おーばのつぶやき

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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今更なんですが...『やさしい統一思想・頭翼思想とは何か』
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    このままでは私は共産主義者ですね(笑)

     

    論を立て直しましょう。
    問題の所在は?

     


    資本主義をどのように捉えるか?ではないでしょうか。

     

     

    『ソフト共産主義』から始まってこのテーマを書いたものですからややこしくなりました。
    勝共運動の必要性というのを受けるべきでした。

     

    勝共理論の変遷をご存知でしょうか?
    ベルリンの壁崩壊の少し前から、「勝共ではだめ、頭翼でいくんだ」と言われておりました。
    もう、30年も前の話ですね。

     

    それまで右翼バリバリで活動していた勝共連合でしたが、
    「頭翼思想では、左翼はだめだが右翼もだめだ」
    となって、大変困ってました。

     

    『右翼』の意味が違っているのです。
    別に暗号というわけではありません。
    丁寧に解説してありましたが、日本人にはちょっと辛いところです。

     

    『左翼』は勿論『共産主義』のことを指します。
    『右翼』はというと『人本主義』を指します。

     

    日常使う言葉で『右翼』と言えば民族主義者です。
    日本の民族主義者は縦に筋が通って、横にも互助精神が強いのでとてもいいんです。
    先に挙げた家族型の企業経営者も右翼的な人たちが多かったですね。
    民族主義というか、伝統重視型なのでしょう。

     

     

    共産主義批判は勝共理論でさんざんやってきましたが、
    人本主義批判は果たして十分に行われたでしょうか?

     

    きちんとやっていれば、こんな拝金主義が組織内を横行することはなかったかもしれません。


     

     

    頭翼思想とは何か

    家の押し入れにこんな冊子がありました。
    まだ冷戦終結を迎える前の冊子なので視点が古いですが、

    『右翼』としての人本主義の問題を解説しています。

    チョットこじつけや飛躍も見られますが、現在の民主主義がかかえる問題点にも迫っています。
     

    本の半分くらいをキーボードで叩いてみましたので、関心のある方は読んでみてください。

    26ページ以降では頭翼思想紹介と李相憲先生の講演要約が掲載されていますが、統一思想の紹介という事なので割愛させていただきます。

     

    『やさしい統一思想 頭翼思想とは何か』

    国際勝共連合教育部 編 平成元年1月20日初版発行

    (p4〜p26)

     


    世界がかかえる大きな問題

     

     さて現在、世界には、大きく分けて二つの問題、東西問題と南北問題という二つの問題があると見られています。東西問題は民主と共産の問題であり、南北問題は豊かな国と貧しい国の問題ということになっています。地球を半分に割ってみますと、北半球のほうには豊かな国が多い。南半球のほうには貧しい国が多いということから、貧しい国を象徴することばとして「南」、そして豊かな国を象徴するために「北」ということばであらわし、そこから「南北問題」といわれるようになってきたわけです。
    この東西問題、南北問題を解決することができるような道、あるいは解決の希望をどこに見出せるでしょうか。

     

    ■東西問題
    共産主義はどうでしょうか。これはもう誰しもが「ノー」といわざるを得ません。
    神を否定する唯物論、それも虚構の唯物論です。それを実践することによって、悲惨な状態となってしまってきています。闘争、粛清、独裁、自由がない状態、平等といっても貧困の平等、こんな状態になっているわけです。共産主義世界の中に未来への希望を見いだすことは、とうていできないという状況です。

     それでは西側民主主義のほうに希望を見いだすことができるでしょうか。現在は「世俗的な人本主義」ということばのほうがぴったりするような状態である、というのが現在の民主主義の状況です。
    近代民主主義はジョン・ロックという思想家が、「神の下に人間は皆平等な権利を持つ」という原理を根本として体系づけた政治思想を出発点としています。すなわちいろんなものの見方考え方、その価値観の根底に常に神をおいて、それを基準としながら民主主義を考えていたわけです。
    このような考え方は、当然秩序というものを生み出し、あるいは伝統的な価値観・倫理観というものを貴重なものとしてみる根底となっていました。ところが今はどうでしょうか。今日の民主主義は伝統的な諸宗教が形骸化することによって、価値観の基本となるもの、すなわち神を見失ってしまいました。そして人間はみな自己中心的な状態に陥っているといえるわけです。これを「世俗的人本主義」と呼んでいます。そこには腐敗があり、退廃があり、あるいはまた不正や犯罪があとを絶たない状況です。どこの先進国でもフリーセックスや教育の問題は大きな問題となっています。そしてその結果共産主義の浸透する温床となっているというのが今の民主主義の現状です。
    わたしたちは民主主義の中になんとか希望を見いだしたいのですが、残念ながらできないのです。

     

    ■南北問題
    一方、南北問題について考えてみます。
    すでに述べましたように南北問題というのは、豊かな国と貧しい国の問題、経済格差の問題として出発したわけです。ところが単なる経済の格差の問題だけではなくなりました。ネオ・マルクシズム(新しいマルクス主義)として、従属理論、解放神学というものが出てきました。これが貧しい国々、第三世界、後進国にどんどん入り込んできているのです。
    従属理論というのは、地球を二つに分けて、先進国のほうを「搾取階級の国々」と見ます。そして一方、後進国のほうを「搾取されている階級の国々」と見るわけです。すなわちマルクス主義は、一国の中で資本主家階級と労働者階級とに分けて、労働者階級は搾取されているから、いつまでも貧乏なんだ、という考え方でありました。ところが従属理論というのは、それを地球規模に拡大しました。そして先進国がブルジョアジーであり、後進国がプロレタリアートであると位置付けたのです。そこでなぜ後進国が、もっと理想的な形で発展できないのかと考えるわけです。ふつう考えられるのは、先進国は後進国の未来の姿だということです。確かに経済の発展の理論から言えばそうなのかも知れません。ところがそうはなっていないというのが、マルクス主義の指摘であります。後進国はいつまでたっても後進国であり、先進国に追いつけない。なぜか。それは後進国が先進国に搾取されているからだ、と説明するのです。地球規模に階級闘争論をあてはめたのが、すなわち従属理論というわけです。ですからこのようにして貧しい国々にマルクス主義がどんどん浸透している、というのが今日の世界の現状なのです。
    それからもうひとつが解放神学です。中南米、フィリピン等で拡大しています。あるいは韓国では民衆神学という名前で呼ばれていますが、こういった国々で広まってきているものです。もともと共産主義は神を否定するものですから、キリスト教と相容れる要素があるはずはありませんでした。とくにプロテスタントよりもカトリックのほうが、共産主義に対して明確な態度をとっていました。そこで共産主義者はカトリックをどううち崩すかということが大きな課題となってきたのですが、カトリックを集中的に狙って出てきたのが、解放神学というわけです。
    ですからこの解放神学にやられている国というのは、ほとんどがカトリックの国です。中南米のニカラグア然りフィリピンもまた然り、です。韓国においてもカトリックが非常に強く、そのカトリックの中に浸透しているわけです。
    それでは解放神学というのは一体どういう理論でしょうか。人間が救われるためには、神とイエス様と隣人との間が、愛で結ばれなければいけないと言います。私と神様、私とイエス様、私と隣人、これが全部愛で結ばれなければならないというわけです。しかしここで全部が愛で結ばれるのをさえぎっているものがあるというのです。それが資本主義の経済システムであるというわけです。つまり解放神学というのは、資本主義の経済システムそのものが罪なのであると決めつけるのです。一般に罪というのは人間個人にあてはめるものなのですが、解放神学では社会的罪とか、集団的罪という表現を使っています。そしてそれが資本主義という経済のシステムだといっているのです。そこでまずそれを払いのけない限り、人間は救われないといいながら、資本主義社会の打倒を狙っているわけです。このようにしてニカラグアをはじめとして、中南米諸国などが侵略されつつあるのです。
    こうして従属理論や解放神学などが貧しい国々、第三世界にはいることにより、南北問題は単なる経済の格差の問題ではなくて、イデオロギーの対立に変化しつつある、というのが今日の現状なのです。ですから東西問題・南北問題の両方の問題に共通項として見られるのが、このイデオロギー対立の問題ということができます。このような意味からしても共産主義の問題というのは、根本的な問題として世界の底辺に存在するということが理解できると思います。
    それではどのようにしたら東西・南北の問題を解決することができるのかを考えてみましょう。まず東西の問題も南北の問題も、いずれも東洋から起こってきた問題ではなく、これらはすべて西洋から出発してきているわけです。このように東西問題と南北問題の根底には、西洋文明の問題が横たわっているのです。これは非常に重要なポイントです。西洋文明に端を発しているわけです。そしてそしていずれも、もはや解決することができないような状況にきてしまったのです。このこと自体が、西洋文明あるいは西洋文化の限界を示しているとも見ることができるわけです。

     

     

    西洋文明の展開

     

    西洋文明がどのように展開していったかを考えてみましょう。西洋から出発した現代文明、特に近世の四百年を考えてみますと、そこに見いだせるのはキリスト教社会を土台としながら、近代科学の発展とそれにもとづく産業革命で、社会の経済のシステムは大きく様変わりしたのです。しかし、こうして生まれた初期資本主義社会は、多数の貧しい労働者を生み出してしまいました。しかもキリスト教の無力化により、その貧しい労働者たちは無視されたままでした。そこに弱者を救うというイデオロギーがでてきたわけです。それが共産主義です。こうして民主と共産という対立が、ヨーロッパにでてきました。そして現代文明とその矛盾はヨーロッパの国々の植民地化政策と、また同時にキリスト教を世界に伝播するという使命感もともなって、世界に拡大していったのです。
    西洋における民主と共産の対立の問題すなわち東西問題、さらに豊かな人々と貧しい人々の問題が、世界的な規模で拡大してしまったとみることができるのです。このように東西問題と南北問題の根底には、西洋文明の問題が横たわっているのです。
    常に搾取するとか搾取されるとかいう、「対立」のものの見方をするのが西洋文明の特徴であるというのは、多くの方々から指摘されているところです。それは西洋の先祖たちの基本的な生活のスタイルが狩猟であり、遊牧であったということが大きな影響を与えているといわれます。狩猟や遊牧という生活では自然との調和ということは考えていられません。他人と自然は自分とは対立するものであり、克服すべきものであるという考え方なのです。キリスト教はもちろん愛の宗教なのでありますが、キリスト教が無力化してしまったとき、対立・闘争というものの見方・考え方が前面にでてきてしまったといえます。対立・闘争の考え方、即ち弁証法的な見方・考え方は、西洋の伝統ともいえるでしょう。そして、この考え方・見方の限界が今、あらわれたいるのです。
    このように見ると、すでに述べましたように、東西問題や南北問題は共産主義では解決することができないし、また共産主義自身にももはや希望がないという状態になっています。では民主主義ではできるかということですが、民主主義でも世界の問題を解決することができない。両方ともすでに希望がないという状態になってしまったわけです。これが今の世界を分析して得られる結論です。
    この東西問題・南北問題をともに解決する思想として、私たちは頭翼思想を提唱しています。その紹介の前にまず「頭翼」ということばについて説明しておきます。

     「右翼」と「左翼」

    はじめに「左翼」「右翼」ということばの説明です。
    「左翼」はもちろん共産主義のことです。
    一方「右翼」というのは、今日の民主主義全体のことをさしています。よくいわれているような一部の民族派の人たちをさす、狭い意味での「右翼」とは異なっているわけです。すなわち伝統的な諸宗教が形骸化して、倫理・道徳というものが無力化してしまったような今日の民主主義のことです。いわば神なき世俗的民主主義、あるいは世俗的人本主義といえるような、人間が皆自分さえ良ければよいと思っている、そういう状態に陥っている社会のことです。これを「右翼」といっているわけです。
    それではこの右翼と左翼は、いったいどのようにして生まれてきたのか見ていきたいと思います。右翼と左翼の語源にはいろいろな観点がありますが、一つはフランス革命の後の議会で穏健派、急進派のすわった位置から、右翼と左翼ということばはでてきたという説です。しかし、ここでは共産主義あるいは世俗的民主主義がどのようにしてでてきたのか。その思想的変遷について説明していきます。

     

    ■神本主義
    まず右翼・左翼ともキリスト教社会から発生したものということができます。キリスト教はご存じのようにイエス・キリストの十字架と復活、ここから出発したわけです。そしてクリスチャンたちつまりキリスト教徒たちは、この救いということについては復活したイエス様と心霊で一つになることだと考えました。霊的に一つになるという表現もしています。それがクリスチャンの喜びであり、救われた状態といえるわけです。キリスト教は、あず、ローマにおいて広められました。そして四百年の迫害を経てついにローマを屈服させたのです。その後ゲルマン民族に伝播され、ゲルマン民族の力で地中海全体に拡大されることとなります。その後教理を整理、体系化してカトリック教会といわれるようになります。このカトリック教会において、その代表的な人物がアウグスチヌスやトマス・アクィナスといわれています。
    「神本主義」の特徴は次のようなものです。まず神と人間の魂の問題を中心に扱っています。アウグスチヌスやトマス・アクィナスの考え方は、神は純粋な精神であり、物質的なものは何一つ含んでいない、物質は神によって作られたものであるというようにとらえています。ですから物質的なものを軽視する、あるいは蔑視するという傾向になったのです。政治的なものにかかわるとか、経済的なものにかかわるとか、あるいは現実的な欲望、物質的欲望、これらのものを「罪」とみる考え方が基本にあったといえます。精神生活や信仰生活のみを強調して、物質的な生活を軽視する、蔑視するという考え方です。
    このように神と魂の問題を中心に扱っていますから、神本主義の考え方からは現実問題に対する明確な回答というのは、何一つ出てきませんでした。現実生活を軽視したからです。こういった神本主義の教理をもっていながら、ローマ法王庁は次第に実質的な権力を握っていきました。すなわち政治や経済にかかわってきたわけです。このような政治・経済といったものにかかわるようになってから、ローマ法王庁は腐敗・堕落してしまいました。これが中世のキリスト教会の腐敗・堕落の根本的な問題となったのです。
    すなわち神と人間の魂の問題を中心に扱った神本主義の限界を、ここに露呈してしまったのです。腐敗・堕落してしまったローマ法王庁の指導を人々が受ければ、当然信仰生活そのものも自由のない抑圧された状態となり、暗黒社会と呼ばれるようになったわけです。

     

    ■ルネッサンスと宗教改革
    こうした神本主義を告発して、近世において新しい動きが出てきました。すなわちカトリック教会による支配を弱めよう、そして人間個人の自立性を確立しよう、自分自身の欲望を充たそう、こういった新しい流れが出てきたわけです。それが西洋におけるルネッサンスと宗教改革の二つの流れだったわけです。
    ルネッサンスとは何でしょうか。「再生」という意味です。古代ギリシャ・ローマの人間中心の美術や芸術・文化活動など、こういったものを再生しようという人本主義だったのです。人間の欲望をいかに開化させるか、という考え方だったのです。
    それに対して遅れて出てきたのが宗教改革です。ルターを中心とした宗教改革は神本主義でした。しかし宗教改革の歴史をたどってみますと、その後、宗教戦争が起こっているのです。新教と旧教、カトリックとプロテスタントとの戦争状態です。特に激しかったのが一六一八年から一六四八年までの、三十年戦争といわれるプロイセンにおける宗教戦争でした。ヨーロッパ全体にまで影響を与えてしまいました。こうして、神本主義はどんどん力を失っていったわけです。
    一方ルネッサンスのほうは、産業革命の影響を受けて、非常な勢いをもって浸透していったわけです。とくに産業革命によって、物質的な恩恵をたくさん受けるようになったとき、人々はますます欲望の満足というものだけを追い求めるようになっていったのです。そして神本主義はヨーロッパにおいては、力を失っていきました。産業革命によって大きな力をつけたルネッサンス(人本主義)は、啓蒙思想の流れを生みだし、またキリスト教思想においても「理神論」という考え方もでてきました。理神論とは、宇宙を作ったのは神であるということは認めますが、それ以後の神の人間に対する働きかけはいっさいないというものです。従って啓示などはすべて否定してしまいます。さらに宗教そのものに対しても、そういった霊的なものは関係ないのだ、道徳と同じようなものだ、といった非常に人間中心的な考え方に陥ってしまったわけです。こうして人本主義がヨーロッパ全体に大きな影響を与えるようになってしまったのです。このような人本主義、それを「右翼」と名付けているわけです。この人本主義、すなわち右翼は中流階級が基盤となっています。この中流というのは中産階級のことです。
    彼らは神を軽視しました。彼らは自分のことだけ、自分の価値をいかに実現するかのみを中心として生活したのです。つまり個人主義です。とにかく自分が自由になりたいということに関心があったわけです。このような人々によって、神なき世俗的民主主義は出発してしまったのです。この傾向は利己主義へと陥ってしまうことになってしまいました。
    この中流の人たちは中産階級の非常に能力のある人たちです。いわばエリートです。彼らは自分の能力に自信を持っていました。神よりも自分の能力に信頼をおいていたのです。ですから当然知性人を中心とする社会となりますが、彼らは自分の能力が発揮できる社会が、最善の社会であると考えたわけです。その結果、自由競争を肯定する社会の実現を、第一義に考えていきました。自由主義社会です。
    そこで特に初期の段階で、このような人本主義が生み出した欠点として、第一にあげなければならないのが、「弱者に対する無慈悲」です。この人本主義の社会は弱者を完全に無視してしまったのです。特に初期の資本主義社会においては、深刻な状態となってしまいました。

     

     

    物本主義

     

     こういった状態に対してマルクスは大いに刺激を受けました。それはマルクスの性格からして当然のことでした。マルクスは個人的な動機(神、宗教に復讐しよう。そのために今のプロイセン国家を打倒する必要がある)がありましたから、この弱者に対して無慈悲な状況を利用して社会を告発し、そこから共産主義を出発させたわけです。共産主義のことを「物本主義」と呼んでいます。それは共産主義が唯物論、つまり物を中心とする考え方だからです。神本主義、人本主義、物本主義というように理解するものです。こうしてこの物本主義は下層の人たちが基盤になりました。すなわち人本主義者によって、無慈悲にも捨てられてしまった無力な人たちです。
    結局これらの現実は、キリスト教が愛の精神を失い、人本主義に取って替わられしまい、無慈悲な社会をほうっておいたからだと言えます。
    それを告発するようにして下層の無力な人たちをまとめあげ、神と宗教に対する復讐・告発をなしたのが共産主義です。共産主義革命のためには、無力な人たちをとにかく団結させなければなりませんでした。そうして数の力で支配階級を打倒し、支配権を奪取しようとしました。しかし無力な人たちであるがゆえに、長期的な展望を持つことができず、時として落胆してしまうことが多くあります。しかも国家権力の圧力も非常に強いわけです。こういった状況を超えて継続的な闘争というものを、常に行わせる必要がありました。
    そこで何が必要になったかといいますと、人間の意志にかかわらず歴史の物質的・経済的な法則によって、支配階級は必ず滅びる、資本主義社会は必ず崩壊するようになっているのだという理論づけが必要になったわけです。このようにして虚構の唯物論神話ができあがったのです。さらに、それは必然的に独裁的であらざるをえなかったのです。無力な人たちを常に団結させておかなければならなかったからです。
    また保守的な人たちを打倒するためには、常に謀略を用いて保守層を分裂させる必要がありました。それゆえにその実践は独裁的、謀略的なものとなってしまったわけです。これらの結果として共産主義の社会では、独裁による自由の抑圧・人権の無視、そして経済の停滞という現実を生み出しているのです。
    まとめてみますと、神本主義を告発する形で人本主義が出てきました。これが右翼です。さらにその弱点を告発する形で出てきたのが、左翼であるというわけです。この右翼と左翼を人間に例えてみるならば、右手と左手が、頭なしで闘っているような状態であるといえるでしょう。頭がなければ両方とも死んでしまうのですが、それが今日の右翼と左翼の限界状況であるといえるでしょう。
    右翼も左翼もともにある希望を持って出発したわけですが、いずれも限界状況となってしまったのです。その限界状況のあらわれが右翼では福祉政策という形で、そのシステムを変えざるをえなくなているということであり、左翼は開放政策をとらなければ、その維持が不可能であるということです。このように右翼・左翼とも限界状況に至っていることを示しているわけです。

     

    | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 22:22 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |









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