サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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共産主義と資本主義の対立?
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    マルクスについて、これは真理からかけ離れた話なので書くのは疲れます。
    愛を動機として書かなければ消耗するばかりでしょう。
    動機を正しめなければいけません。
    自分自身の動機確認です。

     


    何のために書いているのか。
    これは伝道の意義のために書かなければならないことです。
    組織に人を集めることが伝道ではありません。
    人に正しい道を示してそこへ向かうように導くことが伝道です。
    正しい
    道とは?各人が心情の成長を成し遂げられる道です。

     


    つまり、命に至る道がどこにあり、行ってはならない危険な道がどれなのかを、私たちは知らなければなりません。
    今書こうとしているのは、行ってはならない危険な道についてです。
    私自身も明確にしなければならないことですが、み旨を成そうとする兄弟姉妹たち皆が理解していなければならないことだと思います。
    特に、家庭教会・ホームチャーチ伝導を目指す家庭では、地域社会での活動で、啓蒙運動として必要な知識になるはずです。

     

     


    自己中心の意図をもって、他者を扇動して自分の思うとおりの結果を得ようとする者は、存在する。

     


    この扇動、誘導に乗ることが、行ってはならない危険な道です。
    日本人は善良な民族なようで、世の中にそんなに悪い人間などいないと考えがちですが、
    殺戮行為や奴隷的強制労働、搾取は実際に歴史的に世界中に行われてきたことであり、現代においてもなお続いていることです。
    その実体が北朝鮮にあり、中国にあり、また様々規模の大小こそあれ、見え隠れしながら世界中にあるのです。
    wikipediaによると、現在マルクス・レーニン主義を掲げる国は4か国なのですね。(北朝鮮は含まれていません。)

     

    これは共産主義国家に限らず、民主世界においても行き過ぎた利益誘導を企図し、陰謀論といわれるものも否定できるものとは思えません。
    彼らの導く道が危険なのは、彼らが明確な意思を持って導いているからです。
    沢山の羊の群れを導くのは一人二人の羊飼いです。
    一人の羊飼いが意思を持って導けば多くの羊が動くように、
    明確な意思を持つ者が導けば、ビジョンを持たない多くの群れはそちらへついていくものなのです。

     


    そして最も気持ちが悪いのは、陰謀の首謀者と共産主義者が結託しているかのように見えるところです。
    どちらが主導権をもって動いているのかまでは分かりませんし、実は同一存在だということも考えられないことではありません。

     

    全く気持ちの悪い話です。
    対立を好む者たちがいる。
    だから気を付けなければならない。
    このように注意喚起するとさえも、対立に結びついてしまう!

     

    対立することを好まないのであれば、意志をもって『やりたい』と主張するリーダーに従っていればいいし、
    任せておけば平和なのではないかと考えたいのに、
    正しい羊飼いは、羊を緑の牧場や水場に導いてくれるけれど、
    悪意の羊飼いは、羊を過酷な労働に用いたり、と殺場へ導くのです。

     

    ここに私のジレンマがある!!

     

     


    共産主義者は対立を好み、虐げられる立場に立っていることを主張します。
    自分たちは弱者であり善良な立場、虐げる勢力が悪であるという構図を用います。

     

    日本共産党は常に変わらずこの姿勢で訴えています。
    そしてもう一者、この姿勢を貫くのがジャーナリスト達です。
    ジャーナリストは権力の番人としての使命を自負する人たちです。
    権力とは、つまり強い力を持つ存在であり、強い力とは、弱者が存在するからこそ際立ってくるものです。
    そうすると、権力の番人は弱者に寄り添う立場をとることとなります。
    そっくり同じなのです。
    動機も似ています。
    力を持つ者は必ず悪いことをすると考え、敵対意識を持っています。
    共産主義者は力が人間性を阻害するものとして完全に滅ぼさなければならないと考え、
    ジャーナリストは弱者を守らなければならないという正義感、ヒューマニズムだけで、明確な思想は持っていないかもしれません。
    ジャーナリストの正義感はその時、その場での判断基準だけであり、実に刹那的と言わざるを得ません。
    明確な思想、つまり理論に裏打ちされた根強い意思を持っていということは、根強い意思を持つ者に誘導、扇動されやすい存在であり、利用されやすいのです。

     

     

     

    一方で、資本主義は利潤の追求と資本の蓄積が目標になっています。
    そしてそのための自由競争は正しく、競争に勝つことが資本主義社会の成長のモチベーションです。
    つまりは勝つこと、強くなることが善なのです。
    競争しないと言う自由はありません。競争しないということは、即敗北宣言であり、努力をしない悪者です。
    彼等には明確な意思があります。

     

    昭和の高度成長期日本には、『皆で豊かになろう』という意識が健在でした。
    終身雇用制をとった家族型の経営をしていた企業体です。
    代表者を「おやじさん」と呼ぶような会社です。
    働くことは生活に直結していました。
    HONDAも、松下ももともとはそのような会社でした。
    しかし、グローバル化の波は、そのような家族型の経営を困難にさせたのです。

     


    利潤追求は株式市場で顕著であり、株主への利益還元が企業の重大なテーマとなっていったのです。
    かつて「舶来品」と呼ばれていた輸入品も、今では日常の消耗品に入り込み、価格競争の激化を招き、商社による利潤追求のアイテムになっています。
    資本の運用が各企業にとって生命線となり、株式、保険、土地などに振り向けられバブル経済とその崩壊を見せました。
    『資本運用』については、今は『資産運用』として、個人にも行うことを要求されています。
    株式投資、不動産経営ばかりではなく、生命保険や年金制度までが、この流れの中にあります。
    要求と言っても、将来の不安をあおって備えを持つことが『賢い選択』であると吹聴されていることなのですが…。

     

    巨大な『資本』の渦が世界を巡っていますが、これを操作しているのはいったい誰なのか?
    この『資本』はどこへ向かおうとしているのか?

     

    お金に翻弄されている私たちの生活は、結局お金を持つ一握りの人たちに服従を迫られているように見えます。

     

     

    ここに対立を生む構図が描き出されています。
    マルクスが主張した革命の、その前夜のような状況が、資本主義によって再現されています。

     


    共産主義者に言わせれば、それが資本主義の本質なんだと叫ぶでしょう。
    しかし共産主義を掲げた国々が行き着いた先も、一党独裁の一方的支配と格差の国家でした。
    冷戦終結時に多くが解体しました。

     

    冷戦終結によって、労働組合の力が弱くなったことが資本主義の暴走に繋がったと見る人たちもいます。
    しかし、私には労働組合の力がそれほどに大きかったことがかつてあったとは思えません。
    まるで資本主義が格差と対立の先に暴力的革命を呼び込もうとしているかのようにも見えます。

     

     

     

     


    これはアップしても問題がない記事でしょうか?

     

     

     

    | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 13:20 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
    具体的な事例をあげての分かりやすく細かな説明、さすがですね!ありがとうございます。

    いろいろな世の中の仕組みを見つめていくうちに、今まで築かれた資本主義は見かけだおしであると感じますし、共産主義にしても未だ途上であって、共産主義理想を体現したものはないと、どなたかが言っていました。

    多分それは、桜葉さんもご指摘のように
    >陰謀の首謀者と共産主義者が結託しているかのように見えるところです。
    ここに謎解きの鍵があると思います。

    一握りの自己の欲望を中心とした者によって生み出された、双子のような存在に思います。表裏のような。
    あくまでもその存在の利権に利用されるためだけに組み立てられた。複雑化して本質を見えなくはしてますが。

    ですから、どちらも何百年かかっても実現することはないと。

    ジャーナリズムも、特に現在の主なマスメディアの発祥は人々が真実にたどり着かないように意図的に操作するためであったようですから。上記の一握りの者たちによって。エンタメも。

    それでも今多くの人が目覚めはじめています。
    今まで慣れ親しんで来てしまった、既存の価値観から脱却するのは
    怖いし、勇気がいりますが…
    国家権力が絶対であるという呪縛から解き放たれ、自由な発想してもいいんだと気持ちも転換しないと、善なる自由競争によって成り立つ社会は夢のまた夢になりそうです。

    マタイ25/14~30 にも天国(神の王国)の例えがありますが、その人が頑張ったぶんだけ報われる、ということでしょうか?
    そしてそれは誰にでもチャンスがあって、あらかじめ決められた人だけの特権ではないですよね。

    本来神様によって与えられた良心に基づく一個人が自立した思想は、今まで(実現していないので)見たことも聞いたことも無いですから、新しいものになりますね。
    だから難しいですね。
    (なんかまとまりませんが…)
    | 先駆者 | 2017/04/07 2:42 AM |
    先駆者様

    コメントありがとうございます。
    新しい世界の模索。
    これはお父様が示してくださった理想の中にあると思います。

    もしかすると先駆者さんの期待するところとはちょっと違う結論になるかもしれませんが、もうしばらくお付き合いいただけると幸いです。
    | 桜葉佳代 | 2017/04/07 2:31 PM |
     私も没頭した時期がありました。

     きっかけはリーマンショックからです。FBRの事、お金を作る会社が私有化されることで大変なことが起きたこと。銀行の仕組み、クレジットカードの落とし穴とか戦争でお金を儲ける人々とか色々なことを調べました。

     「3代目」ロックフェラー氏死去 101歳の記事を書いたのですが、誰も無関心でした。
    | コスタ | 2017/04/07 4:05 PM |
    コスタさん

    『「3代目」ロックフェラー氏死去 101歳』
    この記事は、おや?と思いました。
    だけど私は『誰が』に関心を持たないことにしています。
    『誰が?』を気にすると“怨”に繋がる気がするのです。

    コスタさんの記事
    http://ameblo.jp/amanohiboko/entry-12263427454.html
    で“怨”は誰かにうらみをおくということが整理できました。

    誰かのせいにするという事は、自分の責任ではないと言っていることだと思います。
    それは僕の意識であり、主人の意識ではありません。
    だから“怨”を晴らすための『誰か?』を意識するのではなく、“恨”を晴らすために『いかに?』を意識したいと思います。
    日本語には“怨”“恨”以外に“憾”という表現もあるようです。
    すべて“うらみ”ですが、一般には思いの強さを表す程度にしか使い分けはされていないように感じます。
    “憾”に至っては諦めにも感じられますので、やっぱり“恨”なのですね。
    | 桜葉佳代 | 2017/04/08 11:54 AM |









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