サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
共同体の必要性
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    困りました。

    結局は表現が問題になります。

     

     

     

    人間は個人が単体で生きることができるようになっていません。
    ですから、人類歴史が始まって以来社会を作って生活してきました。
    もっとも、社会という概念を持ち始めたのは14世紀くらいからでしょうか。
    その様な概念を形成する以前から、人間は共同体という群れをつくって暮らしてきました。
    その共同体の中で生活を営み、文化を形成してきました。
    生活の中で様々な工夫を重ねて発見、発明を重ねて現代のような文明社会を築いたのです。

     

    しかし、巨大化した文明は共同体という単位を飲み込み、壊し、
    人間は個人という単位で生活できるものだと考えるようになったのです。
    個人で生きることが人間らしい自由であると考えています。

     

    共同体生活は個人の自由な権利を奪う古いシステムであると思い込んでいます。
    しかし、人間らしさというのは、群れで生きるという基本があるのです。
    人間の人間らしさはそのような古いと言われるシステムの中で培われたものです。
    共同体で生活するからこそ、文化の共有と伝承が可能でした。
    この中で教育が行われてきたのです。

     


    近年の交通・通信手段の発達は共同体の役目を終焉させるに足るものだったでしょうか?

     

    現代人の精神疾患の増加を見ると、人の心はおもいやりを受けなければ枯渇してしまう脆いものだということが分かります。
    ですから個人主義は、人間らしいシステムではないのです。
    そして、個人主義の後ろ盾となる“個人の自由な権利”というのは実は危険な発想なのです。

     

    この思想が現れた経緯についてはキリスト教会の圧政、専制君主制や全体主義による統制への反発です。
    富を独占しようとする力への反発です。
    問題なのは、独占したがる人間の欲望でしょう。

     

    現代社会においても、お金を集める才能に長けた一部の人たちが富を独占しようとします。
    彼等は「努力したことに対する当然の権利である」と主張しますが、それは努力もあるかもしれませんが策略的です。
    ただ黙々と畑を耕していても大きなお金を手に入れることはできません。
    会社でまじめに働いているだけでも、それほどいいポジションに出世することはできません。

    日常的な必要に足りる生産をこなすだけでは安定的な生活を送れるかどうかというのが現状ではないでしょうか?
    富を集めるという明確な意思を持ってそのように計画的に動かなければ結果はついてきません。

     

    具体的には目新しく価値があるように見えるものを提示する能力です。
    新しいスタイル、新しい技術、新たな脅威から身を護るすべなどは脅威自体を発掘して見せます。
    その価値の創出に多大な貢献をしているのがマスメディアですので、正しく見聞きする力を養わなければなりません。
    マスメディアの表現で、“一般人”というのを耳にしますが、一般でない人は“公人(政治家・官僚など公職にある人)”と“芸能人”です。
    最近はプロスポーツ選手も一般人ではなさそうです。
    ほとんど特権階級みたいですね。

     

    そこにも特殊な価値感を作っています。
    特別であることも富を生み出すアイテムになります。
    結果、新たな現代版の“豪族”社会が出現しています。
    これはマズローの言った“自己実現欲求”によるものでしょう。
    自己実現の欲求は、共同体の中で思いやられる関係性の喪失感を埋めるためのものかもしれません。
    共同体で尊敬を集める立場に立てば、同時に受け持つ責任と相まって、人生は充実したものになるでしょう。

     


    マルクスが感じた疎外感もまた、
    産業革命後の工場労働において失われた尊敬と
    資本家たちが謳歌する自己実現から疎外された立場であって、
    それを人間性の疎外と呼んだと思えます。
    しかし、取り戻すべきは労働資本ではなく共同体であるとはマルクスは考えませんでした。
    マルクスにとっては共同体もまた、怨み多き存在でした。
    共同体における民族差別、宗教差別が彼を苦しめたからです。

     


    共同体を求めなければなりませんが、共同体に潜む問題点も私たちは知らなければなりません。

     

     

    共同体は偏見を持ちやすい?
    共同体は閉鎖的?
    個人と共同体の関係は?
    共同体の規模等々。。。

     

     

    | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 00:39 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
    教育・法・経済
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      人間の人間らしいシステムとして、法と貨幣経済に触れましたが、もう一つ重要な要素があります。
      それは教育です。

       

      「人間は人間として生まれるのではなく人間になるのだ」という言葉を聞いたことがないだろうか?
      オオカミに育てられた赤ん坊が、オオカミとして暮らし、人間社会に戻されても人間らしい生活をすることができなかったという実話があります。
      そのことを研究した人物の言葉だったと思うのですが、検索してもそれらしきが見つかりませんでした。
      代わりに面白いサイトを見つけたのでリンクを貼っておきます。

      http://essay-hyoron.com/essay6.html
      良く知らない人ですが、生物が専門だと書いてありました。
      ここで引用されているのが先のオオカミ少年の話です。
      (二つ目の見出しの下。長いけれど全文読んでも面白いと思えます。)

       

      人間は教育を通じて文化文明を継承しています。
      これも他の動物にはできないことです。
      人間は教育によってその人格形成に大いに影響を受けます。
      これは特殊なことです。
      群れをつくって生活する動物には、親から子供へ狩りの手法継承くらいはありますが、それは生活に密着した内容に限られます。
      オオカミ少年も、生活面における教育を、オオカミから受けたからオオカミらしい生活ができるようになったのです。
      しかし、托卵で有名なカッコウのヒナは育ててくれたオオヨシキリの習慣は学ばず、カッコウとしてまた托卵するのです。
      オオヨシキリの習性を学べば、カッコウも自分で卵をかえすでしょう。

       

      オオカミの赤ん坊を人間が育ててもオオカミはオオカミです。
      チンパンジーの赤ん坊は人間臭くなりますが、それでも人間のような生活は厳しいでしょう?

       


      人間は、人間としての教育を受け、成人しても人格を磨くべく文化的な活動を持ちます。
      人間は、個体で生活をすることはできません。集団で生活するために法律をもって秩序を維持します。
      人間は、生活物資やそのほかの価値を得るために、貨幣を用いて交換するシステムを持ちます。

       

      5月27日付の記事で人間とサルを分けるものとして幾つか挙げました。
       二足歩行、火の使用 、道具の使用(科学の原型?)、言葉の使用、祭祀。
      上の三点はこれらの土台の上に築いた社会システムと言えるでしょう。
      このシステムは、どんなに教育してもチンパンジーには不可能です。

       

      第一に、人格形成がなされ、
      第二に、一人前の人格をもった人たちの合意によって秩序だった法整備がなされ、
      第三に、法に則った流通経済が営まれることが順当な流れ
      であろうと感じます。

       

      現在の日本では、一番目の人格形成のための教育がとても脆弱であると感じます。
      戦前には、教育勅語によって人格形成の目標が掲げられていましたが、これは人間の自由と尊厳を奪うとでも言わんばかりに否定されています。
      教育勅語は賛否両論ではありますが、否定する声によって、自由と個性ばかりが重要視されて肝心の人格形成の目標を打ち出すこと自体をやめてしまったのです。

      人間らしさである教育が否定され、代わって経済的繁栄を求めるための教育ばかりが注目されています。

       

      個性と自由を重要視することで、共同体運営に支障が生まれ、地方のコミュニティは壊滅状態です。
      教育と法が破綻している状況で、経済が暴走しているのが現状なのでしょう。

       

      共産主義が注目したのは三番目の経済システムとそのシステムを維持するための法です。
      共同体を秩序的に運営する法と人格形成についてはすっかり抜け落ちています。

       


      (お気づきかと思いますが、この三点は三大祝福に相当しています。)

       

      | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 00:53 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      法というもの
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        罰を受けようが構わないから法など関係がないとする人。
        法に対する姿勢として、罰を恐れるからばれないようにすることを第一義とする人。
        罰を恐れるからこそ厳密に守ろうとする人。
        法による罰と共に、他人からの評価基準が低くなることを恐れて法を守る人。
        法を秩序として受け入れて守る人。

         

        大きくは、恐れない人と、恐れる人と、尊重する人なのでしょうね。

         

        恐れて守るのは人間でなくてもできます。
        人が決めたルールに従わせるために飼いならされた動物はルールを守ります。
        また、人からのご褒美をもらうためにルールを覚える動物もあります。
        これは人と動物の信頼関係や愛情関係によるのだと言う人もいるでしょうが、
        そのうえでのご褒美で意思疎通を図っているとも言えるかもしれません。

         

        だったら法の秩序を尊重する姿勢だって秩序と言うご褒美を望むことにも見えますね。
        でも、それは法がもたらす直接的な結果であり、だからこそ人は法を考えることができるのでしょう。
        動物には、法そのものの意味を見出すことはできません。

         

         

         

        人間であっても、幼い子供は法を理解しません。
        理解しない段階から、叱られるから恐れて守る段階に入るか、
        叱られずとも親子や師弟の信頼関係から法の意味は分からずとも守る段階ということも考えられます。
        それらを経て、意味が分かるようになれば尊重して守る段階に移行できます。

         

        つまり、ステップとして理解して尊重するのが法に対する成熟した対応と言えるでしょう。

         

         

         


        では、何故法に対する姿勢は人によって差ができてしまうのでしょうか?

         

        それは守れない人間が粗暴なのだと切り捨ててしまう人も少なくはありません。
        そうなのでしょうか?
        それでは希望がありません。

         

        単に法に対する意識が未成熟であるととらえるべきでしょう。
        この意識は、単純に年齢を重ねれば育つというものでもありません。
        法の意味と法によってもたらされる恩恵を理解することが必要です。
        法は人と人との関係を規定してゆくので、人間関係の成熟と密接に関係します。
        人間関係構築のためにも、人は教育を受ける必要があるのです。

         

         

         

        しかし、法そのものの不完全さにも問題があります。
        不公平感を持つ法も少なくはありませんし、
        地域の文化に相容れないこともあるかと思います。
        法を制定する人が、法の対象となる人たちを十分に理解していないこともあります。
        また、意図的な利益誘導のためにねじ曲がった法が作られることさえあります。
        そのような場合には、法に対する信頼が築けないため、尊重して守ることはできません。

         

        現在の日本では、マスコミの報道などでこの法の歪み部分が取りざたされるため、
        相乗効果として法に対する不信感が募っており、疑心暗鬼の不安定な事態と言えます。

         


        正しい法整備ができれば、法に対する信頼がまし、法を尊重する人も多くなると考えられます。
        正しい法を整備するためにはいったいどうすればいいでしょうか?

         


        日本では、立法府としての国会があります。
        国会は選挙で国民に投票された議員が議論して法律を制定します。
        法整備するところと予算審議するところが同じ機関なところに問題があるのかなと、今書いていて思いました。
        国会の主だった仕事は法整備よりも予算審議になっていますね。
        予算を付けるための法というのもあるので、現実の法は非常にややこしくなっています。
        お金の問題は生臭く、不正を呼び込みやすいものなので、強い不信を買う要素になっています。
        簡単じゃありませんが切り離すことを考え得るべきでしょう。

         

        ちなみに、お金というシステムを使うのも、人間独自の行動です。
        しかし、お金を使うことに対しては、そこには非人間的印象を持つ人が少なくありません。
        金の亡者などと言えば人間性を疑われるし、利益最優先の企業経営は労働者からの反感を受けます。
        人間独自のシステムが人間らしさから遠ざけるシステムになっているのでしょうか?矛盾しています。

         


        法は調和に向かい、貨幣は対立・闘争に向かう性質を感じます。
        貨幣そのものは交流するものなのですが、そこに乗せられる目的が、自己の利益追及に向かいやすいからです。
        マルクスは資本主義が人間性を阻害すると主張しましたが、もう一段手前の貨幣経済についてまで、考えてみるべきでしょう。
        社会主義国家でも、貨幣経済システムは採用され続け、賄賂・汚職に大いに利用されています。

         

        | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 17:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        人間らしさ…法という独自のシステム
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          人間らしくあると言っても、
          人間はどうしたって種の始まったころから自分勝手であり、相争う存在なのだ。
          だからこそ、マルクスは闘争によって社会が発展するとまで言ったのです。
          それもまた、“人間の姿”。
          だから法律が必要になり、賞罰をもって社会をコントロールする必要がある。

           

          群棲する動物の中には掟のようなものが発生しますが、彼等の掟と人間の法は同じでしょうか?
          群れの序列は力関係での服従と考えられるでしょう。
          同族のけんかで殺し合いは、しないというのは何だろうか?
          群れを維持するための本能でしょうか?
          動物は本能の中に自然の摂理とも言えそうな秩序を守る性質を持っているのかもしれませんね。
          だとすると親子で殺し合う事さえある人間は法を守ることも犯すことも可能な奇妙な性質を持っていることになります。

           

          親子殺しもあれば地球を思いやる心もある...人間らしさとは果たして定義可能なのかと恐ろしくなってきます。
          人間の内部には必ずしも秩序的な性質がないので、外部に従うべき“法”を設けなければならないようです。

           


          “法”というのは元々宗教用語です。
          日本語での“法”は仏教用語から来ていますし、英語で“law”と言えば聖書の十戒から来るものです。
          宗教の世界でも、法をもって人々の争いを調停し、残忍な殺戮を避けようとしてきました。
          人間とは、宗教からは切り離せない存在であり、宗教性を持つが故に共同体を築き上げてきたとも考えられます。
          なのですが、この宗教が争いの原因になっていることも否定できない現実です。
          ミッターマイヤーさんのコメントの通りです。
          同時に宗教は、権力に利用されてきた歴史も持っています。

           

           

           

          だから宗教から離れて神様とは関係がない人間の理性によるシステムを創りたがっているのが無神論者たち。
          しかし、理性によって正しさを追求できるという考え方は、14世紀のルネッサンス後の“啓蒙思想”から来ているもので、一つの思想に過ぎません。
          16世紀頃には、理性の出どころも神様だったようですが、現代では理性の根拠は科学的であることのようです。
          科学もまた、16世紀頃から発達が目覚ましいのですが、当初は神様の創造の業の美しさ偉大さをたたえようとする動きでしたが、
          20世紀にはその神様は忘れ去られたようです。
          「神様に祈らなくても、科学的な手続きを踏めば望みはかなう。」と考えるようになったからなのでしょう。

          病気の原因は悪霊ではないし、天変地異も神の怒りなんかじゃなくて、それなりの“理屈”があってのこと。

           

          迷信からは離れて合理的に社会運営をして“豊かな暮らし”を実現しましょうと、考えるわけですが、
          この“豊かな暮らし”が曲者なのです。
          これも“良い”ものと同じで客観的な絶対性がありません。
          何が豊かなことが暮らしの豊かさでしょうか?

           


          人はそれぞれの価値観を持って暮らすことが現代的な自由の定義ではありませんか?
          価値観を他人から押し付けられることは現代的な人権の思想に反します。
          個人は思想信条の自由を保障されなければなりません。
          そうすると、豊かさの定義は個々人によってバラバラにならざるを得ません。

           

           

           


          物事の判断を他人任せにしていませんか?

           

          ビートたけしが言いました。
          「赤信号、みんなで渡れば怖くない。」

           

          「皆がやっているんだから自分もやって大丈夫。」という発想です。
          ルール破りを推奨するような発言ですね。
          そしてもう一つ、「怖くない」とか、「大丈夫」という考え方に問題があります。
          考え方の根底に、「自分だけは」という思いがあるのです。
          ルール違反をしても、みんなと一緒ならひどい罰を受けることはないだろうとか、
          ルール通りではないけれど、大勢が一緒なら、反対側の車は道を譲るはずだとか、
          そういう考え方、相手のことを考えない保身の考えですね。

           

          この迷言のおかげで、日本人のマナーはずいぶんと落ち込んだ気がします。

           


          相手に配慮できないのは人間的な行動ではありません。
          人間相手に配慮できない人が環境相手に配慮できますか?

          最近では、忖度(そんたく)とか、慮る(おもんばかる)とかいう配慮が変だという報道が話題ですが、
          自分が優遇されたいとか、利益を得たいとかいう動機で強者に配慮する考え方とは全く違います。
          長上への尊敬と配慮は必要なことですが、それはその人たちが全体への配慮と責任を持っていることを前提としたものです。
          そして、同等の立場、或は弱者に対する配慮は、人間らしく生きるには必要不可欠な配慮です。

           

          価値判断を放棄してはいけません。
          それは自らの幸福に背を向けることです。

           


          “法”の中には配慮すべき最低限度のことが書かれています。
          赤信号を渡ってはいけないというのは道路交通法に書かれていると思います。
          だからと言って、私自身信号無視をしたことがないわけではありません。
          人もいないし車も来ない、ただ目の前の信号が赤だという場合には、自分自身で確認の上無視するケースは多々あります。
          その場合は自己責任による判断です。
          車が来ないからと言って、隣で小さな子供が信号を守っていたらその子供を尊重して信号を守ります。
          判断力が十分ではない子供は、信号を守ることで身の安全を確保するのですから、判断を誤らせるような行動はいけません。
          近くにお巡りさんがいた場合にも、彼の職務を尊重して信号を守ります。

           


          “法”は国や地域によって違います。
          国や地域の法は、人が制定するものなので間違いがまぎれる可能性は大きいです。
          宗教の法は宗教が変われば変わりますし、法自体が難解で、どうにでも解釈できるようなこともあります。
          特定の団体ごとに定められた規則も広い意味では“法”と言えるでしょう。
          どの法にも言えることは、ある程度の成員の合意の上にあるというところでしょうか。
          (神託だとか言っても、それを神託と認めるのは人間です。)

           


          法は裁きを持って、ある程度の秩序を生み出すことに成功しています。
          しかし世に完璧な法は存在し得ず、グループごとに異なる法がグループの対立を呼んでいる部分もあります。
          近代法の多くは宗教色をそぎ落として合理的に判断できる方向へと向かっていますが
          この合理的判断というのも価値観の表れ方の一つに過ぎず、人々の完全な合意を得られるものではありません。

           

          時として、“超法規的措置”などというのが世間から歓迎されることもあるのです。

           


          法を中心に考えてみる時、人には様々な段階が見えてきます。

           

          罰を恐れず、ばれなければ自分の思うとおりにしていいと考える人。
          罰が怖いので法に厳密に従おうとする人。
          法の文言に捕らわれるのではなく、その精神に則って行動する人。

           

          一様ではありません。

           

           

          | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 22:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          人間らしく生きるとは?
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            人間らしさを何に求めたらいいでしょうか?

             

            現代的な人間らしさのの主張は、過去に道具や家畜のように扱われたことからの解放として、
            野生動物並みの自由を主張しているにすぎません。
            自己中心であったり、自己中心でないにしてもすぐ身の回りの仲間くらいにしか気遣いをもたない。
            それで良しとしています。

             

            人間らしいのではなく、動物らしいのです。

             

             

             

            昔、『万物の霊長』という表現をよく耳にしました。
            最近はあまり聞きません。
            高度成長期からバブル期まで、いわゆる景気のいい時代にはよく使われていたと思います。

             

            最近では、万物の霊長なんておこがましいという感じでしょうか?
            自然の摂理からはみ出した狂った人類という表現の方が受け入れられやすいでしょう。

             

            公害問題など、環境破壊が言われ始めた頃から『狂った種』としての人類という認識が表れ始めました。
            しかし、景気のいいころには、科学の発達によって環境問題は解決されると楽観していたのです。

             

            特定の種が環境の許容範囲を超えて爆発的に増加すればどうなるのか?
            食料の不足、適応環境の不足により個体数の減少を余儀なくされます。
            その方法としては繁殖力の低下、環境変化への不適応による死滅などでしょうか?
            先進諸国での出生率低下はもしかすると個体数削減の本能的な反応なのでしょうか?
            出生率の上昇ピークは過ぎ去ったものの、増加傾向であることには変わりはなく、
            この200年くらいで世界人口は4倍くらいになっているようです。
            (Wikipediaによると、2011年に推計で70億人。2056年に100億人に達する見込み。)

             


            動物らしい人間ならば、環境による淘汰に運命をゆだねることになるでしょう。
            狂った種は環境に適応しないでしょうから滅びるしかありません。
            種だけが滅びるのか、母なる地球ごと滅びるのか。
            (…人類が住めない環境になったからと言って新たな適応種が現れないとも限りませんから、人類の住めない環境=地球の滅亡とは言い切れない)

             

            しかし、人類は動物とは違い、種の増殖だけを目的とはしていません。
            地球環境をおもいやる心を持っています。
            これは他の動物には見られない、人間だけの性質です。

             

            人間らしい人間とは、家族を思い、社会を思い、世界を思い、地球まで思うことができる存在です。
            実際に思いを向けて心配している人たちが少なからず存在しています。
            思ったからと言って必ずしも調和できませんが、思うことなくして始まりません。
            思いを持てるというのは、可能性があることを示しています。

             


            万物の霊長であるなどということを「傲慢な発言」と考えて滅びの道に向かうのか?
            万物の霊長として環境に責任を負って調和の道を探るのか?

             

            私は後者の生き方をしたい。
            自分で何ができるのかという問題もあるけれど、少なくとも、そういう道を探る流れに加担できる者でありたい。
            そうすることによってなすべき道を見出せるものなのです。

             

            万物の霊長として責任を果たす生き方と、人類を見切って責任を果たさない生き方が、
            それぞれどのようなものなのかを考えなければいけません。

             

            | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 20:25 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
            人間らしさを追求しましょう
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              共産主義思想は、資本主義社会では人間性が阻害されていると訴えています。
              だからと言って、共産主義や社会主義の社会で人間性が生かされた生活ができるかと言うとそうではありません。
              この問題を解決するためには、『人間らしさ』とはいかなることかを明確にしなければなりません。
              『自由』も一つの人間らしさの表出ですが、これは人間らしさというよりは生き物らしさと考えられます。
              人はよく、「鳥のように自由になりたい」などと表現します。
              本質的に『人間らしさ』を明確にした上で、それを実現する社会の在り方を見いだす必要があります。

               

              共産主義思想は、世界は対立抗争をしながら発展してゆくと考えます。
              争いがなければ発展しないと言うのです。
              争いが、論争だけで済むのならばまだいいのですが、進化論に倣って、相手を淘汰する必要性まで説きます。
              共産主義には平和があり得ません。
              停滞や退化の中にしか平和はありえないことになります。
              議論することだけで争いを止めることを考えなければなりません。
              もっと言えば、争わずに発展する思想があった方がいいに決まっています。

               

               

              資本主義は個人的な欲求を追求することを自由の権利として貴びます。
              しかし、これは過度な競争社会を生み出し、貧富の格差を容認します。
              ここに共産主義的な闘争の概念が入り込みます。

               

              また、資本主義は『商品価値』として新しいものを追求するものですから、
              成熟することが軽視されています。
              技術もデザインも思想も、新しいものがもてはやされて成熟することがおろそかにされています。
              新しいものを受け入れる能力は若いうちの方が柔軟ですので、人材としても若者がもてはやされ、
              若さばかりか幼さまでが商品化されています。
              人は成熟することを毛嫌いしているかのように見えます。
              幼さとは、新しいものを吸収する力でもありますが、

              これは古いものを知らないから新しいものが入るのであって、
              理解力の容量を満たしてしまえばさらに新しいものは入りにくくなるものです。

              そして新しいものを追求しようとする傾向は世代間ギャップの拡大に通じています。
              コミュニティ崩壊の要因ともなっているのです。
              同世代だけでコミュニティを構成すればいいのでしょうか?
              同世代で構成された地域はかつて『ニュータウン』と呼ばれましたが、最近では都市近郊部で『限界集落』として問題になっています。
              人間を使い捨てにするような社会になりつつあるのです。

               

               

              つまり、共産主義でも資本主義でも、平和な社会は実現できないことが分かります。
              人間は、平和を嫌う存在なのでしょうか?
              必ずしもそうではありません。
              争うことなく幸福を追求したいと願う人たちは大勢いるのです。
              争わない自由を追求する権利を私たち人類は持ちえないでしょうか?

               

               

               

               

              人は幸福感を心で感じます。
              ですから理論理屈で幸福の条件を物質的に整えても必ず幸福になれるものではありません。
              幸福な心の在り方、真の人間性とは何か、それを実現する社会とはどのようにあるべきかが課題になります。
              その理想像を提示して実現することが勝共運動の真髄となるべきでしょう。
              そして、その理論は勝ち負けを問うような『勝共』ではなく、争いを好まない『頭翼』でなければなりません。
              争いに向かうことは弁証法の実践となり共産主義思想に向かうことになります。

               

               

               


              何故弁証法はもてはやされるのでしょうか?
              弁証法は真理なのでしょうか?

               

              これは人の思考方法に関連すると考えます。

              二つ以上の事柄を区別するときに、どのように区別をするかと言うと、
              それぞれの間に何らかの違いを見いだして区別します。
              二者がそっくり同じものであれば、そこに区別は存在せず、単に二つのものがあってどちらを取っても同じことになります。
              存在それぞれに個性があって違うものと認識できるとき、人は自分の目的により叶うものを選び取ろうとします。
              そこには“More”の欲求が働きます。
              欲求は満たされれば喜びになりますから、人は世界が均質であるよりも、選択する喜びがある多様性を好みます。
              “差”があることはとても大切なことだと先ず認識して下さい。

               

              “差”があれば誰もが“良い”方をほしいと思う。
              これは当たり前の心理だと誰しもが考えるでしょう。
              “差”を明確化して、どちらが“良い”かを問うのが弁証法だと言えます。
              差がなければどっちでもいいんです。
              良いものを選ぶことに人が喜びを感じるかぎり、弁証法は喜んで受け入れられます。

               

              そうすると、喜びを得るための当たり前の心理であれば、弁証法は『真理』と認定してよいでしょうか。

               


              問題は“良い”という価値観にあります。
              良し悪しは、人の好みや目的によって適合するかしないかで決定するものでしょう。
              そこには主観的な絶対性があったとしても、客観的な絶対性は存在せず、

              真理としての普遍性を追求出来ないのです。

               

              唯物弁証法では、『適者生存』というダーウィニズムが適用されます。
              これは環境を主体と考えて、そこに適しているか否かということです。
              環境が変われば結果が変わるので、相対的な価値しか見出すことはできないでしょう。
              普遍性を見出すことはできません。

               

               

               

              私が商品を選び取るとき、比較して良いと感じるものを選び取ります。
              複数の人が同じものを選べば喧嘩が起こるかもしれません。
              喧嘩を始める前に、それを求める人たちの中で誰が最もそれを必要としているかを考える余地があれば喧嘩にはならずに済むでしょう。


              また、代用品や共同使用などの代案も出し得るかもしれません。

               

              同じ環境の中で、どちらか一方しか生きることができないと言われれば、
              それは相手を殺してでも自分が残ろうとするかもしれません。
              しかし、その前に共存の道を探ることの方が平和的です。

               

              人間にはその様な調和的な解決を見出す叡智が備わっているものかと思いますが幻想でしたか?

               


              キリスト教会の重圧から解放され、自由と平等な権利とを得た人々には、
              自分の欲求を他者のために犠牲にする義務はありません。
              自由に権利の行使を競って行えばよいのです。

               

              ...と、考えるから世界から争いは消えません。
              そして、自らの優位性を示すために更に差異を持ち出し、強調して争うのですから争いは複雑化の一途をたどります。

               

              喧嘩すること、生存のための殺し合いをすることと、
              話し合って相手の立場まで考えて知恵を出し合うことと、
              果たしてどちらが“人間的”な行動でしょうか?
              どちらが人間的かと問うことより、
              前者は滅亡へのアクションであり、後者は繁栄へのアクションであることを理解すべでしょう。

               

               

               

              欲求と調和は共存し得ないことでしょうか?
              少なくとも共産主義においては、適者生存の理論故に、平和共存はあり得ません。
              共産主義思想は、自分は搾取された被害者であるという立場をとります。
              適者生存を唱えつつも、何に適応するのかは考えていません。
              自分の都合だけです。

               

              私たちは人智を持って平和を希求しながらも、暴力的な隣人に油断ができないという難しい立場にいます。

              | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 18:15 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
              共産主義者の問題提起に答えを出さなければならない
              0

                よく見に行くブログに『言語学の嘘』というのがあって、記憶と言語の関係を科学しようと試みているのだけれど、
                そこにコメントする人が「『アカデミズム』に通じなければ科学とは言えない」と主張しているのです。
                そんなものだろうかと読んでいくと、やはり疑問が生じます。
                要は公に公認されたものこそが科学的なのだというだけで、自らの感性・判断力を放棄しているに過ぎない。
                “公”と言えば聞こえはいいが、その実“権威”的裏付けにすぎず、“権威主義”なだけなのです。

                 

                そもそも、アカデミー(学会)と言うのはギリシャ時代にプラトンが立てた私塾に源を発し、
                ルネッサンスで再注目を浴びた事柄です。
                ここにも居たのかルネサンスの亡霊!と言う感じ。

                 

                現代社会の文明は、このルネッサンスの芸術・科学・哲学の発展に端を発して発展しているため、
                誰もこれを悪く言う人はいません。
                統一教会ではルネッサンスをカイン型、宗教改革をアベル型の思想として講義していたと思いますが、
                修練界の講義以外ではほぼ、聞いたことのない話ですね。
                それがどういう意味でどのような顛末を迎えたかについては何か語られていたでしょうか?
                知ってる人がいらしたら教えてください。

                 


                さて、ルネッサンスに始まるヒューマニズムは、個人主義と過度な合理主義・科学妄信に人類を導き、
                ヒューマニズム(人間主義)というよりは、あまりにも動物的な価値観に終始するゆえアニマリズムとでも呼びたくなるような現状です。
                恐ろしいことに人間性については誰も疑問を持っていないように見えます。

                 

                しかし、個人個人がそれぞれの欲求を追求し、自らの才覚を競うことも、実は必要な事でもあります。
                これは、人間としての個性を磨き、自分自身の可能性と限界を理解し、互いの才能を認めて助け合うための訓練として通過すべき時間です。
                通過して次のステップに進まなければならないのですが、この時間が全てであり、ここでの勝敗が全てであると思い込んでいるところに問題があります。

                 

                次のステップが何であるかと言うと『共生』です。
                『共産』主義は共産すること(共に働くこと)が人間性のステップアップだと主張していたのですが、
                働くこと、生産することは生きることの一部分に過ぎません。
                だから過ちとなり数多の悲劇を生んでいます。

                 

                 

                 

                さて、資本主義と共産主義はよく似たところがありますが、それは何でしょう?

                 

                唯物的な価値観です。

                 

                マルクスは労働の結果として得られた商品が人倫を向上へと導くと短絡的にすり替えています。
                正確には、商品を交換する過程において、消費者からの尊敬を受ける人間同士の交流によって人倫の向上が見られますが、
                この交流を省いて商品から受ける恩恵であるかのように人倫の向上即ち人間としての価値を想定しています。
                人間の価値=生産物から来るものになってしまったため、全てが物に帰することとなったのです。

                 

                一方、資本主義社会では、個人は消費者の側面と労働力の側面を持ち、
                労働力としての個人は生産過程におけるコストとみなされます。
                消費者もまた、消費活動をするから経済社会に現れるのであり、消費能力がなければ存在していないのと同じことになります。
                裕福な消費者の立場に立って初めて個人は欲求の追求が可能になります。
                福祉に目を向けるようになった現在でも、支払い能力のない貧困層については福祉対象であり社会的コストでしかありません。

                 

                どちらにとっても物でしかないのです。
                そもそも資本主義では、価値の計算は貨幣(=物)によって換算されるものでしかありません。

                 


                共産革命がもたらした悲劇だけをあげつらって「共産主義は間違いだ」と叫んでみても、
                共産主義者の問題提起には何も答えていません。
                代案は出されていません。
                つまり私たちは唯物弁証法と疎外論に対する代案を示すことを通して、
                資本主義社会の問題を解決する『頭翼思想』を持たなければなりません。

                 

                それだから、立ち位置がちょっと不思議なことになります。
                資本主義社会を批判するうえでは、共産主義と共闘することにもなるかもしれません。
                それでも共産主義の悪魔性である唯物論にはきちんと対応できなければなりません。
                そして資本主義からも卒業できなければなりません。
                ややこしいのです。

                 

                普通に勝共を唱えても、資本主義克服までは意識されません。
                そして私たちはともすると、資本主義の中で勝ち残ることを目標としがちです。

                 

                 

                克服するための基本がホームチャーチと八定式ですが、

                一般に応用しやすいように極力原理用語は排除して哲学や心理学の用語を用いて展開していこうかと思います。

                 

                暫くはこのテーマですね。

                | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 20:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                科学と宗教について前記事の補足
                0

                  人間の人間らしさを文化生活に求めることは短絡的だろうか?

                   

                  文化文明を築く要因が科学だったかというとそうでもない。
                  アグリカルチャー(agriculture)とは農業を指しますが、ここにしっかりカルチャーが入っています。
                  農耕が先に在って文化が出てくる。
                  農耕が意味するのは科学だろうか、生活だろうか?
                  農耕は定住生活をもたらした。
                  農耕は自然観察をする中から栽培技術を見いだしたからこそ始まったであろうから正しく科学ではないか?
                  農耕は生理的欲求にこたえる形で生まれたのではないか?
                  農耕の始まりに、インスピレーションは働かなかったか?
                  科学にはインスピレーションがつきもので、インスピレーションは啓示の一種とも捉えられる。
                  これはインスピレーションを受けた人間の主観。
                  科学はインスピレーションをどう捉えているのだろう。
                  農耕の始まりには必ず豊穣を祈願したり、感謝する祭礼がつきものであった。

                   


                  ...分けて考えることが間違いだという事ですね。
                  科学も生活も祭祀もすべて文化です。

                   

                  だから科学と合理主義一辺倒はまずいし、逆に全部否定することも間違ってる。
                  定住と共同体は外さなくていいでしょう。
                  ???遊牧民族も文化を持っているぞ???
                  牧畜も生産活動だから問題ないか。
                  定住は必須条件ではないが、共同体は必須かな。
                  サルでも共同体は築きます。

                   

                   

                  人間とサルを分けるもの。
                  二足歩行
                  火の使用
                  道具の使用(科学の原型?)
                  言葉の使用
                  祭祀

                   

                   

                  サルから人間へのプロセス

                  共同体(生活)

                  インスピレーション(宗教性・聖書的には吹き込まれた息かもしれない)

                  生産活動(科学)

                  文化

                   

                  かな?

                   

                  生活の土台の上にインスピレーションがあり、
                  インスピレーションから科学が生じて
                  生活・宗教・技術をひっくるめた「文化」が生じる。

                   

                   


                  インスピレーションと科学の関係が脆弱かな?
                  だけど、どう考えても一人の発見や思い付きからしか始まりようがないと感じるのです。
                  発見や思い付きを偶然と捉えるのか必然と捉えるのかが分かれ目。
                  観察を始めるにしても、何を観察するかは思い付きからしか始まりようがない。

                  | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 16:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  合理主義による文化の軽視
                  0

                    現代的な価値観がどんな風なのかと考えると、

                     

                    科学万能の合理主義であり、
                    科学の発展は人類に多大な幸福をもたらすはず。
                    人類は体の構造を見ても血筋や民族などで大きな差があるわけではないから皆平等。
                    だから自分以外の誰かから指図されることなく、個人は自由を謳歌すべき。
                    力学的にも生物学的にも、強いものが勝つことが当然。
                    だから努力して力をつけて競争して勝利者になることは誇らしい事です。
                    これらのことは妨げられてはならない。

                     

                    ...と、こんな感じでしょうか?

                     

                    だけどふと気が付けば、
                    科学技術の発展は地球環境を破壊している。
                    競争社会では陰で弱者が困窮していて、その人たちは反旗を翻してテロリスト化している。
                    先進諸国では少子高齢化が進み発展に陰りが見え始めた。

                     

                    それでも、科学と合理的な人間の英知はこの危機を乗り越えることができると信じています。
                    古いものは劣ったものだと考える癖がついていますから、振り返ることはできなくなっているかもしれません。

                     

                     

                    科学的であることの始まりは自然に学ぶことです。
                    自然がこのようになっているから、こんな風に工夫すれば便利に使えるというのが科学技術。

                     

                    「便利だよ」っていうところには人間らしさが表れますが、そもそもの自然科学には人間の人間たる要素が入り込む余地はありません。
                    解剖学で人体のことを知っても、そこに超越的な差はなく、体組織のちょっとしたバランスの違いを見いだすだけなのです。
                    もちろん、自然の美しい調和から学ぶべきことは多々ありますが、人間の人間たる要素はそこにないのです。
                    便利の基準も、マズローで言うところの『生理的欲求』と『安全の欲求』あるいは『低いレベルでの承認の欲求』までに寄与する便利さと感じられます。
                    『人間は道具を使うサル』といわれて反論のしようがありません。

                     

                    でも、人はサル扱いされれば怒ります。
                    「私は道具を使いこなせる」から、怒るのでしょうか?
                    そういう人もいるかもしれませんが、それだけではありません。

                     

                    人は文化社会の一員であることを誇ります。
                    文化については地域により様々ですが、それぞれ「お国自慢」が好きです。
                    優劣を競って喧嘩してもいけませんが、喧嘩するほど地元を愛している人たちもいます。
                    サルがそれをするのか?群れや故郷を恋しがる様子はあるかもしれないですね。
                    でも、誇るまではしていると思えません。
                    だけど人間は、途上国の小さな部落出身の人であっても、自分たちの文化を愛し、誇ります。

                     

                    文化というのも、道具や科学によるものなのでしょうか?
                    新しい道具によってそれを利用した文化は生まれますが、文化の中心は道具ではなく人です。

                     


                    人間の人間らしさをどこに求めるのか?
                    ヘーゲルは生産活動にそれを見いだしました。
                    これは、生産活動そのものではなく、生産活動を通じて生まれる人間関係の中に、人倫がはぐくまれるとするものです。
                    共産主義ではここを飛躍させて労働その物を人間らしさにしてしまいました。

                     

                    人間の人間らしさを考える点では、実は共産主義の方が上を行っているのです。
                    これは認めなければならないことです。
                    認めたうえで対処を考えなければ太刀打ちができなくなります。

                     

                    彼等は自由主義社会のこれらの弱点を突いて多方面から抗議運動を展開しています。
                    弱者救済を叫ぶ人たち、環境保全を叫ぶ人たちがそれにあたります。
                    だから未だなお、共産主義へ向かう人たちは後を絶ちません。
                    取り上げる問題は放っておいていい問題ではないのですが、
                    対立をあおり、結論がおかしな方に向かってしまうので共産主義に進むことはお勧めしません。

                     


                    人間が人間らしくある文化とは、生産活動のみによるのではありません。
                    生産することはサルなどの動物にはできない行為なので、彼はここに注目したのでしょうか。
                    生産活動も勿論重要な要素ですが、文化とは、人生の全般にわたるものです。
                    結婚、出産、教育、生産、消費、老い、病、死に至るまで、文化活動の一環です。
                    遊びが文化を作ったなどというコマーシャル(パチンコ)もありましたから、遊びも忘れてはいけない要素なのでしょう。

                     

                    つまり、生活・人生をかけて喜び(=欲求)を追求しているのが人間の文化です。
                    欲求と言ってもマズローが分析した低次元の欲求ではなく、更に高次元の欲求に至らなければ、
                    真に人間らしい恒久的平和社会は築くことができないでしょう。
                    高次元の欲求というのは、強欲とは異なり、自己超越的な欲求を指します。
                    ニーチェの超人もこれに当たるのかもしれませんが、この人間像は明確になっておらず、共感を得ているものでもありません。

                     

                    文化は共同体の中に育まれ、
                    決して合理的なものにはなり得ず、
                    新しいものも取り入れる懐を持ちつつも、伝統的なものです。

                     


                    現代的な価値観は個人主義を推奨するので、昨今は、この共同体が壊れています。
                    昔からの共同体にも問題がなかったわけではないので致し方ない部分もありますが、
                    人間らしく生きるためには必要不可欠なものであれば、復興あるいは創設しなければならないものです。

                     

                    共同体と自由の関係、共同体と競争の関係などについても考えていかなければなりません。

                     

                     

                    | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 15:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    現代的な価値観の問題-新しいという価値をもてはやす
                    0

                      これは統一原理の中でもこの傾向が見られます。
                      「新しいものにならなければならない」
                      そんな意識をみんな持っているように思います。
                      聖書は古いから新しい原理へ移行しないといけないとか、
                      原理講論はもう古いから、新しいみ言葉を読まなきゃいけないとか。

                       

                      たしかに、古いものに固執することがいいこととは思いませんが、
                      価値判断の基準として、新しいか古いかを基準にするべきではありません。

                       

                      新しいから良いというものは、いずれ古くなって良くないものに変わります。

                       

                      「女房と畳は新しい方がいい」などとも言いますが、
                      新しくていいのは畳だけで、古女房の居心地の良さを愛する男性も少なくないでしょう?
                      (どちらかというと古女房と一つになれることの方が夫婦としての円熟であり、より完成に近づく道です。
                      古い女房にはもうあきたと言って新しい女房に乗り換えていては人間としての完成には至るこてゃできません。)
                      古くても新しくても、良いものは良いし、粗悪なものは粗悪です。
                      (ちなみに、聖書も原理講論も、古かったとしてもそれが無ければ新しいみ言葉を理解することができない大切なものです。

                       

                      新しいものをもてはやす傾向は、資本主義経済と強く結びついています。
                      資本主義経済では、商品を売ることで利潤を稼ぐことが重要です。
                      「消費は美徳」という言葉を生み出したのは資本主義経済です。
                      最近ではそこまで言うことはあまりないようですが、「消費が低迷」することは、資本主義経済には困った事態になります。
                      消費してほしいので、消費マインドを刺激するために企業は製品の開発にしのぎを削ります。

                       


                      消費を中心に新しいものがもてはやされるようになっています。
                      つまり、消費の旺盛な若い世代がもてはやされる傾向にあります。
                      年配者や、アンティークは一時的にで注目されることはありますが、

                      それが長い期間の需要に定着することはありません。
                      それは企業体には面倒なものであり、継続的に富を生み出すには不都合だからです。

                       

                      新しく、インスタントに製造できればコストは抑えられますが、
                      長期間の熟成や熟練を要する商品や生産手段はコストを押し上げるので、市場競争力が弱いと考えられます。

                       


                      新しいこと、若いことが純粋さとしてもてはやされ、

                      熟成すること、熟練することが軽視され、忘れ去られています。
                      そうすると、年長者から若年層へ伝えられる伝統的な文化・伝承は継承される機会が失われ、
                      年長者に存在価値を見出すことができなくなっていくのです。

                       

                      却って、伝統的な価値観が否定されるために、

                      若年層にとっては年長者が自らの自由を束縛する疎ましい存在になってしまいました。
                      子供の世話にはならない自立した老後を送ることが今の熟年層の格好いい生き方のようです。
                      共に生きる知恵は疎ましい、時代遅れのルールになり、否定されています。
                      共同生活であれば、共有する生活資本も多くありますが、核家族化、あるいは一人世帯の増加は個人が所帯道具を持つようになります。
                      個々が自由に生活物資を調達して自立した生活を願うので全体としての消費量は上がりますので、経済効果はいいかもしれません。

                       


                      これらのことは

                      自由で豊かな社会が実現されていることだから大いに歓迎されるべき事柄だと思えるかもしれません。
                      歓迎されるべき良い状態だと感じるそこに問題があるのです。

                       


                      成長や成熟は不要なものでしょうか?
                      『人生』として考えたときにはとても重要な問題です。

                       

                      若さばかりを追い求める人生は、実に不自然な結果をもたらします。

                      人間性は成長する必要があります。
                      自己中心的な幼さは、争いをもたらします。
                      自由競争もよさそうに見えますが、絶え間ない競争は人を疲労させます。
                      若い世代にはいいのですが、

                      年長者を邪険に扱うことはいずれ自分に返ってくるということを理解していないのです。
                      そのことを理解し、疲労感を覚えるころには自身も『市場価値』を失った年配者になっていくのです。
                      資本主義社会がそのように選択しているので、勝者になることを目指す以外に個人に選択の自由はありません。

                       

                      福祉政策で財源確保が問題になりますが、資本主義経済が消費能力の小さい高齢者を必要としていないので、
                      そのシステムからシャットアウトしていることが問題ではないかと思われます。
                      蓄財に成功し、老後は毎年海外旅行に出かけるような高齢者は歓迎されています。
                      ですから『豊かな老後に必要な貯蓄額』などを宣伝します。
                      株式投資などで経済活動への参加を誘導するのですが、そこに参加できるのは人口の何パーセントなのでしょうか?
                      また、参加したとしてもリスクのない『投資』は存在しないことを考えると、人生の最後に豊かな生活を送れる人たちはそう多くはないのではないかと感じます。
                      生きた世代によってもばらつきはあると思われます。

                       

                      豊かさを感じるためには、自分よりも貧しい存在がいつまでたっても必要です。

                       

                      現代社会では、人生はギャンブルなのです。

                       

                      | おーば | 勝共理論・頭翼思想を考える | 21:56 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
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