サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
霊とは何ぞや?その2 霊との関わり
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     ところで、五蘊を認識行程を表すものとする話もあり、それを私なりに図解してみました。


    五蘊入出力図



    図が小さくて読めませんね。
    PDFファイルをリンクしますので関心があればご覧ください。
    http://www.o-baka.com/goun-in-and-out.pdf



    「色蘊」には六入(六根)が備わります。
    意、身(皮膚)、舌、鼻、耳、眼

    つまり、肉体に備わっている
    3次元世界に開かれたセンサー・入力システムによって
    情報が取り込まれるのです。
    取り込まれる行程が「受蘊」にあたります。
    「意」というのは「意識」から取り出された情報をさすようで、顕在意識までを色蘊に数えています。


    「想蘊」には六境が備わります。六境は六根に対応します。
    法(思考対象)、触、味、香、声、色

    いわゆる五感プラス顕在意識です。
    これらが想蘊の内容になります。


    「識蘊」は六境により六識を得ます。
    意識、身識、舌識、鼻識、耳識、眼識
    これ等はまさに、記憶として蓄えられる内容です。
    整理記憶する行程が「行蘊」と言えます。


    「行蘊」に力を与える存在を「自己」としてみました。
    ここでは「自己」と表現しましたが、これは「情緒」を指すものです。
    情緒的喜びと生命の自律性以外に人に力を与えるものはないのです。

    自己こそが霊であるとするお釈迦様の五蘊非我の考え方からすると、
    「自己」以外の協助霊は何処に尋ねてくるのでしょうか?
    それは「想蘊」であると考えられます。
    霊が自己と同質の存在であるのならば、
    自己が存在するのと同次元に存在するはずです。
    「想蘊」の「六境」を同時に経験するのであれば、協助霊も「自己」と同等の経験が可能です。


    さて、逆に協助霊が過去や死後の記憶(識蘊)をともなって再臨しているのだとすると、
    私の「想蘊」に彼の「六識」を投影することが可能になります。
    「六識」から「想蘊」に投影されるものは「法」と表現されています。
    この「法」が私たちには
    「なんとなく思いついた」とか、「第六感」とか「啓示」「ひらめき」「インスピレーション」に感じられることでしょう。
    そうすると、霊は意識しなくても身近に接しているケースが十分考えられます。
    先の記事に書いた「現象学」というのもこの「想蘊」を見つめるものです。
    そして祈りや瞑想によって与えられる答えもこの「想蘊」に与えられるものなので、
    現象学というのは、祈りや瞑想ととても近いものだと感じられます。


    最近身近にチャネリングということを聞くのですが、
    これはやはり「想蘊」での出来事になります。
    チャネリングの場合には「法」を提示する存在が他者であることを意識しています。
    必ずしもそうとは限らないようですが、主に言葉を介して提示されるようです。
    しかし、その言葉はどうやらチャネラー本人の「識蘊」に格納された言語が引き出されているように感じられます。
    何故なら、ほとんどチャネラー本人の母国語でのやりとりだからです。
    つまり、チャネリングというのは、
    チャネラーの「想蘊」と「識蘊」を他者の霊に開放して行われるもののように感じられます。


    私が指導を受けたことがあるのは祈祷のみです。
    瞑想については本やネットの記事くらいなら読んでみたくらいでしょうか?
    いずれも感じ取るものであり、考えてひねり出すものではありません。
    求めに応えてくれる存在をたずねます。
    こちらが素直な心で対するのであれば率直な答えが返ってくるものです。
    信頼関係の構築も必要かもしれません。

    霊というのは他界した人の情緒や理性であると考えるなら、
    人に色々な考えがあるように霊にも色々あると考えることが妥当です。

    思慮の深い浅いもあるでしょう、
    楽観的だったり悲観的だったりするでしょう、
    愛に満ちているか恨みに苛まれているかもあるやもしれません。
    自身の理性と感性にてらし、
    友人を選ぶごとくに霊に対する必要があるかもしれません。

    | おーば | 実存の哲学 | 16:08 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    霊とは何ぞや?その1 生まれ変わりか再臨か…
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       霊とは何ぞや?
      魂とも言うけど同じ意味?

      私は同じものだと思ってます。但し、言葉として使われ方が違ってます。
      霊と言うと、主に亡くなった方の心を指し、魂と言うと、主に生きている方の心を指します。
      心の中でも、表面的意識より、深い世界を指すように感じられます。

      よく、生まれ変わるなどと言う話を耳にします。
      生まれ変わったとしても、元の記憶なんかは無いわけで、何が生まれ変わったと言うのでしょう?
      それが魂とか霊とか言われます
      まぁ、生まれ変わりなんて有るわけ無いと言ってしまえばそれまでですが…。

      生まれ変わりの話は古く、古代インド思想に輪廻転生説があります。
      当時は、この世の生が苦渋に満ちたもので、死後の世界こそが幸福な世界だと考えられていました。
      そんな思想的背景の下説かれたのがお釈迦様の教えである仏教です。

      仏教では成仏して、永遠の苦しみである輪廻の輪から逃れる為に修行して悟りを開くことを薦めます。
      (これを解脱と言います。)

      今私達が思う生まれ変わりとは少々見方が違います。
      私達は現在の生(今生)に果たせなかった思いを生まれ変わって(来世)で果たしたいなどと考えます。
      基本は地上の人生なのです。
      あの世の幸福ではありません。


      お釈迦様は霊の内容について考察されています。
      アートマン、自己とも表現されますが、「輪廻する本体」とされるこれは「霊」であると考えて問題は無いでしょう。
      仏教・印度思想については1年少々前にも記事を書いているのでそちらのカテゴリも参照していただければと思います。
      http://blog.o-baka.com/?cid=12


      お釈迦様の言葉は「〜ではない」という形をとることが多いようで、
      霊についての考察も「五蘊非我」「五蘊皆空」と表されます。

      五蘊とは?

      色蘊 色かたち、つまりは身体…肉体
      受蘊 感受作用…感覚
      想蘊 識別作用…認識
      行蘊 記憶・意思などの作用
      識蘊 判断作用

      五蘊について、数ヶ月前の言語学カテゴリに上げた図にも紹介しています。
      その図をもう一度ここに載せてみます。


      性形二性的人の構造

       

      五蘊は人の構造の中では情緒と理性を除いた全てにわたります。
      つまり、肉体のみならず、「知識」・「記憶」までを含むのです。
      それらが自己即ち魂に含まれないと言うのは
      生まれ変わったときに過去世の記憶が無いということを反映するものだと思われます。


      さて、ここで
      自分自身の「霊」と他者の「霊」の関わりについて考えたいと思います。

      私が誰かの生まれ変わりだとして、
      前世の存在は他者でしょうか?自身でしょうか?

      私という存在を何処まで含めて考えるかにより
      これは変わって来る事ではないでしょうか?

      お釈迦様の言われるとおり、
      純粋自己(アートマン)のみを「私」として捉え、
      記憶や知識はかりそめであると考え、
      純粋自己が前世からそっくり引き継がれるものならば
      前世は「私」であると言えます。
      しかし、私の人生経験全てを含めたものが「私」であるとするならば、
      前世の自己は「私」が知らない人生経験を積んで記憶し、私の知らない知識を積み上げた「他者」となります。


      自分で経験したことはありませんが、
      降霊、霊媒などと言われることをするとき、
      霊は過去に生きたとき、あるいは死後の世界についての記憶や知識を語るようです。
      前世ではないにしても霊は知識や記憶を含まない存在では無いと感じられるのです。
      これは何を意味するのでしょうか

      生まれ変わるときにだけは、過去世の記憶は全て潜在化されているんだという解釈も成り立つのかもしれません。
      自分自身の経験も、古いものは潜在化して思い出すことが出来ないものも多々あります。
      新しい人生を送るためにはその方が都合が良いから自分自身でその様にするんだという人もあります。

      では、死後に全ての過去世の記憶が一個の自己としての存在に凝集されるのでしょうか?
      そこに混乱は無いのでしょうか?
      現在一個の人生を歩む個人としてはなにやら空恐ろしく不気味な感じを持つのは私だけでしょうか?
      人が霊として永世する存在であるのならば、私は一個の人生の記憶を貴重視して愛したいし、
      死後に地上に関わることが出来るのならば統一原理で教わった再臨協助の方が好ましく感じられる。


      実際霊通するという人たちの話も、
      個人の背景に複数の霊を見る話が多い。
      「来ていらっしゃる」などと表現するところを見ると、
      彼等は前世ではなく協助霊ということになる。


      しかし、人生には色んなケースが考えられる。
      成人することも出来ずに幼いまま他界するケースもある。
      そんな場合には生まれ変わりでもしない限り十分な人生家経験を積むことが出来ない。


      再臨協助では霊の成長には不十分なのだろうか?


      再臨協助がいつ行われるかによるのではないかと考える。
      生後数日で他界してしまった霊は
      新生児に再臨することが出来れば
      新しい生命と一体となって成長することは出来ないのだろうか?
      それこそその幼い霊には識蘊などほとんど備わっては居ないのだ。
      おそらくは、二つの霊はほとんど融合してしまうに違いない。
      霊は無形である。


      聖書の物語にヨブ記というのがある。
      ヨブの若い子供たちはサタンの試練によって殺されてしまった。
      子供たちに何の罪があったとかそんなことは書かれていない。
      サタンが去った後、
      ヨブは祝福されて新たな子女を得ているが、
      殺されてしまった子供たちはどうするのか?
      疑問であった。
      しかし、新たに生まれた子供たちに再臨することが出来れば
      同じ家庭の中で同じ親の元人生を経験することが可能であったかもしれないという考えに至った。

      都合の良い考え方であるけれど、
      過去世の記憶をを消して生まれ変わるというのも都合が良い話なので大して気にする必要も無いかなと思う。
      そもそも、私はこの考え方に無理は感じていない。

      | おーば | 実存の哲学 | 15:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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