おーばのつぶやき

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
霊についての考察
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     霊というものは信に足る存在なのだろうか?

    これは、霊が過去に生きた人間の魂であるという前提であれば
    個別に判断するしかない。

    友人を選ぶようなものである。
    友人というのも選ぶべき存在なのかは考え方だ。
    共に居る存在と
    この人は好きだから、嫌いだからと態度を変えるのも如何かと思う向きもあり、
    朱に交われば紅くなるのだから好ましくないタイプには近づくべきではないとか
    …ね。

    どちらにせよ、自分できちんと相手のことを観察する必要はある。
    共に居るのですからね。
    袖ふれあうも多少の縁です。

    輪廻転生説をとるなら多少の縁どころではなく
    彼もまた私自身ということですから深い縁です。

    輪廻説ならば前世は信頼に足りる相手と考えられるでしょう。
    「前世」であればですけどね。
    ハイヤーセルフとか、ロウアーセルフとかあるらしいですけど。
    自分自身には違いないから、親身になってはくれるはず。

    協助説では他人ですよね。
    先祖の場合もあるけれど、縁のある相手ではあるけれど
    基本的には私ではない他者です。


    協助説をとるにしても、
    現世を生きる人をして生まれ変わりだと主張する霊が存在するようですから、
    もう一度今生を生きるくらいの感覚を持って協助する霊が存在しているということなのでしょう。

    そのような霊は信に足る相手と考えられます。

    心情として、親身になってくれたとして、
    知恵として彼らは正しい導きを与えてくれるのでしょうか?
    彼らの知識は正しいでしょうか?

    親身になってくれる友人たちも、
    本人は一生懸命でも、
    必ずよいアドバイスができたり、
    良い助け舟を出してくれ得るものではありません。
    それぞれ力量がありますから。


    舵取りをするのは自分


    それだけは肝に銘じなければいけません。


    孤独にして決心が必要な考え方ですね。
    楽しくはないですね。
    安らかでもありません。


    運命を共にして良いと思える友が持てれば幸福です。


    私は一体何に挑もうとしているのだろう…。


    これまで「神様」と、してきた存在を「霊」と呼ぶことは
    大変困難なことです。
    しかし、このことによって、
    更に高みにいらっしゃる創造主の御姿に思いを馳せることが可能なのかもしれません。

    絶対的信頼を置くことができる唯一のお方。

    | おーば | | 18:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    albert について
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       変人博士 こと albert の紹介を
      きちんとしないといけないのかなと思うのです。

      紹介と言っても、
      私も彼から自己紹介をされたわけではありません。

      そもそも、私は自分がやっていることがチャネリングなどと言うものだとは
      認識していません。
      チャネリングという言葉も去年知ったばかりです。
      スピリチュアル系で用いられる言葉だと思います。
      実際にそこには居ない存在と会話することを
      そう呼ぶようです。

      だから私は彼の言葉をただ神様からのメッセージと捉えていました。


      ユーミンの曲で 「やさしさに包まれたなら」 ってありますよね。

      「小さい頃は神様がいて
      不思議に夢をかなえてくれた
      やさしい気持ちで目覚めた朝は
      おとなになっても 奇跡はおこるよ

      カーテンを開いて 静かな木洩れ陽の
      やさしさに包まれたなら きっと
      目にうつる 全てのことはメッセージ」


      そんな感じなんですよ。
      目に付いて何気ないことがとても気になる。
      そんなところから始まるんです。
      そこから色々なことが思い浮かぶ
      あれ?と思うと直に答えが来る。

      これは最近に始まったことではなくて
      「小さい頃」からやっている。
      記憶にあるところでは、高校の頃には
      ノートに自分で質問と答えを1人で書いてましたけれど
      これは自問自答の考え事をしているんだと思ってました。
      始めたのは小学校の頃かもしれない。

      その後、統一教会に入信して
      対話するのは「祈り」という形式をとるようになりましたね。
      当時は祈祷室や祈祷会の場で皆同じように祈ってましたから
      対話の相手は「神様」なんだと思ってました。

      だから神観はあってもメシア観がなかなか分からなくて悩みましたね。
      神体験と思えても、メシア体験とは思えない。

      こんなこと書けば、
      「ああ、メシアが分からなくって離教したのね」
      と言われるでしょうね。
      まぁ、実際にメシア観は本とに弱かったでしょう。
      しかし、無形世界に対する理解は深まりました。
      神様を求める心、神様の愛を教えていただきました。
      「愛を頂いた」そういう意味で、文先生を中心とした統一の群れは
      父であり、家族です。

      離教後も、神様を求める心は持ち続けることができましたので、
      「対話」は続きました。
      対話の方法は、主に思いの中での対話でした。
      元々、祈祷するときも
      声に出して祈ることはあまり得意ではありませんでしたから。

      その思いの声が、私に原理解釈や、
      さらに神様を求めることを勧め、
      それをネットを通じて発信することを勧めたので
      私はネット活動を続けています。


      対話のことを「チャネリング」と言ったのは友人です。
      十四夜さんですが、彼女が言ったというよりは
      彼女がチャネリングしている霊の言葉なんです。
      スピリチュアル系の情報については
      彼女が私の師匠です。
      他で読んでみてもちんぷんかんぷんです。
      いわゆる「相対基準」が合わないです。

      相手はA博士だというのも、そのときに聞きました。
      だけど、A博士の名前で呼んでも彼は返事をしません。
      それに、前にも書きましたけれど
      A博士はユダヤ系アメリカ人。
      しかし、対話の相手にはアジア人の香りを感じています。

      まあ、A博士が地上に生きていたときにも
      彼は1人で生きていたわけではなく、
      彼に共助していた強力な霊的存在があったはずなのです。
      その霊がアジア系の方であれば、
      今、私のところを訪ねてくださる存在が
      A博士とアジア系の方の二重存在であり得るわけです。
      だからA博士と呼んでも返事をされないんでしょうね。

      変人博士のブログで私は彼を albert と呼んでいます。
      amebaなのでピグまで作ってみました。
      (アメを稼ぐためにグッピグ広場に出没していますので
      アメブロの方、見かけたらグッピグしてくださいね。)

      形を与えることは良くないかなとも思いましたが、
      彼は比較的自由な表現をするようになりました。

      こちらで書いているときは、
      彼の言葉から私が反芻して展開している感じでしたが、
      変人博士のブログは
      もらった言葉をほとんどそのまま書くようにしています。
      (丸投げです)
      文章にならないようなものは補足はします。

      しかし、時々、彼はわざと私に考えさせます。
      考えさせられると、彼と私の対話になるのです。
      対話することも必要なようです。

      これが、今私に分かる albert の全容でしょうか。
      | おーば | | 23:04 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      近況
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        変人博士のブログを「天国の作り方」として書いている。
        http://ameblo.jp/albert-o-baka

        キーボードを叩いているのは私、おーばなのだが、
        ここで書くときよりも私自身は無責任な書き方をしているような気がします。

        私的な思考を挟まないようにしていると言えば
        聞こえは良い(?)かもしれない。
        が、自分では「おい、大丈夫か?」と思うことしばしば。

        だけどあまり手を抜くと文章が繋がらなくなってくる。
        今日は表を書かされたが、
        過去にもらった情報を組み合わせて穴を埋めてゆく感じ…。

        この表の掲載は明日になると思う。
        実は記事が溜まっている。
        八段階成長段階を順を追って書いてゆくのかなと思ったが、
        記事が深まらない。

        上っ面しか出てこない。
        情報としては既にもらっている内容があって
        そちらの方が内容が濃い。

        自分で文章を練るときには
        あれこれ考えすぎて分かりにくくしてしまっているかもしれない。

        だけど私がこれで大丈夫?と問うと
        ちょっと方向を変える気配がある。
        表組みを書いたのもその一環。
        対話しつつ書き進むという形なのだろうか。

        相手を別人格と認識してみるとなにやら妙な感じです。


        …こうしてみると、霊と言う存在を認めていないわけではなかったが
        実態的な活動にはどこか否定的な感覚が私にはあったようだ。

        | おーば | | 23:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        霊と付き合う-2
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           前記事の表現で気をつけていただきたいことがあります。
          それは、アイデンティティを維持するためには霊的な働きかけを無視して
          合理主義的な判断をするべきととられかねない表現があることです。
          また、色蘊重視で行動すべきと考えることもできることです。

          この二つの考え方はあまり芳しくない。

          人は未知の領域に踏み出すときには
          多くの可能性を想定して準備をしますが、
          想定された中でも
          より望む方向に近いのではないかと思われる道を
          勘によってセレクトしています。
          選択肢が多いときほどその勘が有効だったりします。
          これを合理的に選択しようとすれば
          可能性の一つ一つを細かくシュミレーションするか、
          テストをして道を選択することになり、
          膨大な時間をかけなければならないことが起こりえます。
          勘や閃きはこの時間を大きく短縮する可能性を持ちます。
          そして、可能性の非常に小さなことを
          現実化する可能性を与えるのです。

          また、色蘊重視の行動は、
          刹那的快楽主義に向かう傾向を持ちます。
          霊的導きは、人の公共心を育む方向にもはたらくものです。
          これは良心と呼ばれるでしょう。
          しかし、逆もおこりますので、
          このときには知性的公共意識を働かせて判断しなければなりません。
          あるいは信頼できる他者の助言も有効です。


          隣人を愛するためには肉身生活によらなければならないのです。
          肉身=色蘊です。
          隣人を愛するというのはカインアベルです。実体基台です。
          隣人の情報は色蘊を通じ、受蘊から想蘊に送られます。
          想蘊に送られる新しい情報は色蘊によらなければ得られません。
          新い情報は識蘊を育てます。
          そして、愛すること=一致することのためには
          色蘊を通じた共通体験による共通概念(識蘊)が必要になり、
          これを基に、共感、共生、共栄、共義、即ち天国へと
          向かうことができるのです。
          肉身生活の意義は大きいのです。
          しかし、そのために良い霊的協助も必要なのです。


          想蘊とは、知性の章で書きましたが
          マジンガーゼットのコックピットみたいなものです。

          このコックピットは一人乗りではないようです。
          操縦桿を握っているのは「私」ですが、
          助手席には守護霊(前世)がおり、
          後部座席にも多くの「霊」が同乗しているようなものです。
          彼等は「私」と同じ景色を眺めながら色んなコトを言い合います。
          助手席は助手なのでナビゲートしてくれようとしています。

          「私」も死後に霊として誰かのコックピットに同乗するかもしれません。
          そう考えれば「同乗者」たちの言動をどう受け止めたら良いかわかってきます。

          霊もまた、一致による調和、
          即ち、共感、共生、共栄、共義、
          即ち、天国を求める存在なのです。


          五蘊(=色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊)については
          「天国の作り方 実存の哲学 情緒の章」を参照してください。
          以下からPDFファイルをダウンロードできます。
          (右クリック-対象をファイルに保存)
          http://www.o-baka.com/download-heaven1-2pre/heaven1-2pre.pdf

          | おーば | | 12:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          霊と付き合う
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             「霊」という存在と付き合うことを考えるときに、
            重要になることは「私」のアイデンティティであります。

            「輪廻転生」説を採るときには
            前世は私自身ですから「霊」と「私」に境界はなくなってしまいます。

            私は「再臨協助」説を採るので前世を含めて「霊」とは
            お付き合いするべき他人です。

            「輪廻転生」説でも、
            前世以外の「霊」が「私」に関わってくることもあるのかもしれませんが
            関わってくる「霊」と「前世」を区別するという作業も大変そうですね。


            「霊」は心にアピールしてきます。
            思いつき、閃き、勘などと呼ばれる現象ですが、
            特に意識していなければ自分で思いついたと考えるのです。
            突拍子も無い思い付きなどもありますが、
            そういったものは自分で却下してとりあいません。

            合理主義的に考えれば、
            勘や閃きは科学的根拠のない非合理的内容です。
            霊的働きかけであるなどとは考えもつきません。


            では、そういった思いつきは全て「霊」によるアピールでしょうか?

            個人の心の中を「天国の作り方-実存の哲学」では知性と情緒に分類しました。
            個人の心は快いと感じる方向へ進む力です。

            知性によって環境を理解し、
            環境の中から自身の成長のための情報を収集し、
            一致する方向を見出して進もうとします。
            肉体の感覚から得られる情報と、
            観念系に蓄積された情報(識蘊・記憶)の中から
            望む方向に一致するものを抽出することができます。
            これは合理的な行動を生み出します。

            勘とか、思いつき、閃きは識蘊や記憶をベースとすることもありますが、
            肉体(色蘊)の感覚(受蘊)から得られる情報を無視することがしばしばです。
            これらのことから、
            五蘊非我というお釈迦様の考えは生まれたのではないかと思われます。
            非我つまり輪廻転生する本体としての「私」ではない
            つまり「霊」ではないということです。
            お釈迦様の時代には輪廻転生が常識的大前提です。
            そして「私」には前世の記憶がありません。

            ひっくり返せば、
            五蘊は前世すなわち「霊」と関わらない「私」であると言えます。
            前世という考え方を否定した場合の「私」のアイデンティティです。
            色蘊・受蘊・識蘊をしっかりと意識した考えを持つことが
            アイデンティティを確立する上で重要なのです。

            (ここで想蘊・行蘊を除いたのは
            行蘊は行いそのものであり、動詞的な内容であること、
            想蘊は意識のステージであると認識するからです。)


            思いつきや閃きの多くに(あるいは殆どに)「霊」が関わっている可能性は否定できません。
            しかし、「霊」が関わっていることを根拠として
            全てを否定するべきではありません。
            否定してはいけません。

            私たちは「霊」によって多くの良い贈り物を受けとっているのです。
            しかし、「霊」が過去に生きた「人の心」であるとすれば、
            今生きる人に善意と悪意があるように、
            死者にも善意と悪意が共にあることを想定すべきでしょう。

            きちんと向き合い、判断しなければ行けません。

            | おーば | | 22:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            「天国の作り方」開設
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              正直な話、
              私は臆病なのでいろいろなことを簡単に鵜呑みにすることができません。
              まぁ、おっちょこちょいな所はありますから、
              勘違いはおこします

              また、性分として、本音で話をぶちまけたい方です。
              だからブログ上でも本名・実名で書きたいところですが
              書かれた人や周囲の方々が不快感を覚えるので、
              それはしないようにしています。


              で、霊について書いていますが
              書きながら「ホントかいな?」と思うようなことも書いているようです。

              十四夜さんが去年からチャネリングをしていますが、
              「霊」という存在が地上人間に働きかけるリアルな例を身近に知らなかったので
              とても新鮮に感じつつ、
              彼女の話をそのまま受け入れている自分に驚いているところもありです。

              テレビなどで報じられるショッキングな霊現象は
              私はウソっぽいなと思うことがしばしばです。

              そして、「霊」という存在が、
              世の中で正真受け入れられていないものであると感じています。

              世の中に受け入れられていない存在について
              大真面目に書くことに少々抵抗をおぼえつつも
              そもそも「統一教会と統一原理」について
              大真面目に書いているのだからどこに問題があるのかという話でもある。

              だから、まぁ、
              受け入れて本気で向き合ってみようかと思う。


              何をそんなに躊躇しているのかと言うと、
              昨年十四夜さんと話をした際、
              彼女の神様から、私はチャネラーで、A博士とチャネリングしているんだと言われたこと。
              半信半疑で聞いた話だけれど
              その後やたらと気になってしまって
              若干の混乱をきたしているように思えます。
              中途半端にするとそれこそ人格破壊に向かうんではないかとさえ思えるので、

              A博士を分離することにしようと思います。

              分離すると言っても追い出すのではなくて
              認めて独立させる格好です。

              アメブロで彼の書斎を設けました。
              具体的に文字を打ち込むのは私ですが
              彼に任せるくらいの書き方をしたいと思います。


              マンガのキャラクターが書き手の意志を無視して勝手に喋り、動き出す
              という話を聞いたことがあるでしょうか?
              勿論、それは漫画家の頭の中の出来事として語られる話です。
              勝手に動くキャラクターをそのまま紙に描き出すのが漫画家の作業ります。

              それさえもある種チャネリングと同じことなのかなと思ったら、
              「そういうこともある」と返事が返ってきました。

              アメーバでピグを作ったら
              彼はなんだかより一層自由になった感じです。

              A博士の書斎は
              http://ameblo.jp/albert-o-baka/
              ブログタイトルは「天国の作り方」です。

              まだ、どんな展開になるかは分かりませんが、
              第二部「共同体の哲学」は博士の書斎で展開するようになると思います。
              天国の作り方はホームチャーチ哲学です。

              「実存の哲学」はこちらのブログで私が整理することになりそうです。

              | おーば | | 17:32 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              霊的存在
              0

                霊と言うのは遠い存在ではありません。

                前の記事とはちょっと語弊がありますでしょうか?
                言い方を変えましょう。

                霊について語られている内容は私と関係の無い話ではありません。

                これが正しい表現でしょう。
                私や家族、友人が“霊”といえば得体の知れないものですから私には関係ありません。
                しかし霊について語られている内容は、
                私自身が霊的存在であるので、私に関係あることなのです。

                私が得体の知れない存在と言うのではありません。
                霊というのは心の一般名称だと捉えればよいのです。

                霊は死者にのみ使われる言葉ではありません。
                全身全霊をかけて…などという表現を聞いたことはありませんか?
                生きている私自身にも霊という部分があるわけです。
                私の霊とは、私の心であり、私の精神であり、私の魂です。
                言語生活の中ではちょっと使いにくいかもしれませんね。
                しかし、意味合いはそういうことなのです。

                こう考えれば、死者の霊についても少しだけ親近感を得られます。
                亡くなったお祖父ちゃんや、お婆ちゃんを思い出してください。
                優しい心に触れたことはありませんか?
                そんな風に好意的に思ってくれそうな死者の心を私たちは特別に魂と呼んでいます。
                「亡くなったお祖父ちゃんの魂が守ってくれている。」と表現します。

                逆に私のことを恨んで自殺した人がいたとしたら、
                その人の「霊に祟られる」と考えるのです。

                どちらも死者の心なのです。

                私は死んだら霊になるでしょうか魂になるでしょうか?
                自分自身に対しては素性の知れた存在なので、魂と表現するでしょう?

                自分との関係性で無意識に呼び名を変えているのです。

                それでも死者の霊と私の実生活との間には大きな隔たりを感じます。
                私たちは実は日常的に霊的交流を誰もがしているのですが…。

                そんな馬鹿なと思われるかもしれません。

                個人差はありますが
                「虫が知らせる」とか、「なんとなくそう思う」ことが
                何故か的中してしまうことがあります。
                勘が働くということもあります。
                閃き(インスピレーション)と呼ばれるものも何処から来るものか分かりません。
                良いことばかりではなく
                「魔がさした」とか、「つい」とか自分の意向とは違った行動をとることもあります。

                特に霊感が鋭い人達は言葉で交流を持つこともできるようですが、
                多くの人はふとした思い程度の感覚で霊と交流していると考えられます。

                これらの全てとは言い切れませんが多くが霊的交流の結果であると考えることができるのです。

                また、自分では全く意味のない行動でも、
                その行動の結果他の人が大きな導きを感じる事もあります。

                日常的な業務で、例えば書店で仕入れの担当をしていたとすると、
                なんとなく目に付いた本をなんとなく仕入れて店頭に並べることは
                仕入れた人には日常業務の一環でたいした意味を持ちません。
                しかし、仕入れられた本を手にした人がその本で人生が変わるようなことがないとは言えません。
                本を手にした人には「導かれた」と感じることでしょう。
                本を手にした人に霊的働きかけがあったと考えられますが、
                本を仕入れた人にも霊的働きかけが無ければ「導かれた」と感じた人にその本は渡っていないのです。


                私は霊界に行ってきたなどという経験はありません。
                霊と言葉を交わしたこともありません。
                しかし、多くの守護と導きと閃きは与えられていると感じています。


                このように、守護し、導き、教えてくれる存在を、
                私は漠然と「神様」と呼んできたのですが、
                これはどういう神様なのか、どういう存在なのかと真剣に考えてきました。
                多くの宗教が存在し、それぞれの神様を祀っています。

                特定の宗教が定める神様を信じると、
                その教えから外れれば、恩恵からもれてしまうと考えがちです。
                だから私は自分が信じた宗教団体から離れるときにはとても悲しく思いました。
                祈りの中で出会う神様が大好きだったからです。

                今私は宗教団体に所属していませんが
                私を守護し、導き、教えてくださる存在は変わらずともにあってくださるのです。
                思えば、この存在は宗教に出会う以前から共にあり、
                いつも変わらず今も共にあってくださるのだと感じることができます。
                ただ、以前には「神様」という概念とは結びついていなかったし、
                特に意識さえしていなかったのです。
                宗教を学ぶことは、こういった霊性を意識する学びでもあるかもしれません。

                神は唯一創造神のみであると考えることもできるのですが、
                そうすると、私を訪ねてくださるのは、どうやら創造神ではないと思えます。
                この感じは今ここでは書けませんので、また機会があればと思います。

                私と共に居てくださる神様的存在は、
                おそらく守護霊と呼ぶことができるのでしょう。
                守護神、協助霊、前世、ご先祖様、良心(conscience=conscientia=共に知る)…ここにも色々な呼び名が存在しています。

                | おーば | | 19:50 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                霊という概念
                0

                  霊という概念についての整理が必要です。

                  霊というと何か得体の知れない存在で、
                  私には関係が無いと思っている人が多いでしょう。

                  しかし、霊と呼ばずに、魂とか、精神、心と呼んだらどうでしょうか?
                  それは私の一部分であるというよりも、私の大切で核心的な部分だと感じるでしょう。

                  霊も含めてこれらは英語で表現するとすべてspiritと訳されることが多いようです。
                  (勿論、英語表現にも幅がありますので、使用される場によりsoul,mindなど一律ではありません。)
                  日本語表現では多様に使い分けられていますが、それぞれに込められた意味合いが違っています。

                  宗教や神秘的パワーに関心を持たない方々には、
                  霊という言葉は気持ちの良いものではないでしょう。
                  幽霊や雑霊などオカルト的要素を強く感じている人が多いのではないでしょうか。
                  最初に書いたように『得たいが知れない』という意味合いを含むからです。
                  そして、生きている人のそれではなく、死者のそれを指すことの多い言葉です。

                  しかし、魂という言葉に気味の悪さは感じないと思います。
                  魂と言う言葉は『大和魂』に代表されるように一途で純粋な心を表すことが多いからです。
                  他にも、「仏像に魂を込める」とか、「魂のこもった作品」など、
                  生命を表す意味合いにも使われる言葉です。
                  死者にも生きた人にも使います。
                  ただし、素性の知れた個人に使うことが多いでしょう。

                  精神と言うと、これは知的な印象を強く感じます。
                  学術的な分野で使用されることが多く、肉体に対して精神と呼びます。
                  心と表現するよりも、情緒性や感情をそぎ落とした表現です。
                  かと言って、理性以外の部分も含めたい少し冷たい表現だなと個人的には感じます。

                  心と言う表現は主に生きた人に使います。
                  喜怒哀楽の感情全てを表します。

                  死者の心を親しみを持って呼ぶときには先述の魂を使うことが多いでしょう。
                  心と魂の使い方は生きた人のそれか、死んだ人のそれかという使い分けをすることも多いです。
                  同じ死者でも霊と魂の違いはその存在の信頼性にあるように感じます。

                  ところで、
                  宗教や神秘的パワーに関心をもつ方々には
                  霊という言葉の概念が上述とは違っているはずです。
                  これは、spiritの訳語として霊が用いられるケースが多いことによります。
                  科学的要素の強いケースではspiritには精神という訳語をあてますが、
                  神秘世界に関心を持つ場合にはspiritに霊をあてることが殆どです。
                  これは基督教宣教師の影響でしょうか。
                  彼等は『神の霊』と表現します。
                  得体の知れない存在などではありません。
                  恐らくは、魂という日本の宗教色の強い単語を嫌ったのでしょう。

                  しかし、日本人の言語活動においては
                  霊という単語には根底的に得たいが知れず、自分とは関係の遠いものという感覚があるのです。 

                  | おーば | | 18:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  チャネラー?
                  0

                    私のことをチャネラーだと言う方がいましたが、
                    私にはそんな自覚はありません。

                    だけど様々な考えをここで書かせていただきますが、
                    その全てが自身の思考によるものかというと、そうでもない。

                    様々なひらめきやヒントを沢山頂いていることは事実です。

                    しかし、それは対話という形式をとるものではありません。
                    非常に断片的であったり、
                    逆に何かの講義を受けてでもいるかのように一方的に
                    言葉が頭の中に流れてゆくこともしばしばあります。
                    その言葉は私自身で考え事をするときと同じように
                    声のようでありながら音ではありません。

                    また、一つのキーワードが無性に気になって色々と調べてみると
                    ああ、こういうことかというような答えを程なく見出すことも少なくありません。

                    だからここに書いていることは自分で書いているというよりも
                    書かされていると感じるのです。

                    そう、背後に何かの存在を感じていることは事実です。

                    だけど、チャネリングと言えば、
                    対話する相手を他者として認識した上で
                    その他者の言葉を受け止めるという印象を持ちますので、
                    自分の経験がチャネリングであるとは思いにくいのです。


                    ひらめきを受けるという経験を持つ人は少なくありません。
                    最たるは芸術家と呼ばれる人たちで、
                    音楽家ならばメロディーを、
                    絵描きならば描くべき景色をひらめきとして受け取っています。
                    このひらめきを与える存在はミューズと呼ばれてきました。
                    学者達もまた、研究する中で多くのひらめきを受ける方があると思います。

                    一般的にもなんとなくそうしたほうが良いと感じたことが良い結果をもたらすことも少なくは無いと思うのですが、いかがなものでしょうか?

                    私の経験もこのようなひらめきの延長線上のものと感じています。


                    いいえ、過去形ですね。
                    感じていました。が正しいのかしら?
                    このことをチャネリングと言うのでしょうか?

                    というのは、ここのところ大変疲れ気味なことは
                    仕事がハードな故と考えていましたが、
                    どうも背景の方々が随分と騒がしいようなのです。
                    逆にその反映で実生活が忙しいのかしらとも考えるほどです。

                    「天国の作り方・第一部実存の哲学・知性の章」配布させていただきました。
                    後を書き上げるには時間がかかりそうな気がしたので先に出しておかなければいけないと感じたからです。
                    続く「情緒の章」は案の定、進めてはあるものの、なかなか収集が付いていません。
                    原稿に向き合うことさえままならない期間もあります。
                    読み返してみるうちに、「知性の章」と「情緒の章」で執筆担当者が違う気がしてきました。
                    「知性の章」は学者肌の方ですが、「情緒の章」は仏教関係者に感じられます。
                    引き続き書き進めようとしている「霊の章」、「第二部共同体の哲学」は果たしてどうなるのだろうか?

                    これらの関連性をきちんと整理してまとめるのは私の仕事なのだろうか?
                    それとも他に誰か助け手が現れるのだろうか?

                    何か背後に大勢居て大変混雑しているような感覚に襲われています。

                    私は私の実生活にも多少の心配りがしたいのですが…。
                    …仕方ないか…。

                    …少々愚痴らせていただきました…。

                    | おーば | | 15:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    霊についてちょっと走り書き
                    0

                      霊的問題なんて言うとすごく胡散臭いですよね。
                      でも、霊というのは私自身も持っているもの(というよりは、私の本体?)で、人間は霊的存在と表現されてます。
                      そもそも霊長類の霊だし。
                      ただ、霊といってしまうと死者の霊を指すことが多いのでいやがられます。

                      ところで、霊って何?
                      魂って何?

                      私も持っているものでこれに相当するのはつまりは心ではありませんか?

                      心であれば何故恐れたり疎んだりするのでしょう?
                      亡くなった肉親が傍に居てくれるような感覚を持つ人があるようですが、
                      それも心がよりそっていてくれるものと考えれば温かいものです。
                      守護霊とか背後霊とか言えばなんだか重々しい…。

                      人の心の声を聞いたならそれにどう対応するかは聞いた人の誠意です。
                      信頼できる人の声なのか、怪しい人の声なのか
                      判断するのはその人です。

                      霊的なお告げとか、言っても全てがすごいことではないと思う。

                      | おーば | | 20:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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