サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
夜昼の堕落論…感想
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    『夜の神様と昼の神様の観点から堕落論を考える』…長すぎますね。
    『夜昼の堕落論』とでもしておきましょう。
    『夜昼の創世記』でもありましたね。

     

    自分でキーボードを叩いておきながら「感想文」でもありませんが、
    文章にすることで「あちら」との授受を持つことができるものですから、
    やっぱり「感想」は生まれます。
    「後記」とか「あとがき」とか言えばいいんでしょうか?
    そんな偉そうに言えるほど、文章を作ることに私は主体的であっただろうか?
    まぁいいや。

     


    それほど目新しいことを書いたわけではないです。
    あ、創世七日間はちょっと面白かったかもしれません。
    第二章は三日目のお話。
    三日目は植物の創造の日だけれど、太陽も月も無いのに植物。。
    日本語には「民草」なんて表現がありますね。
    一般民衆を指す言葉。
    侮蔑的表現だととる向きもありますが、平和な風情でいいじゃないですか。
    霊的な民草の創造された日。
    それぞれの代表選手たちがいるだけなんでしょうね。
    ノアの箱舟に乗せられたつがいたちくらいの量。
    ああ、それぞれが『霊的な民草』の体だったから全部乗せる必要があったのかしら。そうなんでしょう。

     


    堕落が分からないと復帰は分からないと言います。
    でも、創造本然が分からないと堕落が分かりません。
    だから今回の『夜昼の堕落論』では『創世記』も扱ったわけです。

     


    み言葉にだってペアシステムがすごいんだっていうことは書いてあります。
    だけどどうすごいのかはあまり聞こえてきません。
    主体と対象の関係は、ある意味では相互依存的な関係なんですよね。
    対象がいなければ主体は立ちえない。
    存在するためには、主体と対象つまりペアシステムが無くてはならないことが分かりましたが、
    多分伝わっていないんだろうなぁ…。
    ペアシステムが存在の根源なんですよ!!!!!

     

     

     

    ソシュール言語学のシニフィアンとシニフィエ、
    佐藤直幹さんの離散化理論、
    原始仏教的実存論、
    心情の八段階から導き出される成長段階、
    何より四位基台の正分合作用と授受法、
    堕落の動機と経路と堕落性本性

     

    ここまで与えられてきた言葉がことごとく繋がった感があります。
    おかげでチョット呆けています。

     

    ちなみに『良心論』は紐解くための必須の参考書であり、
    ホームチャーチは復帰原理です。

     

    そう、創造、堕落と行けば、次には復帰が必要なんです。
    今回書いたことで大分ポイントが見えてきたように感じています。

     


    以下はケータイでのメモ。ほぼ独り言、或はあちらとの対話。

     

    妾と正妻の話。
    これは、男あっての話。
    二つの愛は人間を割くのか?
    正妻はカインの愛、妾はアベルの愛。

     

    その前に、
    女には血統は関係ないのかも。
    【正】に繋がる責任は、主体格にある。
    女は霊界への主管性を確立すれば、夜の神様に繋がるのは男を通じて繋がるのです。
    しかし、そのアダムが失われたので、夜の神様に繋がるメシアが必要です。
    男は霊界への主管性を確立したら、自分が直接夜の神様に繋がらなくてはならない。
    どうすればいいのか?

     

    昼の神様が、ロゴスを改竄したが、その時どうやったのか?
    主体であるはずのロゴスを対象格に置いて授受したのです。
    そうしてロゴスは変質しました。
    つまり、四位基台の対象格に立つことで、変化することができるのです。

     

     

     

     

     

    メシアに繋がった女が男を対象格に置いて、中心を正す。
    【正】は中心です。
    正午定着。

     

    中心が定まった後は、主体格を立てる為にひたすら侍る。
    これが母子協助だったり、妾の路程かもしれません。

     

    性交渉が強調されてしまうのは、それが陽陰の授受作用の究極だからなのでしょうか?
    生命を生み出すこと

     


    主体と対象がそれぞれの一部分を切り取って、独立した合成体を作る。
    これが新生体。

     

    合成体は主体と対象の全部同士が混然一体となって存在として成立する。
    心と身体の関係がまさにそれ。

     

    主体が一部分を切り取り、対象が全部分でそれを受けるとこれは何と呼ぶのでしょう。
    天国に入るための新生あるいは重生と呼ばれるのがここに当たるのだと思う。
    生まれなおさなければなりません。

     

     

     


    男が対象になる。
    男の立場。

     

    堕落した男は天使長の立場だと御言葉にあります。
    アベルカインでさえ、
    堕落した天使長と堕落していない天使長だと言う。

     

    天使長ってそもそも成長しきれないでいる昼の神様ではないか?
    そもそもが対象格なのでは?
    ああ、地上には主体格がいないのですね。本然の意味で。

     

    だからフラクタルに核が無い。

     

    メシアは本然のアダムなので、主体中の主体であり、フラクタルの核たる方です。
    彼は対象格に立つことができません。

     

    つまり、本然の天使長の立場にある男は、養子の愛と庶子の主管力を復帰した上で、
    女によって主体として立ててもらう必要があると言うことです。

     

    メシアから種を受け取ることは可能でも、
    メシアは堕落人間を主体として侍ることはできません。
    たとえ、父母の心情と僕の体を持たれたとしても、心情において絶対的な主体であり続けることがメシアとしての使命だからです。
    天使長を主体に立てることは、アダムの堕落行為を繰り返すことになります。

     

     

     

     


    メシアの価値が少しわかった気がします。
    今まで分かっていなかったのかという話ですが、メシアのメシアたる真髄なんて誰が知っていましたか?
    皆勝手なことを言っているだけです。
    メシアと第四アダムは必ずしもイコールではないようです。

     

     

     


    お母さまの話、
    私はお母さまが昼の神様の路程を踏んでいることに驚いているんです。
    孤独な中から弟子たちを尋ねて第三イスラエルを作り上げたお父様は、夜の神様が無から有を築かれた世界を歩まれ、
    ある程度築かれた第三イスラエルの基盤の上に突然載せられたお母さまは、『存在』がある世界に途中で生まれた昼の神様の道を歩んでおられる。
    だから孤独を知らないので愛が違う。
    昼の神様の話はお母さまの堕落のことを例えられたのではなく、
    昼の神様が成したことをお母さまが踏襲しているのです。
    勿論、そんな自覚はされていないと思いますが…。
    再現されているということは、蕩減できるチャンスがもたらされているということですよ。
    そのように仕向けられたお父様は恐ろしいお方です。

     


    諸星くるとさんの聖霊の話を読んでみた。
    あれはリブログできるのかな?
    ここはJUGEMだからそんな機能はないけれど、変人博士のアカウントでやってみようかしら?
    桜葉佳代のアメブロアカウントでやるのもどうかと思うので…。
    アメブロは霊的にいろいろありそうなのでチョット二の足踏みますが、
    ソドムもゴモラも愛もて訪ねる精神で…頼りになる見方もいなくはないので言いすぎか…。

     

    最近、「あちら」と対話している人が少なくないようなので、自分でも書いていて当たり前に感じるようになってきた。

    ヤバいかもしれないと思いつつも、受け入れていくしかあるまいて…。

    | おーば | 夜の神様 昼の神様 | 13:25 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
    夜の神様昼の神様の観点から堕落論を考える-11
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      昼の神の系統、夜の神の系統と表現しましたが、これはそのまま血統の話です。
      いや、違うか。
      四位基台の中心という意味で血統だけど、
      主体格の系統と対象格の系統でもあるから一緒にしてはいけないのか?

       

      み言葉が違う。
      蛇は「とって食べるな」を「とって食べるのは良い事」として創造原理違反行為をエバにそそのかした。
      とって食べることの真意は間接主管圏の逸脱行為であった。

       

      間接主管圏の逸脱行為がそれ程に重要な問題なのだろうか?
      野生のイチゴと温室栽培のイチゴみたいなことで、どちらもイチゴに変わりはない。
      野に育ったイチゴの苗を温室に移した感じ?
      温室のイチゴの方が甘くて大きい。
      野生のイチゴは小さくて酸っぱい。
      だけど生命としては野生のイチゴの方がとても強く、また、多様である。
      (野生のオリーブは元のオリーブに繋がらなければいけないとあるので、この喩はおかしなはなしになるのかな?だけど元のオリーブは温室育ちとは書いていない。)

       

      霊(天使)を主管するだけの人格を備える前(間接主管圏)に、霊(天使)を受け入れ、直接主管されることで、
      エバは自分の人生の主導権を霊(天使)に渡してしまったのである。
      ここでエバには責任能力が喪失されるのだが、

      現在の法律のように責任能力が無いから罰せられないという問題ではなく、
      後孫に与える影響はぬぐいようがない現実問題となる。

       

      昼の神は元々対象格としてエバと相対基準を持つ霊であるから、エバに近づくことは容易であったはずです。
      アダムは主体格であるから相対基準を結ぶのは夜の神です。
      ですから昼の神はエバを操り実体で近づき、アダムと結び付くことに成功したのでしょう。
      夜の神が臨在する以前、昼の神が間接主管圏にあるアダムにも臨在し、直接主管したわけです。
      このことにより、夜の神の相対圏は地上から失われます
      女性が男性を主管しようとしたときに、力づくでできるものではありません。
      この時に、アダムとエバの間には性交渉が持たれたことが想像できます。

       

      夜の神様抜きで人類始祖は結婚してしまったわけです。
      つまり昼の神は夜の神との結婚を拒んだということでしょうか。

       

      そして、地上人が有していたはずの霊界に対する主管性が失われ、
      逆に霊によって主管されることになったのです。
      霊とは、森羅万象の心でもありますから、万物全般の主管性も同時に失ったことになります。

       

      だからと言って、森羅万象の主管権は昼の神の物になったわけでもありません。
      森羅万象は堕落以前の昼の神が、改竄されていないロゴスを主体に立てて創造されたものなので、
      本然の姿と心を維持できているのです。

       

       


      取って食うこと=間接主管圏の逸脱行為

       

      神と同じ立場に立てない神が愛した存在を愛せない(昼の神は霊界を、私たちは人類兄弟姉妹を)
      自己の位置を離れる夜の神の対象格として主体格に美を帰する位置
      主管性転倒四位基台の主体格と対象格の逆転
      犯罪行為の繁殖四位基台の新生体を生み出すこと(つまり授受作用を持った時点で同時に現れているようなものですね)

       

      四位基台の中心(=正)は主体格に立つ者が決定している。
      つまり、主管性転倒というのは中心を取り換えてしまうことを意味します。

       

      アダムに夜の神が臨在してアダムが主体格に、エバに昼の神が臨在して対象格に立てば、
      夜の神を中心とした四位基台が成立します。

       

      しかし、エバに昼の神が臨在して、アダムを対象に立てれば、
      昼の神を中心とした四位基台が成立します。
      その昼の神の性質が堕落性本性の先の三つ。

       

      昼の神が臨在どころか、昼の神に主管されたエバが主体に立ち、
      夜の神が不在のアダムを主管したのが堕落行為。
      夜の神を追い出した格好です。

       

      昼の神を中心とした四位基台からフラクタルに人類歴史が展開してきました。

       

      本然的には、創造理想(愛の関係性をもつ調和的世界)を中心としたフラクタルが形成されるべきでした。
      創造理想では主体的な個が重要です。
      個が主体的でありながら、対立するのではなく調和することで、本然的愛が成立し、壮大な美の世界が展開するのです。

       

       

       

      神と人の関係。本然と堕落

       

       

       


      四位基台の図を整理するとこんな感じでしょうか。
      アダム主体で夜の神対象では主管性転倒のように見えますが、
      こうすることで初めてそれぞれのアイデンティティが守られ、
      夜の神は初めて対象格の愛を受けることができます。
      昼の神とエバの関係もそのようになると考えられます。

       

      シリーズ4回目に引用した御言の最後、
      「天地人真の父母によって、夜の神と昼の神は解放された。どうして被造物が創造主を解放できるのか?どうしてそんなことが起こり得るのか?」
      創造主の解放というのはこういうことではないかと思いました。
      子供たちの独立によって父母が肩の荷を下ろした状態ですね。
      「お父さん、お母さん、あとは僕たちでやりますから安心して暮らしてください。」と言える状況。
      主体に立つのはアダム。昼の神の主体に立つのはエバ。(台所の主導権を嫁が引き継ぐみたいなイメージ?)

       

      人類が主体性を持たない限りいつまでも神様はひやひやしながら子供を見守らなければなりません。

       

       


      先のみ言葉の前に出てくる『神の弟』『アダムの年下の従弟』。
      神の弟は対象格“女性”から主管性転倒して主体格“男性”に移った昼の神と、
      父なる神の弟(叔父:昼の神)の子供としてカインを指しているのではないかと解釈します。
      神の弟という表現はまだストレートですが、アダムの従弟という表現はあまりに回りくどいのでまだ確信には至っていません。
      ああ、でもアダムは神様の直系から堕落した立場だけれど、カインについては直系ですらないということなのかな。

       

      だから神様の目から見た世界は『堕落エバと堕落アダム』ではなく『堕落エバと堕落天使長』しかいないということになる。

       

       

       

      堕落論考察としてはこの辺りまででしょうか?

      書いていて切なくなります。

       

      「夜の神と昼の神とがある。そして夜の神は間違いを犯さなかった。身体の神としての昼の神が堕落した。夜の神が男性であるとしたら、昼の神は女性だ。そして彼女が堕落した。」

      肉の思い=『本能的肉心』ではなく、『身体の神としての昼の神の堕落性』。
      心と身体が一体化していないのは、肉身が本心に主管されていないというばかりでなく、
      そもそも夜の神と昼の神が一体になっていないところから起因し、
      私たちはそもそも心情の神である夜の神を迎えてもいません。

       

      天使長ルーシェルとは、昼の神の心情が成長しきれない姿を例えた表現。
      同時に、対象格女性で、夜の神の相対であるべき昼の神が、主管性転倒によって主体格に立ち、男性格になっているということ。
      エバとルーシェルの霊的堕落とは、エバが主管すべき霊的存在に逆主管されてその“種”(=言葉)を受けたということ。
      ルーシェルの種とは改竄されたロゴス。

       

      天使長とは僕圏の心情であり、兄弟姉妹を尊重し愛することができなかった姿。
      天使長の兄弟姉妹とは天使長以外の霊的存在。

       

      四位基台の“正”は主体格の中心とするところなので、主管性転倒とは“正”を入れ替えることになる。
      (主体と対象のそれぞれが同一の中心を持っていれば主体と対象が入れ替わっても“正”が替わることはない。
      それが愛の回転運動なのでしょう。)

       


      つまり私たちは夜の神を中心とするフラクタルの心情因縁を結びなおさなければならないんですね。
      ここから先は復帰原理になります。

       

      | おーば | 夜の神様 昼の神様 | 21:14 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
      夜の神様昼の神様の観点から堕落論を考える-10
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        面白い図ができたので、まず貼っておきましょう。

         

         

        神様の成長段階

         


        神様にも幼い、自己中心的な時代があったというのは四研の主張ではありますが、
        私もそのとおりだと考えています。
        為に生きようと思ったとしても、自分しかいなければ誰かの為になど生きられません。
        世界が大きくなればそれだけ心も大きくなります。

         

        だから創造が進むとともに心情も成長させられた神様であると考えることができるのです。
        創造の動機は「愛したい」という縦軸にありますが、
        実際の成長は世界の拡大という横軸に伴って成されるのです。

         

        夜昼の神様について、この八段階が適用されるとは私も当初は思いもかけませんでした。

         

        夜の神様の夫婦以降の段階に「仮・」と付けてあるのは、カップルが揃わなければ本来的には通過できないからです。
        しかし夜の神様は、昼の神様を育てるという過程を通してシングルファーザーのように疑似体験しているのです。

         

        昼の神様の庶子完成を待ち、人類始祖の庶子完成を待って、

        夜昼の神様がそれぞれ人類始祖に臨在し、人と一緒になって、
        実体的に実子・夫婦・父母・神の心情を完成していくというのが本然的御計画だったのです。

         


        ところが、昼の神様が僕圏の心情を超えることができないまま人類始祖の思春期を迎えてしまうというアクシデントが起こったようです。
        僕圏は自分の利益しか追求しません。
        他者の存在に配慮する心がありません。
        夜の神様はロゴス存在を尊重し配慮しそこから友愛を得ました。
        昼の神様は霊的実体との関係から友愛を育むはずでしたが、そこに失敗したようです。

         

        昼の神様は夜の神様に支配者としての印象を持ってしまったのでしょう。
        支配者と被支配者の主従関係。
        それをそのまま霊的他者に当て嵌めて自分を支配者の立場に置いたと思われます。
        (最近、昼の神の主張を代弁するような記述があちらこちらで見られ、それらが支配者に対する反発を書いています。)

         


        だけどそれならばどうして堕落の責任を人間が負わなければならないのでしょう。

         

        それは人間にも成長する可能性が付与されていたからです。

         


        最近、広研のコメント欄に引用されていた堕落論六節(一)
        『創造原理によれば、神は人間が神の創造性に似ることによって、あたかも神御自身が人間を主管されるように人間は万物世界を主管するように創造されたのである。そこで、人間が神の創造性に似るためには、人間自身がその責任分担を遂行しながら成長し、完成しなければならない。このような成長期間を、我々は間接主管圏、或は原理結果主管圏というのである。それ故に、人間がこの圏内にいるときには、彼ら自身の責任分担を完遂させるため、神は彼らを直接的に主管してはならないのである。もし、神がこのような成長期間に、彼らの行為を干渉し、彼らを直接主管されるとすれば、神は彼らが完成した後にはじめて直接主管するというその創造原理を、自ら無視する立場に立たれることになるのである。このように原理が無視されるようになれば、同時に、原理の絶対性と完全無欠性は喪失されてしまう。神は絶対者であり、完全無欠なる創造主であられるが故に、神が定められた創造原理も、また絶対的であり、完全無欠でなければならない。それ故に、神は創造原理の絶対性と完全無欠性のために、未完成期にいた彼等の堕落行為に対して干渉されなかったのである。』

         

        この文章、実に上から目線で神様がまるでエゴの塊のような印象を受けるので桜葉自身は嫌いです。

         

        ここでは表現手法には目をつぶって大切なところを考えましょう。
        問題にしたいのは“間接主管圏”が何故必要なのかというところです。
        この文章では、まるで資格取得のための義務期間でしかありません。
        だけどこの期間は大学の講義のように居眠りしてても出席すれば単位をもらえるようなものでしょうか?
        そうではないでしょう。

         

        人間が完成して初めて受けることができる“直接主管”というのは、自身の内に神を迎える神の臨在でありましょう。
        神の臨在を受ける器とはどのような器か?

         

        表面的には品行方正な人格者を連想しますが、それは心情世界から考えるとあまり重要ではないでしょう。
        神様は息子娘として人類を創造しています。(これは御言葉で多く語られるところなので、そう定義して問題はないでしょう。)
        神の創造性に似た息子娘に求められるのは
        従順な服従(絶対服従、絶対信仰、絶対愛)でしょうか?
        そうではなく自主性です。

        (絶対服従、絶対信仰、絶対愛が求められるのは対象格に立つ者です。)


        自主性とは、言葉を換えればアイデンティティの確立です。
        これが個性完成の意味です。

         


        これが無くして神の臨在(直接主管)を受ければ、僕化するどころかロボット化してしまうでしょう。
        自分の考えを持つ必要がなくなってしまいます。
        それは人間と愛の回路を持て授受したいと願われる神の求めるところではありません。
        つまり人間が成長する上で必要な期間として間接主管があるのです。

         

        エバがアイデンティティ確立の前に干渉してきたのが蛇(昼の神)です。
        ここから創造原理違反ですが、エバは相対してはいけなかったのです。
        エバは自身のアイデンティティ確立する前に霊界からの干渉を受け入れてはいけないのです。
        それが戒めである御言葉だったのではないでしょうか。

         

         

         

        アイデンティティ確立というのは霊的な主管位置の確立でもあります。
        霊的存在のアイデンティティと自分自身の霊性のアイデンティティがきちんと分離でき、

        自主性を維持できなければいけません。
        それまでは、森羅万象の中で創造原理的な調和的世界を学び、

        世界観を自分の物にして愛する世界を築く必要があります。
        主体性です。
        エバは対象格ではありますが、それはアダムに対してであり、森羅万象に対しては主管する立場で主体です。
        そして自分の人生について主体です。
        その主管位を失うというのは、人格的喪失ですからまさに霊的死と言って過言ではないということでしょう。
        善悪知るの木のみをとって食べた後、アダムもエバも自身で責任を負うことを放棄し、
        「女が悪い」「蛇が悪い」と罵ったのです。

         

        アダムの場合は、霊的主管を受けたのではなく、実体の対象格であるはずのエバから主管を受けています。
        主管位を失うという意味で人格完成(生命の木)の道を失ったということです。
        この時のエバの中心は蛇の自己中心の思いでしたから、昼の神の系統に繋がったことを意味します。

         

        アダムがアイデンティティ確立して夜の神の臨在する位置を得てから

        エバを愛し、愛で主管することができれば、

        夜の神の系統に連なる人類歴史のスタートが可能だったのでしょう。

        それでも昼の神に愛を受け入れてもらうには苦労しそうに思えます。

         


        授受作用というのは、主体格の心情と目的がそのまま授受作用の中心になります。
        授受作用の目的を設定する者が授受作用の主体に立つとも表現できます。
        アベルカインの実体基台の前に、アベルが独自に信仰基台を立てなければならないのはこのためです。
        神に繋がらないアベルはアベルとしての用を果たしません。
        神に繋がったアベルを中心にすることで、神様を中心とした授受作用が可能なのです。

         


        こう考えていくと、復帰原理で言う“長子権”というのは主管位のことを指しているかのようです。
        人間は霊的無知に陥っているため、霊界からの干渉を理解しないままに受けているのです。
        エボク川の組打ちでヤコブが天使を屈服させたというのも霊的な主管性を復帰したことの象徴ですし、
        イエス様が三大試練を勝利された後に、天使が仕えたという聖書の記述も、霊的主管位の確立を表しているように読めます。

         


        ところで、御言葉はどうやってアダムとエバに伝えられたのでしょう?
        言葉が最初に必要なのは新生児から乳幼児に上がるところで、知性の芽生えにどうしても必要です。
        霊的存在からでなければ不可能ですね。
        み言葉の伝達は直接主管には当たらないということかな?
        あるいはそのタイミングに限り干渉可能だと考えるべきかもしれません。
        “種”無くして成長はありません。
        種を撒いたらあとは間接主管ということですね。

         

         

        | おーば | 夜の神様 昼の神様 | 18:52 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
        夜の神様昼の神様の観点から堕落論を考える-9
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          去年11月、心情の八段階をテーマにしたシリーズのまとめには、
          陽陰の問題を解かなければ庶子から実子に上がる問題は解けないとしています。

           

          その陽陰の問題がこの夜の神様と昼の神様の問題なのでしょう。
          きちんとつながっています。

           

          夜昼の神様のことを考えて来ましたが、神様はどうやら未完成ではないかというのが見えてきます。
          殊に、昼の神様は後から生まれているので夜の神様に追いつけていない
          ようです。
          そして対象格である昼の神様が完成し、夜の神様と一体化しないことには、
          主体格の夜の神様にも正分合作用による蘇生・長成・完成のプロセスを経て四位基台の存在としての完成がない
          のです。

           

          神様が未完成などとは
          従来の宗教観からは到底理解し難いことですね。
          だから宗教教義としては語ることはできません。
          ただついて行く羊たちは宗教を信奉する群れですので、羊には理解できないのです。
          卒業しなければきちんと受け入れることができません。

           

          牧者を求めて彷徨う者では行けません。
          牧者として立ち上がらなければ行けません。
          牧者として立ち上がる者が氏族メシアなのでしょう。

           

           

           

          昼の神様が夜の神様と「同じ立場に立てない」理由はスタート地点の違いにあったようです。
          孤独を知る夜の神様には、存在するものすべてが愛する対象となりましたが、
          最初からすべてを与えられた昼の神様には、存在する者は管理する対象、あるいは支配する対象だったのかもしれません。
          何故なら、管理するように求められたと感じていたからです。
          本来願われたのは、霊的存在と兄弟姉妹のような友愛を育むことだったと感じるのですが…。

           

          愛することは『見たい・会いたい・暮らしたい』という思いだという御言葉ありましたよね。
          そのような愛、望みがないままともに暮らせばそこに喜びはないのです。
          喜ばずに命ぜられるがままに、仕方なしに行動する人を何と呼ぶか?僕です。
          ここで論じているとおりに、天使長ルーシェル=昼の神であったなら、
          彼女は「御使い」=「僕」と同等の内容であったから天使長などと例えられたと考えられます。
          友愛にさえ届いていなかったということです。

           


          天使たちの活躍は主に旧約聖書に伝えられていると思います。
          新約聖書にも、受胎告知やイエスの墓に立つ天使など現れますが、
          ペンテコステからこちら、御使いによる啓示に代わり、聖霊の御業が目立ちます。
          これはもしかすると、昼の神様が女性神(対象格)の位置にまで帰ってきた
          ということなのでしょうか
          イエス様の恩恵圏ですから養子圏ですね。
          でも、女性格を意識できるなら庶子圏なのでしょうか?
          (養子圏は未だ少年なので、男女の意識は希薄です。)


          友愛という愛を身につけて、愛して下さるということ。

          養子圏は未完成圏ですから不完全です。
          不完全な聖霊が導いたわけですから、十字軍戦争や魔女狩り、植民地政策などの暴挙も起こり得たということ。
          少年たちは競い合って優劣を決めるのが好きです。

           

          また、多くの霊人たちが様々な基準で動いていますから、サタンの勢力が消え去ることもないのでしょう。
          昼の神様はそれらの霊人たちに対する責任を、やはり追わざるを得ない立場に見えます。
          そうでなければ説明が付きません。
          あるいは、聖霊は昼の神とは別存在の誰か勝利基準を立てた女性の霊なのか?
          (ペンテコステ時点では聖母もマグダラも生きているでしょうから誰なんでしょう?)
          なにしろ昼の神はミスリードした張本人なのでしょうから。

           


          現在でも、真の家庭が完成しない限り完成圏に至っていないはずですので、
          聖霊の啓示というのも完全ではないでしょうから注意が必要でしょう。

           

           

           

           

           

          さて、霊的な背景が見えてきました。
          人間始祖のアダムとエバにどうやって原罪が定着してしまったのか?

           

          先ず、本来的な形を考えれば、
          アダムには夜の神が臨在し、エバには思春期を完成した昼の神が臨在して結婚するのが理想だったと思います。
          昼の神が思春期を完成するのも、エバに臨在してアダムとの愛を通してなされるものなのでしょう。
          そのタイミングしか、彼女が思春期を完成するチャンスは見当たりません。

           

          アダムは夜の神と一体となった基準を立てて主体に立てば、自ずと授受作用の中心は夜の神の心情になります。

           


          実際には、アダムは夜の神様と一体化の基準に至る前であり(少年期)、
          エバの人生はエバが主体としてハンドルを握っているべきところを、昼の神に渡してしまい、(霊的堕落)
          アダムを主体に立てるべきところをエバ主体で関係することによって、(肉的堕落)
          授受作用の中心は昼の神の動機になる。

          つまり、この段階では僕の情であり、
          義務使命ばかりで自由がなく、喜びのない中からの反抗心・反逆心が中心となる。
          授受作用の結果には負のエネルギーが満ちることになり、
          アダムとエバの関係も、互いに怨讐視するしかないものにならざるを得ない。

           


          主管性転倒が昼の神とエバの間でのことならば、じゃあ、ロゴスの改竄はなかったのかな?
          なかったとは言い切れないけれど、あったとも断言はできないかもしれません。
          …ちょっとぶれ始めましたね?日を改めましょう。

           

           

           

           

           

           

          ここまで書いてきて、夜の神様の切ない思いがひしひしと感じられます。

           

          「かわいいエバを、成長する日を待ち望んで育ててきた花嫁を、結婚式の直前にルーシェルに寝取られた。」
          みたいなことをよく聞きますが、これは何か御言葉からきているのか誰かの創作か?

           

          夜の神様が待ち望んでいた期間は、人間が成長する地球上での歳月18年どころの話ではないのです。
          何処から育て始めたかというと、『光あれ』の時から始まっているのです。
          しかも、人類としてのエバであれば、間接主管圏で乳母に預けて待っているようなイメージですが、
          失われたのは、昼の神として、夜の神が直接育ててきた対象格女性です。
          ご自身の存在の全てともいうべきものが失われたのです。

           


          オオカミに育てられた赤ん坊はオオカミになるといいます。
          人間始祖は何者に育てられたのでしょう。
          多くの食口たちが思う問いです。
          猿、あるいは人の心にまでは到達していない猿人か原人のような存在に育てられたのでしょうか?
          哺乳類も、個体が単独で生きる動物と、群れを作って社会生活をする動物とでは心の状態が違うはずです。
          社会生活をすれば、仲間を思いやる心のようなものが必要になります。

           

          そういった群れの中で育てられたとして、
          人間始祖が人間としての心を確立できる根拠がどこにあるのか?
          外的に、彼らだけが美しい二足歩行ができる肉体を持っていたとか?
          オオカミとは違って、類人猿クラスになれば文化的要素も多少は持っています。
          しかし彼らには言葉がないので、言葉は神様から与えられているはず
          オオカミに育てられた赤ん坊には言葉を与えてくれる存在が無かったのは大きな違いでしょう。
          結局は言葉がカギになるようです。

           

          命がけで御言葉を守り人間として完成する。
          このとき御言葉が改竄されていて、改竄された御言葉を中心に完成したらそれは狂った者になってしまいます。
          そして言葉は、生物学的DNAさながらに親から子へと伝えられる
          ものではありませんか!

           

          蛇は言葉でもってエバを誘惑しています。

           

          堕落していない森羅万象。
          象の群れでも群れの仲間を互いにかばい合います。
          そんな愛情と、自然界の整合性のとれた美から学び成長することがエバの責任分担であり、
          エバ自身が自分の人生という車を正しく判断して運転できるようになるのでしょう。
          それから助手席に昼の神様を受け入れて共に成長して結婚式に備えれば真の父母が完成したのかもしれません。
          完成するまでは園の中央にある木に触れてはならなかったのです。

           


          アダムはどうだったのでしょう?
          アダムにも夜の神様つまり命の木は臨在していませんでした。
          つまり未完成だったということです。
          夜の神様はアダムが自分で完成に至るまで臨在することをしません。
          アダム自身の個性を大切に考えていたからです。
          生命の木がアダムに臨むその前に、
          堕落した善悪知るの木が、エバと共にアダムに近づき彼を自分が中心になった四位基台に引っ張り込んだのです。
          善悪知るの木が中心、
          善悪知るの木と一体となったエバが主体、
          アダムを対象格に置いたということでしょう。

           

          アダムとエバの間に子供が生まれるということが、四位基台の完成を意味したということになります。
          しかし、アダムにもエバにも、堕落前に与えられた御言葉が残っていたので
          中間位置というあいまいな立場をそれでもとることができたということです。

           

          子供を持たずに悔い改めて悔い改めてケルビムと回る炎の剣を取り除き、
          中心を正しめて生命の木を頂き、それから子供をもうければ
          それが二人のメシアになったのかもしれませんね。

           

          ケルビム=天使=善悪知るの木=昼の神=霊的存在
          回る炎の剣=言葉

           

          | おーば | 夜の神様 昼の神様 | 21:03 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
          夜の神様昼の神様の観点から堕落論を考える-8
          0

            まずお知らせ。
            1800家庭の二世どんぐりさんが書くブログ『平和を愛する世界人の養子』の中で、
            『どんぐりチャンネル』というYouTubeを使った企画があります。
            YouTubeといっても音声だけのラジオ番組みたいなかんじなんですが、
            そこに桜葉がゲスト出演させていただきました。

            リンクを貼っときますので聞いてみてね。

             

            http://ameblo.jp/adoptedsun/entry-12207730344.html?frm_id=v.mypage-checklist--article--blog----adoptedsun_12207730344

             

            み言葉の読み方というテーマで電話で話すこと1時間半、
            その録音の中から、どんぐりさんが10分程度を切り取って公開中です。
            何回かに分けて出すということなので第二弾、三弾もあるのかも…。

             

            会話の相手が年下だと思って…と言っても彼は既に3児のパパですが…、
            ちょっと言葉が雑になってるところもありますがお許しを。

             

             

             

             

            『夜の神様昼の神様の観点から堕落論を考える』
            ここでは昼の神様=光=ルーシェルと捉えています。

             

            別な見方があることも知っています。
            夜の神様は創造以前の神様で、
            昼の神様は創造後の神様だという見方です。
            だから夜の神様と昼の神様は同一だし、ルーシェルは全くの別存在です。
            昔お侍さんは元服前と後で名前が変わりましたし、
            歌舞伎や落語の世界でも襲名によって名前が変わっていってますから無理のある考えではありません。

             

            み言葉というのは複合的な意味を表現していることがあるように思います。
            もしかすると、蘇生的な読み方、長成的な読み方、完成的な読み方なんてあるかもしれませんね。
            そうまで言わずとも、多くの応用が利くことは間違いなくあるので、
            陽陰で捉える読み方と、時間性で捉える読み方と、どちらも成立し、必要な内容である場合も考えられます。
            だから一つの考え方で満足するのも危険なことかもしれません。

             

            正直なところ、私が御言葉をまじめに勉強していたのは荒野40年路程までです。
            1990年代前半までです。
            だから御言葉についてすべてを網羅してこの記事を書いているわけではありません。
            常々書いていますが「一人の人が全てを知ることはできない」それは全知なる神の領域なので。
            逆に、使命分担として必要な事柄は全て与えられるものだと考えています。
            与えられていることに気づくか気づかないかがその人の責任分担です。

             

            現役時代にこんな歌を歌ってました。
            『勝利の日まで』2番
            「涙あふれて祈れば いつもそこに御父母様
            辛く険しい道には すでに涙のぬくもり
            だから私も負けずに行こう」

             

            御父母様(お父様)と直接お会いしたことありませんのでね、
            御父母様というよりも御言葉がそこにあるという感覚。
            涙のぬくもりも御言葉を通じて感じるものでした。
            未だに繰り返されるこの御言葉体験。
            これを繰り返していると、まぁ、屈服するしかありません。

             

             

             


            さて本題。

             


            光は夜の神様の孤独からの創造を知らなければ、自分の労苦のみ評価することになるでしょう。
            「栄光在自」ですね。

             

            原初の神である夜の神様にも喜びの刺激と共に経験的成長がもたらされているはずならば、

            神様にも成長期間があるようです。


            夜の神様で考えれば、
            自我を持たない混沌(カオス)としていた時期(=新生児)、
            自身の存在を自覚し、意思を持った時(=乳幼児)、
            意志に応じてロゴスを生んでいった時期(=少年期・友愛を育む)、
            相対を求め光を生み出した時(=思春期・恋の季節)、
            光と共に霊的実体を生みだしていた時(=青年期)
            物理的実体を生みだしていく時(=壮年期)
            人類と共に地上に生きる時(=熟年期)
            人類と共に心情完成する時・安息(=老年期)

             

            はい。無理やり八段階に振り分けました。こじつけです。
            この八段階については「心の成長」カテゴリを参照していただくか、

            三年前に書いた表を参考に貼っておきます。

             

            成長段階の表
             

             

            このこじつけですと問題があります。
            昼の神様との結婚式が当て嵌められません。

            結婚式は、主体・対象ともに思春期から青年期へ上がったところで持たれるべきでしょう。

             

            昼の神様は夜の神様の思春期に生まれることになりますから、(=新生児)
            霊的実体を生みだすところで初めて意識を持つことになります(=乳幼児)。
            物理的実体を生みだすことが他の有意識的存在を認める時期(=少年期)になり、
            人類と共に生きる段になって初めて相対を求める時期(=思春期)に入ります。
            霊的実体を生むときに、夜の神のロゴスに触れて知性的成長をすることが意思獲得に繋がり、
            物理的実体を生み触れ合うことで友愛を育てるんですね。
            だからこの間夜の神様は待っていなければなりません。

             

            待って、若い肉体を持つアダムとエバにそれぞれ夜の神と昼の神が臨在して結婚式を挙げるのが理想だったということですね。
            だけど昼の神が成熟して少年期の友愛を完成した上での思春期の完成をする前に
            アダムとエバは関係を持ってしまったということでしょうか?
            そう考えれば腑に落ちますね。あながちこじつけでもなかったか…。
            このタイミングは…同じですね。ここまで再現しておられるのでしょうか?

             

            臨在とは、再臨協助と同じシステムで地上人に霊人が同伴することと考えていいでしょう。
            同伴していますけれど地上人の霊人体は臨在する霊とは別存在です。
            カーナビの付いていない車でハンドルを握っているのが地上人の霊人、
            助手席で地図をもってナビゲートしているのが臨在する霊人とイメージしていただければいいでしょう。
            二人は同じ景色を眺め、同じ音楽を聞き、同じ空気を感じながらドライブを楽しむことができます。
            しかし違った感覚を持つことが可能だし、人生をドライブする最終的な責任はドライバーが持つのです。
            助手席にいる者が地図を読み違えてもドライバーは正しい判断をしなければいけません。

             

            | おーば | 夜の神様 昼の神様 | 00:41 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
            夜の神様昼の神様の観点から堕落論を考える-7
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              私は別に奇をてらったことを書いて人の注目を集めたいと思っているわけではありません。
              注目を集めたいならば、話題になっている人や事柄を取り上げてあーだこーだと論評すると結構アクセスを稼げます。
              だけど目的はそんなところにはありませんから、地道に行きましょう。

               

              だけど前回記事は書いてやたらと消耗しました。
              消耗して投入しても反応らしい反応は無いので(コメントはないのでアクセス数だけで見るしかないんですが…。)やっぱり意気消沈しそうです。
              (こんなことを書いて下書きを一週間ほったらかしたら、とある24時間に1300ページビューという妙なログが現れるし…。)
              先ほど久しぶりに諸星氏のブログを見てきたけれど、あれだけ反応があれば書きがいもあるでしょうね。(ヤキモチ)
              だけどあの内容を毎日更新できるのはどんな人なんでしょうね?
              殆ど啓示的内容なのでしょうが、啓示を与える“聖霊”という存在は、今どんな状況なのか?
              女性神の立場からすると昼の神の系統に属するはずですが、完全に夜の神の意向に沿っているのかが問題でしょう。

               

              啓示だからと言って記事を書いている人たちは少なくありません。
              しかし、その内容は相互に整合性を持つものばかりではないのです。
              発信者がまだ完成された存在ではないのかもしれません。
              完成していれば完全な整合性を持って啓示を与えるようになるでしょう。
              あるいは受信者の問題かもしれません。
              完全な内容を与えられても正しく聴き取れなかったり、表現力に不足がある場合も考えられます。
              とにかく、表現されている啓示というのも完璧なものではありません。

               

              とはいえ私自身、示されたものを表現する作業に変わりはありません。
              だからこそ起こり得る問題を理解できるのです。
              正しく受け取り正しく表現する作業は、まじめに取り組めば凄まじい戦いになります。

               

               

               

               


              つぶやくのはこの辺までにして、さて、次のテーマは何だろう?

               

              心情の出どころについてまだ十分な説明ができていません。

              人間の赤ん坊で考えたときに、心がどこから来るかわかりますか?
              それさえ私たちはしりません。
              ただ、生まれたばかりの赤ん坊の心は、まだまだ発達していないので、
              愛を受けて育つ必要がある、そんなことは漠然と知っています。
              ちなみに、赤ん坊はだっこされたり声掛けをされたりしないと、泣くことさえしなくなるそうです。
              昔、何かのテレビ番組で見たんですが、あれはいったい何だったんだろう?
              人間の赤ん坊でそんな実験が許されるものではないでしょうに。

               

              何が言いたいかというと、心情は小さく生まれて大きく育つということ。
              肉体の成長と共に心情も成長するけれど、肉体の栄養だけでは成長しないようです。
              (人はパンのみにて生きるにあらず。生素(=良き言葉)と生力要素(=良き行い)が心(=霊人体)の成長には不可欠。)

              精子、卵子にそれぞれの心情のかけらが宿るのでしょうか。
              前回の奇妙な四位基台の展開図からすると、情動自体は授受作用によって新生体を生み出せそうです。
              その新生体が宿りうる形状としての生殖細胞がそこにあるから
              そこに宿って形状的合成である生物学的受精と共に、心情的な合成体も生まれるのかな?
              情動は神の原初の心情的power(=振動)と同質のものと考えることができ、
              人間はじめ生物における形状は第四の日から段階を追って作られた肉の一部分です。
              原初的エネルギーは無尽蔵(もしかして万有原力?)だけれど、
              原初的エネルギーを材料として段階を追って(つまり時間をかけて)創られた形状は、
              究極的には別としても、ある程度の有限性を持っているのでしょう。
              即興的に捻出できるものではないので、分割したものを合成するしかない。

               

              生殖細胞はそれぞれ生きた細胞だから、心情的性相に相対することは十分に考えられると思う。
              そもそも、生命それ自体が生きようとする意思その物に見えてきた。
              生きるというのは成長しよう、繁殖しようという意思。
              つまり第一、第二祝福完成に向かう意思に他ならない。
              第三祝福のみが天宙の主管主としての人間に与えられた特別な恩恵的“意思”かもしれませんね。
              (巣を作って子育てする生き物には、第三祝福の意思が旺盛とは言えないまでも観察できます。)

               

              物理的に存在することさえ、ロゴスによって与えられた固定化することへの意思に見えます。
              打ち震えるエネルギーの凝固です。
              その凝固したエネルギーを生という表現、喜怒哀楽という表現に発現させていったのが物理世界創世の三日間なのでしょう。

               

               

               

              先ず、原初の存在が心情的エネルギーとして存在し、そのエネルギーが無尽蔵な存在であり、
              単純な存在から自己分割して複雑化した(ロゴス)。

               

              次いで“光”・“昼の神”としての独立した存在は、“闇”・“夜の神”から何を受け継いで現れたのか?
              ここの問題になるのですね。

              莫大なエネルギーが投入されたであろうことは容易に想像できます。
              そのエネルギーは蓄積されたロゴスから生み出されたものでしょう。
              ロゴスは分割体ですが、分割される中で多くの座標を持つことになります。
              座標3点で共鳴体が生まれますからエネルギーは増幅されます。

               

              このエネルギーは刺激的喜びそのものでしょうか?感受性の素地でしょうか?
              喜びその物でしょう。
              主体(観察者としての性相=対象からの刺激に喜怒哀楽を感じる心)と
              対象(存在としての陽陰・ロゴス)の授受作用による喜びのエネルギーです。
              情的エネルギーは枯渇することはありません。
              喜びは喜びによって更なる共鳴作用を起こして増幅します。
              逆に悲しみや苦しみは、喜びに干渉して打消しエネルギーを小さくすることが考えられます。

               

              現代資本主義の原則で、人間の幸福を求める欲求は尽きることが無いから資本主義経済は永遠に発展し続けるという考えと同じです。
              (現代資本主義では、欲求は枯渇しなくても、資源の枯渇に直面して永遠の発展への憂いによる打消しが始まっています。)

               


              先ず光は、闇の中から、純然たる心情的エネルギーを受けた。
              原初のエネルギーは心情的性相的要素の強いもの即ち性相的と思われます。
              何しろ喜びのエネルギーです。

               

              形状はというと、ロゴス形状との授受作用を持つことにより自らの姿を構築してゆくこととなります。
              そもそも光というのは、波動性と粒状性の複合体という不思議な存在です。
              形状に投影され、観測されて初めて存在を見出されるものです。
              形状的ロゴスに映し出されることによって色や形として現れます。
              同時にロゴスにとっても、ただの構想でしかなかった存在から、
              色形を纏う華やいだ美の対象としての存在に生みかえてくれる母のような光ということになります。
              美の対象として産み出された存在が霊的実体と呼ばれるものと考えられます。

               

              同時に観測者たる主体者“夜の神”は光に対する感受性を自身の内に創造していることになります。
              光に対する感受性というのは視覚ということでしょう。
              この次元での視覚は生物学的な瞳の機能ではありませんが、霊的認識力と言っていいでしょう。
              このような認識力を持った存在は自身の存在にも色形を見出すはずです。
              これが生命の木ではないかと考えます。
              生命の木に至る道はケルビムと回る炎の剣によって塞がれてしまったので誰も見ることができません。
              神様の姿は見えないと言われることが多いのもそのためではないかと思われます。
              夜の神は昼の神との授受を断っているということでしょうか?
              ああそうですね、夜の神様と昼の神様は別れてしまっているのです。

               


              ロゴスは夜の神の形状部分です。
              ロゴスと夜の神の授受によって生まれた性相的・喜びのエネルギーを受け取り、
              次いでロゴス形状を写し取る格好で光は形状を得ます。
              ロゴス形状とは、そもそも言葉・理性・構想という知性的内容です。
              ここで光は情緒と知性の二つを得て、知と情の授受作用による判断力つまり意思を持ち得る存在になる
              のです。

               

              昼の神の成長

              ※四位基台の基本型をこんなに変形していていいのかとも思われますが、

               一度の授受で主体と対象は各1者です。

               複数の主体が書かれているのは数次の授受があったことを省略的に示すもの。

               複数の対象が書かれているのは数次の授受があった場合と、

               複数の対象を主体側が一体とみなしている場合の2パターンがあります。

               複数の合成体が書かれているのは兄弟関係のような存在です。

               ただ、今回の図については、実体的に表れる新生体のような存在と共に、

               主体側、対象側ともに経験を通じた成長があることを示します。

               霊的実体には形状的変化と共に情緒的変化も当然あるはずだし、

               原初の神である夜の神様にも喜びの刺激と共に経験的成長がもたらされているはずです。

               四位基台はフラクタルであると同時に重層的であります。
               

               

               

              光とほかのロゴス、あるいは霊的実体との違いは、心情的エネルギー及び知的理解の幅が格段に違っていることです。
              光によらなければ霊的実体になることはできませんから、霊界の全てを光は把握していることになります。
              少なくとも、『大空の下の水』について全て知る者となっているはずです。
              そして創世記2章の記述から推察するならば、
              霊界の創造の最後に昼の神は光という存在から女という形状を纏った美の総合実体として現れたのです。

               


              光が明確な意思を持つ存在となり得たのは、霊界の創造がある程度出来上がった時点ということになります。

               


              何も知らないお母さまを教育して…というような御言葉があったように思います。
              光もまた、何も知らないままに、闇による教育によって霊界の祝福の基=母の立場までやってきたということですね。

               


              昼の神が得た意思が、夜の神の意思とズレてしまって、起こった決定的な事件が堕落ということになるのでしょう。
              昼の神と夜の神の決定的な違いは、
              夜の神が孤独で寂しい世界の中から愛したい動機で世界を創造したのに対し、
              昼の神は何も思い立つ間もなく、準備されたプログラムにのとって教育を受けたという点。
              そこには彼女の動機をただすものが無かったのかもしれません。

               

              動機をただす必要性を、創造の過程にあった夜の神は気が付かなかったのではないでしょうか?
              何しろ、“動機”を有する存在はご自身のみであり、他に初めて動機を持ち得る存在が昼の神であったのですが、
              昼の神がご自身とは違う“動機”を持ち得るとは思いつかなかったかもしれません。
              彼女はただ刺激的な愛の対象だったでしょうから。

               

              だけどアボジは違います。(知っていました。)

               

              | おーば | 夜の神様 昼の神様 | 13:45 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
              夜の神様昼の神様の観点から堕落論を考える-6
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                大風呂敷を広げてしまったからにはそれなりの頑張りを示さないといけません。
                …というのは毎度のことですね。
                今書いているこのシリーズ、冷静に見たら本体論に挑戦していることになります。

                 

                創世の第一の日から第六の日まで形状的に見てきました。
                次は性相的に見て行こうかというのがテーマです。

                 

                第二の日を私はスルーしていますが、気になりますか?
                第二の日について、思うところはあるのですが手がかりが少なすぎます。
                そして流れがちょっと違うので、“思うところ”については後述にしたいと思います。

                 


                性相的に見るというんですが、その前に四位基台について少し突っ込みを入れます。

                 

                四位基台では、正分合作用によって、もっと言えば主体と対象の授受作用によって、
                合成体または新生体を生じると教えられています。

                 

                統一思想の原相論では心情を中心にして性相と形状が授受作用すれば合成体が、
                目的を中心として性相と形状が授受作用すれば新生体が生じると書かれています。

                 

                 

                 

                合成体と新生体

                 

                 

                 

                これは間違いだと私は思います。

                 

                具体的に人間の男女の関係で考えてみると、
                心情的に一体化すれば合成体としてのカップルが生まれ、
                家庭を築くという目的を中心に授受作用を持つと子女が生まれると言う話です。
                だけどよーっく考えると、子女は新生体ではありません。
                詳細に見ていくと、主体対象から別れ出た生殖細胞の『合成体』です。

                 

                授受作用で『新生体』が生まれると言うのは本当だろうかと今疑っています。
                新しいものが出てくることができるのは『合う』時ではなく『分かれる』時のように見えるのです。
                『分かれる』時には授受作用による刺激が力として働いているように見えるので、
                新生体を生み出すのに授受作用が必須なことには変わりありませんが、
                ここを詳細に考えないと話が前に進みません。

                 

                 

                子女繁殖の四位基台詳細

                 

                 

                新しいものが『分』で出てくると認識すれば、単体で分裂して増えるアメーバーの説明もつきます。
                環境との授受によって刺激として分裂できます。
                しかし、相対基準を造成できる相手がいないので新しい個性としての合成体を生じることができません。
                殊に物質化した存在については質量保存の法則に縛られますので、
                分かたれて個体数として増え、整理代謝機能で成長してゆくと見るべきでしょう。
                ただ、授受作用によって心情的な力が新たに得られるということはあり得ます。
                それは新生体としての個性足り得るのでしょうか?
                形状が表れてふさわしい機能を発揮することは日常的に体験します。
                しかし、性相が先に表れて形状を纏うということはあったのだろうか?
                性相を想定した主体がそれにふさわしい形状を創作するというケースはあります。

                 


                ちなみに性相には二種類あるように感じます。
                主に反応として現れる性質・機能としての性相と、積極的方向性を持つ性相です。
                だけどそれさえ心情的powerの違い
                であり、
                性質と異なる用い方をしようとしてもそのようには働かないのは微弱ながら意思ともとれる。
                形状は第二の性相だと原理は示している。
                結論を急ぐのはやめよう。
                そのような観点があることを意識にとどめて論を進めよう。

                 

                 

                 

                 

                 

                 

                では第一の日の性相部分から考えていきましょう。

                 

                創世記 1:1〜2 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。

                 

                この時に、原初の神様は性相と形状を持っていたとシリーズの『2』で書いているのですが、
                この形状は物理的な質量を持つものではありません。
                まだ質量は創造されていませんから。

                 

                実にこの形状自体、精神的な存在であり、心の移ろいの形(陽陰)が見出されたという内容です。
                私たち自身、自分の心の中に明るい部分と暗い部分を見出すことができます。
                満ち足りた部分と空虚な部分と感じる人もいるでしょう。
                精神は精神それ自体の形を見出したのです。
                この時点での形状は精神それ自体であるので性形を分かちがたい存在なのです。
                統一思想ではここでの形状を“前エネルギー”と命名してしまったが故に創世の発展的な展開を見えにくくしてしまいました。
                質料としての本形状が原存在である神に内包されているという大前提がそうさせたのだと思います。
                夜の神様・昼の神様の観点と統一思想の観点の相違については回を改めて検証する必要があるかもしれない。

                 


                カオスとしての原存在が
                意識として自己の形状を認識(授受)し、神としての自我を形成する。
                性相が形状を認識することをもう一段階展開すると、

                 

                カオスから自我意識へ

                 

                 

                対象格の形状内部の陽陰が主体格の性相を中心として
                対比型の授受作用を起こして認識対象としての“形”を生成している。
                つまり、主体格の性相、対象格の陽と陰で三者が分立(確立)したことになります。
                三者の確立によって運動が始まり時間とエネルギーが生まれるのです。

                 

                 

                主体対象の相互関係   主体対象の相互関係と様相

                 

                 

                ときに、これを精神であると考えるのは有神論の立場の考えです。
                無神論の立場に立ってみれば、精神存在ではなく質量を持たないエネルギーと見ることでしょう。
                現代科学が質量を持たない存在を存在と認めているのかは不明ですが、
                認識する観察者があって初めて存在は存在足り得るという考え方が認められつつあるので、
                観察可能なものであれば、それは質量としての観測に限られるものではないでしょう。
                (観測可能な事項として反射とか、抵抗とかあります。しかし、唯物的に考えたら観察者は誰だろう?)

                 

                私たちは有神論を前提としていますので、最初から精神存在であると考えます。

                 

                心の移ろいの中に、微妙な差異、特徴を見出してゆくと、それぞれの個性が見えるようになります。
                個性が見えれば個性毎の分類が可能になってきます。(陽陰の差異・量から意味の創造)
                神はご自身の精神の中にパーテーションを区切るように分類したものを固定化したであろうと想像できます。
                区切られた一つ一つがロゴスとして定着したのでしょう。
                神は創世第四の日までひたすらに分け続けています。

                 

                これは授受作用による新生体と言うよりは、正分合作用の分割体のように見えます。
                授受作用の刺激によって正分合作用の“分”が促されているように見えます。
                分かたれることで座標が増えれば運動は複雑化し、共鳴・共振によってエネルギーとしての増大が考えられます。

                 

                一なる存在は無限小ですが、同時に無限大でもあり得ます。
                比較対照する存在が無いので、大きさの基準が無い
                のです。
                区切って増えることは単に拡大していくことと何ら変わりはありません。

                 

                “分かつこと”がそのまま“分かること”に繋がって概念系が増大してゆく様は、幼子の知的好奇心とよく似ています。
                私たちの心に拡大すること、増加することが楽しくエキサイティングに感じるのと同様に、
                原初の神もそこに楽しさを感じたなら、増大することに躊躇はしないでしょう。
                そして精神存在は分割した総量が同一だったり減少したりすることはなく嵩(かさ)として増大します。

                 

                もしもこれを喜怒哀楽のないエネルギー存在であるとすれば、増大する根拠はどこに見出せるでしょうか?
                物理的存在を細かく分割していっても、総量は変化せず、内容にも変化はありませんが、
                これが精神的存在であるがゆえに、分割された存在には性相による創造性によって新たな個性が見出されてゆくことが可能になります。
                これは主体によって見いだされることで対象が存在を確立できるペアシステムの根源でもあります。

                 

                増大すること、それが最初の意思だったかもしれません。

                 


                さて、精神的存在を分割していって、現れる者はやはり精神的なものであろうと考えられます。
                しかしそれらの全てが人格的な喜怒哀楽の全てを有していたとまでは考えにくいのですが、
                微弱な消極的意思を持っていると表現していいでしょう。
                主体格性相的神は無数のロゴスを生むことによって繊細な精神構造を作り上げていたことが想像できます。
                全ロゴスに対して主体格であるということは、全ロゴスと相対できる心情を備えていることを意味します。

                 

                そこで創造された特別な存在が光であったなら、
                創造主はそこに何を求めたでしょうか?
                ご自身の心情に相対できる存在を求めてしかるべきでしょう。
                「神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。」
                光は闇から分かたれた、独立存在として創造されています。
                つまり、独立した実体であり、全ロゴスと相対できる感性を持ち合わせるロゴスの総合実体としての立場ということが考えられます。
                そして微弱ではない明確な意思を持ち合わせる、
                つまりは闇の相対に立つ者ということであり、当然、闇は光を愛します

                 

                アダムの肋骨を切り取ってエバを創造されたのと同じく、
                闇は自身の一部を切り取って光を創造したことが予想されます。
                光には大きな心情的キャパシティーが与えらえていたでしょう。
                ここは未だ謎ですが、記憶が委ねられるtopos(場)があるはずなのです。
                PCのハードディスク容量が大きいと考えてください。
                勿論物理的存在ではありません。
                “振動する存”在、“薀”、“霊的要素”になると思われます。
                しかし創造された時点では、情報としてはゼロであり、
                創造後、闇の中のロゴスと授受する中で夜の神の相対として完成すると考えられます。
                明確な意思とは、心情と知性の授受作用によって生まれる合成体と見ることができるからです。

                 

                 

                 

                ヨハネ 1:1〜5 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

                 

                言=ロゴスは間違いないと思います。
                ロゴスの内に命があることにも納得がいきます。

                 

                命は光であった、光は闇の中で輝き、暗闇は光を理解しなかったと続くところは愕然とします。
                夜の神様昼の神様の観点からいけば、ロゴスと光は別存在です。
                言の内に命があったのなら、命は夜の神に属し、光は昼の神をさします。
                闇と光の授受によって命がなされた、また、その授受によって光がロゴスを相続したと考えれば、
                命が光であるという表現、言と光が一体をなしているかの表現も不可能ではないと思いますが…。

                 

                そしてとどめが『暗闇は光を理解しなかった。』なのです。
                つまりこの聖句は昼の神の立場に立った言い分なのです。
                光は闇に理解されていないと感じています。
                これは光もまた闇を理解していないことを想像させます。

                 

                 

                 


                夜の神と昼の神の間になぜ隔たりが生まれたのか?

                 

                 

                 


                光はロゴスによって霊的実体を生み、
                霊的実体によって森羅万象を生むという、
                いわば多くの生みの苦しみを味わったと感じているかもしれないと思えるのです。
                また、以前にこのブログにコメントを寄せてくださったミラクルサプライズさんのブログからヒントを得れば、
                エバはアダムに強姦されたという主張から、
                昼の神は不本意ながら夜の神と授受を持ち、それがさながら強姦されたように感じたかもしれません。
                彼の記事も一方的に昼の神の主張に見えます。

                 

                そして気になっているのが第二の日の出来事です。
                創造の七日間、休息された第七の日以外で『良し』とされていない唯一の日が第二の日です。
                光が生まれた翌日ですね。

                 

                創世記1:6〜8 神は言われた。
                「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
                神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。

                 

                第三の日の創造は天の下の水に対して行われています。
                天の上の水は分かたれてこの後出てくることがありません。
                光が相対したのは天の下の水だけです。
                水はロゴスであろうと考えます。
                この時点で水(=形)と表現できるものは他に見当たりません。
                これは昼の神が嫌ってロゴスを分けたのか、
                それとも夜の神が昼の神に渡すことを躊躇してはじいたのか?

                 

                とにかく、昼の神は夜の神の全てを知る者とはならなかったようです。
                つまり完全な相対として立つことができなかった。

                 

                大空の上の水はパンドラの箱なのかもしれません。
                愛する者には良いものだけを与えたいと考えれば、苦しみや悲しみは与えたくないという発想を持ってしかるべきです。
                しかし、全てを理解できなければ完全な相対基準を結ぶこともできない現実もあります。
                パンドラはギリシャ神話で最初の人間の女性として登場しています。
                開けてはいけない箱を開けて狂ったのか?
                開けるべきタイミングがあったのかもしれません。

                 

                 

                 

                なんだろなぁ、書いていてきりがないしちょっとくたびれてきたので続きは次回ということで、
                今回はあと図を作ってアップしちゃおう…。
                読んでくださる方にはもう図が入ってる状態でここにたどり着けるように…。
                読む方もしんどいでしょ?

                | おーば | 夜の神様 昼の神様 | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                夜の神様昼の神様の観点から堕落論を考える-5
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                  さて、きちんと整理して書きたいと思いつつ、やっぱり暴走しがちです。
                  前回を『番外』にしましたので、『5』としてふさわしいのはどの内容になるのか?
                  ロゴス界の生成と、霊界の生成について書きましたが、地上界の生成について書いていません。
                  ここを書こうと思えば、どちらかと言えば『4』がふさわしいように思います。
                  しかし暴走してしまった者は仕方ありませんので『5』です。

                   


                  この部分に至ると、存在者の数が増えてきていますので、
                  未だ明確な回答が得られていないのが本音です。
                  だから『4』として著すことができなかったのだと思います。
                  幾つかの可能性が考えられます。正直に書きましょう。


                  地上界の生成についての四位基台を考えるためには
                  四位基台の基本を明確にする必要もあります。

                   

                  ●結果に表れる要素は全て原因存在に内包されています。

                  ●分立された主体は“正”と一体化していなければなりません。
                  “正”と一体でなければ目的からズレた結果が生まれるからです。
                  これはアベルカインの問題でもアベルが神様と一体とならなければいけない、
                  つまり“実体(四位)基台”の前に“信仰基台”が立っていなければならない理由でもあります。
                  “信仰基台”は神と我の一対一の関係なので四位基台にはなりません。
                  強いて言えば
                  神を中心として、
                  御心に叶う供え物を対象とし、
                  私が主体として立って、
                  結果中心人物として神の側に立つ信仰者という新生体が現れるという表現が可能です。

                   

                  ※四位基台の要素はこれに留まりませんがここでは上記二点に注目します。

                   


                  地上界を生成する時に存在していたと考えられるのは、
                  概念世界の“夜の神”“昼の神”“ロゴス”

                  霊界の“生命の木”“善悪知るの木”“霊的実体”および霊的実体の中に含まれる“天使”
                  夜の神と生命の木、昼の神と善悪知るの木はそれぞれ共鳴関係によって心と体の関係で一体であるとします。
                  そうすると、ロゴスと霊的実体も心と体の関係かもしれません。
                  だとすれば、大きくは三者の心と体があったということです。
                  (但し、霊的実体は複数存在することが可能であったでしょう。)

                   

                  授受作用によって生み出される結果存在の内容が物理的被造世界であるので、
                  授受する主体と対象の中に“量”の元となるエネルギーと、“形質”の元となる青写真が必要です。
                  “量”は形状的内容であり、“形質”が性相的内容となるでしょう(形状は性相を映すものなので第二の性相)。
                  しかし、“エネルギー”が“生命”を意味するのであれば逆転します。

                   

                  聖書を信頼すれば物理的創造は三段階
                  第四の日に天体(space、“場”toposであるとも考えられます。)
                  第五の日に水中生物と鳥類(ちょっとこじつけかもしれませんが環境整備と考えられます。)
                  第六の日に人を含む陸上の生物(肝心要の創造目的の実体。喜びの対象。)
                  とあります。

                   

                   

                   

                  第四の日の出来事として、私は広研の見解を概ね支持します。
                  【比較神論10】「ヒッグス粒子」と「質量」

                  http://hiroken2015.blog.fc2.com/blog-entry-38.html

                   

                  コメント欄に「難しすぎる」と私も書き込みましたが、
                  それでも“光の啓”さんなどのコメントも含めて興味深い記事です。

                   

                  上記記事本文からの引用です。
                  >まず“動いているもの”がはじめにあって、それに“動きにくさ”という働きが加わって、はじめて「質量=物質」ができあがっているということなのです。
                  “動きにくさを与える”というのは、言葉を換えれば、無方向にただ振動している(スカラー的)エネルギーに、“特定な方向性(ベクトル)を与える”、すなわち“限定する”ということに他なりません。<

                   

                  この文章だけでも、物質が質量を持つことも二者の授受作用によって成立していることが表れています。
                  無方向に振動する身体としての対象(=ウィークボソン)、
                  ベクトル(意志)を与える主体(=ヒッグス粒子=神の粒子)です。
                  ウィークボソンはゲージ粒子の仲間の様ですが、このゲージ粒子には光子も含まれています。
                  身体側の粒子として昼の神の姿がうかがわれます。
                  これは科学を扱う一般のサイトでも書かれている内容です。
                  ただし、説として支持を集める内容であってもまだ十分に解明されきった内容ではないかもしれません。

                   

                  ここで質量を得た存在が、それこそ物理的に集合して無機的な天体を形成できるようになるわけです。
                  集合する性質(内的意志・物理法則)を予め与えられているということなのでしょう。
                  (目的を正とする両側無意識型四位基台による合成体の生成?)

                   

                   

                   

                  第五の日に対象位置に来るのは、第四の日に生成された質量を持つ粒子と考えられます。
                  誕生するのは生命です。
                  天体の現れる以前、第三の日に創造された植物は霊的存在を表現していると仮定しています。

                   

                  生命の誕生について検索してみると『海洋スープ説』や『表面代謝説』などあります。
                  また、地球外部から飛来したものという考え方もあります。

                   

                  単位膜系を有し(外部環境から独立した存在)、
                  自己複製能力を有し(繁殖能力)、
                  生理代謝を行う(外部から栄養を取り込み、体内の不要物を外部へ排出する。成長する。)という特徴を持つ生命です。
                  無機物から有機化合物(炭素化合物)が生じて雷や地熱などのエネルギーと反応して生まれたという考え方の様です。
                  エネルギーを与える主体が存在するところに注目してください。

                   

                  発生当初はは細菌のような存在で、
                  そこからどんどん進化してきたと言うのが一般的表現なのでしょうが、進化過程も創造過程だと私は考えています。
                  つまり進化過程にも主体的エネルギー投入あっての進化だと考えています。
                  進化するための設計図は霊界において既に描かれている霊的実体であろうと考えられます。
                  霊的実体が我先に地上界に実体化することは、森羅万象の存在バラ
                  ンスをとる上で不可能なので、交通整理していた存在も想像できます。

                   


                  第六の日には地上生物の創造とあります。
                  私はこれを、“有意識生物”と受け止めます。

                   

                  人類は喜怒哀楽を持ち、自らの考えを持って行動します。
                  個性によって嗜好性の違いも発揮します。
                  植物や魚類の行動を見る時、それは個性的行動というよりは本能的反射によっての行動が殆どであると感じます。
                  勿論、人間にも本能や反射による行動はありますが、本能や反射さえ制御しようとする意志力を持っています。
                  猿や犬、馬などにも、群れのリーダーや主人に従って本能的行動を制御する行動を見ることができます。
                  群れのリーダーには危険回避や食糧確保など、群れを守ろうとする行動が見られます。
                  つまり意思を持って行動しているということだと思われます。
                  一般には知能の高さと表現されます。

                   

                  群れを持たない、社会性のない動物はどうなのでしょう?
                  逆に第五の日に造られた鳥類でも渡り鳥などは意思性を持っているようにも見えるかもしれませんね。
                  意思というものが情緒性と知性の複合物であるとすれば、
                  情緒性の発動においては鳥類よりも哺乳類の方が一様に強く感じられます。

                   

                  鳥や爬虫類を対象に、情緒性や知性を注入されたのが第六の日に行われた授受作用だったのでしょうか。
                  勿論、肉体的変化も同時に与えられているのです。
                  胎に子を宿す感覚や授乳は、母性の情緒性を強く引き出すものです。
                  勿論、これも霊的実体の設計図によって、地上界に実体化するということです。

                   

                  なるほど、肉体的実感が情緒性を引き出す。
                  書いていて改めて思わされる、霊人体の成長が肉身生活を通じてなされる具体例ですね。
                  家族の形成、群れの形成によって(横的範徒の形成によって)、(縦的)心情が成長するのです。

                   

                   

                   

                  さて、
                  創世4日
                  第四の日には
                  創造目的を中心として、

                  主体にロゴスとしての物理法則、

                  対象にエネルギー体が立ち、物質生成が成され、


                  第五の日には
                  創世5日創造目的を中心として、

                  主体に設計図としての霊的実体(天使)、

                  対象に質量を持つ物質が立ち、生命体の形質が生成され、
                  恐らくはそこに生命の木から生命の種を受けて生きたものとなり、


                  第六の日には
                  創世6日夜の神の有り余る、あふれんばかりの情緒性と意志力を受け止め

                  発揮できる形状を、第五の日と同じプロセスで実体化し、
                  物理的世界との授受作用によって永遠に成長を持続できるシステムを

                  形成したはずだったということです。

                   

                   

                   

                   


                  形状的展開から性相的展開へ
                  次は意識の変遷に注目してみましょう。

                   

                   

                   

                  ※第四の日の説明文の中で『ベクトル(意志)を与える主体(=スカラー粒子=神の粒子)です。』

                  となっていた部分を“スカラー”から“ヒッグス”に修正しました。(9月11日22時)

                  | おーば | 夜の神様 昼の神様 | 02:10 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  夜の神様昼の神様の観点から堕落論を考える-番外
                  0

                    夜昼の神様の御言はなにかとんでもなく恐ろしいものに見えてきました。
                    考えをまとめていこうとする過程で色々と見えてくることが多いです。

                     

                    『主管性転倒』一つとってもとんでもないことで、“男女”の意味さえそれを表すことになろうとは…。
                    “男女美化粧品”というのがアボジの命名であることを聞いて、正直センスを疑ったのだけれど
                    “男女”の意味が主体対象を指すと考えれば、それが美しい姿というのはつまり、本然的であることを表現していたのですね。

                     

                    霊界を最初に紹介した図のように捉えていると、御言に新しい登場人物が現れるたびに役者の数がただ増えるばかりです。

                    空の上の霊界
                    しかし、四位基台の原理に当て嵌めて考えると創世当時には登場人物の数は限られます。

                     

                    生物学的血液や精液など持つはずがない霊的存在にとっての“血統”が意味するところも見えてきました。
                    具体的には“ロゴス”であり“御言”を指します。
                    “御言”が“種”であるというのはイエス様の表現です。
                    “種”というのは日常的な言語生活で“精子”を指すことがあるのは周知のことでしょう。
                    “ロゴス”に対して愛して従順屈服して一体化しなければならなかった“昼の神”が主管性転倒して
                    “ロゴス(種)”を逆主管すると、授受作用の結果“ロゴス”が変形・変質します。
                    変形・変質したものが“天使長の精子”と表現されたと考えられます。
                    「絶対服従、絶対信仰、絶対愛」というのは“昼の神”に求められた基準であり、
                    本然に帰るために必要な基準なのかもしれません。

                     

                    この変質した“ロゴス”によって生まれた者たちが“狂った者たち”であり天国へ行かれない“堕落の血統”のです。
                    ところで、ロゴスとも言える御言に主管されずに、これを主管し、改竄したと言う問題がしばらく前にブログ村でも大きな話題となりました。
                    そこから来た“祝福”は…サンクチュアリの主張と同じ結論に至ってしまいますね。
                    だからと言ってサンクチュアリの指導が全く正しとは考えていません。

                     

                    このことを書くのは何かに引っかかることになるのかとも感じられるのですが、
                    こんなランキングの低いブログの思い付きみたいな言葉に信憑性や影響力はありません。
                    つまり理解して共鳴するような読者があるとすればその人の霊的基準によるものと判断できますから問題はないでしょう。
                    アボジが語ったら引っかかるけれど子女の責任分担で悟る必要があるというのは霊的・心情的成長が必要だと言うことだと思います。

                     

                    御言改竄のことは創世当時を再現していることと考えられますので、
                    その次元を蕩減復帰するために表れていることとも捉えられます。
                    神様の蕩減です。
                    だとすれば、アボジはなんと恐ろしい方かと震え上がってしまいます。

                     

                    「このことを教えてあげたら私は路上で殺されていた」というのも、
                    慣用句的表現で「路半ばに倒れる」というのが目標・目的に到達できずに死んでしまうという意味で捉えれば
                    「目標に到達したからこのことを教えることができる」と言われているように感じます。
                    つまり、全て成し遂げたという基準だと言うのでしょう。

                     


                    そして天使の問題。
                    ルーシェルは昼の神が堕落(霊的)することによって僕に堕ちた姿ではないかと思えます。
                    きっと心情圏が僕だったのでしょう。
                    すると、他の天使は?
                    これは八百万の神のことらしいですね。
                    欧米風には精霊なのでしょうか。
                    堕落していない存在として、昼の神が主管性転倒する以前に霊的実体として生んだのでしょうか?
                    また、時代が進めば地上で生活して肉身を脱いだ人たちも、天使と同様の働きをすることは可能でしょう。(善霊の業)

                     

                    概念世界の夜の神と霊的生命の木は、心と体の関係。
                    昼の神と善悪知るの木の関係も同様。
                    地上のアダムとエバは霊的には夜昼の神とは別存在なので“親子”と表現される。
                    従って、心と体の分離は概念界と霊界の分離であり、霊界を昼の神が牛耳っていることから夜昼の神が分かれていることを言います。

                     

                    個人のアイデンティティは一生涯の記憶に依存する。
                    この記憶がそのまま霊人体なので、霊界に行けば若いときの姿から老齢の姿まで変幻自在となる。
                    これは記憶の中に全て入っているからだと言えるでしょう。
                    つまり私たちの肉体は地上にありながら霊人体は霊界において成長し続けているということ。
                    スピリチュアル系で前世と呼ぶ存在は、私たちが生まれたときから傍にいる協助霊と考えていいでしょう。

                     

                     

                     

                    …夜の神昼の神の問題を考えていくとこれらの事柄がすさまじい勢いで頭の中を巡ります。
                    先週末は書きかけて書ききれずにアップすることができませんでした。
                    ちょっとエネルギーが必要なようです。
                    エネルギーと言えば心的エネルギーなのですが、
                    心的エネルギーも物理的エネルギーも全て運動(振動)に換算されると思われます。
                    心的エネルギーは感動することで大きくなります。
                    これってフリー(無料)エネルギーかもしれません。

                     

                    こんな具合で書き始めると色々浮かんで収拾がつかなくなります。
                    テーマを絞りながら書くしかないでしょう。
                    もうちょっと頑張りますが、書ききれないことを危惧して概略をアップしておきます。

                    | おーば | 夜の神様 昼の神様 | 07:07 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
                    夜の神様 昼の神様の観点から堕落論を考える-4
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                      MCIで見た御言(ブログ2013年5月の記事より)
                      2012年1月11日江原道のホバン室内競技場で行われたお父様のスピーチの中で語られたお父様のコメント
                      「私は最近、夜の神と昼の神について話している。また私は、神には弟があり、したがってアダムにも弟がいて、これがルーシェルだとも言った。これを教えたのは最近のことだ。(声を張り上げて)なぜこれまで、このことを私は教えなかったのか?(そうしたら)私は路上で殺されていたからだ。」
                      「夜の神と昼の神とがある。そして夜の神は間違いを犯さなかった。身体の神としての昼の神が堕落した。夜の神が男性であるとしたら、昼の神は女性だ。そして彼女が堕落した。
                      エヴァは神の弟にまたがった。そしてアダムの年下のいとこが事態を逆さまにしてしまった。そのような原理はないし、創造のプログラムの中にそれは見当たらない。
                      昼の神は女である。女が神の弟の腹の上のまたがり、彼を堕落させたのだ。その過程において、彼女は下になり、神の弟を自分の上に乗せ、そして彼女は種を受けた。
                      しかし彼らの子供たちは狂った者の子供たちで、彼らは天国へ行くことができない。事態をどう再逆転すべきかを誰も知らない。ただレヴァレンド・ムーンだけが知っている。
                      天地人真の父母によって、夜の神と昼の神は解放された。どうして被造物が創造主を解放できるのか?どうしてそんなことが起こり得るのか?」
                      (通訳者:私は昼の神が女性であると初めて聞いた。お父様がどういう意味でそう言われるのかが明白になるためには、さらに話を聞く必要があるだろう。お父様は二日前に、天使長も精子を持つと言われたばかりである。

                      ------引用終了------

                       


                      あちこちで引用されている御言だと思います。
                      ショッキングな内容だから広まったのかもしれません。
                      web上で見ているだけなので真偽のほどは確認できませんが、とりあえず信用して当て嵌めてみます。

                       

                       

                      創造三段階

                       


                      “神の弟”という位置はすぐさま見出すことができません。
                      “夜の神”=男性(図の左側)
                      “昼の神”=身体・女性(図の右側)…これらは対象格であるこを示していると感じます。

                       


                      堕落はどこから始まったでしょうか?
                      エバとルーシェルの関係から始まったと私たちは学んできました。
                      『女が神の弟の腹の上のまたがり、彼を堕落させた』という文章はエバとルーシェルの間の出来事のように思われます。
                      すると“神の弟”=ルーシェルでしょうか?
                      しかし、この文章には冒頭に『昼の神は女である。』と付いています。
                      女=エバではなく、女=昼の神ということでしょうか?
                      そうすると堕落は昼の神と天使長ルーシェルとの不倫関係になり、人間と直接関係のない出来事になってしまいます。
                      (それでいいのか?!)

                       

                      ルーシェルが何者なのかをもう一度考えてみましょう。
                      天使とは霊的な存在だと私たちは学んでいます。
                      そうすると、ロゴスと昼の神の授受によって生まれた霊的実体の一つである可能性が強いでしょう。
                      そうだとすれば、“弟”というのは意味が分かりません。

                       

                       

                      堕落論からするとルーシェルは

                      『神と同じ立場に立てず』『位置を離れ』『主観性を転倒し』『犯罪行為を繁殖しました』
                      ルーシェルは昼の神を主管したということでしょうか?そのようにも考えられます。

                       

                      ルーシェルは“明けの明星”“天使界の祝福の基”です。
                      この表現からすると、最初の光であり、霊的実体を生む立場である昼の神と重なります。

                      このことから、ルーシェル=昼の神と仮説を立てます。

                       

                      霊的実体の創造

                       

                      昼の神は女性で、これは対象格を表しますが、この立場から主管性転倒すると主体格(図では左)に立ちます。
                      主体格は男性です。
                      男性神として夜の神が居られますから、昼の神が男性化したなら次の立場の男性になり次男です。
                      つまり弟の立場の神にならないでしょうか?

                      昼の神はどこで主管性転倒したのでしょうか?
                      考えられるのは、夜の神から受けるロゴス(種)の対象となり霊的実体を生む(繁殖す)べきところ、
                      自らが主体となりロゴスを対象化して主管してしまうというケース。
                      もう一つは物理的実体を生むときに主体化した可能性もあるかと思います。

                       

                      霊肉の二段階の堕落と考えれば両方と捉えてもいいのかもしれません。

                      “アダムの年下のいとこ”いとことは、叔父叔母の子供を指します。
                      アダムは本来“夜の神”の息子ですから、叔父さんというのは“昼の神”から転じた神の弟ルーシェルと考えられます。
                      ルーシェルの種を受けた子供として、エバが生んだ子供を指すと考えられないでしょうか?
                      つまりカインとアベルの問題までを人類始祖の犯罪行為として語られている。

                       

                       

                      とりあえず書きましたが、図と照らして整理しなおす必要がありそうです。

                       

                      | おーば | 夜の神様 昼の神様 | 00:43 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
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