おーばのつぶやき

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
UCの教理的問題を考える-6(end)
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    絶対的創造主

    絶対的であるとは、どういう状態でしょうか?
    あまり真剣に考えたことがある人はいないのではないでしょうか。
    それは、相手や環境によって変化することがなく、自存的な状態です。

    では、人間の堕落によって悲しみ続ける神が絶対者でしょうか?
    この時点で、対象によって変容する心情を持つ、つまり相対的な感情をお持ちであることになり、
    UCで唱える神観は、絶対的ではないことをあらわします。

    前記事の定義によれば、絶対的ではない属性は神のものではないとしましたので、
    神は誰かの姿に悲しんではいけないのです。
    同時に喜ぶことも無いということです。

    ここで論理破綻をおこし、現役・元に関わらず、UC内に混乱を呼んでいると感じます。

    組織を管理する立場から考えると、
    絶対的な基準があると管理が楽になります。
    神・メシアの存在を絶対視して、そこから外れれば(と、見えれば)切り捨ててしまえばいいのです。
    地獄行きの烙印を押して放り出せば、組織の安寧を図れるような気がするのです。
    しかしこれは三天法の心情蹂躙に抵触しないのでしょうか?

    (相対的な)喜怒哀楽の無い神というのは、
    UCで信仰生活をしてきたものにとってはとうてい受け入れることができない話です。
    信仰生活の中で出会う神は悲しみに満ちていると同時に、
    幼い私のささやかな捧げ物に満面の笑みをくださるお方です。
    喜怒哀楽を持たない神様などありえません。
    単純に絶対的な存在とする定義が間違いであることを認めざるを得ません。

    これは、神が相対的なことを表すのではなく、
    神の喜怒哀楽の評価基準は絶対的であり、
    神の予定に沿う行動をすれば神は喜び、
    罪の行いをすれば悲しむという
    単純な評価の表れでしかないのでしょうか?
    評価を個人に知らしめるための単なるサインでしょうか?
    私はそんなに単純なこととは思っていませんが、
    仮にそうであったとしても、この信仰の経験は、
    人の行動が神の喜怒哀楽に影響を与えることを教えてくれます。

    もっとも、これは、個々人が信仰生活の中でどのような神との出会いを持ち、
    何をもって神を慕うのかにかかります。
    「私は絶対的存在、強くたくましい神に拠り頼むものであり、
    そのような頼りない神では、人類救済摂理など成り立ちはしないではないか。」
    そう主張される人には無理強いすることはできません。
    また、私たちが神だと思っていた存在は、実は神ではなかったとうい話かもしれません。
    個人のただの思い込み、勘違いだとする人もあるかもしれません。
    しかし、それは宗教を奉じる全ての人への挑戦となります。
    考古学上、猿と人間を分かつポイントは、埋葬の習慣の有無とする話があります。
    埋葬とは、宗教儀式とされますので、宗教を持つ者が人間であると定義されているようなものです。


    聖書にも、ノアの洪水の時に後悔されたり、アブラハムの信仰に喜んだり、
    イエスの十字架を悲しむ神の姿が描かれ、
    文師の御言葉にも、『孤独でかわいそうな神の友になりたかった』というものがあります。
    統一教会で教えられた神の姿は、けっして栄光の玉座におわす絶対者ではありませんでした。

    では、何を持って原理講論は絶対性を主張しているのでしょうか?
    神に対してのみならず、絶対信仰、絶対愛、絶対服従
    …信徒に対しても絶対性を求める御言葉があるようです。



    桜葉思うに、
    愛に於いては対象によって影響される神ではありますが、
    こと、原理に於いては絶対性をもって対される神ではないかと思うのです。
    絶対性と相対性を兼ね備えていらっしゃる神とでも申せましょうか?

    原理、特に創造原理に於いては、絶対的であると感じます。
    創造原理は全ての化学の根源であります。

    地球の公転、自転は人類歴史の始まる以前から変わる事は無かったでしょう。
    だから科学者たちの観測の結果は、何処の誰が行っても常に一致しているのです。
    創造原理が複雑に展開した結果が天体の運行に繋がっています。

    もっと判りやすい例えでは、
    どんなに愛し合ったとしても、同性の夫婦には子供は生まれません。
    陽陰の結合によらなければ新たな命は絶対に生まれないのです。

    絶対的な原理を前提として、人類は日常生活を送っています。
    絶対的だから信頼して生活することができます。

    創造理想を実現するために設けられたルールが四位基台をはじめとする創造原理であり、
    そのまま天法であるのではないかと感じます。
    これが絶対的なのです。



    ところで、絶対者とは対立するものの存在を許しません。
    絶対的なものに対立すればそれは存在することができません。
    対立するものが存在しうる場合、それはもはや絶対的ではなくなってしまいます。

    堕落やサタンは、絶対性に対立する事件・存在ということになります。
    だから神は堕落行為には干渉なさらなかったという行はそのごとくなのでしょう。
    原理に違反する存在に干渉するということは、その存在を滅ぼすことではないかと思います。

    絶対的存在に対立するものは淘汰されるしかありませんが、
    神は堕落して、創造原理違反している人類を淘汰されることはありませんでした。
    人類の罪を、原理的には許されざる存在なのですが、
    心情の神は、それを悲しみとして引き受け、対立を避けたのではないでしょうか。
    創造原理違反ぎりぎりの鬩ぎ合いをしておられるのかもしれません。
    相対性を駆使し、て絶対性のラインを維持されているのではないでしょうか。


    神は人間に自由を与えられたが故に、神は人の自由に干渉しません。
    自由な行動に干渉すれば、対立がおこり、反対者が現れる可能性があります。

    絶対者は対立しない。対立した時点で相対化します。
    対立は賛同者と反対者を生みます。
    対立した時点で絶対性は失われます。

    絶対者は全体と矛盾しません。
    矛盾とは、対立を意味します。

    絶対存在は複数の異なる存在ではありえません。
    多数になった時点で相対化するので絶対性が失われます。
    一は全であり、全は一である。

    森羅万象は堕落していないので絶対者と同調・調和しますが、
    人間は堕落しているので調和できません。
    絶対的天法を判らないんですね。


    …自由こそが罪のように見えてきます。


    自由は絶対者との対立を生む可能性を持ちます。
    (あくまで可能性です。)

    では自由を放棄すればいいのでしょうか?それは良くありません。

    そもそも、罪とは不幸の原因ですが、
    自由は不幸の原因でしょうか?
    たしかに間違いを犯す可能性から、不幸の原因となりえます。
    では、自由の無い人生は幸福でしょうか?
    これに賛同する人は殆どいないでしょう。

    そもそも、自由を与えないなら、神が人間を創造することに意味がありません。
    統一原理では、喜びの対象として人を創造されたと書かれています。
    愛が愛らしくあるために人に自由を与えたと書かれています。
    愛の喜びを得たいと神様は願ったのです。

    つまり人が絶対者との対立を生まない自由の行使を習得すれば善いのです。
    そこに円満な世界が生まれるでしょう。

    結論としては、
    神と同じ立場に立って自由を行使すればいいのです。
    神の願いは四位基台のフラクタルにある美と愛を堪能するところにありましょう。
    http://ameblo.jp/albert-o-baka/theme-10090541130.html

    絶対者たる神がわからなくなったのが堕落であり、私の罪です。

    が、しかし、対立を生まない自由などあるのでしょうか?
    そんな問題になりそうです。


    親の保護下の幼児

    文師は、人と神の関係を親子であると伝えています。
    保護者の監督下にある幼児は、ある程度の我儘が許され、愛されています。

    親子関係のフラクタル構造が構築されていれば自由な調和が期待できます。
    人は、堕落によって真の父母を失ったという御言もあったと思います。
    フラクタルの頂点(コア)に立つ人が、人類始祖であったのでしょう。

    二世であれ、三世であれ、父母を必要とします。
    生まれた子供は養育されなければなりません。
    ほったらかされてはいけないのです。
    しかも、対立の無い環境の中で育てられる必要があります。
    神の環境には対立がありません。

    環境の物理的危険は学習によって、対立ではないことを学べます。
    そこには却って神の愛を見出すことができるでしょう。
    しかし、現代の人為的危険は幼児に対立を教えてしまいます。
    誘拐や暴力、虐待、イジメ…これらから子供たちを保護するためにも
    ホームチャーチが必要になってくるのです。



    既に生まれて育ち大人になっている私たちは
    どうやって生まれ変わることができるのでしょう?


    私たちはそもそも、罪(対立)のある環境に育ち、
    罪(対立)を吸収して育っています。
    罪(対立)を体恤して育っているのです。

    この対立はどうやって消し去ることができるのでしょう。

    対立の根を打ち消すしかないのですが、これが自己否定です。
    (祝福が断つとするのは原罪であり、自犯罪・連帯罪・遺伝罪は関係がありません。
    祝福を受けることで、却って自己否定が始まった人もいるのではありませんか?)
    個人的対立、家庭的対立、氏族、民族、国家、世界と
    それぞれの段階で自己否定しなければなりませんが、
    家庭的段階では家庭を代表していなければなりません。
    しかし、家庭を代表することの意味を分かりません。
    夫であるなら妻子の痛みを知った上で代表しつつ、
    妻子から代表権を受け取って代表しないといけません。
    これを氏族、民族…とやらなければいけません。
    (代表権は、恐らく長子権と表現されているものと同義なのかもしれません。)

    「私には対立するものがありません」
    そう言えるようにならなければいけないのです。
    そうやって天宙的代表権を得ればみ旨は完成です。

    文師がメシアであれば、心情的にその域に達していらしたのかもしれませんが
    実体的に反対者がいるので、実体摂理は完成されていません。
    復帰された実体がないので、二世、三世は罪に染まるのです。


    実体的なフラクタルのコアに立つ者がいません。
    このコアに立つ者が後継者(第四アダム)ということなのでしょうか。


    しかし、こうやって意見表明する毎に対立軸は増えてゆきます。
    だったら黙って迎合的に過ごせばいいでしょう。
    ただ迎合的でいても、そこに調和は生まれません。

    それは自由が否定されることであって、創造理想に背くからです。
    この次元においてのみ、神の願いに生きる自由の行使が可能になります。
    表明して否定されるとき、これを甘受すれば
    ただただ許し続けてくださった神と“似た者”を目指せるのだと思います。

    最初から否定を恐れて引っ込めば、
    私の罪はいつまでもくすぶり続けるでしょう。

    残念ながら、組織の管理体制は頭からの否定を求めるので、
    会員たちの心情・心霊の成長を妨げているように見えるのです。

    | おーば | 罪・悪 | 13:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    UCの教理的問題点を考える-5
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      法廷論的罪を宗教儀式で贖っていただいたと信じる人たちは、
      頑張って自力で堕落性を脱がないといけません。

      原罪による讒訴圏外に立っているのだから、
      きっと難なく脱げるに違いないでしょう。
      だけど、遺伝的罪と連帯罪と
      今まで犯した自犯罪による讒訴があることをお忘れなく。
      (そう言って韓国人幹部たちが日本を虐げ、清平はお金を巻き上げているのでしょう。
      だけど清平、韓国人幹部は三天法違反してる人がいっぱいいるらしいというのだから泥沼です。)



      私たちを不幸に陥れる罪について、よく知らなければいけないんです。

      きちんと考えないといけないのは自犯罪です。
      何故なら、原罪も、遺伝的罪も、連帯罪も、それぞれ誰かの自犯罪なのですから。


      三天法は、血統、心情、公金の問題。
      このことはどんな風に解説されているのかしら?
      発表された当時はもう現役ではなかったので良く知りません。
      血統のことは一般にはアダム・エバ問題(男女問題)と言われてますが、
      “血統”と表記されているからには更に何か意味があるかもしれません。
      額面どおりの男女問題かもしれませんけどね。
      公金とは、教会のお金のことのみではなく、
      万物一般を公的に扱わなければそれでアウトという人もあるようです。
      心情蹂躙については、“心情”の世界なので目に見えるものではなさそうです。
      (これ、見方を変えると、“体”と“心”と“行動”に相当しますね。
      更に言うと知情意です。〜桜葉は“体=知”と読んでいます。〜)

      三天法に留まらず、天法とは何でしょう?
      四位基台を破壊する行為と言う人があります。
      四に非ずと書いて“罪”という話をする原理講師もいましたが、主流的な話ではないでしょうね。


      天法を立てられたのは他ならぬ神ご自身でありましょう。
      サタンはこれを破る方向に働く存在ですし、
      人類始祖がこれを犯しているので、その時には既に立てられていたものであるはずです。
      神ご自身、あるいは善なる天使も制定に加担している可能性はありますね。

      そのときに基準になるものはなんでしょうか?
      神の創造理想に他ならないでしょう。
      天地創造のさなかに立てられた法であれば、
      創造理想を実現するために立てられたと考えるのが妥当です。

      統一原理では四位基台の完成が神の創造目的であるとします。
      だから先の「四に非ず…」はなかなか的を射ているのです。



      四位基台というと、家庭的四位基台を連想する人が殆どだと思いますが、
      原理講論に書かれているだけでも、三大祝福全てに適用されているのがわかります。
      三天法の“血統”は第二祝福、“公金”は第三祝福に相当しますね。
      “心情”は“誰”の心情だか不明なので分析不可。
      仮に自分自身の心情を蹂躪するなら第一祝福に相当します。


      不幸から逃れるためには罪を理解しなければなりません。
      罪を理解するためには四位基台を理解しなければなりません。


      とは言っても、四位基台は無数の階層構造を成していますので、
      被造世界の構造を正しく理解していなければ
      何処にどのような四位基台が造成されているのかわかりません。


      個体的四位基台であれば、心と体の授受の関係だけで四位基台は造成されます。
      そうすればサタンの思いを持ったらもう罪ということになります。
      しかし、統一原理では、心がどのような構造で成り立っているのかを明らかにしていません。

      最近“広神学研究所”ブログで表現されているのは、
      主体=情、対象=知、合成体=意とされていますが、
      この点では私も広先生に同意見です。

      私は、このとき神を中心とした動機、正しい知性をもとに正しく意思決定されなければ
      行動に移す以前、意思決定の時点で罪が成立すると考えます。
      この世の法では罪に問われる次元ではありませんね。


      四位基台で難しいのは、何処にその構造が潜んでいるかという問題と共に、
      中心に据える“神”そのお方がとらえどころ無い方だということです。

      UCでは、神は絶対者とみなされています。
      (原理講論1-4創造本然の価値)
      同様に、キリスト教でも、イスラム教でも、ユダヤ教でも絶対的な存在ですが、
      同じ聖書の民でありながら、それぞれの善悪判断基準は異なり、
      互いに対立しているのが現状です。
      もちろん、それぞれが信じる神の姿が正しいのだと確信しています。
      これでは信じる宗教によって罪は相対化されます。
      絶対者を信じる彼らの姿が、却って絶対性の危うさを物語っています。


      UCでは、メシアである文教祖が絶対性をもって君臨していましたが、
      亡くなられて後、基準となっていた文師の後継者、
      つまり絶対基準が誰なのかをめぐり迷走しています。
      後継者の候補者は互いの間違いを指摘しあっています。
      誰に従うかで、罪の基準が異り、相対化しているのです。

      “絶対”など存在しないというのが、世の定説です。
      しかし、信仰者(一神教)は“絶対者”を知っていると言う。
      実は、数学者は公理公式を、
      科学者は観測、実験結果、定理を“絶対”としている。

      罪の問題は、不幸の原因と還元されれば
      幸・不幸の問題であり、それを感じる心の問題となる。
      客観的観測や実験はできないし、公式もない。
      (客観的という表現さえも実はまやかしなのですが、テーマが違うからここでは掘り下げない。)

      信仰の自由が謳われる現代社会に於いて、
      絶対者としての神など世迷いごとであろうか?

      実は簡単である。
      「そのように定義すればいい」
      それだけ。

      そう定義して、その定義から外れるものは神の属性ではないと判断すればいい。
      文師は絶対者とは言えない。
      それは反対する者があるからです。

      本人の御言の中には「私には反対する者がありません」というのがあります。
      もし、反対したとしても抱きしめて愛して、反対しないようになるまで離さないからだという内容でした。
      悪魔でも反対することができない、それが絶対者なのですが、
      文師の“絶対”についての感覚も、これに近いのだと思います。


       

      | おーば | 罪・悪 | 21:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      UCの教理的問題点を考える-4
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        大分間が空きました。
        前記事で書いたように、四研と少し関わったこともあります。
        外的な仕事に追われることもありますが、
        頭の中の整理に時間がかかります。

        意見の一致するところは少なからずありますが、
        違和感を感じるところも残ります。
        この違うところが、却って重要なのだと思います。
        違うところがあるからこそ授受が可能であり、
        新しい世界を見出すことができます。
        …これができない代表格がUC本体ですね。

        授受できないのは不幸なことだと思うのですが、
        不幸の原因は罪にあるので、これは四研の罪なのか、はたまたUCの罪なのか?




        罪の問題を考え続けます。

        何故ならそれが天国への障壁だからです。
        そして、UCの教理の中心がここに関わる問題です。

        罪についてそのように定義しているのは
        原理講論であり、私はその定義を採用しています。
        天国実現は私がUCに関わるようになった動機であり、
        それを実現するための課題として提示される問題だからです。

        事実、UCではこのことで多くの問題提起をしてくれています。

        罪については堕落論で定義されます。
        『罪とは、
        サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、
        天法に違反するようになることをいう。
        その罪を分類してみれば、第一に原罪というものがあるが、
        これは人間始祖が犯した霊的堕落と肉的堕落による血統的な罪をいい、
        この原罪は、すべての罪の根となるのである。』

        第二に遺伝的罪、第三に連帯罪、第四に自犯罪と解説され、次のように結ばれます。

        『すべての罪は、その根に該当する原罪から生ずる。
        それゆえに、原罪を清算しない限りは、
        他の罪を根本的に清算することはできない。
        しかしながら、
        隠されているこの罪の根はいかなる人間も知ることができないもので、
        ただ人間の根として、
        また、真の父母として降臨されるイエスのみがこれを知り、
        清算することができるのである。』


        原理講論には、堕落論の前に総序にこうあります。
        『我々は、善の欲望を成就しようとする本心の指向性と、
        これに反する悪の欲望を達成させようとする邪心の指向性とが、
        同一の個体の中でそれぞれ相反する目的を指向して、
        互いに熾烈な闘争を展開するという、人間の矛盾性を発見するのである。
        存在するものが、いかなるものであっても、
        それ自体の内部に矛盾性をもつようになれば、
        破壊されざるを得ない。
        したがって、このような矛盾性をもつようになった人間は、
        正に破滅状態に陥っているということができる。
        〜中略〜
        人間のこのような破滅状態のことを、キリスト教では、
        堕落と呼ぶのである。』

        人間の内にある矛盾性が闘争を呼び、破滅状態に陥らせている。
        それが堕落によるものであり、
        堕落によってもたらされたものを罪と呼んでいます。
        ここで罪とは、矛盾性そのものとも言えそうですね。

        だけど何故罪をこのように分類したのでしょう?
        自分の罪だけを清算すればいいというものじゃないことを強調されたかったのかもしれないですね。

        しかし、日本バッシングや清平摂理の根拠にも影響しています。

        回りくどい表現をしていますが、大切なのはここ。
        『罪とは、
        サタンと相対基準を造成して授受作用をなすことができる条件を成立させることによって、
        天法に違反するようになること』

        だからサタンと授受作用するって、具体的にどういうことなのか、
        違反してはいけない天法とは何なのか、
        この2点が明確に教えられなければいけません。

        サタンとは、堕落した天使長だと主張しますが、
        天使の存在をUCはどのくらい明確化できているでしょうか?
        霊界の実相とか言いながらも、(屁)理屈を並べるだけで
        私たちの実生活にどのように影響しているのかを具体的に説明できません。
        ただ結果のみをとりあげて、霊的恩恵だ、悪霊現象だと騒ぐのみです。

        天法とは?これは米本氏の「火の粉を払え」ブログで書かれていたので引用させていただきます。
        (江利川氏の記事からです。)
        『三天法とは2001年1月13日に文鮮明氏が語った「天法3箇条」のこと。
        1.血統の遵守(狭義ではアダムエバ問題を起こすな)、
        2.人権を守り、心情蹂躙をしない、
        3.公金問題を起こさない。』
        …「天法」というくくりであればこれだけではないと思いますが、
        明文化されているものはこれだけかもしれません。
        この文でも、「血統」という文言一つでさえ、解釈が割れるところです。
        「公金」と言っても、教会の会計に触れなければいいというものではないでしょう。

        米本氏の記事によると、江利川氏はお母様の周辺の方々にはこれに触れる人が多いとしているそうなので、
        罪の内容とその報酬について信仰暦の長い方でも身に染みてはいないということですね。
        誰も実感していないのでしょう。



        矛盾性を持つ人間の破滅的状態が堕落した状態というのですが、
        罪を犯すことが人間の矛盾性であると捉えられます。
        天法違反しないのが、人間の本来の姿であるから、
        これは性善説ですね。
        人間誰でも善の要素を持っているということです。
        しかし、蕩減復帰の道は全否定なので、個々人の善なる部分も否定していかなければならない。
        ここもあいまいな部分です。



        そして、罪とは、
        1・矛盾性を持つ状態なのか(総序)、
        2・天法違反行為そのものなのか(堕落論の罪の定義)、
        3・罪人として認定される立場なのか(罪の定義の結び部分)。


        1を、堕落性がある状態と呼んで、原罪と区別する考え方があります。
        祝福によって原罪が清算された立場であるはずの家庭に堕落性が見られるので、よく議論もされています。
        2の行為そのものは、自犯罪についてのみと言えます。
        3のメシアによって清算できる立場の問題は、法廷論的贖罪として考えられます。

        私を不幸に陥れる罪はどれでしょう?

        1の罪は自分自身の内面的問題なので、ダイレクトに感覚される問題です。
        ただしこの問題は、向き合おうとしない人たちにとっては全く感覚されないものです。
        つまり、自覚しない人には罪が無いと言えます。
        なにしろ、矛盾性が無いのですから。

        2の罪は、自分の問題もありますが、多くの場合は他人の犯す罪によって被る被害が実感的で、
        どんな人にも関係のある問題です。

        3…誰によって認定されるのか?この認定によって1、2の罪は清算されません。
        神による公認でしょうか?サタンと相対基準を造成することに関係があるのでしょうか?


        現実的に最も重大な問題は2の自犯罪です。
        つまり行為をともなう罪でしょう。
        (自犯罪は、行為に及ばなければ罪にならないという結論ではありません。自犯罪以外には行為が含まれていないということです。)

        行為があるから争い、諍いがおこり悲劇を生みます。
        この問題に気が付いた人たちによって問題にされているのが1のいわゆる堕落性です。
        3によって1が消し去られるなら3は大変貴重なことですが、
        目下のところ1が消し去られたという話は聞いていません。

        つまり、メシアという方が罪を清算してくださるというならば、
        それは法廷論的罪ではなく、堕落性を清算してくださらなければなりません。
        サタンとの相対基準の問題であるならば、それが明確化されるべきでしょう。
        3による清算を受けたと主張する人たちは、
        理屈ではなく実体を示さなければそれを証明することができません。

        | おーば | 罪・悪 | 14:51 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        UCの教理的問題点を考える-3
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          …………罪の無い子女を生んだ方はかつて居ない、
          つまりメシアも原罪を負っているということになってしまう!!!!!!!……………



          イエス様に原罪が無いのであれば、
          聖母マリアは罪の無い方を生んだのだから、彼女こそ原罪を脱いでいるということになります。
          しかし、この2000年間誰かがそのようなことを言っていたとは聞きません。
          原罪があったとしても、罪の無い子供をこの世に生み出すことができるということです。

          原罪があっても罪の無い方を生み出すことができる。
          前回の記事で書いたことと矛盾しますが、
          罪の無い子女を生み出すことさえ、原罪が脱げている証拠足り得ないということになります。


          原罪の無い方

          イエス様と文師と真の子女様と祝福二世・三世。
          イエス様と文師については、原罪を持った親から生まれたことになっています。
          つまり、原罪があったとしても、
          一定の条件があれば罪の無い子女を生むことができるということになります。

          サタンの讒訴の及ばない条件ということです。

          男系の血統がよく言われることですが、
          このことは実はあからさまには書かれていないように思えます。
          旧約聖書には男系の血統がつらつらと書かれていますが、
          ヤコブの子孫であれば誰でもいいかのように見えてしまいます。
          詳細な研究をすれば何か見えてくるのでしょうか?
          しかし、何千年も昔からの流れを辿れる人もそういないでしょうし、
          実際、文師の血統的条件がどのようであったかは明かされてはいません。

          統一教会では、祝福式の一連のセレモニーを通過することで
          血統を繋いでいただいたことになっています。
          しかし、セレモニーだけでは人格感性がなされることは無いようです。
          セレモニーを受けずとも、立派な人格は立ち得ます。
          祝福家庭の子女については、その基準は様々であるように聞いています。

          そして、これが重要だと言われそうですが、
          神がサタンの讒訴を受けずにメシアを送るためには
          迎える側の条件が整わなければならないということ。
          国家的には世界大戦とか、分裂とか、隷属とかで、
          期間や、蕩減条件や、規模を整えたりすることが求められるようです。

          そして、命がけで神様を愛した母親から生まれるということですね。
          これは聖書の中から読み取れることです。


          …条件祝福家庭では、基盤と婦人(つまり母)の信仰によって
          子女の罪が変わる可能性があるのかもしれません…。
          セレモニーが一定の条件となっている可能性は否定できませんが、
          セレモニーが十分条件または絶対条件とは捉えることは難しいでしょう。


          私たちが、「この方に罪は無い」と人間的に言うときには、
          判断材料はやはり人格です。
          だから2、3歳の子供にまで人格的成熟を求めるということになってしまう。
          そこにも無理があります。


          神と一問一答できるようになるのでしょうか?
          しかし、善悪知る木の実を食べた後のアダムとエバも、
          神と問答を交わしていますし、
          彼らの子供であるカインもまた、神との問答を交わしていますので、
          罪との関連は疑わしいかもしれません。
          対話する頻度の問題という可能性は残りますでしょうか?

          原罪というものが何なのかをUCで信仰をしていても十分に理解できると言えません。
          原罪とは個人的な人格によるものではなく、
          家系的な血統によるものでもなく、
          ましてや民族、国家的なものでもなく、
          全人類的なものなのだと考えるべきでしょう。
          だとすれば、原罪は個人的に脱ぐことなどできないのではないかとさえ考えてしまいます。

          メシアとて、個人でしかありませんし、
          真の家庭と言っても、家系でしかありません。


          原理では、罪の根として、原罪は人類の類としてのものだと解説していますが、
          教義としては根を繋ぎかえる“血統”として、まるで家系・民族的な問題にすりかわっています。
          だから先祖解怨として行われている多くの人が疑問を抱く祝福式ではないセレモニーも
          まかりとおっているのかもしれません。


          神の心情が自分の心と一致しているので、
          神が悲しむ犯罪行為を犯すことができない…というのが罪の無い人といえると思います。
          つまり、罪の無い人には堕落性は無いと言えるでしょう。
          このときには、神の存在についての理解が不可欠ですが、
          ここも「あなたたちは罪が深いからわからない」と片付ける指導者もいるかもしれません。
          つまり十分な教導ができないことを白状しているようなものです。



          罪と罪の血統について、神と霊界の現実について、
          説明をする前に物語を語ってお茶を濁している状態

          よく判ってもいないことを重大問題としてとりあげて
          その重大問題を取り除いてあげると言う詐欺まがいの状況なのです。


          だけど私は統一教会が好きです。
          …私が知る範囲でしかありませんが…


          統一教会は、教義は無茶苦茶なところがありますが、
          それでも神様を熱烈に愛する兄弟姉妹を沢山生み出しています。

          残念ながら、反対方向に向かってしまった人たちも少なくないようですが、
          これは運営上の問題によると考えたいです。
          と、いうのも、伝道対象者あるいは信者の心情的成熟度を無視して捧げることを推奨するものですから、
          許容量を越えて捧げてしまい潰れてしまうのです。
          すべて捧げつくして放り出されるような立場でも、感謝していられる人もいます。
          このような人たちは神と我の関係性を築き上げた人たちです。
          しかし、心情的成熟度が満たされていなければ、
          「こんなはずじゃなかった」と言って恨みを持つようになります。
          成熟度の問題は、個々人の価値の優劣を言うのではなく、タイミングの問題で、
          小学生に大学のカリキュラムをこなすことができないように、
          小学生は小学校のカリキュラムをこなした上で、中学、高校、大学のカリキュラムをこなすようになるということです。
          大学のカリキュラムをこなす人たちは、小学校のカリキュラムを行った時期があるのです。

          残念なのは、内面的な成熟を見極められる人がいなかったことです。
          見極められないまま、外的な実績に目がくらんで下手な鉄砲を撃ち続けたので、
          正しく的を射た場合には素晴らしい信仰者を生み育てたけれど、
          当ててはいけないところに当たった弾は、悲しい現実を生んだのです。


          罪の問題を明確にできてはいないのだけれど、
          罪についての問題提起をしてくれました。


          こう考えると今四研が訴えるように、
          「メシアは直接語れないのだけれど、
          子女の責任分担で真理を探し出さなければいけない」という主張は
          UCの状況から見て妥当なものだと思えます。

          解答は発表できていませんが、問題が沢山提示されているのです。
           

          | おーば | 罪・悪 | 15:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          UCの教理的問題点を考える-2
          0

            「UCの教理的問題点を考える」としていますが、
            問題があるからこれに関わることが愚かしいと言うわけではありません。

            私たちは未だ完成した存在ではないことを認め、
            理解出来ている内容に限りがあることに気が付かなければいけないのです。

            何故なら、天国が未だ到来していないので、
            天国を完成させるためにどう取り組むべきかを真剣に考えるべきでしょう。
            原理と御言はここまで私たちを引き上げてくださり、
            その先へと進むことを促してくださるからです。

            だから「UCの教理的問題点…」というよりは、
            「UCの教理理解の問題点…」とする方が的確なのかもしれません。




            UCの祝福を受けたので原罪は脱げているのか?

            UCでは、人間の成長期間を蘇生・長生・完成の三段階に分けて、
            長生期の完成級でメシアから祝福を受けることで完成期に入り、人格完成を目指すと言います。
            人類は、堕落しているので、この祝福を通じて堕落の血統から本然の血統へ転換されなければ、
            長生期完成級を越えることができないと主張します。
            この、血統転換がすなわち、原罪を脱ぐ儀式とされます。

            だから、祝福を受けたカップルには、原罪が無くなると信じられていますが、
            キリスト教会で言われる“原罪”が、罪を犯す性質と捉えられているのとは
            少し様子が異なります。
            祝福を受けても、彼らは完全な善人になることはありません。
            “原罪”の概念がキリスト教会とUCでは違っているようです。
            原罪の定義が明確ではない限り、これは議論の対象とはなりえません。
            問題とすべきは人格完成の方でしょう。
            悪人は天国の平和を揺るがす存在になりますので人は悪人のまま天国には入れません。
            キリスト教的原罪解釈に基き、罪を犯さない人、人格完成が問題とされるべきです。


            コスタさんのブログに興味深い記事がありました。
            祝福は、受けてすぐには何も変わった感じがありませんが、
            原罪が脱げたのだと信じにくいけれど信じて歩むことによって
            実際に変化を感じることができるというような内容です。
            変化とは、良心基準が上がり、良心に従わざるを得ない境地に至ること。
            また、祝福家庭の子女たちが、優れた才能を発揮する例を挙げています。

            祝福にも、生長期間もしくは蕩減期間が必要だという観点です。
            条件的祝福であるから条件を全うしなければ原罪は脱げない。
            不信によって期間が奪われるケースも起こり得ますから、
            祝福を受けても何も変わらないことを説明することができます。
            これは、考えられる内容だと思いました。
            (私は祝福は受けていないので、この実感の世界は感じることは出来ません。)

            個人的な見解としては、祝福と言う儀礼は人格完成のための必須条件ではないと思っています。
            (やっかみが入っていたらゴメンナサイ)
            参加すれば必ず完成できるわけではないというのは、誰もが認めるところだと思います。
            先述のコスタさんも、受けただけでは変わらないことは認めていらっしゃるように思えます。

            しかし、受けることによってそこから完成への道を得る人たちがいる事も否定できないでしょう。
            イスラムの割礼も、キリスト教の洗礼も、そのセレモニーは個人に感動を与え、自覚を促します。
            何か、霊的な保護圏に入れることも考えられますが、
            UCでは、祝福家庭でも先祖解怨などのセレモニーを繰り返す様子から、
            それも実現はされていないと思われます。

            桜葉は何故セレモニーが必須ではないと考えるかというと、
            桜葉が願う天国は“万民救済”でなければならないと考えるからです。
            セレモニーはあくまで物理的条件になりますので、
            物理的条件は必ずしも万民に行き渡るものではありません。
            イスラム教徒も全員がメッカ巡礼を果たせるわけではないのと同じことです。

            祝福家庭の子女については、よく知らないので言及することはできません。
            再堕落とか色々言われますが、それは組織や大人からの評価でしかないので、
            子供たちの本性を正しく評価したものかどうかが分かりません。
            評価している人たちが、完成された人間ではないので、正しい評価ができるかどうかがわかりません。



            原罪を脱ぐとはどういうことなのでしょう?


            前の記事でも扱いましたが、桜葉が考える罪の概念だけではなく、
            UCで言われている罪について言及します。

            罪には、自犯罪・連帯罪・遺伝罪・原罪…と、UCでは分類します。
            自犯罪は自分で犯した罪、
            連帯罪は所属しているグループの罪を自分が受け持つこと、
            遺伝罪は仏教的表現でいわゆる先祖の業、
            原罪は人類始祖の罪。

            罪は償わなければならないもので、自犯、連帯、遺伝については
            個人の努力で何とかなるかもしれないが、
            原罪だけはメシアによらなければ脱ぐことができないと言う。

            原罪が大変なものかもしれないが、
            連帯・遺伝についても簡単なものではない。
            しかし、これはかなり軽視されている。

            事犯・連帯・遺伝の罪を越えてゆくにはどうしたらよいのか。
            実は既成のキリスト教会にヒントを求めるべきなのである。


            イスラム教の律法に於いては人は原罪を自覚することが出来ませんでした。
            どんなに頑張っても人は律法を守り切れるものではないという自覚を持ったクリスチャンたちは
            イエス様の愛と赦しによって罪から逃れられることを知っています。
            キリスト教における神は三位一体の神ですから、
            イエス様の赦しとは即ち天の父の赦しであります。
            クリスチャンたちは、なんと原罪以外の罪については赦されているのです。

            しかし、UCに於いては、この赦しの実感を持つことができません。
            80年代には、時代的恩恵によって、現代では人類は養子圏まで引き上げられていると、
            確かに言われていたのですが、
            いつの間にか(恐らく清平のころからか?)食口たちは僕の僕に位置づけられ、
            クリスチャンたちに対してもそれを適用するようになった。
            マザーテレサがようやっと僕圏だと誰かが言っていた(もちろん食口が)。


            イエス様の救いは限定的であって、霊的救済のみ完成して逝かれたと言われます。
            霊的救いは完成しているので、立派な個人は存在し得るのですが、
            肉的救済が残されているのでどんなに立派な人格者であっても罪の無い子女を残すことはできないと
            言われていたと思います。
            原理講義の中で言われていたことなので、御言的根拠の有無がわかりません。
            しかし、それが本当なら、人格完成だけならば、再臨主によらなくとも完成できるということになる。

            少なくとも、先述のマザーテレサやガンジー(ヒンズー教徒だけれど)など、
            素晴らしい人格を備えた個人は存在している。
            いやいや、人格完成とはそんな次元じゃないんだよと言われればそれきりですが…。
            UCに、彼ら以上の人格者がいるのならば教えていただきたい。

            しかし、人格的に大変優れている彼らについても、
            原罪は脱げていないということになる。

            原罪が脱げるということは、
            罪の無い子女を生むことができるということである。


             

            | おーば | 罪・悪 | 11:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            UCの教理的問題点を考える-1
            0

              統一教会には教理的にいろいろな問題があります。
              だからこんなにも割れてしまっているのでしょう。

              とりとめなくなりますが、書いてみました。
              手書きしてしまったので少しずつUPします。



              文鮮明師のメシア性について問題になるのは、
              実態を伴わない数々の勝利宣言
              ではないかと思います。


              神の栄光を表す理想的国家も家庭も見出すことができません。

              UCでは、
              メシアが勝利宣言しているので、天国は自動的に完成すると言ってみたりしますが、
              自動的に完成するなら献金や解怨はもう必要ないのではありませんか?

              現状は、文鮮明師のメシア性に疑問を持たざるを得なくなる。
              だから私も一旦は否定してみた。
              統一原理に照らしてみて、唯一の希望的可能性は「ヤコブ」のみである。

              「ヤコブ」的存在を、文師の言葉の中で「第四アダム」と重ねることができるでしょう。
              第四アダムについて、文師自身も第四アダムであると称することもあったとか。
              20年以上前に教会と距離を置いた私には詳細は不明でありますが…。
              しかし、摂理上アブラハム、イサク、ヤコブを一体とみなしたのと
              同じ解釈をすれば可能なことと思えます。

              とにもかくにも、食口たちは先ず、摂理の未完成を認めるべきでしょう。
              認めた上で、次に進む努力をしないといけません。

              2000年前にイエス様も「全て終わった」と言い残されました。
              文師は何を成し遂げ、摂理は何が未完成なのか?


              天国はまだ訪れていません。

              天国とは、不幸の陰の無い幸福な世界です。
              文師は天国をどう表現しておられたか?
              愛を呼吸して生きるところ。
              愛とは、見たい、会いたい、暮らしたい心。
              神と心情一体となり罪を犯そうにも犯せない世界。


              「不幸の原因は罪であり、その罪の根が原罪である」
              統一原理のイントロダクションはこんな風だったと思う。

              それが信仰生活をするうちに、
              罪の対価を支払えば天国へいけるという構図に変わり、
              対価を支払いきれないから不幸が続いているという信仰観になっている。
              霊感商法の因縁トークの中に、
              「罪(ざい)は財(ざい)で償う」というのがあったがそのまんまである。

              お金で買える祝福、解怨、権利…たしかに心血注いでいるのですが…。

              一方で、文家と姻戚関係を持つこと天国へ入れるという思想もあります。

              残念ながら文家は幸福な家庭ではなさそうです。
              つまり天国的家庭ではありません。
              骨肉相争う不幸な家庭に見えますが、
              不幸の原因が罪ならば、文家は罪と縁深い家ということです。
              全人類の蕩減を受けてご苦労されていらっしゃると言うならば、
              文家と姻戚関係を結ぶなら全人類の罪を背負って生きる覚悟が必要です。

              文家が全人類と統一家の蕩減でぐちゃぐちゃになっているなら、祝福家庭も同様です。
              祝福家庭はそのままでは天国へ行けません。
              幸福になるための祝福ではなく、不幸を引き受けるための祝福という構図が成り立ちます。




              不幸から抜け出して幸福になるためにはどうしたらいいか?
              (イントロダクションに戻りましたね。)


              天国の実像については原理講論にはありませんね。
              しいて言えば、創造原理にある三大祝福完成と、三大祝福を完成した家庭の拡大という表現で、
              具体的社会システムへの言及はありません。
              食口たちは漠然と、『真の家庭』が完璧な統治をしてくださると考えているでしょう。
              だけど今のご家庭には、そのような統治能力はなさそうです。
              恐らくは、現在取りざたされる後継者問題で『正当な後継者』に求められているのはカリスマ的統治能力です。

              現れるかどうかも分かりませんが、子女様、お孫様の中から、理想的なカリスマが現れたとしても、
              代替わりの度にお家騒動を心配しなければなりません。

              「罪を犯そうと思っても犯せない」世界が到来すれば話は変わります。
              個人ではなく世界です。
              個人が立っても横槍を入れるものがいれば争いが起こります。

              自分たちの家族のことだけ考える人たちが集まって、
              罪の無い方に完璧な統治をしてもらおうと思っても無理です。
              「UCは失敗したので私たちのところに摂理が回ってきたと言って
              別なカリスマを立てるグループも同じことです。
              カリスマに頼った時点でアウトです。
              永続性を提示できません。

              お金で買える贖罪を信じていない人達は
              DNA的血統を信じる人と、三大祝福完成、あるいは三大心情圏完成を目指しているようです。
              DNAを信じる人は特権を得酔うとする以外にも、
              “侍る”主体として文家の血統を重視するようですが、
              彼らにはこそ、御言と現実のギャップが複雑に、深刻にのしかかっているようです。
              また、“完成”を目指す人達は自動的完成を夢見る人ばかりではなく
              蕩減問題に責任を持とうとする人たちがいます。

              桜葉は責任を持って完成を目指そうとする人たちを支持します。


              | おーば | 罪・悪 | 16:38 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              原罪と堕落性本性
              0

                原罪と堕落性本性について考えてみたいと思います。

                過去記事には、2010年から罪や悪について書いているものがあります。
                カテゴリーに「罪・悪」
                http://blog.o-baka.com/?page=0&cid=23
                というのも設けてあります。
                今日この記事を書くにああたって見直しましたが、
                未分類記事と信仰・信念カテゴリからいくつか移動しました。

                罪について

                1・法を犯すこと
                2・他者に害をおよぼすこと
                3・悪を行う根
                4・他人を裁くこと

                などの観点で書いているようです。

                原罪というのは罪の根ですから、3番のことになります。
                伝統的キリスト教会では、これを原罪と呼んでいるようです。
                しかし、罪・悪をいかに定義してあるかで根っこの定義も変わります。
                法廷論的原罪はこれまで扱ってきていないようです。
                法廷論での罪は罪状認否えでは認めた罪を、
                判決としては情状酌量での恩赦を勝ち取るように見えます。
                法廷論の罪とは訴えられる“立場”でしかありません。
                今おーばが悪と定義するのは4番です。

                1番は、法それ自体が正しくなければ意味がありませんし、
                律法の形をを守る事が神の願いではないということは
                2000年前にイエス様が明らかにしていることです。
                また、法を完全に全うすることは
                罪人たる人間には不可能なことであるとも言われています。
                そこに救い主による救済を求めるのがキリスト教の信仰です。
                これはクリスチャンは勿論、統一信者も同意していただけることではありませんか?

                2番は一見して罪のように見えます。
                害というのは様々な権を犯すことと言えます。
                生存権、所有権などですね。
                人を殺すことは生存権を奪うことです。
                泥棒は所有権侵害、暴行は自由の権利の侵害です。
                しかし、この“権”さえも、ぶつかり合ったりするややこしいものであり、
                生存権さえ、国の法律によって合法的に奪い去られる可能性を持ちます。
                もちろん、死刑制度というのは論議をかもすものですが、
                是とする声があることも事実です。

                4番は、普通言われることが無い観点です。
                新約聖書には裁くなということは出てきますが、裁くことを罪とは定義するわけではありません。
                あくまで奨励しているだけでしょう。
                しかし、被害を受けたと主張してきた人たちが、その訴えを取り下げたなら、
                犯罪は成立しなくなります。
                訴える人間が居なければ、裁判所は閑古鳥の鳴くところとなります。
                被害届けが出されなかった最も有名な歴史的事件は
                イエス様の十字架でしょう。
                イエス様が被害を訴えなかったので、
                加害者になるはずだった弟子たちは罪を問われず、
                罪人になることを免れました。


                罪を定義しているのは何か?
                被害を訴えること、讒訴する行為が罪を定義しています。


                讒訴するのはサタンの専売特許ですか?
                だからメシアにサタンと縁を切ってもらえば罪の根が消え去って、
                私は原罪がぬぐわれた存在となれるのですか?
                私自身が誰かを訴えてはいませんか?
                私は正しいと主張して誰かを罪に定めていたら、メシアによって切り捨てられてしまいますよ。
                それで救われるのでしょうか?

                私には、メシアの権能をもって一方的に原罪をぬぐうという教義は詭弁・方便にしか見えません。




                一方、堕落性本性について、
                過去に記事にしたことは無いようです。
                (見落としだったらスミマセン)

                堕落性本性とは、
                1・神と同じ立場に立てない
                2・自己の位置を離れる
                3・主管性転倒
                4・犯罪行為繁殖

                これは原理講論堕落論に書かれていることで、
                多くの人がこの部分に賛同して統一教会に入教しています。

                実際の抗議の時には、これに解説が付いてきます。
                1・ねたみきらう、自己中心(エゴ)、殺意…
                2・不義な感情で自分の位置を離れる、不品行、浮気
                3・人間社会の秩序の乱れ、反逆、反抗、下克上…
                4・責任転嫁、悪人の党派性、自己正当化、弁護…
                (以上、光言社1976年初版発行「原理講義案」より)

                地に下ろして解説するとたしかにそうなのかもしれませんが、
                逆に、創造原理的観点で堕落性本性を見ますと、
                四位基台違反になります。
                1・神即ち『』を軽んじる
                2・自身が居るべき四位基台を放棄する
                3・主管性即ち『主体』『対象』の立場を転倒する(『』)
                4・繁殖存在は即ち『合成体』ですので、誤った三段階を成就するということ


                堕落性本性というのは、神中心の四位基台をつくれない性質ということになります。

                祝福式、聖酒式で原罪を脱げば天国へゆけるので、
                あとはゆっくり堕落性本性を退治すればいいのでしょうか?

                神様を中心とした四位基台を造成できずにどうやって天国へ入ろうというのでしょう?
                家庭的四位基台どころか、個体的四位基台さえ作れないというのが堕落性本性です。


                神様中心の四位基台が願いであるので、
                神様の願いに応えることができない性質こそが悪の根、原罪ではありませんか?




                …余談…堕落性本性についてこんな表現もあったなぁ…

                「カインはアベルを神の立場で愛し、仲補とし、従順に屈服し、善を繁殖しなければならない。」
                倉原原理と呼ばれてますが、堕落性を脱ぐための条件とか言っていましたか?
                実体基台のことですね。
                実体基台は四位基台成立ということでもあったわけです。
                実体基台は信仰基台とあわせてメシアのための基台と言われていましたね。
                で、メシアは来てるという前提ですから、
                メシアを個人的に迎えるために基台を作れということでしたっけ?
                蕩減条件を立てるとき、中心人物と期間と条件物を書いてアベルに提出していましたが、
                あれは信仰基台だったのか、実体基台だったのか?
                期間が必要なのは信仰基台で、
                信仰基台はアベルが立てるものですから中心人物の上にアベルは不要じゃないのかな?
                アベルを通さなければならないのは実体基台だから
                期間と供え物は関係なさそうな気もしますね。

                今考えるとかなり無茶苦茶やっていたような気がします。
                あれでは信仰基台も実体基台も成立しませんね。

                 

                | おーば | 罪・悪 | 18:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                罪の自覚と救済
                0

                   堕落論批判の記事にコメントをいただいたので、
                  罪の問題について考えたいと思います。
                  過去記事にもいくつかありますね。
                  http://blog.o-baka.com/?cid=23


                  考えるなんて表現も、コメント主様にはしっくりとしないかもしれません。
                  私にはとても情緒的問題に感じられます。

                  情緒は知性より上位に立つものです。
                  (ああ、全く情緒的ではない表現だ!!)

                  私は堕落論を批判しましたが、
                  人類が堕落していることを否定していません。

                  堕落という表現が少々いやらしく感じますが、
                  人類が、理想的な存在として現れていないことを肯定します。
                  人類は、本来的には全き喜びの存在であると考えます。
                  本来的と言うのは、現実ではそのようになっていないということです。
                  そのことを表現する言葉として、堕落という概念を肯定します。

                  堕落の内容を堕落論が悉く表現できているかというところに疑問を呈しています。
                  堕落という表現の中に、堕落論から植えつけられた淫行のイメージが強烈に感じられるので、
                  この言葉にいやらしさを感じるのかもしれません。

                  男女の問題が、堕落の原因にあるか無いか、
                  全く関係が無いとは断言できませんが、
                  少なくとも、天使との淫行の内容は、霊的内用でしかなく、
                  肉感的なイメージを持つべきではありません。



                  この問題をどう考えるべきなのか?


                  人類始祖に直接訊ねるわけにもゆきません。
                  私は人類始祖を知りません。
                  聖書にはアダムとエバと名前が書かれていますが、たったそれだけです。
                  この物語が現実的な事件であったかもわかりません。

                  では、人類の問題点から帰納的に考えるしか無いでしょう。


                  いただいたコメントの一行です。
                  >戦争のない時代も、地域もなかった世界であり、歴史ではなかったでしょうか。


                  そのとおりでしょう?
                  全く異論ありません。


                  以前とりあげた初転法輪でもお釈迦様の最初のテーマが苦諦でした。
                  http://blog.o-baka.com/?eid=142


                   苦聖諦(苦諦)
                   【生・病・老・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦】
                  お釈迦様の回答が「原因(渇愛)を取り除けば苦がなくなる」でした。
                  渇愛というのは欲望や衝動を表すそうです。


                  堕落論では、堕落の過程に偶発的に身についた性稟である堕落性本性として
                   神と同じ立場に立てない
                   自己の位置を離れる
                   主管性転倒
                   犯罪行為の繁殖
                  と掲げています。

                  これはルーシェルとエバの行動から導かれています。
                  彼らの行動がとても俗っぽく人間的なので、当然の結果として導かれるものでしょう。
                  簡単に、自己中心の欲望と解釈されているようにも思えます。
                  それなら渇愛と同義ですし、多くの争いの原因となるものがこれです。
                  堕落論に感動する人の多くが、人間には堕落性があるという点で納得するように聞いています。

                  ただし、堕落論では堕落性を脱いでから、
                  メシアに出会い、サタンの血統から神の血統へ転換しなければならないと、あります。
                  堕落性を脱ぐために蕩減条件が必須で、
                  それが「信仰基台(万物条件・献金)」と「実体基台(アベルカイン・伝道・絶対服従)」
                  に、なってます。


                  血統転換というのは、罪の根っこから切り離されることであり、
                  罪の幹・枝葉(自犯罪・連帯罪・遺伝罪)は
                  自分で切り落とすというのが堕落性を脱ぐところに該当すると思われます。
                  罪の根から切り離されるので、血統転換されればもう罪の思いから解放されるということです。

                  多くの食口は堕落性の問題で納得しつつも、
                  堕落性を脱ぐ条件と血統を転換することに重きを置くようになります。

                  蕩減条件ありきで、内容は伴わず。
                  血統転換は、条件を立ててからではなく、堕落性を脱いでからなのにね。
                  堕落性が脱げなくても血統転換儀式を受ければOKとしてしまう傾向があります。
                  そもそも血統転換には実感が伴わない。
                  堕落性が脱げれば実感もあるでしょうに。



                  プロテスタントの教会では、
                  人間が罪といかように闘ったとしても、
                  その罪から逃れることはできず、ただイエスの十字架を信ずることで罪が赦されると信じています。
                  プロテスタント教会で罪と呼んでいるものは、統一教会で堕落性と呼ぶものに近いと感じられます。


                  統一教会ではおそらくいいとこ取りで、
                  イエス様が赦してくださる如くに、文鮮明師が赦してくださると思ってるんでしょう。
                  あるいは、先祖解放すると遺伝罪から解放されると思っているんでしょうね。




                  罪=堕落性=自己中心の欲望(他者を蹂躪)=渇愛
                  (厳密には、罪とは対他者・堕落性は対自身であり異なるものと考えますが便宜上)

                  というのが見えてきます。
                  宗教家・無宗教者を問わず、多くの人が人間のこの性質に問題を見出しているのです。

                  宗教を持たない人達は、
                  それぞれの社会の法に拠る義務と禁止事項、懲罰によってこの問題を克服しようとします。
                  これ等の法によって解決できるのは争いを回避することだけです。
                  お釈迦様が説いたような日常の不満不安を解決しきれるものではありません。
                  あるいは社会福祉によって、解決を見出すことを求めますが、
                  福祉に対する姿勢が人によって異なるため、新たな争いの種になっています。


                  ジョン・ウェスレー(18世紀英国教会)の説教で
                  罪に対して無自覚である人(ナチュラルマン=無宗教家)、
                  外的な行いに罰が下されることを恐れる人(奴隷的立場)、
                  自らの力ではどうにもできない罪故に、イエスの代贖によって救いの道が開かれたことを信じる人。
                  と、いうような内用の説教を見つけました。

                  http://d.hatena.ne.jp/JosephGemma/20090423

                  PDFで保存したファイルはこちら
                  http://www.o-baka.com/sankousiryou/jon-wesray.pdf


                  統一教会では旧約的信仰を行義信仰、
                  新約的信仰を信義信仰
                  成約的信仰を侍義信仰と呼びましたが、
                  この説教は未信仰者、行義信仰者、信義信仰者の姿を分かりやすく指摘しています。

                  ウェスレーの内では当然のことですが、信義信仰が至高の信仰にあります。

                  キリスト教会では、人は罪から逃れることはできません。
                  しかし、罪を自覚し、イエスキリストの代贖を信じることで救済を得ます。
                  もちろん、日々罪を遠ざける努力は求められますが、
                  罪に触れても悔い改めによって御許に帰る道が開かれているのです。
                  ここでの罪は統一教会で言うところの堕落性に相当するものに見えます。
                  つまり堕落性は消せるものではないと彼らは認めているように感じられます。

                  旧約的信仰では、罪は行動に現れて罪とされるように感じます。
                  彼らはその罪に対する罰が恐ろしいので捧祭を行い、
                  それを怠ることでなにか災いが下ると考えるのです。

                  仏教も、赦しが無い点で旧約的信仰と言えるでしょう。
                  しかし、罪の自覚の内容では、キリスト教以上ではないかと感じられます。
                  小乗仏教では、ひたすらに業や煩悩(罪)と闘うことを勧めますが、
                  大乗仏教では、念仏を唱えることで救われるとされ、新約に近づいています。
                  (根拠はよく知りません。そのように信じられているという意味でも信義的。)
                  しかし、大乗仏教は、罪(煩悩・業)に対する理解も形骸化しています。

                  未信仰者はなんの束縛もありません。自由です。
                  自らの欲するままに行動します。
                  それが他者にどのような影響を与えるかを憂慮する必要がありません。
                  自らの望みを叶えるために、自ら努力して報酬を得ることに何の疑問がありましょうか?


                  侍義信仰は、父母に侍ることを義とするという意味です。
                  父母の命令に従って行動することが義であるとしたら、これは行義でしかありません。
                  子供として、父母の願いを悟って、その願いに生きることを喜びとすることを侍ると言います。
                  喜びを求めて行動することは、未信仰者の行動と一見変わりありません。
                  欲望の発するもとが、自己中心か、父母中心かということです。
                  (現在のUC信者は侍義信仰をどのくらい意識しているのだろうか?
                  そもそも、文師他界後は、父母の願いが何処にあるのかなんて理解不能になっている。)



                  欲望は罪ですか?

                  欲望があるから人は喜びを感じることができるのです。
                  喜びは罪ですか?
                  喜びは天国の目的です。

                  …ということは、欲望がおかしくなっているんですね。
                  侍義信仰では父母が未信仰者のようなわがまま勝手な願いを持てば最悪の状況になります。
                  侍義信仰もただの奴隷状態でしかありません。


                  欲望が喜びとなるか害悪になるかを分けるものは何でしょうか?
                  それを見極めなければいけません。


                   

                  | おーば | 罪・悪 | 15:54 | comments(5) | trackbacks(0) | - | - |
                  悪いことって?
                  0

                    どっちが正しいなんて無い!と書きましたが、
                    だったら何をやってもいいというわけではないですね。

                    本人が、真剣に考えて選択した結果でなければいけません。
                    考える能力に差はあると思いますが、
                    その人の現状で最善を選ぶべきでしょう。

                    だから、考えなしに、惰性や人任せに
                    位置を決定したり維持しようとすることは正しくないです。
                    正しくない、悪いことだと言っていいのかな?


                    考える基準は前に書いた「共に知る相手」との整合性です。

                    『他の人の話
                    私の知っている現在
                    私の知っている(経験)過去
                    私の希望する未来
                    私の直感?????』

                    これが全部一致している状態はかなり幸福な状態だろうと
                    書いた後に思いました。
                    だけどなかなか完全一致はしません。


                    | おーば | 罪・悪 | 16:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    どっちが正しいなんて無い!
                    0

                      統一教会で分派とか、○○派とか、
                      統一教会とは名ばかりで分裂教会と解明した方がよいと揶揄されています。
                      揶揄しているのは元食口という立場の人たち。
                      彼等もまた、自分たちは統一のデタラメに気が付いて目覚めた立場を主張してます。

                      皆がみんな自分たちが正しいと信じて他方を非難したり、哀れんだりしているのですね。

                      だけど言いたい!!

                      誰でも、(私も)全てのことを知るなんて、神ならぬ身誰にもできないんだよ!!!

                      みんな必要に応じてふさわしい場所にいるのだと思う。
                      そして、成長に応じてふさわしい場所へ移動してゆくのだと思う。

                      ある場所にいておかしいと思うなら、
                      それは今いる場所と自分が合わなくなったという事。

                      人は成長するから小学校から中学校にあがるように、
                      高校から大学にいったり、大学にいったけど専門学校で学びなおしたいとか、
                      社会に出てからまた学びなおしたいと大学へ行く人もいる。

                      だけど世の中の学校全部に行くことはできないし、
                      私の人生に全ての学校が必要なわけでもない。

                      文系の学校に行って、事務系の職業についてそこでよい人生を送るならそれでよい。
                      難しい化学式や、物理法則なんて知る必要の無い人生だから、
                      理系の学校に行く必要は無いけれど、
                      理系の学校で学んだ人のお世話には
                      ならないと暮らしていけない局面は沢山あります。
                      逆もまた然り。

                      | おーば | 罪・悪 | 14:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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