サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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共産主義の考え方を理解しましょう-1・弁証法について〜対立を好む嗜好性
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    勝共理論は方便ですか。
    そうかもしれないですね。
    直球ではありません。

    占いで気を引いてコース決定するのと変わらないです。


    共産主義者が目的達成のために手段を択ばないのは、
    カルト教団が教祖の掲げる理想のために手段を択ばないのと同じでしょう。
    統一教会も伝道・献金のために手段を選ばなかったのでは?

     

    共産主義は“神なき宗教”とも言われます。

     


    共産主義者は理論を持っていますが、
    個人主義者は理論を持ちません。
    共産主義者は心情こそ1〜3段目ですが、理論としては6段目の視点を持っているということです。
    個人主義者も心情は1〜3段目ですが、理論(?)は1段目。

     

     

     

    さて、共産主義と個人主義を対立軸にするのでは足りません。
    泥仕合です。


    しかも、共産主義者の思う壺なのです。
    対立構造を好むのは共産主義者の常套手段だからです。

     


    共産主義の理論についてちょっと勉強してみましょう。
    彼等の理論を理解すると、彼らの戦術も理解できます。

     


    ----------共産主義者の基本的な思考-弁証法----------

     

    マルクス(1818〜1883)の理論はヘーゲル(1770〜1831)弁証法の影響を受けて始まります。
    弁証法とは、対立によって発展が得られるという構図です。
    基本は、討論の手法として古代ギリシアに始まります。
    テーゼ(命題・正)→アンチテーゼ(反証・反)→ジンテーゼ(総合・合)
    です。

     

    全ての事象はこの弁証法に則って発展してゆくと考えます。
    アンチテーゼは、テーゼに内包される矛盾の顕現化によって生じるので、
    全ての矛盾が解消されるまで対立は繰り返されると考えます。
    そして、結果としての総合は、適者生存という進化論によって証明された“淘汰”に終わるのがマルクスの弁証法です。
    最終的に全ての矛盾が無い世界としての共産主義の社会があるという主張です。

     

    ------------------------------------------------

     

     

    しかし、未だかつてこの矛盾な解消された国家は存在できていません。
    これは、共産革命が未完成であるのでまだ現れていないということです。
    マルクスの理論では、“資本家”階級と、“労働者”階級の対立によって革命がおこり、新しい矛盾のない社会が生まれるということなのですが、
    実際に共産主義を標榜する国家では、新たに“指導者”という階級が“労働者”という階級を搾取し続けているように見えるのです。
    しかし“指導者”達はあくまで“労働者の一員”であり、共産党員は“同士”と呼ばれていますね。

     

    このように、アンチテーゼは生み出され続けています。
    だからと言って、共産主義者にこれをぶつけても、「まだ完成していないから」という返事が返って来るだけで、却って敵愾心に火が点きます。
    どこかの宗教団体と何ら変わりはありませんね。
    違いを明確に理解していますか?
    正統性を訴えられますか?

     

     

     

     

    大きな間違いはアンチテーゼにあります。
    矛盾の顕現化と捉えるから喧嘩腰になるのです。

     

    アンチテーゼとは、テーゼと異なった内容です。
    この“差異”にどのように対処するのかという姿勢が問題になります。
    もっと言うと、この“差異”が生じる原因を理解しなければなりません。

     

    ヘーゲルの段階では、人間は幼い時点では自己中心的に、自分の利益のみ求めて生きるようになっているが、
    成長して理性により自分が社会に支えられている存在であることに気づき、
    調和と秩序を持った存在になると考えました。
    これは、個人的にもそうであるけれど、社会としても、社会の成熟とともに争いの絶えない社会から秩序的社会に成長するとしたのです。

     

    つまり、人間の社会活動においては原初のテーゼが自己中心的対立の混沌ということです。
    だから自然発生的にアンチテーゼが生じるのです。

     

     


    それが全てでしょうか?
    私はここに間違いがあると見ます。

     

    “正”→“反”→“合”
    ではなく
    “正
    ”→“分”→“合”

     

    なのですが、“反”は“正”に内包する矛盾性の顕現と説明されます。
    “分”はどのように説明されるでしょうか?
    勿論、“正”にあらかじめ内包されているものですが、自発的、反作用的に生じるでしょうか?
    エントロピー増大則にも矛盾していますね?

     

    “分”は人が見出すのです。

     

    人間は常に欲求をもって生活をしています。
    動物と同じく本能的な欲求というのもありますが、人間の場合には情緒的に喜びたいという欲求を持っています。
    情緒的な喜びは変化を求める傾向があります。
    均質な世界には情感の遊ぶ余地がありません。

     

    差異を発見し、違うものを組み合わせて新しい価値を創造するのは人間性です。
    人間の意思力は世界を意味づけます。

     

    差異を敵対するための“反”と意味づけるか、
    楽しみ愛でるための“分”と意味づけるか世界観は180度変貌します。

     

     

    | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 12:45 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
    そもそもの動機が自己中心な思いや怨みの衝動であり、それを正当化するために無理矢理こじつけられた論理なので矛盾が生じる、という事でしょうか。
    現実の共産主義国家を見たら、正反合の合の部分が一致というより片方を切り捨て(粛清し)て帳尻を合わせているように見えます。

    >“分”は人が見出すのです。
    授受作用は二つの存在が無いと発生しないですね。
    あくまでも個の主体的自存、意思があっての事だということでしょうか…
    | 先駆者 | 2017/03/26 10:36 PM |
    連続してすみません。

    個の主体性も結局のところ、創造主によるところなんですよね。
    | 先駆者 | 2017/03/26 10:41 PM |
    先駆者様

    結果的に仰られるとおりなのですが、最初にある矛盾はこじつけた結果ではありません。
    当然のことなのですが、マルクスが見ているのは堕落した世界ですから、世界の中に矛盾と見られる事象が見られることは当然なのです。

    矛盾に対して反発するのは神の立場で『愛せない』という堕落性です。
    一方、本然の人間であれば、矛盾のような事象を見出したとしてもそれは気にも留めず、ただ、『愛したい』という神の創造の動機を相続した立場に立つので、それそれを個性として愛の対象にしてしまうのです。

    しかし、創造本然の人間が構成する社会は未だ到来していませんので、勝共理論もこの時点ではただの理想論でしかなくなってしまうのです。
    共産主義もまた、共産主義の実現によって、高度に理性的な労働者の社会が生まれると主張しますが、共産主義の世界も当然到来していませんので、彼らの主張も理想論であると言えます。

    では、理想社会を築くために何が必要なのかという問題が、マルクスの人間疎外論の問題になります。
    『粛清』の問題も人間疎外論で説明できます。
    次の記事はこのあたりを書く予定です。
    | 桜葉佳代 | 2017/03/27 10:45 AM |









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