おーばのつぶやき

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
成長八段階-次の展開について
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    全てが総合的に通じてくる話ではあるのですが、
    様々なパーツが無数に表れます。
    どういう順序に整理すべきか悩みます。

    八段階の成長段階の話を続けるには、
    陽陰の問題を書かなければなりません。
    しかし、この問題は膨大なものになるでしょう。

    何故か?

    庶子から実子に上がっていくときには祝福の問題が絡みます。
    何故祝福は結婚という形式を採るのでしょうか?
    陽陰が揃わなければ完成できないと考えることができます。

    文師が真の母を立てるためにどれほど苦労したかと語っていたことがあるでしょう。
    そして、今、韓鶴子女史の立場と人格を問う声が多くあることも関連するところです。

    そして、堕落の始まりが天使長とエバの関係に始まっていると語られていることも重要です。



    女性の問題について断片的ですが少し書くと、

    ●聖母マリアは長子としてイエス様を生みましたが、
    文師は次子として生まれています。
    これは、ユダ族にタマルの胎中聖別の条件があったからで、
    イスラエルの失われた11部族のいずれかがアジアに到達して現代摂理の基となっているならば、
    そこには胎中聖別の基台がありません。
    つまり、次子として生まれて長子を屈服するという路程が残されることになります。

    ●母子協助の必要性が原理の中に表れますが、
    その中で復帰すべき心情については手がかりがありません。
    そもそも、原理には心情世界がほとんど書かれてはおらず、
    心情世界を尋ねる為には御言から感じるしかありません。
    しかし、御言は主体格である文師のものであり、
    対象格の情を語るものではありません。
    心情の神が人に心情を求めない訳はありません。

    ●エバは聖書によれば“人(アダム)の助け手”として創造されています。
    それは何を意味するのでしょうか?
    つまり、本然の女性とはいったいどんな存在であるのかという問題です。
    現代社会では、男女同権が叫ばれて久しく、
    男らしさ、女らしさには注目されることが少なくなりました。
    しかし、人は陽陰の存在として創られています。
    果たして繁殖のシステムのためだけにそのようにされたでしょうか?
    そうならば、カタツムリのような雌雄同体で繁殖時のみそれぞれの役割を果たせばいいのです。
    しかし、人の体はそうなっていません。
    陽陰に意味が無いはずはないのですが、それは失われたままになっています。

    ●女性が立てなければならない信仰の基台、心情の基台はどのくらい成立しているのでしょうか。
    メシアが相対を復帰して立てなければならなかったという原理があるならば、
    韓鶴子女史が復帰されたエバになりきれていなければ、
    次代のためにその準備を整えようとしたことは間違いないでしょう。
    エバ国のエバが苦労の道を行かなければならない理由はそこにあり、
    アラスカ・コディヤックでも日本の女性たちの信仰的勝利によって八定式が制定されました。
    恐らくは、六マリアの問題も、韓国へお嫁に行って苦労している姉妹たちの心情基盤も
    全て新たにやってくるべき“エバ”のために仕向けられたものではないかと感じるのです。



    “実子”について考えるのに、妾、母の問題を必要とします。
    妾、母を考える上でこれらのテーマをクリアする必要があるのです。

    これは、大変重要な問題です。
    天使長は最初のエバを蹂躪しました。
    だから堕落人間は天使長の立場でエバを教え育み、アダムに奉献しなければならないでしょう。
    そのとき初めて“仔羊の婚宴”を迎えることができるのかもしれません。
    本然の女性がどんな存在であるのかを知らずにどうやって育てることができるでしょうか。




    成長の八段階を考えていくと、縦と横があります。
    話題に上るのは主に縦八段階ですが、
    横の問題も重要なものなのです。
    横については陽陰の問題に触れずに書くことができます。

    “僕の僕”の横をたどれば“個人”になります。
    “実子”の横をたどれば“国家”になります。
    “父母”の横をたどれば“天宙”です。

    “僕の僕”は“個人”のことしか考えることができません。
    “実子”は“国家”のことを考えることができるのです。
    “父母”は“天宙”のことを考えて語られます。

    “庶子”が“国家”について考えても十分な考えには至れないということです。

    “良心”という言葉のヨーロッパ語での語源は“共に知る”ということになります。
    成長段階に応じて、横の広さと“共に知る”ことが可能であり、
    “僕”には家庭的良心があり、
    “養子”には氏族的(仲間内的)良心があり、
    “庶子”には民族的(ナショナリズム)良心、
    “実子”には国家的良心、
    “夫婦”には世界的良心、
    “父母”には天宙的良心があるのです。
    逆に考えれば、天宙的良心を持つ方が“父母”であり、
    国家的良心の持ち主が“実子であり、
    氏族的良心の持ち主が“養子”なのです。”

    “天宙的良心”はそのまま“原理”であろうと感じられます。
    天宙と共に知るということになれば、天宙と矛盾しません。
    天宙と調和整合するのです。
    しかしこれは、原理を完全に理解するためには父母の心情に至らなければ不可能だということになります。

    だから私たちには父母が必要なのです。
    父母に習って成長段階を上がらなければならないし、
    上がっていくことができるのです。

    文師が御言を語る上でヨーロッパ語の語源を意識されているのかは不明ですが、
    このように考えたときにも“良心”はとても重要なものと考えることができるのです。


    この原理観から、統一原理が真に原理であるかを検証できるのです。
    原理講論においては、『弟子が聞いた一部分である』という
    序章に於ける著者の告白がありますから、
    内容についての検証が必要なのです。
    また、御言に於いても、比喩、例え、暗号であるという主張が妥当であるかは、
    整合性による検証が可能になります。

    信じがたいものを信じることが信仰であるという信仰観を持つと、
    御言を検証するなどということは不可能です。
    しかし、養子圏の信仰は、「分からなくとも信じる」ことが求められる時期であり、
    それは“霊”の成長のためには必要で、通過しなければならない段階なので、
    きっちりと体験した上で“卒業”が求められるようになるのです。

    卒業するためには単位を取らなければいけませんから
    養子圏のカリキュラムに特化した参考書やゼミナールが必要かもしれません。


    さてどこから書いてゆくべきなのか。

     

    | おーば | 心の成長 | 21:05 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    成長八段階-庶子・実子・母
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      好き勝手に書いていますがなかなか表現がうまくありません。


      個人は家庭から愛されて成長しますから、
      家庭の影響を大きく受けます。

      家庭は、生活圏である地域コミュニティの中にありますので、
      コミュニティから受ける影響を排除することができません。

      この、影響の中に、『罪』が潜みます。
      連帯的罪、遺伝的罪が、このような影響とともに入ってくるのです。
      『罪』を犯す性質ということです。

      このコミュニティが、太古では“群れ”であり、
      現代の経済在システムの中では“企業”であり、
      子供たちの教育現場では“学校”や“PTA”であり、
      趣味の活動では“サークル”という形をとり、
      個人の宗教活動のなかでは“教会”“氏子”“道場”などの単位であり、
      エリアによっては“町内会”や“自治会”“農協”などが多様に機能しています。
      血縁による“親戚づきあい”が生きているところも勿論あります。

      家庭に影響を与えるこれらのコミュニティが
      八段階で言われる“氏族”にあたっているのです。

      この氏族圏が神の願いに安定的に立つことが出来れば、
      家庭が安定し、個人も安定できるのは、誰でも想像に難くないでしょう。

      この氏族コミュニティも、国家的な政策に影響を受けるのですが、
      氏族圏拡大によって、国家に対する発言力を持つことが可能になり、
      氏族圏を代表して発言権を持つことができるのが、“氏族メシア”の立場になります。

      “氏族”をまとめ、代表して発言できる立場は、国に歓迎される立場であるので、
      これは“国家的に祝福されている”立場になります。

      “宗教の祝福”宗教=氏族という図式から、“氏族的祝福”ということになります。
      子供は家庭に生まれるとき、『祝福』されて生まれてきます。
      生まれてくる新生児の時には僕の僕ですが、程なく乳幼児つまり僕になります。
      『祝福』という言葉はUCでは『結婚』と結び付けがちですが、
      一般に『祝福』とは祝われ、歓迎されることです。
      乳幼児、僕の立場が横的に家庭に対応していることから、
      家庭に『歓迎される』=『祝福される』立場というのを見ることができますので、
      国に『歓迎される』=『祝福される』立場は、縦横の関係から“実子”と見ることができます。

      つまり、氏族メシア完成者の立場が“実子”であると言えます。

      と、言うことは、“庶子”はホームチャーチを待望したとしても完成はできない立場になります。


      庶子と実子を分けるものは何か?

      真のホームチャーチを持っているか、いないかだけなのか?
      だから天使はホームチャーチを奪うためにエバを誘惑したということなのか?

      持ち物だけで人間の価値が決定するとは思えません。
      しかし、ホームチャーチは持ち物とは違います。


      一家の長となることは、
      家財を持つこともあるかもしれませんが、
      妻子を愛する情が何より重要です。
      この情は妻がいなければ発露されず、
      子女がなければ発露されません。
      しかし、その情自体は夫であり、父である“彼自身”そのものです。


      ホームチャーチを主宰するのも同様で、
      実体的ホームチャーチを愛する心情が実子の心情基準と言えるでしょう。
      すなわち、庶子の次元では、神と我の関係は結べても、
      人との関係が結びきれないのです。
      包容力と分別力の両方を備えなければ、
      ホームチャーチを円満に主宰することはできないでしょう。
      庶子の多くは分別力に優れても、包容力に欠けることが多いようです。



      これまでに、氏族にあたるコミュニティは無数に存在していますが、
      天の願いに叶うコミュニティは一つも存在していないということです。
      (イエス様のコミュニティは霊的にのみ御意に叶い実体がついてこず、
      統一教会も、形は整えたものの、内容はいかがなものかという現実です。
      ---実体的な実子としては未完成ということになるかもしれません。)
      イエス様や文師は包容力が無かったでしょうか?


      直接お会いしたこともありませんからなんとも言えませんが、
      実子心情基準をお持ちで無いとは考えにくいので、
      ホームチャーチ未完成の理由は別なところにあると思われます。

      庶子の欠落、母の不在の2点が大きいのでしょう。
      庶子は包容力を持たずとも、範を示すことができます。
      また、“洗礼ヨハネ”としてメシアを証する使命を果たせるのは、
      霊的インスピレーションを持ち合わせる庶子基準が無ければ無理でしょう。

      イエス様と文師の福音、御言を核として、氏族メシアを完成するものが現れて初めて、
      お二人のメシア性は確立するのかもしれません。

      「ケルビムと回る炎の剣」で、
      ケルビム=天使、炎の剣=御言としましたが、
      回るが何を示すのかを書きませんでした。
      これは私も暫く理解できずにいましたが、あるとき気付きました。
      回るものが、原理講論に一つ登場しています。
      授受作用力の解説の中で、
      主体と対象がよく授け、受けるとき、たがいに回転運動をするようになるとあります。
      授受作用をする実体と、その実体が織り成す姿はフラクタル(螺旋形)構造を形成します。
      御言に則って発展する実体が回る炎の剣と考えることができます。


      縦八段階は勿論重要なのですが、
      横八段階で形成されるフラクタルな実体を無視しては
      縦を上がっていくことができないのです。




      次に進みましょう。


      実はあまり気が進みません。


      “母”の問題。
      女性の八段階について。


      “妾”についてです。


      妾といえば、六マリアとか、血わけとか、
      どちらかというと忌まわしく、語ることがはばかられる部分です。
      八段階には“妾”は存在しませんが、
      “庶子”が存在するためには“妾”が必要なのです。

      “庶子”が肉体的血統によって決定するのではなく、
      心情的成長段階で語られることを考えれば、
      必ずしも“妾”が存在する必要もないかもしれません。
      しかし、聖書の中にも“妾”が存在し、
      女性の蕩減を考えるときには無視することができないのが現実だと思います。

      統一教会の祝福の内容を考えても、
      女性はメシアの相対に立ち、男性は天使長であるとされます。
      祝福を受ける立場は縦的段階では“庶子”にあたりますので、
      ここを女性は“妾”としましょう。
      女性が主体者を産みかえるという話ですから、
      子供を生むのは“母”です。
      “養子”→“妾”→“母”という流れを予想できます。
      男性では
      “養子”→“庶子”→“実子”ですから、
      女性がメシアの相対に立ち、
      心情を相続して“母”の情で夫を息子のように愛し“実子”に引き上げ、
      その後、夫婦としての歩みを持つことができると考えられます。


      女性の八段階を考えると、
      “僕の僕”→“僕”→“養子”
      次に“庶子”ではなく“妾”
      次に“実子”ではなく“母”
      その後カップルが揃って“夫婦”→“父母”→“神”

      という不思議な図式ができあがります。

      最初の母は相対者の母であり、シングルマザーです。
      縦八段階を
      “僕の僕”“僕”“養子”“庶子”“実子”“母”“父”“神”
      とも表現されますが、これが女性の八段階を示唆し、
      五段階目には“母”と“実子”が並列され、
      各位的に“母”が“実子”よりも先に立たなければならないので
      段階として“実子”→“母”と表記されるのではないかと推察します。
      六段階目の“夫婦”に“母”がかぶって見えなくなっているような感じです。

      男性の“庶子”と女性の“妾”は
      追い出され、正式に認定されない立場として共通し、同格です。

      しかし、男性同士はぶつかりやすいのです。
      女性は、思春期から肉体的条件によって、競争や闘争を好まない傾向を持つことができます。
      (個人差がありますから断言することもできないかもしれません。)

      同世代、あるいは年齢の下の“実子”が現れた場合、
      “庶子”は簡単に屈服することはできないでしょう。
      庶子は包容力どころか協調性にも欠けることが多いのです。
      これは世俗的な思想から自身を律するためにはどうしても必要なので致し方ないことなのです。

      実際に、“母子協助”の必要性は原理の中に語られています。

      この母子協助さえ、妾の立場の話から、母と息子の性関係だという話しさえ出てきています。
      それが神様の願う、好むことなのでしょうか?
      「あなたの愛する神様は、そのような存在なのですか?」

      非物質が物質化する行程を『広神学研究所』で解説していらっしゃいましたが、
      ランダムな運動するエネルギーに動きにくさを与えて形質化する存在が紹介されていました。
      これは、運動するエネルギーが陽的実体であり、
      動きにくさを与える存在が陰的実体と見ることができると思います。
      陽的エネルギーが留まりたい形を、陰的実体が理解できていなければ、
      エネルギーを留めることはできません。

      陽と陽は反発しあいますが、陽と陰は相対できるのです。
      陽的メシアの心情を受け止めてその姿を写し取って自らの夫をその形に育てるのです。


      この、“妾”の立場が必要であったため、
      行義的信仰を求め、『六マリア』が実際に存在した可能性が考えられます。
      (私はこのことの十分な資料を持ちませんので、検証することはできません。)
      行義的信仰の基台が立った後には、
      祝福を受けることによってメシアの相対に立つことが出来ると信じる信義的信仰が求められ、
      最終的にはセレモニーを必要とせずに心情的にメシアの相対に立つことが出来る侍義信仰時代が来ることも予想できます。


      行義が必要な理由は、
      人は経験によってその概念世界を広げてゆくことが可能なため、
      実際に、そのような立場を経験することで、自らの主体が誰であるのかを知るということでしょうか。

      そのような主体者意識を持つものが環境圏を固めることで、
      それを実経験せずとも信じることができる立場が生まれ、
      普遍化してゆくことができるのではないかと考えるのです。

      | おーば | 心の成長 | 01:09 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      成長八段階とホームチャーチ-2
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        前の記事で“氏族”と“民族”の差がよく分からなかったのですが、
        “氏族”というのは苗字が同じ、つまり兄弟姉妹を指すのですね。
        一方、“民族”は苗字は違うけれど祖先が同じ血族ですね。
        “庶子”は思春期なので、
        兄弟姉妹とは別なところにに相対を探す必要があるから
        “民族”に対応するということに気が付きました。



        さて、
        人は太古から、“群れ”を作って生きてきました。
        “群れ”は人が生きていく上でどうしても必要なものなのです。
        現代社会では権利と経済の網目が社会に張り巡らされているので、
        この“群れ”の意味合いは薄められ、見えにくくなっていますが、
        人は誰でも必ず何がしかの“群れ”に所属しています。


        生きていくための“群れ”ですが、その“群れ”には常にリーダーが存在していたのです。

        群れは狩猟、採集、農耕などの食料調達に絶対に必要なものでありました。
        リーダーは、その能力・知識に長ける者が立つようになります。
        このような能力は、身体的なものもあるかもしれませんが
        直感的なものも少なくありません。
        経験を積むにしても、
        経験の中のどの部分に注目し、
        学習するべきポイントを見極めるのも直感なのです。

        そういった直感=インスピレーションは、やはり霊的恩恵であると言うことができます。
        太古の群れ社会に暮らす人々の心情基準、
        つまりは堕落直後、または本来の“人”創造以前かもしれない
        僕の僕、無原理圏の時から、人類の歴史を導く“霊”的関与があったがゆえに、
        現代の人類文明は成立できたと考えることができます。

        勿論、インスピレーションに優れているからといって“庶子”心情基準ではありません。
        “庶子”に立つものは与えられるインスピレーション霊的示しであることを知っていますが、
        そうでない人達にとってインスピレーションは、(実際には霊的恩恵であったとしても)
        自分自身の洞察力や、単なる偶然としか考えません。
        “庶子”以上の心情基準を持っていれば、
        常に信頼感謝誠実を持ってそのインスピレーションを受けるのです。
        ただし、“庶子”心情基準を一旦得たとしても、信頼と感謝を失ってしまうと
        霊的存在に従属し、文字通り“僕の僕”へと転落する恐れがあります。


        最初に“群れ”は食料調達を目的としたかもしれませんが、
        農耕技術の発達により、余剰生産物や“貯え”を持つ社会が出来上がると、
        “群れ”は形を変え、“コミュニティ”として様々な目的を持つようになりました。
        経済を中心とするコミュニティは“会社”や“組合”という形態を持ち、
        教育を中心とするコミュニティは“学校”あるいは“PTA活動”のようになります。
        信仰で考えれば、各宗教団体や“道場”“氏子”などそれぞれの呼び名でコミュニティが形成されています。

        各コミュニティにはそれぞれリーダーが立っていますが、
        持ち回りや慣習的な順番によるものでなければ
        彼らは霊的インスピレーションを多少なり受けています。
        強いインスピレーションを持つ人は“カリスマ”と呼ばれます。
        しかしそれが必ずしも善霊、神霊によるものではないことは、
        そのコミュニティ内部で争いや分裂が起こることがあったり、
        コミュニティそれ自体が立ち行かないことになったり、
        コミュニティ同士の対立が起こる事実から判断できます。

        私たちはこのようなコミュニティに所属せざるを得ないため、
        天国を待望するようになるのです。

        もしも生活全般にわたり影響を持つコミュニティが万全であり、
        争いも分裂も対立もなく、円満な運営がなされるのであれば、
        そこに所属する人々は幸福な暮らしを送ることが可能でしょう。
        それ以上の天国を望む必要は無いわけです。

        つまり小さな天国がそこに出来上がるのですが、
        どこにもそのようなコミュニティは見出されていません。
        一時的な理想世界のようなコミュニティが出来上がったとしても永続性のあるものはありません。

        それはリーダーの指導力というよりは個々人の堕落性の故と考えられるかもしれません。
        物質的な恩恵の増減によっておこる不平不満が大きいでしょう。
        モーセというカリスマに導かれたイスラエル民族は、荒野で幸福感は持てませんでした。

        だからメシアによる個々人の罪の清算が必要なのだという話になります。
        (荒野を行った者達が全て庶子、実子の心情基準であれば、彼らは主の導きの幸福感に酔いしれたことでしょう。)

        堕落論で説かれる堕落性というもの。
        ●神と同じ立場に立てない。
        ●自己の位置を離れる。
        ●主管性の転倒。
        ●犯罪行為の繁殖。
        二番目以降は全て他者との関係性の上の問題です。
        つまり堕落性はコミュニティの中で発揮されます。

        メシアであれば、これらの堕落性による習慣を
        あるいは指導しうるのかもしれませんね。
        コミュニティの成員を指導するのもリーダーの資質と言えます。

        養子圏に作られるコミュニティが氏族
        であり、
        “群れ”も含めて一般的に“コミュニティ”と呼ばれるものはここに入ります。
        つまり“氏族メシア”とは生活圏のコミュニティを神の元へ復帰する人のことを言うのですね。
        僕圏に作られるコミュニティは家庭といえます。
        僕の僕は横的段階で個人であるのでコミュニティとは関係がありません。

        “僕の僕”と“僕”の心情圏にある人たちは
        家庭の中で保護され愛され教育を受ける立場です。
        しかし現在は、それぞれの“家庭”きちんと機能できていない場合もあり、
        肉体年齢の経過により、心情年齢の伴わないままに氏族圏コミュニティに参加します。
        現代社会では、心情の成長に関心を持たず、
        肉体年齢に応じて人に権利を認めます。
        “養子”完成基準が、近代社会の生善説に基く成人基準であると感じます。
        しかし、社会犯罪が目立つようになると、
        生悪説=“僕”完成基準に合わせた法整備が成されるようになり、
        少々きゅうくつな社会になってきます。


        庶子基準で霊的主管性を立てると書きましたが、
        霊的インスピレーションの受け始めには主管しきれず多くの試練を受けます。
        それはイエス様の三大試練と同じような内容で迫ります。
        それぞれのコミュニティでカリスマ性を発揮するコミュニティ・リーダー達は
        それぞれインスピレーションに満ちていますが、
        そのインスピレーションを最後まで主管しきることができないのでしょう。
        また、コミュニティ・リーダー達の責任や心情圏は養子圏の心情では理解できるものでもなく、
        コミュニティにあっても孤独感は残され、孤独感ゆえに試練に耐えかねる場合もあるでしょう。
        霊的な主管性転倒がおこるのです。

        まだ読み終わってはいませんが、文亨進氏の『はげ頭と苺』を勧められて読んでいます。
        この本はこのあたりの“誘惑”に触れています。
        この本が彼の素直な心から書かれたものならば、
        彼もまた、“庶子”の心情を経験していると知ることができます。
        現在どのような心情でおられるかは、お会いしたことも無いのでなんとも言えません。
        (外的にはメシアの実子ですけれど、心情的な成長は誰にでも必要なのですよ。)


        庶子はホームチャーチを願うと前の記事では書きました。
        一体何を根拠にそんなことが言えるのか?

        庶子はその氏族圏から離れ、孤独の路程になると書きました。
        養子は家庭から出てきて氏族圏を遊びますが、彼らは家庭に帰ります。
        ホームチャーチは庶子にとって帰りたい故郷なのです。

        また、自分で家庭を出発するときには、荒野に家を建てるわけにも行かないのです。
        最初に書いたとおり、人は“群れ”を作って生きてきたのです。
        そのような文化背景を持っています。

        ではどうやって帰るのか?
        出てきた氏族圏が理想天国であれば元の氏族圏に帰る事もあるでしょう。
        しかし、そうでなければ自分で探し、立てるしかないのです。
        庶子が一人でホームチャーチを築いても、完成することはできないように思います。
        過去に一つもできてはいません。
        過去には無かった御言と、霊的恩恵があるのだから、もしかすると完成できるのでしょうか?
        ここに庶子と実子の境界線があるように思えます。

        私自身はUCの祝福を受けていないのでよく分からないのですが、
        祝福家庭は3家庭ずつ基台が組まれていて、「親戚づきあいするように」言われているとか。
        3万双の友人からちょっと聞いただけなのでよく分かりません。
        しかし、庶子完成して祝福を受けて、3家庭の基台があれば
        そこから氏族圏が出発できるように思えます。
        そういうことじゃないのかな?
        実子からの祝福を与えられて庶子3家庭が基台を組むと理想天国がそこから始まるとか…?

        実子がいなければ地上天国は築けないけれど、
        実子がいても庶子が揃わなければやっぱり地上天国は来なという仕組みであれば、
        文師が再臨主だったけれど天国を完成できなかった理由として説明が付きそうですね。
        イェス様のときもそうだったのですから。

        思いますが、庶子三家庭がなければ、
        メシア家庭も実子として成立しないように思えます。
        何故なら、完成家庭を置く事ができる氏族圏がないので、
        家庭完成できないでしょう?
        故郷を求める庶子たちと同じ位置に居るしかないようです。
        文師は『ふるさと』の歌を好まれましたね。
        イェス様も『帰る家が無い』と言われています。


        第四アダムが来られるならば、
        成婚される前に庶子を三組祝福しなければならないのかもしれません。
        これは文師がしたのと同じ行程ですね。
        家庭を築くための氏族圏を構築した上に
        結婚することで第四アダム自身も実子圏に上がってゆくことができそうです。
        なぜなら氏族圏に定着し主管するものが実子だからです。
        祝福は入籍式と言われることがありますが、
        流浪の庶子が氏族圏に迎えられて定着する様はまさしく入籍ですね。

        そして、宗教はやはりコミュニティであるので氏族圏です。
        教会の祝福を受けることは氏族圏入籍です。
        今、あちこちで祝福合戦しているようですが、
        それぞれのコミュニティへの入籍セレモニーと考えればいいでしょう。
        私も今年はバプテスト教会で洗礼を受けましたが、
        これも教会コミュニティへの参加表明でした。

        どこの祝福が正しい祝福であるのか?
        いまだ国家的祝福式を行えるところはなさそうなので、
        どのコミュニティに参加したいかだけが選択基準ですね。
        あと、祝福されたカップルの心情基準を見る必要があります。

        良い木を見分けるには実を見れば分かります。


        祝福の価値を貶めているでしょうか?
        本然の祝福は原罪清算です。
        原罪清算の意味も掘り下げる必要がありますね。
        しかし、文鮮明師の祝福をただ受けただけでは原罪清算することはできていなかったようです。
        (残念ながらその実が証明しています。)
        受ける側の心情が大きく影響しているのだと思われます。

        『神様と会話』のcostaさんがいいことを書いていました。
        「捧げた心情は神がとる」
        アベルがおかしくても、カインが誠を尽くした捧物をすれば
        捧げた心情は神様に届くというのです。
        正しいアベルに邪な捧物をしても神様には届かないようです。


        第四アダムから祝福を受けたいと願う庶子は、
        ただ祝福されるのを待っているのではなく、
        予め、自らホームチャーチを準備しているものでなくてはならないでしょう。
        当然ながら完全な完成氏族圏は作れないかもしれませんが、
        備えなければ家庭基盤を整えることが難しいばかりか、
        地上天国の基盤拡大を難しくしてしまうからです。

        | おーば | 心の成長 | 01:29 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        成長八段階とホームチャーチ
        0

          心の成長を縦八段階で追いかけていますが、
          ここで横八段階をおさえておきましょう。
          そうしなければ“実子”の姿が見えてきません。

          そしてホームチャーチは横に関わるキーワードです。



          参考に、一般に言われる人間の成長に関わる言葉を添えておきます。

          『僕の僕』−−−−『個人』−−−『新生児』に相当
          『僕』−−−−−−『家庭』−−−『乳幼児』に相当
          『養子』−−−−−『氏族』−−−『少年』に相当
          『庶子』−−−−−『民族』−−−『思春期』に相当
          『実子』−−−−−『国家』−−−『青年』に相当
          『夫婦』『母』−−『世界』−−−『壮年』に相当
          『父母』『父』−−『天宙』−−−『熟年』に相当
          『神』−−−−−−『神』−−−−『老年』に相当


          僕の僕が環境として何処にいるのかというと、
           横は個人ですから何処にいるのかが分かりません。
           新生児は家庭の中にいますが、自分が何処にいるのかという認識を持ちません。

          僕が何処にいるのかというと、これは家庭にいます。
           乳幼児は家庭の中で愛を受けます。

          養子の居場所は何処でしょう?
           横を見てみれば氏族とあります。
           氏族という言葉ではピンと来ません。
           少年と考えるとどうでしょう。
           彼らは家庭から出かけて行って、その日に帰ってこられる近所を自由に遊びます。
           主に同世代の仲間と一緒にいます。
           仲間と競い合って自分の長短を知りつつ、力を試し、伸びようとする時期です。
           氏族圏とはいわゆる地域コミュニティ程度の規模、
           それこそ360世帯程度を考えることができます。

          庶子は何処にいるでしょうか?
           横には民族とあります。
           民族という言葉には文化伝統の重みを感じます。(祖霊との対話を表すのでしょうか?)
           しかし、彼は追い出された立場にあるはずなので居場所はありません。
           思春期には、人生を問います。
           自身の性について自覚します。
           生涯の伴侶についても考え始めるでしょう。
           だから創世記にもあるように、父母の下を離れるのです。
           これは堕落世界だからというものでもないのでしょう。
           しかし、人は一人あるいは夫婦二人だけで生きてゆくものではありませんので、
           彼らは、自分が生きてゆくために理想的なコミュニティを求めるようになるのです。

          実子は何処にいるでしょう?
           横は国家にあたります。
           実子は個性完成基準なので家庭を出発するときです。
           UCの祝福を受ける基準もこの時期のはずです。
           家庭は何処にあるかといえば、地域コミュニティ(氏族圏)の中で立てるのです。
           養子(少年)を指導しつつ、自らの実子(新生児・乳幼児)を育てる若い夫婦です。
           氏族圏=地域コミュニティ=生活圏…これがホームチャーチなのですが、分かりますか?
           ここに責任を持つもの(=メシア)として立つ。
           地上天国が出来上がっていれば、地域コミュニティの大人たち全員が実子基準を達成するので、
           それこそ担当分野を決めたり、交代で責任を分担することもできますね。
           自分たちの生活圏に責任を持った上で、
           国家の成員として発言して行くことができるのが実子ではないでしょうか?

          では、夫婦とは?
           実子で家庭をスタートするのになぜここに夫婦というキーワードが入ってくるのでしょうか?
           若い夫婦が子育てを通してしっかりと一体化した姿を現しているのでしょうか?
           桜葉はここに壮年という言葉を当てましたが、これは心身ともに充実し、
           共同生産、分配、消費という経済サイクルに責任を持てる立場ではないかと推測しています。
           夫婦、つまり陽陰一体となって発揮できる力があるのではないかと思います。
           生産、分配、消費とは、日常的な交易も関わることとなりますので、独立した経済圏を築くことになります。
           本格的な万物主管の姿かと思います。
           日常交易のエリアは言葉が通じるエリアであり、同一国語を持つというのは国家を表します。
           国家に責任を持って世界へ出て行くことができる立場ということでしょう。
           真の愛国者になれるのは夫婦基準に立ってからかもしれません。

          書いていて悲しくなりましたが、父母について。
           父母とは、天宙です。
           地球環境は一様ではありません。
           それぞれの国、地域で様々な個性を持ちます。
           その個性的な環境に応じて、それぞれの国民は生活を営んでいます。
           環境が違うので生活が違い、文化が違うのです。
           夫婦は自国の文化を愛してそれを背景に世界で活躍しますが、
           父母は世界中の国々を全て等しく愛するのです。
           それは夫婦時代に世界へ出て行って愛し、経験したことをベースとします。
           そして、皆さんは父母をご存知です。
           僕の僕、僕、養子、庶子、実子、夫婦の六段階を越えてきた経験と、
           個人、家庭、氏族、民族、国家、世界を包括される心情を持って、
           夫婦あるいは実子を指導して地上天国を成就されたかったと思います。
           しかし、目の前にいたのは僕や僕の僕であったわけです。

          神について
           八段階は父母では終わりません。
           神になれと言うのです。
           父母と神はどのように違うでしょうか?
           思うに神様は時代を超越される方です。
           つまり現在を基準に世界を運営するではなく、
           過去を踏まえて未来に思いを馳せながら在る。
           老年期には人も現世の欲から解き放たれ、あの世へ逝く準備をしなければいけません。
           遠く未来を思うことができる基準なのではないでしょうか。



          ホームチャーチについて皆さんはどう考えていらっしゃるでしょうか?
          ■環故郷氏族伝道という話から、
          ふるさと親戚伝道という考える人。
          ■360軒ホームチャーチ伝道という話から、
          ご近所伝道という考える人。
          …つまり、伝道拠点を教会に置かず、自宅を拠点とする家庭教会という考え方が一つ。
          ■また、四研のように、八人家族の蕩減条件を立てるためのものという考え方もあるようです。

          桜葉はどちらも間違いだとは思いませんが、十分だとも思えません。

          問題は、“伝道”の内容であり、“蕩減”の意味するところと、
          その結果がどのように結ばれるものなのかを理解することだと思います。

          UCでは、伝道と言えば主を証し、祝福式に送り出すことだと考えています。
          しかし、御言が私たちに告げるものはそのような外的な内容ではありません。

          御言は、人格完成、家庭完成、天国完成へと私たちを導くものです。
          私たちは心情の八段階を超えて行かなければいけないし、
          御言を知らない人たちにもそれを越えさせてあげようとするのが道を伝えること、伝道です。

          御言は体恤されるべきものでありますから、生活の中で実践されることが求められます。
          信仰は生活なのです。
          その生活実践の伝統を立てて継承してゆくことこそが真の御言の継承であり、伝道なのです。
          教会では宗教儀礼が執り行われますが、家庭では生活が営まれます。
          生活を通じて人の心は成長することができます。
          その生活があるところがホームチャーチです。

          向田邦子ののドラマではありませんが、人は生活の中で、様々な問題に出会います。
          信仰生活を続けてこられた方ならば、
          そのような問題は“私に課せられた蕩減”であることを
          知っていることでしょう。

          そのような蕩減内容は自分で選ばずとも向こうからやってくるものです。
          クリアしなければならない蕩減は予め用意されています。
          クリアすることで恩恵が与えられます。
          その恩恵は心情的大きな成長であったり、得がたい絆であったりするのです。
          各自が得る恩恵の先に、天国人としての道があります。

          勿論簡単ではありません。
          多くの障害が横たわっています。
          それが何なのかを理解しておけば、
          希望を持ち続けることができるでしょう。



          心の伴う生活の中に天国を築かなければいけません。
          桜葉はそのように考えます。


          | おーば | 心の成長 | 21:38 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
          成長八段階-実子
          0

            八段階-実子について。

            この話は簡単ではありません!
            このテーマについては、成長八段階−桜葉解釈案と思って読んでいただければ幸い。
            (自説以上に説得力のある内容に出会えば私は自説を翻すことを恥としません。)

            庶子基準の方々は、注意深く見渡すと存在が見受けられますし、
            養子まではウェスレーのような考察も存在しています。
            しかし、実子という存在は、この八段階成長を受け入れる(=統一原理を受け入れる)方には
            文鮮明師とイエス・キリスト以外には認めることができないでしょう。

            庶子と実子を分けるのは何か?

            ●文字面で考えれば、
            父と血縁関係は同じですが、
            一方は本家に在り、一方は追い出された立場。
            つまり、
            神と我の関係性に於いてはかなり近いものはあるけれど、
            環境的には雲泥の差があります。
            環境が心情に影響するのか、心情が環境に反映するのか。

            ●また、
            実子の立場は完成基準と捉えられます。
            神の実子、憧れの立場ですね。
            完成基準であれば堕落する心配はありません。
            (庶子圏では堕落の可能性がまだあるのでしょう。)
            これは生命の木完成実体なのでしょうか。

            横八段階では国家に相当しますので、
            国に歓迎される基準です。
            庶子は民族基準なのですが、このことの意味を桜葉はまだ理解できていません。
            氏族と国家はなんとなくイメージできるのですが…。


            あともう一つ、
            家庭出発の問題がこの時期に関わってきます。

            統一原理では、長成期完成級まで個人で歩み、個性完成して、
            メシアから祝福を受けてカップルで完成期をメシアと共に歩み完成するとされます。




            庶子を完成すれば、神様との心情因縁は確固たるものとなります。
            孤独な路程で他人を介することなく神を訪ねるのが庶子の歩みです。
            しかし、孤独なばかりが庶子の歩みではないようです。
            これはコミュニティ形成の問題です。
            庶子期間には氏族メシアをも目指します。
            氏族圏(養子圏)をとりまとめて引き上げて行くのがその使命と言えるでしょう。
            あるいは家庭圏(僕圏)を氏族圏(養子圏)に引き上げることが氏族メシアの意味なのかもしれません。
            氏族のメシアなのか、氏族へ引き上げるメシアなのかということです。

            氏族というのは家庭の上の単位であり、国家、民族よりも小さな単位です。
            私はこれを『顔と名前が一致し、その家族関係を理解出来る、共同生活者としての圏』と捉えます。
            360軒ホームチャーチの規模がこのぎりぎりサイズでしょうか。
            既成キリスト教会の一教会の規模もこのくらいです。
            円滑に運営できれば、ここは小さな天国となるでしょう。
            しかし、これを主宰し、運営することはたやすいことではなく、
            “小さな天国”は果たして存在しているのでしょうか?

            多くの宗教指導者たちが存在していますが、
            彼らの多くはその宗教活動を始めるにあたっては、
            少なからず反対、迫害を受けるのが常です。
            その後に人々から支持を受け、指導者の立場に立ちます。
            しかし彼らは実子の立場にあるでしょうか?

            彼らは実子の立場には立てません。
            完成基準と呼ぶには不安定要素が多すぎます。
            多くの宗教がその道を誤り、場合によっては犯罪行為に向かったりします。
            また、犯罪を犯さないまでも、程なく分裂したり解散したりしてしまうのです。
            残念ながら、キリスト教会、統一教会もその例から外れることは在りません。
            これはどう捉えるべきなのでしょうか。

            ここに実子圏とは、
            庶子完成・実子出発基準から実子完成基準までという時間性を考える必要が在りそうです。
            勿論、庶子も同様に養子完成庶子出発基準から、庶子完成基準までを考える必要があります。
            僕にも、養子にも、それぞれそ蘇生級、長成級、完成級が認められました。

            庶子完成・実子出発基準で堕落の危険性はなくなると考えられるかもしれません。
            庶子完成期に於いてホームチャーチ(氏族圏)建設を願うけれど、
            完成することができないのが庶子の立場かもしれないですね。
            形はできても円満な運営と永続性を持つことができません。

            では、実子ならば氏族圏を完成することができるのか?
            実子完成基準が氏族圏復帰完成基準と言えるのかもしれません。
            心情的には、神様を中心として人を愛することができる方
            庶子には縦的基準と横的基準の一致が難しいように感じます。
            縦がしっかり確立しなければ、横に流されて堕落してしまうからです。
            縦横が対立してしまうのです。

            これまでに実子は存在したかもしれませんが、
            実子完成者は存在していない可能性も在ります。

            天命、使命の自覚が個性完成基準。
            つまり、庶子完成基準が個性完成基準。

            個性完成とは、キャラクターが個性的になることを言うのではなく、
            神様の前にどのような人間であるか
            性質、能力、立場、環境をあわせ判断し、
            その人生に於ける使命分野を自覚することと考えられます。
            この自覚なくしてどうして生涯の伴侶を選ぶことができるでしょうか?
            庶子完成基準の男女がカップルとなって歩むのが実子圏ということでしょうか。
            夫婦の愛を知覚せず、人格完成などという表現も難しい気がします。
            そうするとイエス様は庶子完成基準で実子圏出発されたけれど、
            実子完成には至らなかったかもしれません。
            マグダラのマリアがイエス様の伴侶であったという伝承もありますので、
            イエス様が生涯独身であったかどうかにもよりますが…。

            ホームチャーチ完成基準が実子完成基準か?
            ホームチャーチ完成は、三人の霊の子女にはじまり、十二支派を求めます。
            十二弟子を立てた時点で実子完成基準なのかもしれません。
            完成基準が何処にあるのかという線引きは単純ではありません。

            人間としての営みを理解せずして国民としての判断を下すことはできません。
            勿論、人生の全体を指導することも叶いません。
            氏族圏(=生活圏)を率いた上で、国家に物申す立場。
            本来国会議員を務めるものがこの基準に立っていれば、
            その国は国としての運営を誤ることは無いでしょうね。
            (外交問題は別次元になるかもしれません。)

            微妙な話ですね。
            ホームチャーチを標榜する庶子を実子出発基準に引き上げて、ホームチャーチ完成まで導くことが、
            実子完成・夫婦圏出発基準かもしれません。
            つまり、実子完成者が立つときには、実子出発者が3名立つというタイミング。
            或は、ホームチャーチが三つ整うところで実子完成なのか?

            メシアという立場は単に実子完成基準では留まることができません。
            実子完成基準では、国家的救済しかできないように思えます。
            外交問題については国を代表し、世界的人格基準が必要ですから少なくとも夫婦基準を要します。
            (実子の話をするのに先走りますが、総合的に考えなければ線引きができません。)

            実子=国家と結び付けますが、
            養子=氏族、僕=家庭なのです。
            僕の情が家庭を代表するでしょうか?
            養子の情が氏族を代表し、氏族を救済するでしょうか?
            家庭に所属する一員、氏族に所属する一員としての情でしかありません。
            そうすると、実子の情も、国家の一員としての情ということになります。
            夫婦=世界、父母=天宙であることを考えると、
            人類を救済しえる心情基準は父母でなければなりません。
            文鮮明師が、真の父母という名称を用いたこともここに結びつくと考えられます。

            各、成長段階とホームチャーチの関係を見ていく必要がありますね。
            それは次回に譲ります。

            | おーば | 心の成長 | 00:12 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
            成長八段階-庶子2
            0

              前回の記事ではタイトルに“1”と入れました。
              …まぁ、とうてい書ききれる内容ではありませんので続きが必要だと思ったわけです。

              どこまで書くべきなのか迷います。

              と、言うのもこれは個人的な考えにすぎないとも思えますので…。

              囁く者があるわけですね。
              『そんなことに時間をかけていないで、
              家族を愛することにもっと時間をかけるべきだ』と。
              あまりにもっともな話しなのですが、
              もっともらしい事を言って邪魔立てするのが実はサタンだとも知っています。
              『お腹が空いたのなら石をパンに変えればいい。』という具合ですね。

              『お前がどれ程の存在だというのか?
              皆と同じように働いて、同じように遊べばいいでしょう。』
              私はかつて皆と同じように生きようとして絶望の中にいました。
              だからその絶望に今一度戻りたいとは思いません。

              人は誰でもある一分野に於いて特別な存在になりえます。
              それが個性なのです。
              その個性を愛してくださる神様を感じるので、
              個性を否定することは神様の愛を踏みにじることになるのです。
              だから皆と同じが必ずしも善いことではないのです。
              誰にでも言えることです。
              あなたは特別な存在です。
              でも、気をつけてください。
              あなたの隣にいる人も、やはり、ある分野で特別な存在なのです。

              『特別な存在であるならば、
              生活のための仕事など辞めてしまって、書くことに専念すればいいでしょう。
              きっと生活はなんとかなりますよ。
              神様が守ってくれるんじゃないですか?』
              一時であればあるいは守っていただけるかもしれません。
              だけど暮らしてゆくことは私の責任です。
              それに、仕事や暮らしの中で得る神様との出会いがどれ程貴重なものでしょう。

              『そんなものを書いて一体なんの役に立つのか。
              誰も読んでなんかいない。
              ランキングだって上がらないし、何の反応もないでしょう。』
              与えられた賜物を御意に叶うようにお捧げすること。
              それが貴重なのだと思います。
              記事へのアクセスが上がらなかったとしても、
              たった一人でもこの話を何かに活かしてくれる人があると信ずるのです。
              結果は神様が主管します。



              …こんな自問自答をする人もいるでしょう?
              こういう自問自答を頻繁にする人は、かなり霊的に敏感な人なのです。
              これは自問しているようでいて、霊的他者が私の心に問うているのです。

              霊的存在を認めない人からすれば、
              この囁く者を他者だとする考え方は、精神分裂症の症状と思うでしょうね。

              このような問答に限らず、
              霊的存在とのコミュニケーションを人は日常的に行っているのです。
              ちょっとした“閃き”
              なんとなくの気分で危険を回避する“虫の知らせ”
              原因の分からない“こだわり”
              そういったものが自分自身を原因とするのではなく、
              霊的他者から由来するものであるときちんと認識し、
              それを自分の意思で主管すること。
              基準は“御言”そして分別された“動機”


              “動機”はより“公的”であることが重要です。
              公的でありながら、私自身が喜びを感じている必要があるのです。
              喜んでいる、嬉しいことが愛している証です。
              公的であることを愛して喜ぶのです。
              ここが少し難しいかもしれませんね。
              だけど、最も公的な存在が神様であると理解できれば何も難しいことは無いのです。
              八段階の最終段階は縦も横も神様です。

              庶子たちは、悲惨な道を行きながらも結構楽天的です。
              ---やっぱり傍目には精神異常者に見えるかもしれませんね。
              しかし、多くの心理学者が『人の感情はが利己的である』ことを前提としているので、
              公的に生きることの喜びは、心理学上では理解しがたいものとなっているのが実情です。
              そういった説が一般の常識として認識されるものですから、
              為に生きる精神は、偽善的であると攻撃されるのです。
              しかし、全てが利己的自我を支持するものでもなく、
              心理学者の中では、アドラーが説く『共同体感覚』というものが公的意識の存在に触れています。
              勿論御言は、公的に生きることを薦めています。---


              天使(=霊的存在)を屈服させること。
              それは霊的な守護を得ること。

              しかし、彼らも完成された存在ではないのです。
              当然の事ながら、かつて地上で生きた人の心が、
              霊界に行ったというだけでは完成されることはありません。
              最初から霊界にいる天使たちも、
              堕落し得る存在であれば完成された存在とは言えないでしょう。

              つまり、彼らは堕落性の故に、いつでも下克上の機会を狙います。
              動機がずれる、御言を不信するなどがあるときには、彼らに逆主管されるようになります。
              カルト教団と呼ばれる団体が悲惨な事件をおこすのは、こういった現象によるのでしょう。
              また、守護霊と称して守護してくれる振りをしながらとんでもない個人霊界に貶める霊もあります。
              これも逆主管です。
              『私を拝すれば全てをあげる。』
              こんな言葉にのるようなことは、心情の成長した人にあるのかと思いますが、
              自分以外の人たちが、あまりにも汚らしい存在だと示されると、
              正義のためには自分が全てを主管することが善い事のように思えてしまうのでしょうね。

              霊的存在について、これまで感じてきたことは
              このブログでも“霊”のカテゴリとしてまとめてありますので参考になればと思います。

              イエス様の受けた三大試練の内容をもって霊的存在は誘惑してきます。

              だから自分の心を分別すると同時に、
              囁きかける霊的存在の言葉も分別し、主管する必要があるのです。
              彼らの視野は地上に生きる私たちの視野よりも遥かに広く持ち得るのです。
              (当然ですが視野の狭い霊もいます。)

              庶子に於いて霊的感性を持つことができるのは、
              養子圏に於いて、聖霊の恩恵を受けて成長する過程を経ているからです。
              このときには、イエス様の恩恵によって善霊協助を受けることができるのでしょう。
              『“ケルビムと回る炎の剣”によって塞がれた生命の木に至る道』
              の“ケルビム(天使)”が取り除かれているのです。
              炎は御言、剣は分かつもの=分別するもの。
              これは御言以外には考えられないでしょう。

              養子圏で、神様の一方的赦しの恩恵を知るが故に、
              庶子圏では、そのときの絆を頼りに確信を持って歩むことが可能になります。
              孤独な試練の路程で、命をがけ神様を選ぶことができるのです。
              個人の責任分担は勿論重要なのですが、自力信仰には限界があります。
              霊的恩恵を知らずに自力で信仰を立てることは、行義的、僕的な信仰と言うしかありません。




              私は、私に与えられた“恩恵”と感じる“理解内容”を誰かと共有したいと考えます。
              必要としてくださる方がいらっしゃることを信じます。
              そしてこの“理解内容”はまだ不十分でしょうから、
              この理解をさらに応用発展させてくださる方がいらっしゃれば喜ばしいことです。
              (往々にして、一つ理解するとそれが全てであるかのように思わせ、
              先に進まぬように邪魔をする者があります。)


               

              | おーば | 心の成長 | 22:18 | comments(7) | trackbacks(0) | - | - |
              成長八段階-庶子1
              0

                成長八段階-庶子について。

                これまではウェスレーの説教を参考にお話しましたが、
                ここはその先にある段階です。
                ここを明確に打ち出している人は少ない。
                ここを考える材料はどこから見出すべきでしょうか?

                横八段階で個人-家庭-氏族-民族の
                民族に対応する位置。

                イエス様が開かれた養子圏の次の段階。
                行義、信義に続く侍義の信仰。

                庶子という言葉から考えられる内容。

                人格完成形である実子には至らない立場。

                実際の食口達の得てきた実感。

                また、御言から導き出すことも必要なのだろうが、
                私には、十分な資料が無いのが正直なところです。

                そうしてそれらの整合性が重要です。
                私に書くことができるのは、
                私が知り得る事柄のうち、整合する内容についてです。



                実は、ウェスレーの説教にもヒントが残されています。
                罪から自由になっているはずのクリスチャン達がやはり罪を犯し続ける事実があります。
                前の段階で課題となったことは次の段階でクリアされるものなのです。

                蘇生期は問題の感得、
                長成期は具体的問題提起、
                完成期は問題解決に向かう具体的歩みになっています。

                僕段階では
                蘇生期では順調だった生活に何らかの支障を感じ、
                長成期では自分の過去の行いが、今の暮らしに影響する因果応報的なものを知り、
                完成期では律法的な守るべき“法”に従って生きるようになります。
                しかし、その“法”を守りきれない自分に出会うようになります。

                養子段階も同様でした。
                蘇生期に法を守りきれない自分の弱さを感じ、
                長成期にイエスの十字架による救済を信じるという信じがたいものを信じるという課題に向き合い、
                完成期には十字架の救済による約束から得られる安堵感と自由に浴します。
                (既成教会によらない場合には、神の愛による赦しを知り、
                足りなき者も信仰により無条件に救済に与ることができることを知ります。)
                そして身を慎み、奉仕の生活を送ろうとするのですが、
                ここにまた次の課題に向かわざるを得ないのです。

                法によらず自由に心の赴くままに善行をしようとしても、ままならない現実です。
                養子圏に於いては、それは恩恵によって赦される内容ですが、
                それが問題と感じられるのが庶子圏の蘇生期と言えましょう。
                多くの兄弟姉妹が、心と体の一体化として課題に感じているところです。
                これは庶子圏の蘇生期といってよいでしょう。

                では、長成期に何を知るのでしょう?
                僕圏の律法も、養子圏の福音も、天恵として与えられたものです。
                つまり、庶子圏で与えられる天恵は御言の中から探し出す必要があるのでしょう。

                御言について、私には十分な資料が無いと言い切ったばかりですが、
                実際のところ、私が教会に所属していたのは90年代はじめ頃まで、
                具体的にはダンベリー収監から水沢里の女性修練会に参加したあたりまでで、
                それ以降は、霊の親や食口の友人からの話、あとはネット情報です。

                御言研究と言えば、第四イスラエル研究会が大変熱心にやっていますが、
                彼らが導き出した答は、ホームチャーチですね。
                13巻DVDはかなり出回っているようですから、ご覧になった方も少なくないでしょう。

                だけどちょと待て!
                あのDVDでは祝福家庭は僕の僕の位置にいると断言しているではありませんか!!!
                クリスチャンが養子圏で、祝福家庭が僕の僕では、
                UCはキリスト教よりも全然レベルが下だという話になってしまいます。

                私も彼らの研究姿勢には大変共感しているので、
                このギャップはどうしたものかと戸惑いました。
                しかし、9月13日の記事に書いたとおり、
                あのDVDでは“氏族”という言葉は5通りに用いられていると言っています。
                また、もう一箇所、僕である天使長の堕落直前の心情的基準が“庶子”であるという行があります。
                と、いうことは“立場”“心情基準”では、呼称が一致していない可能性が見えます。
                同時に、“庶子”の情というのは、アダムとエバの頃のルーシェルと同等の心情基準であるということ。
                “庶子”の情に立って初めて“僕”の立場になると言えるのではなかろうか?
                これはまだ四研さんに確認していないのですが、機会があればぶつけてみたいと思います。

                で、話を戻しますが、
                四研の御言研究の結果が、完成即ち“実子圏”に上がるために
                ホームチャーチが必要だということなんですが、
                その前にもう一つ重要な中身があります。
                それは“権”の復帰です。
                ホームチャーチを作って長子権を復帰するというよりは、
                長子権を復帰することでホームチャーチの形成が可能になるように思えます。
                だってそうでしょう。
                長子が立たずしてどうやってまとまりがつきましょうか。
                ホームチャーチが実子圏の必要事項であれば、
                一個手前の庶子圏の必要事項は長子権復帰であろうと推測できまいか?


                長子権復帰は原理講論にも書かれていることなので、古い御言しか知らなくてもある程度は分かります。
                よく言われるのが長子権ですが、父母権とか王権とか先のDVDでは長女権などという言葉まで出てきます。
                まぁ、教会用語で問題視されているアベルカインの問題で、
                日本のアベルカインは間違っているということなので教会生活のアベルカインは参考にできません。

                また“権”という言葉にはこのブログでは以前に噛み付いたことがあります。
                2012年11月10日『統一原理の問題点』
                2012年11月17日『権利は愛の成れの果て』

                何かと問題が多いのですが、だからこそ“復帰”される必要があるのでしょうね。

                で、長子権復帰の典型路程と言われるのがヤコブ路程。
                万物によってエサウから長子権を買い取り、
                母子協助によって、イサクからの祝福を奪い、
                ハランで苦役して万物と家庭を得、
                ヤボク川で天使と組み打ちをして勝利し、
                再び万物を捧げてエサウを完全屈服させたという流れです。


                パンとレンズマメの温ものの話が象徴で、
                父・イサクを騙して祝福を奪ったのが形象、
                苦役後、最後に実体屈服ということなのでしょうか。

                だけど長子権復帰が、心と体の一体化に関係があるのかしら?
                この話はお金を稼いで権利を買い取りなさいというものにも見えかねない。

                私はヤボク川での天使との組み打ちに注目したい。
                ヤコブは人類史上初めて天使(僕)に勝利した人物です。
                天使に勝つということは、庶子の情を復帰したということではなかろうか?
                天使の心情が庶子であれば、養子や僕程度の心情の人間に屈服するなんていうことはないと考えられます。

                ヤコブの天使屈服は、“相撲”と表現されていて心情世界については一切触れられていません。
                しかし、もう一つ、『天使が仕えた』と書かれるエピソードが聖書にはあります。
                こちらは天使を屈服ではなく、サタンを屈服した話として原理講義には登場します。
                イエス様の三大試練ですね。

                霊に導かれて荒野に出て、40日断食した後にサタンからの試練を受け、
                それを退けると天使がイエス様に仕えた
                いう話です。
                洗礼ヨハネからバプテスマを受けた後、ご自身で伝道を始める前の挿話として書かれています。
                ヤコブの場合はハラン苦役の後、イスラエル民族を形成し始める前に天使を屈服しています。
                (ハランの地で子供たちは生まれていますが、ハランではヤコブは居留者であるので、
                民族形成は世帯として独立した時点からと考えることが可能ではなかろうか?)
                これは同時性ですね。

                イエス様の三大試練では、サタンとのやり取りが記述されています。
                神の御言による分立です。
                個人で荒野に赴き、御言に立って霊的誘惑を分立すること。
                霊的誘惑を分立することが、霊界を主管することとなり、天使を屈服することになります。


                実体的な基盤を作る前に、霊界を屈服させること。
                文師については具体的伝承を知りませんが、
                イエス様の路程と比較したときに考えられるのは興南でしょうか?
                興南では霊界が伝道し、解放の時には霊的な守護を受けている話が残されています。


                天恵である御言と一体化すること。
                御言を体恤することにより霊界を屈服する。

                アダムは神の体である言われます。
                アダムを神の体と呼ぶならば、神はアダムの心ということになります。
                すると、神とアダムが一体化したことを、心と体の一体化と言うことが可能ですし、
                神の御言と私が一体となることもまた、心と体の一体化である言えます。

                「お父様と神様は好き嫌いが一緒だよ」という基準です。
                そうなれば、私の好きなことをしていても、それは神様の御意に叶うことになります。
                (厳しく吟味して分別しなければとんでもないことになりますね。)
                そして、霊的なよからぬ誘惑も退けられることになるでしょう。

                霊界を屈服させる前には個人的な荒野路程が必要です。
                この荒野路程、“庶子”というからには捨て去られた立場であります。
                養子は血縁が無くとも本家に迎え入れられた立場ですが、
                庶子は血縁が合っても本家から締め出される立場です。

                こう考えると、皮肉なことに“本家”UCは多くの占め出し者を作っているので、
                締め出された者達の庶子路程に協助しているようにも見えます。

                この捨て去られた立場にあっても、『金の子牛』を作らずに
                創造の主を愛し続けることで御言を体恤してゆくのですね。
                天使さえ主管してしまえば霊的な誘惑に負かされる心配がなくなります。



                荒野路程はただの儀式ではありません。意味があることです。
                霊との関わりについての知識も必要です。
                霊との関わりは、何も特殊な能力ではなく、誰もが日常的に持つ関わりです。
                日常的であっても、人がそれと自覚していないだけなのです。

                次はそのあたりを書こうと思います。

                | おーば | 心の成長 | 22:19 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                成長八段階-養子
                0

                  成長八段階-養子についてです。

                  ウェスレーの説教を教材に見ていますが、
                  この養子段階は、ウェスレー自身の立場であり、
                  かれはこの立場が至福のものであると信じていますので、大いに語ります。
                  しかし、養子自身の立場からは実はその総括は難しいのです。

                  ----------引用開始------------
                  (8) 彼が自由になろうとつとめ、願い、労すれば労するほど、彼はくさりにつながれていることを強く感じます。
                  それはサタンが彼をしばり、「とりこにして意のままにする」、悲しい罪のくさりであります。
                  どんなに不平をいっても、彼はサタンの奴隷です。
                  反抗しても、勝ち目はありません。彼はいまなお、罪のゆえに、奴隷と恐れのなかにあります。
                  その罪は、一般的には、性質や習慣や外的環境によってとくに傾向づけられた、ある外的罪としてあらわれますが、
                  しかし、いつも、ある悪しき気質や潔からざる感情という内的罪であります。
                  そして彼がそれにたいしていらだてばいらだつほど、それは優勢になってゆきます。
                  彼は自分のくさりを噛みますが、こわすことはできないのです。
                  こうして彼はとめどなく苦労を重ね、悔い改めては罪を犯し、
                  また悔い改めては罪を犯し、ついにこの哀れな、罪深き、絶望的な人間は、
                  途方にくれて、ただ
                  「ああ、私はなんというみじめな人間なのだろう。
                  だれが、この死のからだから、私を救ってくれるだろうか」
                  とうめくだけしかできなくなるのです。
                  ----------引用終わり------------

                  “彼”と称される人物は、説教のこの段階に於いては「僕」の立場です。
                  しかし、「僕」というよりは、「養子」への入り口に立つ人です。
                  多くの「僕」は「僕」の立場に満足し、
                  与えられた“法”を外的に守ることにより“罪”に対する“罰”から免れていると思っています。
                  このような内的罪は、“罪”とさえ定義されず全く無頓着です。

                  ----------引用開始------------
                  (9) 「律法のもとに」 あり、「恐れと奴隷の霊」のもとにある人間のこの葛藤のすべてを、
                  使徒〔パウロ〕は前章〔ローマ七章〕で、めざめた人の立場で語ることによって、美しくえがき出しています。
                  「私はかつては、律法なしで生きていた」 (9節) と彼はいっています。
                  ----------中略------------
                  「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
                  すなわち、私の欲している善はしないで、欲していない悪は、これをおこなっている」 (18、19節)。
                  「そこで、善をしようと欲している私に、悪がはいり込んでいるという法則」、内的拘束力 「があるのを見る。
                  すなわち」 私は「内なる人としては、神の律法を喜んで」、あるいは同意して 「いるが」 (21、22節)
                  -------「内なる人としては」 は、私の 「心」では、という意味であります
                  (使徒自身がすぐあとの言葉でそのように説明していますし、
                  「内なる人」という言葉は他のギリシアの著述家もそう理解しています)-------
                  「私の肢体には、別の律法」、別の強制力があって、「心の律法」、
                  すなわち内なる人 「にたいして戦いをいどみ」 「罪の法則」、
                  すなわち罪の力 「のなかに、私をとりこにしているのを見る」 (23節)。
                  いわば私を征服した者の戦車の車輪に結びつけ、私を私の魂が忌みきらうことへと引きずってゆくのである。
                  「ああ、私はなんというみじめな人間なのだろう。
                  だれが、この死のからだから、私を救ってくれるだろうか」 (24節)。
                  だれが私をこの助けなき死ぬべき生活から、この罪と悲惨の奴隷状態から解放してくれるのだろうか。
                  このことがなしとげられるまで
                  「私自身 (あるいはその私、つまり私がその立場になっている人間) は心」、
                  すなわち内なる人「では神の律法に仕えているが」
                  -------私の心、私の良心は神の味方であるが-------
                  「肉では」、すなわち私のからだにおいては、さからいがたい力によって駆り立てられて、
                  「罪の律法に仕えているのである」 (25節)。
                  (10) これは 「律法のもとにある」人間についてのなんと生きいきとした描写でしょうか。
                  彼は払い除くことのできない重荷を感じています。
                  彼は自由と力と愛を慕いあえぎつつ、いまなお恐れと奴隷の状態にあります。
                  それは神がこの不幸な人間の、この罪の奴隷状態から、この死のからだから
                  「だれが、私を救ってくれるだろうか」と叫ぶ声にたいして、
                  「主イエス・キリストによる神の恵み」 と答えてくださるときまでつづくのであります。
                  ----------引用終わり------------

                  原理講論でも引用されているパウロによるロマ書の部分ですが、
                  講論ではクリスチャンの心情としてこれを取り上げているのですが、
                  ウェスレーはこれを『「律法のもとに」 あり、「恐れと奴隷の霊」のもとにある人間』の姿と捉えています。
                  つまり、ウェスレー自身にはもはやこの葛藤がないということなのでしょう。

                  ----------引用開始------------
                  3(1) そのとき、この悲惨な奴隷状態は終わり、
                  彼はもはや 「律法のもとにあるのではなく、恵みのもとにある」のであります。
                  われわれは、第三に、この状態について考えなければなりません。
                  それは、父なる神のまえに恵み、すなわち好意を得、その心を聖霊の恵み、
                  すなわち力が支配し、使徒の言葉を用いれば、いまや
                   「アバ、父よ」 と叫ぶ 「子たる身分を授ける霊」を受けた人の状態であります。
                  (2) 「彼が悩みのなかから主を呼ぶと、神は彼をその苦しみから助け出される。」
                  彼の目は以前とはまったくちがった仕方で開け、愛する恵み深き神を見るようになります。
                  彼が 「どうぞあなたの栄光を私にお示しください」と叫ぶと、
                  彼はその魂の内奥で「私は私のもろもろの善をあなたのまえに通らせ、主の名をのべるであろう。
                  私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」という声を聞きます。
                  そしてほどなくして、「主は雲のなかにあって下り、主の名を宣べられ」 ます。
                  そのとき彼は「主、主、憐れみあり、恵みあり、怒ることおそく、いつくしみと、
                  まこととの豊かなる神、いつくしみを千代までも施し、悪と、咎と、罪とをゆるす者」を見ます。
                  しかし血肉の眼によってではありません。
                  ----------引用終わり------------


                  内的罪との葛藤を経た後に御名をよぶことにより
                  内的な“ゆるし”を得るというのです。

                  ----------引用開始------------
                  (3) 天からの癒しの光が、いまや彼の魂にさし込んできます。
                  彼は 「自分の刺した者を見」ます。
                  「『闇のなかから光が照りいでよ』と仰せになった神が、彼の心を照らして」くださいます。
                  彼はイエス・キリストの御顔に輝く、神の愛の光を見ます。
                  彼は感覚的には 「見えない事柄」、さらには 「神の深み」 についての神的な「証明」をあたえられます。
                  とりわけ、神の愛、イエスを信じる者にたいする神の赦しの愛の証明をあたえられます。
                  見る力を増し加えられて、彼の魂はことごとく「わが主よ、わが神よ」 と叫びます。
                  なぜなら彼は自分の不義がことごとく、「木にかかって、ご自分の体でそれを負われた」お方のうえに置かれているのを見るからです。
                  彼は自分の罪を取り除きたもう神の子羊を仰ぎます。
                  いまやなんと明白に、「神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、
                  私たちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。
                  それは、私たちが、彼にあって神の義となるためなのである」ということ、
                  彼自身があの契約の血によって、神と和解していることを知らされることでありましょうか。
                  ----------引用終わり------------

                  イエスの犠牲が神と人との“和解”の根拠とします。
                  ここで語られる赦しの根拠はいささか情緒的に語られるため、
                  説得力に欠けます。
                  そもそも、“血肉の眼”で見られるものではないことをウェスレーは語っています。

                  ---------引用開始------------
                  彼は「罪にたいして死んだ者であり、神に生きている者である」。
                  彼は 「その死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲にしたがわせることをしない」のです。
                  彼は 「その肢体を不義の武器として罪にささげ」 ず、「むしろ、その肢体を義の武器として神にささげ」 ます。
                  なぜなら、彼は「いまや罪から解放され、義の僕となっている」 からであります。
                  (6) こうして、「私たちの主イエス・キリストにより、神にたいして平和を得」、
                  「神の栄光に与る希望をもって喜んでおり」、
                  すべての罪、すべての悪しき欲望と気質と言葉と行為に打ち克つ力をもっているので、
                  彼は 「神の子たちの栄光の自由」の生ける証人であります。彼らはすべて、同じ尊い信仰に与っている者として、
                  声をそろえて「私たちは、子たる身分を授ける霊を受けたのである。
                  その霊によって、私たちは『アバ、父よ』と呼ぶのである」 と証しをするのです。
                  (7) この御霊がたえず 「彼らのうちに働きかけて、その願いを起こさせ、
                  神の喜びとなしたもうことを実現にいたらせる」のであります。
                  神にたいする愛と人類にたいする愛を彼らの心に豊かに満たし、
                  それによって彼らの心を世にたいする愛、肉の欲、目の欲、生活上の誇りから潔めるのは神であります。
                  彼らが怒りと誇り、邪悪で非道な愛着から救い出されるのは神によってであります。
                  その結果、彼らは悪い言葉と行為、あらゆる潔からざる会話から救い出され、
                  人の子らにたいしてはなんの悪をもおこなわず、よき業に熱心になるのであります。
                  ----------引用終わり------------


                  ウェスレーのこの説教には虚偽があります。
                  キリストの救いに与るものの全てが「よき業に熱心」でい続けることはできていません。
                  虚偽といっても、これは理想とするところ、目指すべきところが
                  実現しているかのように楽観的に語っているに過ぎません。
                  カリキュラムに参加するものは、
                  その入り口と、最中と、修了まぎわとでは状態を異にするのです。
                  (蘇生・長成・完成ですね)
                  「いまや罪から解放され、義の僕となっている」 といいますが、
                  多くのクリスチャンは“義の僕”と呼べるほどには善行ばかりをすることはできないのです。
                  それが“養子”である所以と言えましょう。

                  ---------引用開始------------
                  (8) 総括しますと、生まれながらの人は神を恐れもせず愛しもしません。
                  律法のもとなる人は神を恐れ、恵みのもとなる人は神を愛します。
                  第一の人は神の事柄について光をもたず、まったく闇のなかを歩きます。
                  第二の人は痛みをあたえる地獄の光を見ます。
                  第三は喜ばしき天の光を見ます。
                  死のなかに眠っている人は偽りの平和を得ています。
                  目覚めた人はまったく光を得ません。
                  信じる人は真の平和を得ています。神の平和が彼の心を満たし、支配するのです。
                  洗礼を受けたにせよ受けないにせよ、本質的に異教徒である人は自由を得ていると空想していますが、
                  それは実は放縦にすぎないのです。
                  ユダヤ人もしくはユダヤ教的秩序のもとにある人は、重く悲しい奴隷状態にあります。
                  キリスト者は神の子たちの真に光栄ある自由を楽しみます。
                  目覚めることなき悪魔の子は喜んで罪を犯します。
                  目覚めた人は不本意ながら罪を犯します。
                  神の子は 「罪を犯さず」、「身をつつしんでいるので、悪しき者が手を触れるようなことはない」のです。
                  結論をいうと、
                  生まれながらの人間は勝つこともなく、戦うこともありません。
                  律法のもとにある人間は罪と戦いますが、勝つことができません。
                  恵みのもとにある人間は戦って勝ち、実に 「自分を愛してくださる方によって、勝ち得てあまりがある」 のです。

                  ----------引用終わり------------


                  「自分を愛してくださる方によって、勝ち得てあまりある」
                  クリスチャンたちはこの状態にあるのではなく、
                  この状態を目指して生きています。
                  「洗礼を受けたにせよ受けないにせよ…」という表現が、
                  洗礼を経ても必ずしもクリスチャンとしての理想に到達し得ないことを物語っています。

                  しかし、このような恵みが必ず与えられるであろう事を彼らは“信じることができる”のです。
                  キリスト教の三大徳目として「信仰・愛・希望」が上げられます。
                  殊に、彼らは肉による法、即ち罪からの解放は、肉の生を終えた後に
                  栄光とされることを信じています。

                  律法の規定による行いが審判の全てである立場では過ちに対する救済がありませんので、
                  その行動に躍起になり、動機の探求などすることはできません。
                  クリスチャン達は“栄光”を約束されていると信じることができるので、
                  自らの“魂”と向き合うことができるようになります。
                  「恐れと奴隷の霊」、「子たる身分を授ける霊」などの表現でわかりますが、
                  養子圏に入ると、霊の干渉が意識されるようになります。

                  注目すべきは、18世紀に既に三段階の心情が意識されていたことにあります。


                  この三段階を踏まえて、四段階目“庶子”を考察してゆくことが可能にないます。

                   

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                  成長八段階−僕
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                    成長八段階-僕についてです。

                    先週脱線してしまったので今週はちゃんと書かないといけないですね。
                    引き続きジョン・ウェスレーの説教からです。
                    実は桜葉は読み違いをしていたようなので修正が必要です。

                    原理講論の復活論復活摂理によれば
                    旧約的信仰−行義(蘇生)、
                    新約的信仰−信義(長成)、
                    成約的信仰−侍義(完成)
                    と分類します。
                    同時に、再臨主を迎える前にイエス様の十字架によって、
                    救済摂理は養子圏の恩恵を受けられる時代圏に入っているとされます。
                    (イエスを中心とする復帰摂理、メシヤ再降臨準備時代)
                    つまり、新約的信仰の基準はそのまま養子圏の心情基準であると考えることができるのです。


                    この説教に於いてもまとめの部分で、
                    『生まれながらの人は神を恐れもせず愛しもしません。
                    律法のもとなる人は神を恐れ、
                    恵みのもとなる人は神を愛します。』

                    という文があります。
                    恵みのもとなる人というのはキリスト者を指します。
                    彼は十字架の救済による限界を感じていませんので、
                    キリスト者は罪を犯さないとこの説教は語ります。
                    しかし、実情は、多くのキリスト者が罪に抗いきれずにいます。


                    さて、僕の僕は宗教圏外でしたが、ここからは宗教圏に入ってきます。
                    僕圏の解説部分であると思っていた箇所が、
                    実は養子圏の入り口を語っていたので、僕圏についてはあまり書かれてはいません。

                    ----------引用開始------------
                    (1) ある恐るべき摂理や、御霊の証明をともなって具体的に語りかけられる御言葉によって、
                    神は暗黒と死の陰に横たわって眠っている人の魂に触れられます。
                    彼ははげしくゆり動かされて目ざめ、自分の危険を意識するのです。
                    あるときは瞬間的に、あるときはしだいに、彼の理解の目が開け、
                    そのときはじめて (おおいが部分的に取り除かれて) 自分の置かれている状態を知ります。
                    恐ろしい光が彼の魂にさし込んできます。
                    それは底なしの穴から、最深の淵から、硫黄の燃える火の湖からさしてくるかのように思われる光です。
                    ついに彼は、愛と憐れみの神はまた 「焼きつくす火」であること、また彼は正しくかつ恐るべき神であって、
                    すべての人にその業に応じてむくい、
                    すべての無益な言葉、いな、
                    心の想像にたいしてすら、不敬虔な者を審きたもうことを知るのであります。
                    いまや彼は、大いなる聖なる神は「目清きがゆえに悪を見られない」お方であり、
                    ご自分にそむく者すべてに報復し、悪人の面前で報いたもうこと、
                    そして 「生ける神の御手のうちに落ちるのは、恐ろしいこである」ことを、明瞭にみとめるのであります。
                    ----------引用終わり------------

                    罪には罰が与えられることに気付くということでしょう。
                    しかも、この世の刑事罰などと比べても、生半可な罰ではないと感じられるのですね。


                    ----------引用開始------------
                    (2) 神の律法の内的・霊的な意味がいまや彼のうえにまぶしい光で輝きはじめます。
                    彼は 「戒めはかぎりなく広く」「なにものもその光から隠されているものはない」ことを知ります。
                    彼は、その一つひとつが外的な罪や従順に関係するのみでなく、
                    神の目以外には見抜くことのできない、魂のかくれた奥で起こったことにも関係していることを知ります。
                    いまやもし彼が 「殺してはならない」 という言葉を聞くと、
                    神は雷鳴のように「兄弟を憎む者は人殺しである」、
                    「兄弟にむかってばか者という者は、地獄の火に投げ込まれるほどに嫌われる」 と語られます。
                    もし律法が「姦淫してはならない」 というと、「だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、
                    心のなかですでに姦淫したのである」という主の声が彼の耳にひびきます。
                    このように、あらゆる点において、
                    彼は、神の言葉が 「生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭い」ことを感じます。
                    それは 「精神と霊魂と、関節と骨髄を切り離すまでに刺しとおす」のであります。
                    いな、それ以上であります。
                    なぜなら彼は自分がかくも大いなる救いを無視し、彼をその罪から救いたもう「神の子を踏みつけ」、
                    「契約の血を汚れた」、平凡な、潔からざる 「ものとし」 たからであります。
                    (3) そして彼は「神の御前には、顕わでない被造物は一つもなく、
                    すべてのものは、神の目には裸であり、顕わにされているのである。
                    この神にたいして、私たちは言い開きをしなくてはならない」ことを知っているのと同じく、
                    また自分自身が裸であり、自分が縫い合わせたいちじくの葉、
                    すなわち、彼の貧弱な見せかけの宗教や徳、
                    神にたいして罪を犯したことにたいするあさましい言い訳けをことごとく
                    はぎ取られていることをも知っています。
                    ----------引用終わり------------

                    ばれなければOKということなどない。
                    明らかにされない罪はないということ。
                    ばれなければOKというのは僕以下で“僕の僕”の情だということです。
                    宗教団体の幹部クラスにこういう人たちが少なからず混ざっていることが噂されます。
                    勿論、そんな人ばかりではないとは思いますが。

                    ここでウェスレーは、律法(旧約)の文言の後に福音(新約)の文言を連ねています。
                    従う法が律法であろうと福音であろうと法を恐れて服従するものは同じ事で、
                    彼らを指して“奴隷”と表現します。
                    これは聖書に限らず、救済の教えを説くどの団体・グループの教え全てに共通して言えることでしょう。
                    場合によっては、国法などの一般的法律について同じように捉えることもありえます。
                    その場合には“正義”を信奉しているといえます。
                    また、日本的な表現で、お天道様はお見通しだと言う人もあります。
                    慣習の中に根付いている僕圏の感覚であります。

                    ----------引用開始------------
                    彼の心は顕わにせられ、彼はそれがことごとく罪であること、
                    「よろずのものより偽るもので、はなはだしく悪しき」ことに気づきます。
                    それは口でいいあらわすことのできないほどに、まったく腐敗し、いとうべきものになっています。
                    そのなかにはなに一つ善きものはなく、不義と不敬虔のみであります。
                    そのすべての動き、すべての気質と思いは絶えずただ悪のみであります。
                    ----------中 略-----------
                    彼は、「罪の支払う報酬」、とくに自分の罪にたいする正しき報いは 「死である」こと、
                    まさに第二の死、死ぬことのできない死、地獄における肉体と魂の壊滅であることを感じるのです。
                    (5) ここにおいて彼の喜ばしき夢、迷妄の安息、偽りの平和、虚偽の安全は終わりを告げます。
                    彼の喜びはいまや雲のように消え去り、かつて愛した快楽ももはや彼を喜ばさなくなります。
                    それらは味気なくなり、彼はそのような吐き気をもよおすような甘さを嫌い、
                    それに耐えられなくなります。
                    (6) これらの麻薬の煙はいまや吹き払われて、彼は傷ついた魂の苦痛を感じるようになります。
                    魂のうえに解き放たれた罪
                    (それが誇り、怒り、悪しき欲望などであれ、我意、悪意、嫉妬、復讐心その他であれ) は、
                    まったくの悲惨であります。
                    ----------引用終わり------------

                    ここはウェスレーによる罪観の表現でありましょう。
                    この罪の悲惨さについての記述が続きます。
                    ここで語られる罪は、もはや行いが全てである“僕”に感得される罪観ではないのですが、
                    ウェスレーにはそこに線引きがありません。
                    (多くの僕圏の人は“罪”を“法”によって定義しようとします。
                    “法”の中に思っただけで罪だと書かれていればそのように認めます。)

                    ----------引用開始------------
                    (7) いまや彼は罪から解き放たれることを真実に願い、それとたたかいはじめます。
                    しかし彼は力をつくして努力しますが、勝つことができません。
                    罪が彼よりも強いからです。
                    彼はなんとかのがれようとします。
                    しかし彼は牢獄にしっかりとつながれていて、出ることができません。
                    彼は罪に抵抗しますが、罪を犯しっづけます。
                    彼は罠を見、それを厭いつつ、そこに走り込んでしまいます。
                    彼は誇りとする理性をかり出すのですが-------結局は自分の罪責を加え、悲惨を増すだけです。
                    意志の自由とはそのようなもので、悪への自由、「水のように不義を飲む」 ことへの自由、
                    生ける神からますます遠くさまよい出、ますます 「恵みの御霊を侮る」 自由であるにすぎません。
                    (8) 彼が自由になろうとつとめ、願い、労すれば労するほど、
                    彼はくさりにつながれていることを強く感じます。
                    それはサタンが彼をしばり、「とりこにして意のままにする」、悲しい罪のくさりであります。
                    どんなに不平をいっても、彼はサタンの奴隷です。
                    反抗しても、勝ち目はありません。
                    彼はいまなお、罪のゆえに、奴隷と恐れのなかにあります。
                    ----------引用終わり------------

                    この罪観を得た人は、真剣な救済を神に求めます。
                    律法の奴隷から、罪の奴隷へと転じた瞬間でありましょう。
                    この救済を求める信仰は、もはやキリスト者の信仰と言えるでしょう。
                    僕の信仰では、不義なる心は罪ではありません
                    そのような“思い”が信仰によって変えられるとは考えても見ません。
                    必要さえないのです。


                    守ろうにも守りきれない法に直面した人は、
                    この後赦しの神の愛を知るようになります。
                    それはまた次回へ。

                    | おーば | 心の成長 | 13:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    成長八段階-僕の僕
                    0

                      僕の僕、僕、養子(個人、家庭、氏族)
                      この三段階は、どう考えてみても蕩減的な名称が当て嵌められています。
                      本然的に語るなら、新生児、乳幼児、少年とでもするのが妥当でしょう。

                      新生児というのはお母さんのお腹の中から出てきて、まだ自分と他人の存在さえ理解できない状態。
                      つまり世界と自分の境界がわからないので、自分の感覚だけが全てです。
                      自分の感覚で心地よいか否かだけしかありません。
                      気持ちが悪ければ泣いたり、むずかったりします。
                      究極的な自己中心の時代です。
                      保護者の働きかけなどから、自分は他者に囲まれて存在しているということに気付けば、
                      個人としてスタートすることができます。


                      乳幼児期には、自分が家庭の中にいることを自覚し
                      家族の中で愛を受け、満喫し、自分は愛されるべき存在であることを知ってゆきます。
                      これが将来生きてゆく上での自身になります。
                      愛されることに対して美を返すことを憶えます。
                      言葉を憶え、世界の概念を構築してゆきます。
                      コミュニティで生きてゆくために、やっていいことと悪いことの分別を憶えなければいけません。


                      少年期には、家庭の外に出て、同世代の友人たちの中で自分の能力を発揮して確かめます。
                      自分の長所、短所を知るために様々な競争をしてみます。
                      一方的に愛されてきた時期から卒業して自分よりも弱い存在を思いやったり、
                      友人たちと協力して大きな事をすることも憶えます。


                      この後に思春期を迎えるのですが、
                      養子圏の後の立場、長成期完成級にあたるところから、
                      新生児期、乳幼児期、少年期がそれぞれ
                      蕩減的には僕の僕、僕、養子のそれぞれに該当するものとして問題ないかと思えます。

                      蕩減的内容について、以前に紹介した
                      http://blog.o-baka.com/?eid=285
                      18世紀英国教会、ジョン・ウェスレー説教『奴隷の霊と子たる身分を授ける霊』で見てゆきましょう。
                      http://d.hatena.ne.jp/JosephGemma/20090423
                      この説教は養子圏までの三段階を見事に表現していると思います。
                      PDFで12ページになりますので、抜粋しながら進めます。
                      抜粋ですのでリンク先から全文をお読みいただくことをお勧めします。


                      ----------引用開始------------
                      恐れも愛もない心の第一段階にある人のことを、聖書は 「生まれながらの人 (natural man)」と名づけています。
                      このことを聖書は 「眠っている状態 (a state of sleep)」と言いあらわしています。
                      神は彼にたいして 「眠れる者よ、起きよ」と御声をかけられます。
                      なぜなら彼の魂は深い眠りにおちいっているからです。
                      その霊的感覚がめざめておらず、霊的な善も悪も識別できません。
                      彼の理解力の目は閉じられており、封印されていて見ることができません。
                      いつも雲と闇におおわれています。
                      なぜなら彼は死の陰の谷のなかにいるからです。
                      したがって、霊的な事柄に関する知識の入口がないので、彼の魂の道はことごとく閉ざされ、
                      彼は自分が最も知りたいと思うことについて、粗野で愚かしい無知の状態にあるのです。
                      彼は神に関してまったく無知で、神について知るべきことをなに一つ知りません。
                      彼は神の律法とその真の内的・霊的意味についてまったくの門外漢です。
                      彼は、それなしにはだれも神を見ることのできない、福音的聖潔 (evangelical holiness) について、
                      また 「そのいのちが、キリストとともに神のうちに隠されている」 人だけが見いだすことのできる幸福について、
                      なにも考えられません。
                      ----------引用終わり------------

                      この内容は、プロテスタントの立場で語られているのでクリスチャンとしての喜びを至福の物とする立場です。
                      聖書の教えを知らないことが重大な問題であると語りますが、
                      広く信仰者としての立場から、しても、霊的な存在とことわりについての無知として捉えることができます。

                      信仰を持つ立場では重大な問題なのですが、
                      信仰を持たない人にはなんとも馬鹿げた話に聞こえるかもしれません。
                      しかし、それが生まれたままの人であり、
                      調和した美しい世界を願われる神との心情関係に於いては
                      直接神を知ることができない僕の僕という位置づけになってしまうのです。

                      ----------引用開始------------
                      (2)
                      そして、彼が深く眠っているというまさにこの理由から、彼はある意味で安らかであります。
                      彼は目が見えませんから、安全でもあります。
                      彼は「なんの。私には悪いことはなにも起こりはしないさ」といいます。
                      闇が四方から彼をおおっているので、彼は一種の平安のうちに置かれています。
                      もっともそれは平安が悪魔の働きや、地的・悪魔的な心と共存することができるかぎりにおいてのことであります。
                      彼は自分が穴のふちに立っているのが見えません。
                      だからそれを恐れないのです。
                      危険を知らなければ、おののくことはありえません。
                      恐れるだけの理解がないのです。
                      ----------引用終わり------------

                      まぁ、知らぬが仏という状況ですね。
                      『悪魔の働きや、地的・悪魔的な心と共存することができるかぎりにおいて』という表現は、
                      この説教が“罪”にたいする無知、ノンセンスに重きを置いていることが判ります。

                      ----------引用開始------------
                      (4) しかしこの無知は、知識人と称される人びとにおけるほど強くあらわれることはありません。
                      もし生まれながらの人がこの種の人間のひとりであるなら、
                      彼は自分の理性能力や意志の自由や、
                      人間を道徳的主体として構成するためのそのような自由の絶対的必然性などについて長々と語ることができるでしょう。
                      彼は、すべての人は意志するとおりになしうるのであり、
                      自分の目によしと見えるとおりに、善であれ悪であれ、自分自身の心を動かしうるのだということを、
                      読みかつ論じ、かつ証明します。
                      こうしてこの世の神が、「キリストの栄光の福音の輝きを」 まったく 「見え」なくさせようとして、
                      彼の心に二重の暗幕をひろげるのです。
                      ----------引用終わり------------

                      この世の知識が問題ではないということです。
                      説教はこの後、彼が地位や財産を持つものである可能性にも触れますが、
                      それらも霊的賜物とは無関係であるとします。
                      却って“この世の神”に熱心に使えれば、
                      “この世の富”に恵まれていることもありえます。
                      どんなに立派な学者であっても“罪”の自覚の無いものは、“生まれながらの人”であるというのです。
                      “この世の神”の下に生きているというところから、これが“僕の僕”に該当していることが判ります。

                      ----------引用開始------------
                      (7)
                      このようなとき、彼はいぜんとして罪の僕であります。
                      彼は多かれ少なかれ、日々罪を犯しています。
                      しかし彼は思いわずらうことがありません。
                      ある人がいったように 「彼は奴隷状態にはない」 のです。
                      彼はなんのとがめも感じません。
                      彼は (キリスト教の啓示は神から来たものであると信じていると公言しているとしても)、
                      「人間は脆い。われわれはみな弱い。すべての人は病んでいる」ということで満足しているのです。
                      たぶん彼は聖書を引用して
                      「なに、ソロモンが、正しき人も一日に七度罪に倒れるといっているではないか。
                      そして隣人よりも善良であるかのようによそおう人はすべて偽善者であり熱狂主義者である」というでありましょう。
                      もし彼が真面目に考えざるをえなくなったとしても、そのときはいつでも、
                      「神は憐れみ深く、キリストは罪人のために死なれたのであるから、なぜ私が恐れる必要があろうか」といって、
                      できるだけその考えを抑えるのです。
                      このようにして、彼は、腐敗の奴隷であることに満足し、内的にも外的にも汚れに沈み、
                      しかもそれに満足し、罪に、とくに自分が犯しやすい罪に打ち克とうとしないのみならず、
                      打ち克とうと努力することさえせず、喜んで罪の奴隷でありつづけるのです。
                      ----------引用終わり------------

                      驚く無かれ、聖書の知識を持っていたとしても関係が無いのです。
                      ここに解説される“彼”は、もしかすると、信仰者のように振舞うこともできるかもしれません。
                      しかし知識があったとしてもそれを行うことに価値をおきませんので、
                      振舞ったとしてもそれは自分の利益のためのパフォーマンスでしかありません。

                      ここで問題にされているのは“罪の自覚”とその“克服に対する意欲”と見て取れるでしょう。

                      “罪”とは、ここでは聖書に禁じられている事柄と考えてよいでしょう。
                      十戒において禁じられること、愛、寛容などの欠落…。
                      これらの罪は他者に対して犯される罪です。
                      他者の立場など全く関係が無いどころか、そこに感受性も無いわけですから、
                      新生児が他者の存在を認識していないのと同じ段階であると言えます。

                      説教の続きは次回以降取り上げます。

                      | おーば | 心の成長 | 19:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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