サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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現代的な価値観の問題の経緯
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    民主主義が『個』を追及していると書きましたが、このあたりの経緯を見ておきましょう。

     

    実はこのいきさつも全て弁証法的に成立しています。

    圧政からの解放が基本スタンスです。

    『反』として、フランス革命をはじめとする市民革命があげられます。


    ●中世カトリック教会
    ●王侯貴族による専制政治
    ●軍国主義のプロパガンダ

     

    これ等が一般市民の権利と自由を奪うものとして現代の悪役になっています。(つまり『正』)
    権利と自由、この言葉はみんな大好きな言葉だと思います。

     

    特権階級と国家権力に対して戦いを挑むのがジャーナリズムの正義です。
    これ等を『悪』として定義したのがフランス革命前夜の啓蒙思想です。

     

     

     


    頭翼思想には、ルネッサンスと宗教改革が取り上げられていますが、
    ルネッサンスは15世紀前後、起こりは商業の発達により海外に眠っていたギリシャ・ローマの文献の発見、
    ローマ遺跡の研究が進んだことによります。
    堅苦しいキリスト教文化から、自由で生命力にあふれるギリシャ・ローマ文明への回帰です。
    この遺跡群の美に関心を寄せたのがイタリアの豊かな商人と貴族たちでした。
    イタリアの花の都・フィレンツェの銀行家メディチ家を中心に花開きました。

     

    このメディチ家、ウィキペディアで見直してみたら、
    サン・ピエトロ寺院建設のために免罪符を発行して反感を買い宗教改革につながった教皇レオ10世を輩出した家です。
    ルネッサンスの芸術は美しいけれど背景は恐ろしいのですね。
    ローマ文明は奴隷制の上に成り立っていましたが、ルネサンスもまた貴族と豪商の文化ということでしょうか。

     


    一方で宗教改革の方は、マルティンルター(1483〜1546年)により
    カトリック上層部の腐敗による勝手で都合の良い教理解釈で、一般信徒からお金を巻き上げるような行為。
    それらが聖書に根拠を置くものではないことを暴くものです。
    印刷技術の実用化によって、一般人(と言っても少数の人間でありましょう)も聖書を手にすることが可能になってきたことが追い風になったものと思われます。
    (グーテンベルク聖書(初めて印刷された聖書・それまでは手書きの写本)が1455年)

     

    ルネサンスでキリスト以前に立ち戻り、宗教改革で聖書つまりキリストに向かう。
    ここにも何かの同時性・蕩減路程があるのかもしれません。

     

     

     

    ここまではまあ良かったのですが、この後が問題です。

     

     

     

    カトリックの権威が抑圧していたのは信仰的自由だけではありませんでした。
    教会の権威に反する自然科学もその一つで、ガリレオが『地動説』を唱えたことから投獄されたことは有名です。
    また、それまで王の権威は神から与えられたものとする『王権神授説』もゆらぐこととなり、
    裕福な市民文化が台頭しはじめます。
    先出のメディチ家などもその良い例で、平民出身の家です。

     

    思想もカトリックの権威によって抑え込まれていました。
    近代哲学が花開き
    『神の下の平等』という人権思想が確立され、市民革命を後押しします。

     

    自然科学への関心と近代哲学の勃興が、宗教を迷信へと追いやります。
    科学的、理性的であることで多くのことが明らかになり、様々な技術が飛躍的発展を見せます。
    この知的好奇心が「啓蒙思想」を生み、「市民革命」の原動力となります。

     

    アメリカの『独立宣言』までは人間の平等は「神の下」にありましたが、
    フランス革命の『権利の章典』に至るとそこからは「神」という文言が消えます。
    現在、国連の『人権宣言』にも、人間の平等が謳われますがそこには「神」はありません。
    人間の社会は人間相互の「契約」によって成り立つものであり、人間の相互信頼によってはじめて成立するものと考えられています。(社会契約論)

     

    しかし、信仰という箍(タガ)の外れた人間は自由に、思うがままに個人的欲望の追求を始めるようになります。
    そう、相互信頼の根拠が失われたのですが、多くの人はそれに気が付いていないのです。
    「神の下の平等」から「法の下の平等」へと価値観は推移しましたが、“法”は人間がつくるもので完全なものはあり得ません。

     

    これらが現在の民主主義社会の前提となっています。
    同時に、共産主義を生み出した温床です。

     

     

     

    何が問題となったのでしょうか?整理しましょう。

     

     

     

    ■権威の失墜による過剰な欲望・個人的欲望の追求。
    人間性の回帰を謳ったルネッサンスにより、人間の欲求は自然なものとして肯定されるようになります。
    欲求を全面的に打ち出してそのための努力をすることは良い事、美しい事と評価されるようになります。
    このような努力が資本主義経済発展の原動力とされます。
    個人の範疇で欲求の充足を求めるだけならばまだいいのですが、悪いことに、人間には他人よりも評価されたいという欲求があります。
    この欲求について、誰も否定することはできません。
    この欲求は、貧富の差・格差を望みます。(勿論自分が優越感を得られる前提で。)
    つまり、弱肉強食の競争社会を構築するようになります。

     


    ■過去の権威の否定から、内容の如何を問わず古いものを全面的に否定。
    人間は、いつの時代にも共同体を築いて暮らしてきた社会的な存在です。
    共に暮らす中で、諍いや問題がなかったわけではありませんが、それらは先人たちの知恵で越えられ、伝統として受け継がれてきました。
    しかし、共に暮らす知恵や伝統も「権威的おしつけ」として一緒くたに否定されました。
    科学技術の発達も手伝い、人々の生活スタイルが変容していったことも古いものの否定、新しいもの信仰が定着していきました。
    古いものを否定して新しいものを求めるというのは、相乗的に個人の欲望をも駆り立てていきます。

     


    ■精神性を否定し、理性と科学への妄信。
    つまり唯物思想への進展です。
    共産主義を生み出したこともそうですが、神という存在をおとぎ話にしてしまいました。
    信仰の世界においても、理神論がまかり通っています。
    科学的(客観的)であること、理性的であることが「真理」の条件になります。
    神を信奉しない立場からはこれは当然の事ととられます。
    しかし、神を信ずる立場からはこれはとんでもないことです。
    信仰の味を知る者はその喜びを主張したくても最初から相手にされません。
    信教の自由は無宗教の自由も保証します。
    科学万能の考えから、無神論をとる人の方が日本では圧倒的多数派です。
    教権勢力は近代において『悪』の立場に立ちましたので、自然な成り行きでしょう。

     

     

    このようにして、人間の縦と横の繋がりはものの見事に分断されているのです。
    しかし、問題だという事に気づきもしないように目隠しされています。

    | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 21:17 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
    おはようございます。

    >神という存在をおとぎ話にしてしまいました

    おっしゃる通りですね。
    今、私が関心を持っている「霊性の向上」についても、キリスト教系や仏教系の学校でも教義の論理的解釈や知識のみとなっていますね。

    またすべての宗教団体においても意識の成長については指導が不十分だと言えます。まず、心の状態を疑心から、正直な状態にもどすことが必要だと思います。

    組織内で、正直に神様を実感していることを話したら、分派として除外されたり、思い込みとして非難される状況は、心の戦いの段階を抜け出せない段階だとも感じています。

    社会も人間の心の中の戦いを反映してのことですから、民主主義社会も社会主義世界も「同じ戦いの土俵」にいることに違いはないように思いますね。

    今後の記事に期待しています。
    | goojob | 2017/04/26 8:45 AM |
    goojob兄さま

    コメントありがとうございます。
    「霊性の向上」これを指導できる人は本人の霊性がある程度高まっていなければ、「追い越されてしまう」という危機感から愛の減少感に陥るので指導することができません。
    このハードルが高いのだと思います。
    この次に書くつもりですが、一般社会においては、人間の意識は本能の欲求に従うことが正直な働きであるかのように定義しています。
    高い精神性を持つ存在が怖いのだと思います。
    怖いから現われてもらっては困るのです。
    | 桜葉佳代 | 2017/04/26 12:09 PM |









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