サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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情緒の成長の必要性
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     生命は天与のものであると考えます。
    そして、生命と肉体との関係の中から生まれるのが本能的欲望です。
    即ち「生きたい」「食べたい」「眠りたい」「繁殖したい」です。
    これらの欲望が満たされるときに、結果として肉体は成長し、情緒は快いと感じます。

    知性の内面には観念世界と理性を見出すことが出来ます。
    観念世界は肉体から来る情報を写し取り、理性により整合性の取れた世界を形作ります。
    理性と観念世界に写された世界の刺激は、観念世界の更なる拡大を求めます。
    このことが知りたいという欲望を生み出します。
    観念世界が拡大(成長)することを情緒はやはり快いと感じます。

    肉体の成長は観念世界の成長を助けます。
    観念世界の成長は情緒の喜びの拡大に繋がっていきます。

    情緒の喜びは最初は本能的欲求の充足という極めて個人的内容に始まります。
    しかし、この本能的な欲求を満たす行動を通じて観念世界の拡大が始まると
    今度は観念世界の拡大そのものの刺激が大きくなり目的化してゆきます。

    観念世界の拡大とそれを満たす行動はなにをもたらすでしょうか?
    これは観念世界の内容によって大きく左右されるでしょう。

    人間の肉体の構造はおおよそ共通するものなので本能的欲望は大きな差異はありません。
    しかし、生きる環境はそれぞれに異なるので、作り上げられる観念世界には差異が生じます。
    この差異によって次に求めるものが違ってくるのです。


    肉体の成長は寸法を測ればわかります。
    運動能力なども測定することが出来ます。
    観念世界の成長も知能検査や様々な試験で測定されます。
    情緒の成長については?
    なにか測定方法があるという話を私はまだ聞いたことがありません。


    肉体は成長します。
    生命は天与のものであり、成長することは無くやがて燃え尽きるものです。
    知性は肉体の成長を土台に成長してゆきます。
    情緒は成長しますか?

    成長します。
    喜びを感じる対象の変化がそれを表します。
    本能的欲求が満たされることだけを喜ぶ幼い時代から、
    知的欲求を求める時代がやってきたりします。
    またその後にも違った喜びを求める展開がありますが
    測定方法が確定していないことが物語るようになにをもって成長と言うかは確定的なものがありません。

    前の前の記事で
    「“情緒”の中心は“愛”であり、その主たる力は『価値決定』なのです。」
    と書きました。平たく言うと好き嫌いの問題です。
    子供の好き嫌いと大人の好き嫌いには明らかに違いがあります。

    前の記事では愛は一致することと書きました。
    当初の書き込みでは「私の望みに一致するものを好む」くらいのニュアンスでしかなかったかもしれません。
    しかしその記事に『調和』というキーワードをコメントでいただきました。
    私には『調和』という言葉は『愛』が目的とするものに感じられます。
    一致は一方的になる可能性がありますが『調和』は双方向的でなければ成立しません。
    そして幼い情緒には双方向の一致を感じ取る感性はありません。


    さてさて、
    他者の情緒を理解するのは知性による理解なのか情緒による理解なのか?
    他者の状況と反応が何を示すのかを視聴覚の情報から知性的に分析し、
    自己の情緒の価値観に照らして判断するという流れになりますから、
    知性と情緒の共同作業にほかなりません。
    結果、幼い経験の乏しい情緒には複雑な他者の情緒との一致は難しいと言えます。
    逆に言えば、
    多くの他者の情緒と共鳴できる情緒は
    それだけ成長した情緒であると言えるかもしれません。

    成長した情緒であれば知性に対し優れた価値判断の基準を与えることが出来ますが、
    本能欲求のみを喜ぶ情緒であれば知性をリードすることが出来ません。

    | おーば | 考察 | 21:27 | comments(7) | trackbacks(0) | - | - |
    知性というものについては、蛇のような冷血動物的側面があるように感じてしまいます。
    一方で情緒や肉体は恒温動物的側面があるように感じられます。

    知性を「具体化領域」と呼び、情緒や肉体を「抽象的認識領域」と呼ぶことも出来るように思えます。

    「意識」というものを、自己存在である「有機的ゲシュタルトを総括的に把握している主人」だと見做すこともできると思うのですが。
    その場合、主人である「意識」へと「具体化した認識を齎す」のは「知性」だけだと思います。
    なので「知性」は主人のお気に入りとなって、情緒や肉体に対しても、「自分が主人であるかのように振舞う」ような傾向を持つのではないかと思います。
    | こぎつね | 2012/08/16 10:01 AM |
    上のコメントでは、何か、記事を読んで触発された感想が欠ききれていない気がするので、補足しておきますね^^;

    私のとらえ方では「情緒」は、人間の主観には「気分」として反映するものと考えています。
    可視的イメージでは、天気とか気圧配置のイメージ。
    気が滅入っている時には低気圧の中心みたいに雲を引き寄せて益々重くなり、気分が晴れやかな時には何が来ても負けないくらいに楽観的になる。
    他人が中心の高気圧や低気圧に巻き込まれることもあります。

    「知性」が引き起こす問題は、社会には知性の産物であるパラダイムが何処彼処に存在していて、人間をラベリングすることだと思います。
    ラベリングされ、眺望固定病に掛けられてしまうと、天気が自然に変わっていくように気分も変わるという、本来なら当たり前の自然の循環が妨げられるように感じます。

    桜葉さんが「情緒の成長」ということをおっしゃってくださってるのを読んで、「情緒の成長の課題」に「知性が降り掛ける眺望固定病から、巧妙にすり抜けるための技術」を加えてもらうのはどうだろうか、と思いました。
    | こぎつね | 2012/08/18 8:19 AM |
    こぎつねさんコンニチハ。
    中々返事を書かなくてスミマセン。
    コメント内容深いですね。
    現在私が思考している内容をおもいきり突いてくれてるので嬉しいです。
    しかし深すぎるので簡単に書ききれるものではなさそうですが、ちょっと整理を試みます。

    まず、
    >知性を「具体化領域」と呼び、情緒や肉体を「抽象的認識領域」と呼ぶことも出来るように思えます。

    これは逆ではないかと考えます。
    私も哲学書を読み始めたときに混乱したのです。
    多くの人がそう考えていると思いますが、
    “抽象”という表現はピカソの抽象画、抽象的な話など、
    「分かりにくいもの」というイメージを持ちます。
    実は枝葉を削ぎ落とし単純化することを「抽象化」と言います。
    単純化しすぎるから訳が分からない難しいものを象徴する言葉になってしまいました。
    しかし、「抽象化」複雑な内容を整理して扱いやすくする作業なので実に知的な作業なのです。
    逆に「具体的」というのはあるがままに、個体の個別性・個性をそのまま受け入れる複雑で繊細な生の感覚と、それらを味わう情緒的寛容が一致します。
    揚げ足取りみたいなことになりますが、共通理解には重要な語句になりますのでご容赦ください。

    次いで「意識」の捉え方なのですが、
    前に掲載した図の中で考えるとこれは「理性」そのものにあたる気がしています。
    (「意識」が何者であるのかさえも、突き詰めて論議するととんでもない展開がされる代物と感じます。具体的形を持たない存在ですから…。)
    そして「意識」を理性そのものと考えると、
    思考する意識にとってその中心は知性でしかありません。
    しかし人間の肉体は意識とは別の次元で呼吸し、拍動し、消化しています。「意識」が有機体の主人と感じることが理性の勘違いであると思います。

    理性の勘違いが情緒を軽視し、情緒を理解することを怠る結果、
    幸不幸を実感することを誤り、不幸な問題を起こしているかと思われます。

    更に、知性の体とも言うべき言語がプライベートな存在でありながら、
    コミュニケーションツールとして重要な役割を果たしています。
    このことも社会(コミュニティ)に於いて知性の優位性を裏付け、逆に個人の思考が独自的に走りすぎることを抑えています。
    この関係性を考えてゆくには「実存の哲学」を土台に「共同体の哲学」を展開する必要があります。

    私は現在言語の性質に「区別(ラベリング)」「圧縮(抽象化)」「固定」「拡大」を考えています。
    以前に書いた文章をホームページに掲載してあります。

    http://www.o-baka.com/word/index.html

    これ等の性質はこぎつねさんの仰る「眺望固定病」に通じると思います。

    思考を展開することは知的作業にほかなりません。
    肉体を土台に知性が成長するように、
    情緒の成長の土台には知性があると考えます。
    知性を正すことによって情緒の成長を促す経験に向かうことが出来るのではないかと思考し続ける日々です。
    | 桜葉佳代 | 2012/08/18 2:07 PM |
    “抽象”という言葉に関する私のとらえ方というのは、

    「具体」という言葉に「昼の見え方」というイメージを重ねているのに対して、
    「抽象」という言葉には「夜の見え方」というイメージを重ねています。
    昼間に物を見る時には、物の質感や模様や色もハッキリ判るのですが、
    夜暗い処で物を見る時には、物の質感や模様や色がわからなくなって、物の輪郭だけが辛うじて判る。そういう状態をイメージしてる感じです。

    抽象化とはつまり「物の質感や模様や色などの豊富な情報が遮られて、輪郭だけが判る」ような「夜の見え方の状態」をあえて求めることなのではなかろうかと…。
    それを比喩的に思考の手法に取り込むと、

    「抽象化(ちゅうしょうか)とは、思考における手法のひとつで、対象から注目すべき要素を 重点的に抜き出して他は無視する方法である。」
    という定義に当て嵌まるのではないかと思っています。

    私にとっては情緒や肉体からのシグナルは「夜の見え方」のように輪郭しか見えないイメージがあって、
    一方、知性というものについては「光でハッキリ見えるようにする」ようなイメージがあります。

    情緒というものを天気や気圧配置図のようなイメージで認識することにしても…
    私は思考する際に視覚的イメージが先行しています。

    確かに「語りえぬものについては沈黙」した方が良いのかも知れません。
    自分の中で先行している視覚的イメージが伝わらずに、それを表現しようとしている言葉だけが伝わると、誤解が生じるようです。
    | こぎつね | 2012/08/19 7:53 PM |
    折角コメントを頂いているのになかなかお返事できずに申し訳ありません。
    また、この前のコメントのお返事は少々断定的な物言いになっていたようです。反省…。
    言葉の捉え方は人それぞれだと自分で書いています。
    “抽象”という言葉については、
    過去に本を読んだときにそれ以前の自分の解釈と真逆であって
    自分自身が修正に苦労した経験が軽いトラウマになってるかもしれません。
    しかし、その本を書いた人の表現がそのようだっただけで万人の解釈が同じではありません。
    言葉の使い方が正しいか間違っているかは
    時代やシーンで変わっています。
    必要なのは対話するもの同士の間で共通理解を持つ事です。

    言語表現は多くの行き違いを生んでいますが、
    その言語を用いるコミュニケーション以上に多くの情報を時間や距離を越えて交換できる手段を私たちは持っていないと感じています。
    生じた誤解については如何に解消すべきかあがいてみるのも空しい事ではないと思っています。

    語りえぬものについては沈黙…など寂しいことは仰らず、
    どんどん語っていただければ嬉しいです。

    「思考する際に視覚的イメージが先行」というのはどんな感じなのでしょう?
    思考は言語でという話は多く耳にするのですが、
    言葉で見聞きする情報の中には言葉を思考の中心に据えている人たちが発する情報が多くを占めているからなのかしらとも考えています。
    だけどそれこそ言語化するのに苦労しそうな内容ですね。

    私も日々(日常生活の中でも)言葉には苦労しています。
    時間が空きすぎてしまってホント申し訳ありません。
    読んではいただけないかと心配してます。
    | 桜葉佳代 | 2012/08/23 8:26 PM |
    >「思考する際に視覚的イメージが先行」というのはどんな感じなのでしょう?

    桜葉さんが「愛は一致すること」という言葉が浮かんで、それが気になり、そこから自発的に思考を展開しているのと似た感覚だと思います。
    具体的には

    ふとこんなイメージが浮かぶ↓とします。
    「フワフワした白い雲の上で、白い服を着た天使のような妖精のような人達が楽しそうに過ごしている」
    「白い雲の上ではモンキチョウの粉のような黄色い粉が舞っていて、天使達は優しい心を持っている」
    「そこに赤い色のシミが出てきて、白い仮面を右肩に乗せた人が現れ、天使達を自分のペースに巻き込んでいく」
    「天使達の左肩に鏡のようなものが現れて、地面に叩きつけられる雨粒や、側溝へ流れる水の流れのようなものが見える」

    これらの一連の意味不明なイメージが私の中で浮かんだとします。
    それが意味不明なまま潜在意識に残り、それでいて表層意識には浮かばない状態が続くとします。
    そしてある日「マインドコントロール」とか「洗脳」という言葉を目にして、上のような意味不明だったイメージが急にまざまざ浮かんでくるとします。
    すると「マインドコントロールという現象」と「意味不明だったイメージ」との相関性が気になって、パズルに嵌るような感覚で、私の中で自発的な思考が起こります。

    この場合「マインドコントロール」とか「洗脳」という言葉は、「思考のキッカケ・刺激」になっているものの、思考の動機は「意味不明だった視覚的イメージ」があります。
    イメージという「パズルの台紙に当て嵌めていくように、情報の収集や分析が起こっている」感じです。
    | こぎつね | 2012/08/24 7:04 AM |
    視覚的イメージは“ひらめき”なのですね。
    そういったひらめきは誰しもが持つものだと思うのですが、それに対する姿勢は人それぞれですよね。
    貴重に捕らえる人たちはより多くのひらめきを受けるけれど、
    思い過ごしや、無意味な妄想としてしまう人たちは受け取ることさえ少なくなっているのではないでしょうか。

    私はこういったひらめきは貴重なものと考える方だと思います。
    昔絵を書いていた頃には視覚的ひらめきもありましたが、
    最近はほとんど言葉によるものが多いです。
    先行するイメージに合わせて後から関連する情報が外部から集まってくる現実も多くあり面白いところですが、
    それに振り回されると少々忙しい思いをします。
    | 桜葉佳代 | 2012/08/26 1:48 AM |









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