サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
精神疾患
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コスタさんが鬱をテーマに記事を書いていらっしゃいましたね。
また、ある方からのメッセージで、知り合いの食口が統合失調症と診断されて心配しているということを書いていらっしゃいました。
このような精神疾患について、私自身思い当たる節もありますので少々反応してしまいます。

私も少なくとも、軽度の鬱ではあると思います。

心療内科とか、精神科とか、受診したことはありませんから軽率には判断できないのでしょうが、
本人が症状を主張すれば多くはそのような診断がなされるのだと思います。
痛みなどと同じで自覚症状があれば何らかの診断を下すのが医師です。
むち打ち症などはレントゲンに写るとかそういったものではありませんが、医師は治療を施すのです。

これは心療内科や精神科に掛かっている人たちがただの怠け病だという主張を支持するものではありません。
本人たちが訴える症状は実際に辛いものであることは認識します。

私が自分に感じている鬱症状としては、やる気が出ないとか、楽しいと感じることがないとか、集中力の衰えなどでしょうか。
細かく言うと午前中に症状が強くて、夕方の方が元気とか、夜なかなか寝付くことができないなどということもあります。
私も辛い時には医師の受診を考えたこともありますが、宗教性に理解のない医師には掛かりたくありませんし、
医師によっては薬の処方ばかりに頼る方もあるそうなので、結局は行きませんでした。
私はこの場合の精神イコール魂と考えます。
薬というのは、肉体という魂にとっての環境の、空調システムや音響システムを操作するようなものだと思っています。
魂それ自体に働きかけるものではないでしょう。

このところ霊的問題なども記事テーマとして扱っていますが、これらのことは唯物的な観点からすれば妄想癖であり、
これは統合失調症の症状と診断できなくもないかもしれませんね。

こんなことを書けば、私の書くブログ記事については全て妄想によるものっで信頼性のないものと感じることでしょう。
100も承知でやっています。

でもね、ちょっと考えていただきたいのです。
現代西洋医学について、どれだけの信頼がおけるものでしょうか?
外傷に対する治療にはあまり疑問を感じてはいませんが、
心療内科や精神科、脳科学などつまり精神的な問題を扱う分野については私は信頼することができていません。

これは私が信仰や宗教のテーマに重きを置いているからでありますから、
そうでない方々が、辛い症状を緩和するために薬品に頼ることは
精神世界についての構造が明確化されていない現状に於いては致し方ないことと考えます。
エクソシストやおまじないで治癒できるものとも考えません。
どちらかと言えば禅などの修業は有効かなとは思いますが、
自己流のコントロールで誤れば、自死に至ったり、傷害事件を起こすようなケースもあります。

私の場合はここに信仰の戦いを挑んでいるとも言えるかもしれません。
召命観を持たずに、興味本位や自己顕示欲でやってはいけません。
それはイエス様を高い崖の上に連れて行き「飛び降りてごらんなさい」と言ったサタンの誘惑に他ありません。

正気と狂気の境界線を、私は創造原理的整合性に求めているのだと思います。

堕落論や御言葉について、文字通りに読んでいくとここには整合性を見出すことができません。
比喩暗喩の可能性まで拡大することによってそこに創造原理的な整合性を見出すことができてきます。
勿論御言葉の全ての整合性を見出せたわけではありません。
そもそも全てを知っているわけでもありません。

同時に個人的に与えられるインスピレーションについても、
トータルな視点で整合性が見出せない場合にはそれを全面肯定することができません。



 
| おーば | 信念・信仰 | 22:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
愛を動機として
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    皆さん以前から比べると自由に発言される方が増えてきました。
    良いことだと思います。

    昔はね、統一教会で祝福を受けてメシアとともに歩み理想家庭築くことが唯一絶対の天国への道と言われていました。
    そしてそれを疑うことは不信仰なこととして否定されたのです。
    だから誰も何も言うことができなかったと思います。

    私も献身して祝福を希望しました。
    けれどマッチングから漏れて(6,500双、3万双)自信を失い教会組織から離れましたので、
    天国へは行かれない組に振り分けられた立場でした。

    教会から離れた人たちは、殆どが恨みを抱き呪いの言葉を吐いていました。
    青春を返せ!金返せ!です。

    捨てられた立場で生きていくにはそうする以外には道がなかったのでしょう。
    人間は生きていくのにお金も必要ですが、“心の力”がなければ生きられないのだと思います。

    心の力というのは主に夢や希望です。

    絶望すると心の力を失い自死を選ぶのです。
    統一教会は万民救済を叫んだにもかかわらず一定のルート以外には救済の道はないと教えたのです。
    信仰の問題だけではなく他の事情からでも教会生活を続けられなくなれば
    その人は地獄行きだと烙印を押したのです。
    希望を奪うのです。

    希望を奪われた人が“心の力”を持つ方法が恨むことなのです。
    恨みもまた力をもたらします。
    この力は夢や希望の“正”の力ではなく“負”の力ですが、それでも力が“ゼロ”になってしまえば生きてゆけないので
    これを選ぶしかないのです。
    “ゼロ”は停止ですが“負”の力は活動できる力です。
    肉で生きることはできますが“心”は消耗して小さく小さくなってしまいます。
    でも気が付けないのです。

    私は恨みを選択しませんでした。
    私は図々しいので
    神様を知らない人と、
    知っていても歩み切れないけど慕う心は持ち続けている人のどちらが好きだろうかと考えたのです。

    答えは明白、で知らない人より知っている人の方が好きに違いないと思えたのです。
    アベルを殺害したカインでさえ、神様は保護したのです。
    これが私の希望になりました。
    今考えればこれは普通のクリスチャンの信仰なのですね。

    親子の因縁を結べば、たとえ捨てられたような局面に立たされても
    親は親以外の何物でもなく、切っても切ることができない関係になるのです。

    捨て去られた人たちが2つに割れました。
    恨むものと慕うものです。
    恨むものが圧倒的に多かったようです。
    恨む立場に陥った人たちが哀れでなりませんが、そんなことは余計なお世話と言われるでしょう。
    却って、彼らにしてみれば、呪縛から抜けきれない私のような立場が哀れだと言うでしょう。

    しかし、私の心は豊です。
    一時でも、神様を慕い神様のために生きようとした兄弟姉妹たちを神様は忘れることができません。
    神様が兄弟姉妹を惜しむので、私は書き始め、書き続けます。
    そのように願われていると感じるので。


    文鮮明師が亡くなられて、
    家庭連合と名称変更した教会は分裂し、
    理想家庭など見出すこともできず、
    絶望の淵に直面した教会員たちは、
    恨みを選択するものと、希望を選択するものとに分かたれています。

    希望を選択する人は、希望をどこに見出そうとするのかといううと、
    真の子女(即ち未来・さりとて過去の契約)の立場にある顕進さまと亨進さまに求める人。
    真の母の立場にある韓鶴子さま(過去の残滓)に求める人。
    真の父の掲げた理想と生きて働かれる神に求めるのか。

    私が辿り着いた立場は“真の父の掲げた理想と生きて働かれる神に求める”です。
    生きて働かれる神は顕進さまや亨進さま、韓鶴子お母さまやそれ以外の諸々の存在をも包括して用いられようとするでしょう。
    どのように用いられるかはそれぞれが責任をいかに果たすかで左右されるのでしょうね。

    亨進さまが「真のお父様の権威に帰れ」と言われますが、
    権威という概念は危険です。
    権威とか、権利・権力には堕落性がつきまとうのです。
    慕うべきは真のお父様の理想であるべきです。
    真のお父様の理想は神様の創造理想です。
    神様の創造理想は“権威”ではなく“愛”です。


    愛を動機に歩む皆さんを私は支持します。

     
    | おーば | 信念・信仰 | 19:42 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
    目を覚ましていなさい
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      『目覚めていなさい』とはよくよく言われることです。
      目覚めているというのは、肉体的に目覚めているのではありません。
      「正しいことを見極める目を持っていなさい。」と解釈することもできます。

      だけどここのところの考察から、
      “目覚めている”というのはやはり
      霊的な覚醒であろうと考えざるを得ません。
      同時に“目覚める”ことが、“庶子圏”の入り口なのでしょう。

      神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。
      すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。
      わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。
      すると、彼らは預言する。
                       (使徒言行録2:17〜18)

      ペンテコステを迎えた時のペテロによる説教の一部です。
      霊を注がれたものがどのようであることが神様の願いでしょうね?
      予言すること?
      幻を見ること?
      夢を見ること?

      異言を吐いても本人がそれを理解できているとは限りませんが、
      必要な人に伝わり、正しく行われれば善しとしていただけるでしょう。
      幻と夢は何が違うのかしら?
      目を覚ましてみるのが幻で、
      眠っているときに見るのが夢。

      幻の取り扱いと夢の取り扱いに大きな差があるとも思えませんが、
      聖書の中では幻によって回心するようなエピソードもありますね。
      でも、夢によって告げられたことを信じて実現した例もあり…。

      夢は比喩に満ち、幻はリアルな傾向が多いかもしれません。
      (勝手な思い込みカモ…。)
      ヨセフの夢解きのように正しく解釈できれば問題はありません。

      そうすると、霊的に目覚めているか、正しいことを見極める目のどちらかが必要ですね。
      両方備えるに越したことはありません。
      というよりも、両方が必要です。

      正しいことを見極める目は、正しさをどこに求めるかです。
      これを助けてくれるのは整合性に照らす理性と桜葉は信じています。
      結果としては創造原理に助けられます。

      そして予言しても意味を理解できなければ“道にまかれた種”と化す。

      目覚めにこだわった人たちがいます。
      スピリチュアル系と呼ばれる人たち。
      以前のアセンション流行りの頃、ずいぶん話題になっていたと思います。
      彼らは目覚めることに目標を置いて、目覚めればそれで満足してしまった。
      この時の“目覚め”は自分の守護霊と対話することだったように思います。
      守護霊とか、前世とかだったかな?

      「シルバーバーチ」とか「僕アニの神様」だったか…。
      こちらに傾倒した人たちは個人の幸福を追求する方向に向かったようです。
      自己中心というよりも、
      「自分と家族の幸福を実現できずにどうして世界の幸福を語ることができようか」
      とか、
      「私の喜びの波動、エネルギーが地球に満ちて世界が幸福になる」
      みたいな理論展開だったと思います。

      最近思うに、これは『石をパンに変えた』のではないかと今思う。
      つまり対話の相手は“試みる者”だったということです。

      イエス様の三大試練。
      『石をパンに変えよ』
      『神殿の上から飛び降りてごらんなさい。』
      『我を拝せよ、全てを与えよう。』

      これを超えると天使が降りてきて仕えるようになる。
      もしかすると庶子完成”がここにあるのかしらと思う。

      『人はパンのみに生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである。』
      『主なるあなたの神を試みてはならない』
      「サタンよ退け『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある。」

      石は神様が与えた盤石、パンは日常。
      彼らは日常に帰って行った。折角荒野を歩んだのに。

      神殿はみ旨の主人の立場と習った気がします。自己の位置を離れることか…。
      与えられた位置、責任を自分の実績と勘違いして勝手な扱いをすることのように思えます。
      傲慢ですね。自分の実績であれば、そこを離れたとしてもすぐに元に戻れるように勘違いしますから。

      そして位置を守り飛び降りなかった者には最後の我欲に働きかける。
      きっとサタンは賛美して来るのでしょうね。
      「あなたは素晴らしい力を持っている。私があなたを案内しましょう。私の言うとおりに従えば、あなたなら全てを手に入れられる。」
      みたいな…。
      下に降りなかったのならば上に持ち上げてひっくり返してしまおうというのでしょうか。
      こういう感じの人もいます。語りかけてくる者の正体を見忘れてしまうのです。
      UCの幹部諸氏も次元こそ違いそうですが、同じなのかもしれませんね。

      | おーば | 信念・信仰 | 01:07 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      百花繚乱
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        最近すっかりさぼり癖がついてしまったか、
        ほぼ週刊ペースで書いていたのが各週になってます。

        せめてこれ以下には落としたくないですね。



        祈りの勧めについて書きましたが、
        実は私はお祈りはあまり得意ではありませんでした。
        言葉に出して祈るのが良いと言われ、公的なことから祈りなさいと言われ、
        指示にがんじがらめで苦しかったです。
        それに比べて前記事で取り上げた御言葉はありがたかったです。
        『痛ければ痛い、うれしければうれしい』つまり自分自身の感性で祈ってよいというのですね。
        この祈りは個々人の感性の啓発につながるでしょう。


        でも、本当に行き詰って苦しい時にはその感性さえ麻痺してしまうようなことも、
        こんな道を歩いていればよくよく出くわすわけです。
        そんな時には『聖歌』をお勧めします。
        諸先輩方の信仰路程における心情が詰まってますので、自分の情に共鳴するものが見つかると思います。
        特に1番から7番と9番は文先生の作詞です。
        歌うことは言葉を体に響かせことなので、可能であれば大きな声で歌いましょう。
        自宅が無理なら河原とか、幹線道路の騒音の中とかでもかわないでしょう。
        私はよく京葉道路を自転車で走りながら歌ってます。


        また、御言葉ではなく祈祷文集を声に出して読むのもいいです。


        既成教会では「主の祈り」とか「聖母の祈り」とか定型の祈がありますが、
        こちらはちょっとものたりないかもしれません。
        でも、いよいよヤバいというときには、藁にも縋る思いで唱えてました。
        どうしょうもない頃の私は、聖母マリアの情を訪ねて乗り切ったところがあります。
        これは個々人の使命分野によって共鳴する人物が違ってくるでしょうから、
        御言葉や聖句から尋ねてみてください。




        話が変わりますが、本日2冊の本が届きました。

        一冊は四研の「日本は神側に立てられた国家」
        もう一冊は顕進氏の「KOREAN DREAM


        四研の方はブログで一通り読んでいる内容ですが、ゆっくり読み直したいと思ったもの。
        顕進さまの方は何を中心に考えたらいいのか迷っていたところへ、メール整理中に示されたもの。
        この本、幻冬舎刊で400ページ以上あるのね。読み切れるのかしら。


        で、ふと気が付くと、方や日本民族、方や朝鮮民族がテーマになっているのですね。
        面白い相似です。


        顕進さま派、亨進さま派、家庭連合本体、
        四研などの分派、反対派、米本氏のような外部からの意見、
        それ以外にも個人的にそれぞれの見解を語る人たちが多くなってきたように思います。


        いいことだと思います。


        ただ、「どこが正しいのか」と右往左往するのも悲しいですね。
        私はそれぞれが部分部分を担当しているのだと考えています。
        ただし、ここはやっぱりまずいよねと思わせるところも無くはないです。
        だから「どこへ行けば救われるのか」と考えるのではなく、
        「どこへ行くことが私に託された願いであるのか」と考えるべきだと思います。


        主にweb上の情報からになりますが、それぞれの意見を考えて行きたいと思います。



        知った上でどこを目指すかはそれぞれが祈りの中で見出していく世界なのでしょうね。


        聖書には、いつも喜んでいなさい、常に祈っていなさい、全てに感謝しなさい。」とあります。
        常に祈る世界をつかむことができれば、祈りは初めも終わりもなく、何の形式もなくなります。
        アーメンもアージュもないのです。
        大切なのは神様との絆を回復することだと思いませんか?



        | おーば | 信念・信仰 | 22:23 | comments(5) | trackbacks(0) | - | - |
        明けましておめでとうございます〜祈りの勧め〜
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          明けましておめでとうございます

          このブログを始めて6回めのお正月です。
          netを通じて色んな方とお知り合いになれました。感謝です。
          netデビューは10年以上前になりますが、当時はブログよりも掲示板が主流でした。
          『あみちゃんのネット教会』が衝撃的でした。
          掲示板というよりチャットのようでスピードについてゆけず、
          また、哲学的内容についてゆけず、
          そこらへんから勉強するようになったと思います。

          ここのところ放ったらかしになっている自分のHPに初心が書き残されていました。
          http://homepage2.nifty.com/o-baka/inside/goaisatu1.html

          「諸々の内容が、私の中で十分に整理されないままになっているように感じています。」
          「全てにおいて中途半端になっている私は自信を得たいと願っています。
          紙に書き散らかして収拾のつかなくなった諸々の事柄が、
          ひとつのサイトの中で関連づいて
          一人の私にまとまれば、少しは自信が持てるようになるでしょうか?」

          整理してまとめていったら、途方も無い方向へ向かっているようにも思える今日この頃です。

          ブログを始めた頃とは、ブロガーの顔ぶれも随分変わっています。
          ブログ村でも、ぶれずに書き続けていらっしゃる教育部長さんなどは脱帽モノです。

          多くのブロガーさんたちは『卒業』して行かれるようです。
          何からの卒業かというと、悩みからの卒業をして日常生活に帰ってゆかれるのですね。
          私が注目してきたのは同じ立場にいらっしゃると感じた『元信者』さんだったので、
          主に『統一教会からの卒業』でした。
          卒業しきれない私はまるで落第生ですね。

          でも、それでいいと思ってます。
          『統一教会』の経験は私には大変貴重です。
          多くの“元食口”達は、“元食口”という絆を大切に感じている現実があります。
          彼らは神様が仕組んだ時限爆弾となり得る人たちかと私には思えるのですが
          そんなこと言われた方はいい迷惑と感じることでしょう。


          ほんとの伝道はコース決定やセレモニー参加ではありません。
          神様に繋ぐこと。


          現在『家庭連合』にあって、本当に神様と繋がっているという実感をもてない方が少なくないようですね。
          でも、『家庭連合』に籍を置く意味は、
          神様に繋がることというよりメシアに繋がっていることの証と信じてのことでしょう。

          文鮮明師がメシアであるかどうかを現役食口ならば疑うことはありませんが、
          私は元食口の立場なので、一旦全部を否定してみました。

          で、創造原理はすぐさま肯定できましたし、考え方の基本として『四位基台』は大変役立ちます。
          堕落論以降は聖書を根拠として語るものなので、
          聖書が史実として信頼できるものであるのかという大きなハードルを抱えています。
          ですからここは保留するしかありません。

          一方で、多くのみ言葉
          (私の世代では「御旨の道」とか「御旨と世界」「オレンジマルスム」「祈祷文」などなど)
          と、それに基くホーム生活、祈祷会、前線の歩みの中での神様との出会いは、
          私の実体験であり、心に刻まれた真実なので、否定することは出来ません。
          み言葉は、実践してそれが真実であることを確かめると「私のもの」にすることができます。
          『み言葉の体恤』にはそのようなプロセスが必要です。


          これらの経験について、『マインドコントロール』という言葉で否定して終わりにする向きがあります。
          『マインドコントロール』は実は誰でもがその中にいます。
          カルト教団と呼ばれるところに所属しなくても、
          一般社会の中で、このコントロールは行われています。
          (恐らく『家庭連合』の中にもやはりあるのでしょう。)
          どの社会に所属していても、その社会毎に『コントロール』はされていて、また、受けるものなのです。
          『社会常識』というものがその正体です。

          とある常識の中で暮らしていたものが、
          その常識とは違う常識に従うようになれば、
          もともとの常識の中で暮らしていた仲間からは『異常だ』とラベリングされます。
          それぞれの常識の中ではそれぞれの理論があります。
          多くの社会的な理論は、それ以前の社会常識を否定して立てられています。
          だから日本では、戦前の軍国主義や全体主義の中に暮らした国民を『マインドコントロール』されていた。
          と評するのです。

          要は“羊の奪い合い”です。
          悲しいことに、奪い取られた羊たちは、
          自らを導く“常識”に反するものを恨み、異なるものを敵視することで新たな常識の中での安住を見出します。
          それが『マインドコントロール』という侮蔑をこめた言葉になりました。

          実に、現代社会の中にも多くの『マインドコントロール』が潜んでいますが、
          最中にいれば何の疑問も感じないし、自分でその常識を選択する自由は与えられていないのです。

          いずれ世界が大きな厄災に見舞われた後、
          現代社会の『マインドコントロール』が暴かれるようになるでしょう。


          危ない話ですね。


          『マインドコントロール』の外に出るには自分で理論を確立するしかありません。
          常識が出来上がる仕組みを理解して、常識の正体を知り、常識そのものを使い分けられる理論です。
          …無理でしょう?

          きな臭い話になりました。
          私は祈りについて書きたいと思っていたのですが。

          ある人に「祈りの勧めについて書こうと思います」と言ったら、
          「祈りは基本ですね。でも皆本当の意味で祈れないんじゃないですか?」
          と、返されました。

          実際に、多くの食口たちがノルマ達成のための談判祈祷ばかりしているのかもしれません。
          だけど導かれたばかりの頃、純粋な気持ちで「天のお父様」と祈った経験は、
          信仰の道を歩む全ての人たちが持つものです。
          その祈りの中で、何らかの回答を得ればこそ、歩み続けることができているのではないでしょうか?



          祈りはマインドコントロールから導き出してくれるでしょうか?
          応えは“YES”です。




          去年12月2日、訓読友の会が配信してくださったみ言葉は
          『(質問)「祈りについて教えていただきたいのですが」』というものでした。

          祈りについてのポイントが多く書いてありましたが、
          一番最初の行が一番大事だと私は思うのです。

          「祈りについて。それは簡単だ。別に祈りを良くする必要はない。痛ければ痛い。うれしかったらうれしい。それが最上の祈りである。
          幼子のような祈りですね。
          「それが自分の痛みか、家庭の痛みか、国家の痛みか、世界の痛みか、範囲が大きくなるだけで、別に、祈りに変わった方法はない。」
          と続いています。
          『個人』『家庭』『国家』『世界』…はしょられているけれど、横八段階の要素ですね。
          自分の喜怒哀楽を家庭、国家、世界そして神様に同調させることが祈りです。
          成長の段階によってどこまで同調させることができるのかが変わってくるのでしょうね。
          後ろの方にはこんな文章があります。
          君たちは、みな神の分身である。神と人間はそっくりである。だから神的作用をずっと思いながら祈れば、「ああ、こういうふうに祈らなければならない」と、自然と分かるようになっておる。」
          これが体恤できれば素晴らしいことですね。

          世界的、天宙的、神的“常識”を得れば全ての“常識”は凌駕されます。
          ちなみに、現代社会の“常識”は国家を超えません。
          多くの“常識”は家族・氏族レベルなのです。


          み言葉をくださったお方は貴重なお方だと今は感じています。
          だけど、メシアか否かと問われたときに、
          私にはメシアの定義がよく分かっていないのでこれも保留せざるを得ないのが現実です。
          未だ天国は到来していないことが現実であるように。

          み言葉によって天国が到来すればそのときには、
          あの方がメシアであると確実に宣言できるのでしょうね。

          | おーば | 信念・信仰 | 18:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          食口の心霊の復興を祈る
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            一ヶ月ほど前(11月19日)に、米本氏のブログで『「非人間的シック大量発生」に関する歴史的考察』という記事が掲載されていました。
            一般的常識や、ヘレニズム、ヘブライズムに照らして考察として《神々の黄昏》さんが寄稿しています。

            米本氏は信仰について門外漢であるから無理からぬことですが、
            これに乗ってしまう食口が大勢いることは悲しむべきことです。
            また、これがブログ村に集う食口達の現状であることを思い知らされます。
            勿論、そうでない人たちも少なからずいらっしゃることを信じたいです。

            その時に米本氏のブログにコメントすればよかったのでしょうけれど、
            村のブログチェックをマメにしているわけではなかったので、
            気が付いたのは数日立った後のことでしたし、なにしろ忙しい最中でもありました。
            今更ながら関連記事を書かせていただきます。
            氏のブログ内に関連記事もあったようですが、彼のブログの内容も膨大なので十分に読みきれてはいません。
            かの記事を読んでの私の感想と食口達の事情を書かせていただくというところでしょうか。


            家庭連合は知らないけれど、
            統一教会の教義は『全人類一家族地上天国の実現』だったと思う。

            60年代、70年代の食口達は個々人の完成は二の次三の次でコンプライアンスそっちのけで走り回りました。
            地上天国実現のために
            『アベルカイン』を中心に考えられたであろう『摂理』が展開していたと思う。
            『アベルカイン』に勝利すれば神が働いてサタンが滅ぶと思い込んでいなかっただろうか?
            サタンが滅んで神主権で父母を中心とした地上天国が建設されると信じていたと思います。
            この頃の象徴が、東西冷戦で、民主主義vs共産主義でした。
            マスコミは左傾化しているので危ないというのが定説であり、
            勝共連合はじめ世直し運動の意識が強かったはずです。
            日本国内に限らず(海外の方が主)多くの大会が開かれました。
            当時の献金はそれらの大会を支える活動資金というニュアンスが強かったのではないでしょうか。
            資金集めの物販・募金活動は主に戸別訪問で、障害者トーク、いなかっぺトーク、研修者トークなど。
            当時はまだ良心的であることは迎合的になることであり、天情に徹することが求められていました。
            それが信仰だったのです。

            良心は神様にまさるという御言葉は、21世紀に入ってからのものだと思います。

            つまり統一教会はもともと反社会的要素をふんだんに内包していたのです。
            世直しというのは現在の社会に問題があるという認識の上に成り立ちます。





            80年代から90年代の食口たちはそれぞれの家庭の完成を願うようになった。
            6000双からこっちの食口たち。
            祝福のカップル数が増えていったこともあるのではないかと思います。
            特に30000双までは信仰歴なども問われたけれど、それ以降は猫も杓子も…という状況ではなかったか?
            (古い先輩たちに言わせれば6000双でさえ猫も杓子もと感じたらしいです。)

            40年荒野路程が終結し、
            90年代に入ってからは東西冷戦も終結し、
            理想家庭完成してその家庭の版図が世界中に拡大することで
            地上天国が出来上がると思うようになっていった。
            そのためのツールとしての祝福セレモニーになってしまいました。
            一世は、自分たちの世代は無理でも、二世、三世は素晴らしい人格者に成長し、天国人に相応しく成長すると信じていた。
            実はこのころにもう、古い食口たちはしらけはじめていたのかもしれませんね。
            共産主義が破綻したにもかかわらず、40年荒野路程が終了したにもかかわらず、地上天国は見えてこないのですから。
            結果、数字ばかりを追い求めることになる。
            霊感商法や、高額商品の展示会販売が盛んな時代でもありました。
            数字を上げることが神を証する奇跡のように思え、
            お金を出す側にも、出させる担当者にも天国へ入るための条件と思えるようになる。
            責任者の指導もそのようになっていく。

            もっとも、東西冷戦の時代にも、動員数という数を追いかけていたんですが…。





            その後、文師長男である孝進様の薬物・暴力・離婚などの問題、
            祝福二世たちが育つに連れて
            信仰の継承はおろか、二世の堕落問題などが起こり、
            各祝福家庭の様々な問題が噴出し、なんだか変だぞと思い始める。
            変だと思う様々な問題は、どうやら蕩減問題が十分に晴れていないからではないかと
            『清平』詣でが定着していき、内部霊感商法とまで言われる状況に陥っていく。
            『清平』には、霊界の条件祝福というような背景もあったようですが、
            地上の祝福が条件祝福であることと同様に、祝福自体の霊験は定かではないようです。
            もっとも、『清平』詣での動機はどうやら自分たちの家庭にご利益を求めるところに向かってしまう傾向も否めません。



            3年前に文教祖が亡くなられてからは
            真のご家庭自体が分裂状態に陥り現在に至るというところでしょうか。


            統一教会は大きく三度の絶望に瀕してきたわけです。
            東西冷戦の後、40年荒野路程を終結しても地上天国は現れず、
            祝福二世は神の子女として天才的な人格者に成長すると思っていたのにそうでもなく、
            真のご家庭は完成された家庭で堕落などとは無縁であったはずなのに離婚・不倫・家庭分裂という惨憺たる状況を呈している。
            文鮮明師存命中はそれでも「何か意味がある」として意味は分からなくても人間信仰のもと走り続けてきました。

            どこかで間違えていたらしい。


            90年代後半からかな?清平詣では、
            個や家庭的な幸福を求める傾向が強くて、全人類の幸福という観点からはそうとう離れている。
            個人さえ幸福になれなくてどうして世界の幸福など実現できるだろうかという発想なのだろうけど、
            全人類の幸福を中心に考える教会であれば、
            これは傍系の流れにならなければならない。

            どこからズレた?

            80年代の食口達が自分たちの条件と祝福の恩恵で『自分の子供たち』の人格完成を願ってしまった。
            これは裏を返すと『自分の子供たち』の“栄光”を願ってしまっていると言えるのです。

            その前の食口達は、祝福によって何を求めたかというと
            福を得ること以上に自らを『供え物』にすることを考えていた。
            まぁ、建前上はね。
            本音では、『完全投入』すれば『後の責任は神が持つ』と考えていたはずなので、
            子供たちに恩恵があることは思っていたはずなのです。
            全人類の幸福を求めれば、当然、人類の一員である自分や子供たちも幸福にはなれるはずなのです。




            何処に問題があったのか?
            それは『アベルカイン』であり、『祝福の恩恵』であり、『清平の恩恵』
            これ等を絶対視してきたところじゃないのかな?


            この三つはとても分かりやすいのです。
            全て“行義”的に可否が判断できるのです。
            分かりやすいものに目を奪われて、
            デリケートで複雑な課題から目をそらしてしまったのでしょう。
            『創造原理』の深淵、『ホームチャーチ』や『心情の成長八段階』などのことです。
            教えの中には完成に向かう道筋が語られているのです。
            時の摂理に掲げられた数字ばかりを追いかけて、
            個々人の成長にかかる問題を置き去りにしました。
            摂理の中で、私自身に向けられた神の願いがあったことに目を向けなかったのではありませんか?
            もっともそんな指導は成されてきませんでした。


            絶対視された後者二つは『万民救済』の観点からは絶対的ではありえないのです。
            これらは『選民思想』です。
            統一教会の『選民思想』は、本来、『犠牲的道をゆく代表者としての選民』なのですが
            いつのまに『天国へ行くことができる選民』にすりかわっていったようです。
            報われなかった労苦という蕩減条件を支払ったのだから当然天国へ行く資格があると考えました。


            特に組織幹部たちの中には、
            『自分は“アベル”だからカインに信仰を立てさせることが善である』
            『36家庭だから、777だから私はアベルなんだ』
            という言い訳の元、
            自分たちが立派な暮らしをすることを正当化していったのではないでしょうか。
            『立派』というのが質素倹約の上に成り立つ為に生きる生活ならいいのですが、
            ただ贅沢な暮らしをすることが『立派』な暮らしになっていったのが情けないことです。
            まさに『サタンが入った』状況なのでしょうね。

            アベルカインの本質は、
            正しい道へ向かうために示された指針です。
            兄弟が助け合う姿を示しているのです。
            アベルが勝ち誇るための原理ではありません。



            だけどね、

            間違ったからといって信仰の全てを否定して欲しくないんです。
            信仰生活の中で出会った神様との貴重な体験を捨てないでください。

            青春を、人生をかけた信仰を捨てないでください。
            誰をも恨まないでください。
            恨みは責任転嫁にしかなりません。

            やり直しましょう。
            私たちはその種としてのみ言葉をふんだんに頂いているのです。

            成長八段階をテーマに記事を書いたのは、
            自分が何処にいるかを自覚して、
            そこからどうしたらいいのかを考えていただきたいという願いからです。

            『祝福』と『清平』には絶対性はないのです。
            形のあるものには永遠性はありません。
            全人類が救済されれば、どんなに足らない人であっても幸福になれるのです。
            だけど足らないといっても、それは一面でしかなく、
            神の前には貴重な個性であり、唯一の存在として必要不可欠な個性なのです。
            それを開花させてください。

            あなたに向けられた神様の願いが何であるのかを祈って求めてください。

            三度の挫折も、実は成長の糧としてもたらされているものなのです。
            否定される中で、神様に祈り求める姿勢を持つことは、
            神様との絆を深める絶好のチャンスなのです。
            神様からの答を頂く前に、人間的な回答を出す“自称アベル”達の声、
            或は世間の声を聞いて奪われてしまわないでください。

            | おーば | 信念・信仰 | 23:04 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
            メシアって何者?
            0

              おやじさんのブログに、文鮮明師がメシアである根拠は『再臨論』であるはずだと書いてありました。
              『再臨論』を無視して文鮮明をメシア扱いするのは論理破綻と言っています。
              誰かが誰かを信用する理由は人それぞれなので、
              『再臨論』を否定したら文師をメシアと信じてはいけないというのは無理があると思う。
              私も再臨論はあまり真面目に受けとってはいないし、はっきり言うとどうでもいい。
              そしてあの方がメシアであるのかないのか?
              私はいまのところ保留しています。
              つまり、メシアとして信奉してもいないけど、メシアとしての可能性を全く否定してもいないということ。

              ちょっと考えてみたくなった。


              そもそも、メシアとは何者であるのか?
              どのような条件を満たす者なのか?
              私は知らない。



              救い主というけれど、一体何から救ってくれるのか?

              恒久的に願いをかなえてくれる存在を、人は神と呼んでいる。
              願いの叶わない悲しみから救ってくださる存在であれば、
              それは神とイコールとなる。

              神とメシアと何が違うのか?
              そこは明らかでしょう。
              多くの神様は無形なる存在あるいは形を示しても実体的に触れることができない存在ですが、
              メシアは人としてこの世に生まれた方ということ。


              だから『この方は私の願いを叶えてくださった』という人があれば、
              どうぞその人をメシアと呼んでください。
              ただし、恒久的に叶えてくださる方限定。
              恒久的に願いが叶うところとは天国と呼ぶにふさわしい。


              この方がいらした故に、私は天国に暮らすことができると宣言できる方がメシア。
              残念ながら、あの方故に私は天国にいますとは未だ宣言できません。



              イエス様はメシアであられるか?

              私は洗礼受けましたので、ここは否定してはいけませんね。
              イエス様は、人類の霊性を引き上げてくださった方なので、
              メシアであると言っていい。
              イエス様の存在ゆえに、今の世界はある程度の暮らしやすさを保っていると言えるでしょう。
              福音書は世界の文化を牽引している。
              だけど完全な救済ではないことも明らかで、
              それは様々な武力闘争と環境問題、世界中にはびこる貧富の格差問題などが証明しています。

              イエス様が残してくださった財産は、福音書と聖霊の賜物と考えます。

              イエス様は33歳で十字架に架かられましたが、なぜ33歳までしか時間がなかったのでしょうか?
              あの方は92歳まで歩まれた。
              この差はどこから来たのでしょう。
              33歳と聞くととても若く感じますが、イエス様当時の平均年齢は何歳くらいだったのでしょう?
              今日の礼拝で、十字軍当時の平均年齢は30代だったと聞きました。
              (本日の礼拝はガラテヤ書でルターのお話。福音を離れてはいけない。)
              子供のうちに死んでしまうことも多かったでしょうから、成人してからの余命はもう少しあったのでしょうか?

              イエス様が十字架に架からず、もっと長生きなさったっ場合、
              どうなっていたでしょうか?
              弟子達がきちんと天の願いに立って、イエス様の愛と赦しを相続できていれば
              そこに天国のコアが出来上がっていたでしょうか?
              十字架の直前のように、『誰が一番偉いか』などと言い合っていたのでは、
              長生きされても何も残らなかったのでしょうね。

              だからイエス様は自ら十字架に磔られ、弟子たちに悔い改めを迫ったのだと思えます。
              十字架そのものが罪の赦しに繋がったとはやはり考えられません。
              弟子達が罪におののいているときに、彼は復活し、弟子たちに赦しを与えに来られた。
              殺した相手が死んでなければ、殺人罪にはなりませんから、
              弟子達はそういう意味でも喜んだのだと思います。
              そして聖霊によって激励し、福音を伝えさせた。
              そのことによって福音が残されたと感じます。

              だけど弟子達は、自らの悔い改めを隠蔽し、十字架の奇跡を強調してしまいました。


              イエス様の時には、イスラエル民族がメシアのための基台として機能していませんでした。
              これは洗礼ヨハネの失敗によるものと、UCでは教えていました。
              だけど、洗礼ヨハネの教団程度で、イスラエル民族を代表する基台が整うわけはないと。
              (これは4研のブログに書いてあったのかな?最近目にしているのだけれど正確に覚えてませんゴメンナサイ)
              たしかに『荒野に呼ばわる者』ていどの規模です。
              ヤコブの時に、サタンは既に国家規模の基台を築いていたので
              家庭基台ていどでメシアを送ればたちまち殺されてしまうと説明されて事を憶えています。
              だから時間をかけて民族としての基台を作ったのが第一イスラエル。
              それを一新興宗教の規模で肩代わりしなければならないのは酷な話ではあります。
              ヨハネの父ザカリアは、イスラエル民族に、影響を与えることができる立場であったといいますから、
              ヨハネではなく、ザカリアが直接イエス様を証し、
              保護しなければいけなかったという主張はうなずけます。


              では、イスラエル民族がイエス様を守護した場合、
              どうなっていたのでしょう?

              福音は当然述べ伝えられ、
              現在のようなキリスト教徒たちの基盤は整ったでしょう。
              ユダヤ教とイスラム教はイエス様の下に統合されていたはずですから
              現在のキリスト教基盤どころではありませんね。
              でも、ユダヤからイスラムが出てきたように、キリスト教からイスラムが出てこない保証はないのかもしれません。
              実際、モハメドにはキリスト教徒が絡んでいたはずです。
              それでも現代には神の世界基盤が整っていたことでしょう。

              問題は中身です。

              イスラムとの対立が起こらなければ十字軍の問題はおこりません。
              十字軍の恨みはとてつもない。

              しかし、十字軍戦争を起こしてしまった傲慢の根はキリスト教の中に内包されているものと思えます。
              経済格差問題や、環境破壊問題は、キリスト教を主に奉じる国家で深刻です。
              現在のキリスト教の内容以上のものが築かれなければ神の世界とは呼べないでしょう。

              では何が足りないのか?
              クリスチャン達は、神の子たる身分に達していません。
              聖書に書かれている通り、その身分を待望する立場です。

              メシアは神様と違って人としてこの世に来られます。
              人として現れるということは、
              家庭を築いて子孫を設けることができるということです。
              メシアの子供たちは神様の子供になれるかもしれません。

              だけど、他所の家に生まれた私はメシアの子供にはなれません。
              決定的事実です。
              それでは私には何の関係も無いことになってしまいます。

              では?
              何か儀式をしていただいて神様の子供になれるでしょうか?
              パウロは律法の儀式を毛嫌いしてひたすらに十字架による救済と福音を強調しました。
              しかし、パウロの言葉が本当の真実であるかは、
              現在のキリスト教が完全でないからには保証されるものではありません。

              イエス様は生きていらっしゃるときに何か儀式をされたのでしょうか?
              バプテスマを授けたのでしょうか?
              癒しの業はなさいましたね。
              あと、弟子たちの足を洗うとかしてましたね。
              もっと沢山の癒しやバプテスマをしていれば今の世界は変わっていたのでしょうか?
              現在牧師からバプテスマを受けても、救済感はあるかもしれませんが
              神様の子供になったという実感は持てません。
              私たちはどうやって神様の子と呼ばれるようになれますか?

              「平和を作るものは幸いである。彼らは神の子と呼ばれるであろう。」
              参上の垂訓です。

              何故平和を作れない?

              ゆるぎない世界平和が到来したとき、
              その平和が何者によってもたらされたかによって、メシアが誰なのか初めて分かるのかもしれませんね。

              平和を完成させるために、実体の人間ができること。
              生き様を示せばいいというだけではありません。
              ガンジーやマザーテレサ、立派な個人はたしかにいました。

              私は言葉だと考えています。

              これまでに言葉にこだわった宗教は少なくなく、
              言霊とか、呪文とか、いろいろあります。
              福音も言葉、文師がのこしたのも言葉。

              共通経験を持つことにより、共通の言葉を持つことができる。
              実体の人間とであれば、共に生活経験をすることができるのです。

              言葉は親から子へ伝えられる。
              言葉はコミュニケーションツールであると同時に
              言葉は思考する上で重要なツールである。
              言葉の中には価値観も載せられています。

              現在、人の間で用いられる言葉が正しい価値を載せていないなら、
              既存の価値しか語ることができないでしょう。
              それ以上の価値を語るためにはどうしたらいい?
              それ以上の価値を実体で示して新しい言葉を語らなければ、
              言葉に価値を載せることができません。

              新しい言葉は古い言葉しか知らない人間には
              ちんぷんかんぷんでわけの分からないものになるかもしれません。
              御言がちんぷんかんぷんなのはそういう理由かもしれません。
              イエス様は赦しの愛を実践されながら福音を語られました。
              福音書は律法を覆すもので、とんでもない話という次元ですが、
              もしかすると、ちんぷんかんぷんで残しようがなかった言葉もあったのかもしれませんね。
              福音書は、イエス様が直接書いたものではなく、
              弟子達が聞いて書いたものですから。(原理講論みたいね)

              ちんぷんかんぷんな個人的な言葉はありえないと言ったのは言語学者ヴィトゲンシュタイン。
              考えをまとめるために新語を作ることがありますので、ここまで言うのはどうかと思いますが、
              多くの場合、言語はコミュニケーションツールですから、他者と共有されるものなのです。
              共有するために必要なのが共通経験。


              言葉の一つ一つに共通の認識ができあがっていなければ、
              ちょっとした言い回しの違いや、思い込みで、大喧嘩になることもあるのです。
              個人なら喧嘩ですみますが、政府間では戦争になります。


              福音を実践するのに、
              十二弟子達はイエス様の示された見本に沿って実践できたかもしれませんが、
              パウロはそうではなかったかもしれません。
              使徒はイエス様と福音の共通経験を持っていました。
              しかし、十二弟子たちも、イエス様との完全な一致をみてはいません。
              それはユダの裏切り、ペテロの三度の否認などが示しています。


              文師がメシアであるとして、後継者が誰かと問題になるのですが、
              それは誰が御言を正しく相続しているかという問題。
              多分イエス様の時には誰もいなかったのでしょう。
              文師の言葉に生きて平和を作る者が現れれば、文鮮明師はメシアであると言うことができるのだと思う。
              それは直系の子女に限らず、現在過去問わずUC関係者なら誰でも可能性を持つと思えます。

              誰も平和を築けないなら、文鮮明師はメシアではなかったということ。
              UCに関係なく
              何処かで誰かが立派な本を書いて、立派な生き方をして、世界平和を実現したら、その誰かがメシア。

              40数を全うすればメシアなんて単純な問題ではありません。

              ノーベル平和賞はこれまでに沢山出されているけれど、未だ世界平和はおとずれていません。


               

              | おーば | 信念・信仰 | 20:29 | comments(5) | trackbacks(0) | - | - |
              イースター
              0

                おーばの憂鬱の原因の一つにイースターがあったと思う。

                なんでイースターが憂鬱なのかというと、
                受け入れがたいところがあるからなんですね。

                プロテスタントで復活の意味・意義は実はあまり明確ではないようです。
                イエスの十字架の死と、それを越える復活によって私たちは救われたと言いますが、
                ただ単に奇跡を起こす権能、死という罪悪の象徴への勝利としか捉えられていないように思えます。

                ことに自由主義神学の影響が強い教会では、
                復活は史実ではなく使途たちが見たまぼろしであろうと解釈する。




                この復活についての説教を聴いておーばが思ったところを少し書く。

                イエスの復活はまぼろしであっていと思っています。

                まぼろしという内容を理解すべきである。
                単にまぼろしという表現は、見間違い・思い違い・勘違いという次元に貶められてしまいます。
                しかし実際には、霊的顕現と捉えるべきでしょう。
                相対基準を合わせることが出来る人には見ることができ、
                相対基準を合わせられない人は見ることができない。
                そうであるから、イエスの復活は弟子たちの証言によってのみ伝えられている。


                イエスの十字架の死を通じて、
                弟子達は初めて自分たちの罪を自覚した。
                それまでは、弟子たちの中で誰が一番優れているかを言い争うような者達であった。
                優れていると思っていたのです。
                しかし、十字架の前に、彼らは逃げ出すしかなかった愚かで弱い存在だったのです。


                罪に苛まれているさなかに、イエスは現れて弟子たちを励ました。
                これは咎に押しつぶされそうになっていた弟子たちの罪悪感を取り除ける出来事だったでしょう。
                ある人が、血気に任せて人を殺してしまい、その場から逃げ去ったとしましょう。
                しかし、後からその人が一命を取り留めて生きていると聞けば、
                その人はほっとするでしょう。
                (本気で相手が憎くて憎くて確実に殺してしまいたいと思っていた場合は違いますが…。)

                弟子達は聖書(旧約部分)の中から、イエスの死が必然であったかのような記述を見出したかもしれない。
                しかし、それさえも、イエスが弟子たちを励ますために示されたものかもしれないと感じます。
                その喜びを奇跡として、
                イエスの教え(福音)とともに広めたのが原始キリスト教であったのではなかろうか。


                イエスは死後、自身の伝えたかった内容を、人類に広めるためには弟子たちを用いるほかに手立ては無かった。
                だから彼は弟子たちを許し励まし、立ち上がらせるしかなかった。
                弟子たちを激励した内容はそのまま奇跡として伝えられ
                十字架や復活が栄光であり、御神の権威であるかのように広められてしまったのではないかと感じてしまうのです。

                キリストの栄光と権威は、弟子たちを奮い立たせるための苦肉の策でしかなかったように思えるのです。
                イエスの教えはあくまで福音ではないかと思うのです。
                復活や審判は弟子たちが作り上げたそれこそ幻想ではなかろうかと思うのです。

                少なくとも、おーばにはそのように思えるのです。


                | おーば | 信念・信仰 | 23:38 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
                信仰
                0

                   信仰というものは、生命と生涯をかけるもの。

                  …という表現は一般には馴染まないことは100も承知。

                  しかし私にとってはそのようなものなのでしょう。
                  少なくとも、献身の決意はそういうもの。
                  こんなことを書けば、
                  未だにカルトにはまってマインドコントロールが解けていない
                  と思われるでしょうね。

                  信仰なんか余暇でやるもの。
                  生命生活があっての信仰。
                  信仰などは趣味の1ジャンルでしかない。

                  こういう考え方の方が現代に受け入れられる。

                  命がけの信仰なんて、
                  オウムやイスラム過激派のようで危なくてしようが無い。
                  危険思想にしか感じられない。
                  そう考える人も多いのでしょう。
                  特に信仰に触れたことの無い人には、
                  信仰なんて得体の知れない気持ちの悪いものでしかない。

                  神を知らなければ、命がけの信仰なんてできない。
                  神を知らない人からは、信仰なんて詐欺ペテンの延長でしかない。
                  宗教団体に所属したとしても、同じこと。
                  人間信仰していたら、人の報いしか受けられないことを知らなければいけない。
                  人の報いは必ずしもよいものとは限らない。
                  (いいものを報いてくださる方がいないわけではありませんが)
                  騙されたと言って恨みの世界に陥れられるかもしれない。


                  だけど全ての人が、信仰に生涯を捧げることはできないのでしょうね。

                  この大きな溝はどうやって埋められるのでしょうか?
                  メシアがいれば埋められるなんて単純なものではありません。
                  大きな悩みです。

                  …笑われそうだ…。

                  | おーば | 信念・信仰 | 13:54 | comments(7) | trackbacks(0) | - | - |
                  道の選択
                  0

                    み言的根拠、聖書的根拠を求める人が多いけれど、
                    実は私はみ言研究、聖書研究には大した興味は無いのです。

                    私の興味は地上天国実現にあります。

                    地上天国とは、
                    私にとって天国であるが、
                    共にあるあなたにとっても天国でなければいけない。
                    地上に生きる人間みな、何がしかの繋がりを持つものであれば、
                    万民にとっての天国社会が必要なのです。

                    だから天国行きのチケットにも興味はありません。

                    人は幸せになりたいと願って生きてきました。
                    聖書はそのことを記録しているし、
                    願い続けてきた人類最大のロングセラーです。
                    ここには共知が詰まっています。

                    人には多くの霊感が注がれてきました。

                    霊の問題は微妙ですが、
                    彼等は私達の友達です。
                    友なので、善意の友もあれば悪意の友もあります。
                    優れた友もあれば、どうしょうもない友もあります。

                    とにかく多くの声をきくべきです。
                    その中から共有できるもの、
                    一致できるものを探るのです。
                    探る主体は(自分自身)です。

                    理性的整合性がある意味では良心です。
                    調和点を見出す為には理性的であるべきです。
                    しかし、理性は情緒を無視してはいけないのです。
                    理性は情緒を尊重しなければいけません。
                    しかし、幼い情緒には配慮が必要です。
                    幼い情緒には成長を促さなければいけません。
                    しかし、踏みにじってはいけないのです。

                    人の成長の段階についての認識が必要です。
                    幼さは悪ではありません。
                    幼ければ導かなければいけません。
                    裁いてはいけません。

                    一人の人が全てを知ることはできません。
                    しかし、私だけが知る内容というのも
                    個々人に秘められているのです。
                    人類に必要な内容は誰かに与えられます。
                    その分野に於いて彼はアベルです。
                    その分野に於いては彼を立てて彼と一致することが成功の秘訣です。
                    そこに天の祝福があるでしょう。

                    しかし、その分野を越えて彼を祭り上げてはいけません。
                    それがアベルカインです。

                    アベルとしての責任も、カインとしての責任も
                    誰もが両方持っているのです。

                    変わったことを言っているとして闇雲に猜疑の目をむけてはいけません。
                    しかし、盲信してもいけないのです。

                    | おーば | 信念・信仰 | 11:27 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
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