |









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