サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
進化
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    『進化』という言葉がある。
    最近では工業技術や様々なテクニックの飛躍的向上をこう呼ぶ。
    スピリチュアル系でも魂の向上をこう呼んでいる。

    だけど、おーばは個人的になんだか嫌いな言葉です。

    技術は『進歩』するもの。
    魂は『成長』するものだと私は思っている。
    日本語ではそれで十分に通じる。

    なんで『進化』が嫌いなのか、
    単にダーウィンが使ったから嫌いなのか?
    だったら何故ダーウィンの進化論が嫌いなのか?
    神の創造論を支持するからだけだろうか?
    それだけなら言葉自体を毛嫌いするのはいかがなものかと思うので、
    このことを話題にすることも無かった。

    だけど先程ふいと思った。

    進化論には適者生存の理論があり、
    進化しなかった個体は不適存在となって淘汰されてしまう。
    進化は個体に与えられた突然変異であり、
    全ての個体にもたらされるものではない。

    進化した存在であることは、環境に選ばれた存在ということになる。

    これは形を変えた『選民思想』に繋がりかねない。

    スピ系でこの言葉を使っている人達は
    それ程の意味を込めて使っているわけではないでしょう。
    単に、周りが使っているから使うのだと思う。

    進歩を進化に言い換えたのも
    マスメディアがスポーツ選手のテクニック変化の様子を伝えるのに
    インパクトを持たせるために始めたことと記憶している。
    それにみんなが乗っかっただけである。

    しかし、技術革新については『進化』が図らずも当たっていた。
    ケータイやスマホなど、新しいバージョンに『進化』できなければ
    そのブランドは淘汰される。

    『進化』の潜在的な『選民』感覚は生きている。

    使用方法は慎重にするべきだ。
    特にスピリチュアル系は気をつけなければいけない。

    選民意識は傲慢になり他者を見下す心を生みやすい。

    | おーば | 言語学 | 23:00 | comments(7) | trackbacks(0) | - | - |
    言語獲得経路から考えられること
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       前の記事で書きましたが、
      個人が観念世界を構築していく際には言語という整理箱を活用しています。
      これが何を意味しているか。
      観念世界は個人の思考のベースになるところです。
      思考のベースに用いられる言語がコミュニケーションツールと共用されている事実です。
      思考する世界は最も個人的な作業ですが、
      コミュニケーションは公共的な作業です。

      個人は自由に独自的に思考することが当然と思われがちですが、
      実際には全く独自的な思考というのはありえないことを意味します。
      思考のベースである言語が、他者からの影響を免れることが無いからです。
      他者からの影響を全く受けない思考はありえないのです。

      「人間は考える葦である」というような人間観もありますが、
      こと、思考を中心に捉えるとき「個人主義」の思想が容認できないものであり、
      行過ぎた自由に歯止めをかける根拠となりえます。

      このように表現すると戦前の全体主義に向かう危険な考えと思われそうですが、
      全体主義、国粋主義など問題はその中に巧妙に隠されていた自己中心的な考えにあるのです。
      過去を否定するときには的確な否定が必要で、
      むやみやたらに全否定すると、過去の良いところまでを否定し、
      美しい、良い遺産まで失うことになります。

      統一教会における罪観に「遺伝的罪」「連帯罪」と言うものがありますが、
      これらの罪について考察する手がかりにもなるような気がしています。
      「み言葉によって新生する」とか、「真の父母に連結」しなければならないという考えも
      言葉は父母を通じて伝達されるものであるという観点から飲み込んでゆくことが可能になります。
      こんなこと統一原理には書いてませんけどね…。

      | おーば | 言語学 | 13:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      言語の獲得
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         人間は生を受けたときから肉体の五感を通じて様々な情報を受け取っていきます。
        そしてそれは“記憶”として蓄積されます。
        記憶はすべて文章で綴られるものではありません。
        視聴覚・味覚・嗅覚・触覚・感情までが記憶を構成する要素です。
        これらの要素を整理しているのが言語であると考えます。

        言語をどのように獲得するのか整理してみました。

        生まれたばかりの赤ん坊がどのような行程で言語を獲得していくのか?


        言語との出会いは大人からの話しかけによります。
        聴覚を通じて音声情報として入ってきます。
        言語学者のソシュールが『差異の体系』と名付けたシステムの通り、
        他の音と言葉とを聞き分け、さらに音韻の差異を聞き分けてゆきます。

        これは知性の機能によります。
        知性は“差異”を認識し、その差の量を比較することが出来ます。
        これこそが知性の主たる機能とも言えると思います。
        そしてその言葉を話しかける人が母親のように自分が大好きな相手から発せられるものであれば赤ん坊の関心は強くそこへ向かいます。
        これは情緒の機能によります。
        もっとも、母親という認識を持つことが出来る段階は生まれてすぐには持てませんので、
        快いと感じる経験と同時に言語と出会うことが大切ではないかと感じます。


        大人は視覚・味覚等の感覚と言葉とを結びつけるように話しかけます。
        子供は言葉と記憶の構成要素を結び付けます。
        結びつけて反応することが大人を喜ばせること(大人が子供に向ける楽しい感情)が分かれば尚更に興味は向かいます。

        かくして、言葉は感覚記憶の整理収納BOXとしての機能を発揮してゆくようになります。
        名前と言うラベルがしっかりと貼られたBOXです。
        これらのBOXは安定するように積み上げることが出来ます。
        安定すると言うのは整合性のある状態を指します。
        言語という収納BOXに収められるが故に記憶は収集され、
        安定した形状を維持してそれぞれの関連性を確定することができます。
        BOXの一つ一つは“概念”という単位を構成し、
        積み上げることで築き上げられる記憶の“お城”を観念世界と呼べると思います。

        大人が子供に話しかけをするときには、
        その子供とおしゃべりが出来るようになることを思い描きながら話しかけます。
        言葉によるコミュニケーションを願ってのことです。
        共通の経験に共通の言葉を当てはめることにより
        親子の間に共通の概念形成をするのです。
        これがコミュニケーションの成立に不可欠です。

        これは成長するに従い、家族以外の人との間に共通概念を形成することが可能になり、コミュニティを成立するようになります。
        共通経験は情緒的に快いと感じられる相手と成立させやすく、
        共通概念の形成も、情緒的に快い相手と形成されやすいものです。

        このように、知性の機能を中心に
        情緒の協力を得て言語は習得され観念世界の形成を助けます。
        多くの言語は他者との共通経験に基づき外部から得られるものです。
        しかし、観念世界を形成する上で整合性を得る等の理由で経験を伴わない概念の必要が生じる場合があります。
        このような概念にも個人は独自的、あるいは借用した名前を付けますが、
        その名前は他者と共有する言語ではないので思考のためには有用でも、
        コミュニケーションツールとしては不適当になります。
        | おーば | 言語学 | 13:48 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        宗教と科学・情緒と知性
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           宗教と科学の統一について、
          統一教会でもかつては掲げられてきた課題です。

          しかし、
          実際には統一というよりも霊界と神様の存在をいかに科学的に証明し、
          現代科学の間違いを正さなければならないという考え方をしていたように思えます。

          他に、心と体の統一という表現もあります。
          しかし、心と体の戦い以前に心の中に矛盾性を抱えて戦っている状況を
          統一原理は指摘しています。
          統一は実態的な肉体の問題ではなく心の内部の葛藤を便宜的に表現しているに過ぎないと私には感じられるのです。



          前に掲載した図をもう一度のせます。

          性形二性的人の構造




          こうやって分類すると、
          心の中で“知性”が“情緒”とぶつかりやすい存在だと見ることができます。
          “知性”と“情緒”とどちらが先行すべきかと問うと
          現代人の多くは“知性”が先行すべきと答えるでしょう。
          “情緒”の社会的地位はとても低く設定されています。
          これは“情緒”の中心を“本能的欲望”と捉える向きがあるからです。
          これは間違いであり、大いなる誤解であると私には思えます。

          “情緒”の中心は“愛”であり、その主たる力は『価値決定』なのです。
          それを好むか好まないかは“情緒”が決定するものなので、
          様々な好みの個人差は理論的に説明の付くものではありません。
          そしてなにより、神様が私を訪ねてくださるときも理性を超えた世界での出会いです。

          では逆に“本能的欲望”は何処から来ているでしょうか?
          これは“色受想行識”が説明してくれます。
          肉体の感覚器官から受け取ったイメージ(想)が心に与える誘惑ですから
          それにどう対処するかの決定を“知性”が行います。
          何を判断基準とするか?

          “情緒”がその刺激をどれだけ好むか(価値観)、
          対処によってどのような結果をもたらすのかを総合的に判断するのです。
          このときに、“情緒”が幼ければ目の前の刺激のみを求めて強く欲求するでしょうが、結果に大切に思うものがあれば“情緒”はそちらを求めるのです。
          “知性”にできるのは結果に対するシュミレーションです。

          そして“本能的欲望”は必ずしも悪ではなく
          体を維持してゆくために無くてはならないものでもあります。
          自身の存在を支える欲求を“情緒”は否定しません。
          “体”の必要を埋めることは“情緒”の好むところですから、
          結果として“本能的欲望”は“情緒”なくしては生まれません。
          しかし、それを実行したときに他者を傷つけることを感じ、
          他者を傷つけることの不快感が強ければ実行したいとは思いません。
          つまり、“情緒”の中心は好むこと即ち“愛”なのです。

          これを“知性”が判断するとしたら、
          「禁止されているから止めなければならない」
          「社会的評価が下がるから止めなければならない」
          という具合に「ねばならない」になるのです。

          どちらがあるべき姿かと言われれば
          “情緒”の成長による積極的選択が望ましい姿でしょう。


          このように“情緒”が“知性”に劣るというイメージは
          “知性”による言いがかりに過ぎません。
          “知性”は概念の中にかつて“情緒”が下した価値判断を保存してあります。
          その古い価値判断と、他者が下した判断のコピーで
          “情緒”抜きの行動判断を下すことができます。
          そのほうが早いし、周りの人ともうまくやっていけるような気がします。
          “情緒”の方もそのほうが楽だと思ってしまえば
          いちいち価値判断をしません。
          かくして“情緒”は成長することをやめてしまいます。
          愛は成長せず、“情緒”は“知性”に従うのみの存在になってしまいます。


          これはそのまま宗教に対する科学の優位性に反映しています。

          図のように、科学は情緒を除い人間の全てを網羅しようとしています。
          体の性相である生命についてはまだまだ解明し切れてはいませんが、
          そのメカニズムについては解明しつつあるんだと豪語します。

          一方宗教は様々な奇跡的な現象(生命や機能・能力面)をもって
          科学一辺倒な世の中を批判しようとしますが、
          論理性に乏しいために知性を納得させることができません。

          知性がもっとも必要とするのは整合性です。
          情緒はなぜかこの整合性を超越してしまうので
          知性には情緒が理解しきれないし厄介な存在です。
          知性はこの整合性をもって自らの観念世界を構築しています。
          この観念世界を構成する素材が大量の概念であり、
          概念の要素が言葉とイメージ(想)なのです。

          つまり言葉が『心の中の体』の骨格を成しているようなものです。
          そして知性に宗教や情緒を受け入れさせるには
          整合性をもって言葉による論理を立てる必要があります。
          | おーば | 言語学 | 23:37 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          補足
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            前の記事で性相と形状の二性性相から人間の構造を図示するという表現をしましたが、
            誤解を招きそうなので補足。

            人体の構造を図示する場合、
            骨格の構造を図示するのと、
            消化器系の内容を図示するのでは全く違った図になります。
            しかし両者の見かけは違っていても
            それぞれ正しく図示することができます。

            問題になるのはそれぞれの構造図から何が読み取れるかです。

            統一思想などで霊人体と肉体のそれぞれ心と体であるところの
            肉心と生心があってそれぞれのからだと授受作用を持ち、
            生活要素と生霊要素(名称が違うかも?只今資料が手元に無し)が交換される。
            横線の上下に二重丸がそれぞれ書かれている図をもって人間の構造を示しています。

            しかし、その図からは“知情意”の関係性などは見えてきません。
            統一原理では心には“知情意”があるとしか説明しません。
            言語の問題をテーマにしようとすると新たな分析が必要になってくるのです。


            言語学、構造主義、現象学、実存の哲学…
            話が難しくなります。私も十分に理解できているわけでもないでしょう。
            実際のところ、
            前にも書いたように『言語学』の中心は、それぞれの国・地域で用いられる言葉の関連性や語源を研究することですし、
            『構造主義』は人の思考に影響をもたらすものとして社会システムを中心に考えているので非常に外的です。
            『実存の哲学』は『実存主義』として、非力な個人を主張するためのイデオロギー的な色を濃くし『構造主義』によって否定されています。
            『現象学』というのも、物事を客観的存在として捉えるのではなく、「私の意識にどのように感覚されるか」を考える方法論的な学のようで
            それぞれの名称を持ち出してはいても、
            今表現したい内容を書き出すためにその名称を持ち出しているに過ぎず、
            それぞれに傾倒しているわけでもない…。
            ただ、人はこれまでに色んなことを考えてきているんだけれど、
            なぜかそれらはバラバラになって取り散らかされているのです。

            『統一原理』によってこれらの収拾がつけば良いと思いましたが
            そういう状況にもないようです。

            | おーば | 言語学 | 20:32 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
            言語・ことばについての桜葉の考え
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              性形二性的人の構造


              ちょっと見慣れない図を描いてみました。
              性形の二性性相と言って分からない方はデカルト的二元論を思い浮かべてください。

              心と体は明らかに精神と形ですから明確です。
              しかし、心を情緒と知性に分けてみてもどちらも形を持ちません。
              これはどちらがより形を持ちやすいかと考えての分類です。

              知性は図示したり文章に書いたりして形になりやすいのですが、
              情緒と言うのはいかにも捉えにくいものではありませんか?
              形状化するために絵画や彫刻を用いたりもしますが日常的ではありません。

              知性の中でも、観念とか、概念は具体的なものを指し示します。
              それに対して理性はその概念や観念を取り扱う作用性を持ちますので、観念・概念の方がより形状的と言えます。
              そして、観念・概念が言語によって支えられているのですが、
              言葉だけではなく、五感によって獲得されたイメージの全てが言葉というタグによって呼び出されるようになっています。
              (左側により性相的なものを並べたのですが、言語と内容の部分は逆に書くべきでしたね。)

              体の方ですが、
              生命は心か体かと言えば体だと思うのですが、
              これも見ることができないものです。
              そして生命を除いた肉体の部分ですが、
              これも具体的な物質で構成される組織や構造を持っていると同時に
              発揮される様々な能力・機能は物質としては存在しません。

              で、ついでと言ってはなんですが、
              気になっているテーマを二つ重ねてみました。
              「宗教と科学の統一」と先に書いた仏教での「五蘊」の分析です。
              小さく赤で書いてある文字は「五蘊」の色受想行識です。


              言葉のテーマに戻ります。
              ソシュールは言葉を二つに分けています。
              具体的な言葉自体(記号表現)の「シニフィアン」と、
              指し示される内容・イメージの「シニフィエ」です。
              言語学の土俵で考えると、曖昧なイメージに形を与える「シニフィアン」の方が記号表現にあたるのでより形状的に感じます。
              しかし、人間の構造から考えてゆくと
              外界から写し取ったイメージを理性的に収集をつけるための道具として用いられる言語はより理性に近い存在でしょう。

              言葉は肉体(色)の五感から受け取った(受)情報(想)を区分して(行)
              その情報を格納(識)する上では記憶を呼び出すためのタグのように機能していると感じられます。

              これはどういうことか?
              言葉は知性の枠組みを作り上げているということです。
              知性は心を支える肉体のような役割を果たしていますから
              情緒に対しても影響を与えないはずがありません。
              教育部長さんの記事にあった神様に似るためにみ言葉を学ぶというのが
              更に重く感じられませんか?

              ところで上の図、
              人の心は知情意でできていると学んでいる食口には違和感ありますよね。
              性形二性性相で考えるとどうしても3つに分かれる理論展開にならないんです。
              知情意のそれぞれ奥には心情があると言う説明に頼るならば、
              知情意の「情」と「心情」は同一存在ではないと受け取れます。
              上の図で「情緒」としたものは「心情」とすべきものなのかもしれないなと思ったりもします。

              宗教と科学の統一については又の機会に書きたいと思います。
              | おーば | 言語学 | 21:39 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              言語学についてもう少し
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                言語学なんて何の関係も無いと思う人が多いと思います。
                しかし、人は思考するために言葉を用いていると言うのは定説ですし、
                実際に自分で振り返ってみても、
                考えをまとめようとするときにはどうしても言葉を使って考えています。

                世界は「み言葉」によって創造されたという聖句、
                「言霊」といわれてそこに力が宿っているという考えもあります。
                ブログ村統一教会カテゴリの教育部長さんの記事に「み言葉は中間的存在」というのがありましたが、これも興味深く拝見しました。
                「言葉」について考えるのは無意味なことではないでしょう。


                言葉というものは
                存在するものに貼り付けられたラベルのようなものだという考え方が
                ソシュール以前には普通だったそうです。

                今でも関心を持って考えてみない限り、そんな風に思っているのが通常でしょう?
                だから日本語で「犬」と言うけれど英語だったら「Dog」だし、フランス語にもドイツ語にも、アフリカの奥地で使われている言語にだって同じ意味の言葉が存在していると私たちは漠然と思っています。

                だけど「納豆」とか、「お麩」なんて英語やどこか遠くの見知らぬ国でそれに対応する言葉があるはずも無し…単に「日本の伝統食品」と“説明”するのです。
                そんなことも漠然と知っています。


                姉の夫が英国人なのですが、
                彼が日本に来たときに、椎茸について姉は「マッシュルーム」と説明していました。
                マッシュルームはきのこの総称みたいに使われるのでしょうか?
                日本で「マッシュルーム」と言えば種類を特定したあのコロンとしたきのこです。
                椎茸、マッシュルーム、シメジ、エリンギ、えのきだけ、なめこ、舞茸、松茸…日常的にスーパーに売っているこれくらいのキノコは日本では区別して呼びます。
                だけど外国の市場では見たことも無いような野菜がどっさりありますが、
                それらについて現地の人たちは区別して呼ぶでしょうが、知らない私たちは「瓜の仲間」とか、「豆の一種」とか言うしかありません。
                見分けが付かないものもあるでしょう。


                文化的にあらかじめ知っているものは区別することができても、
                よく知らない似たようなものについては名前が分からないどころか区別さえもつかないのです。

                つまり、ものに予め名前があるのではなくて、
                名前が先にあって、その名前に従って私たちはものを区別していると言ったのがソシュールなのです。
                これを「差異の体系」と言うそうです。

                区別する習慣が無いものに対しては、名前が付いていません。
                人は考えるときに言葉を使用して考えるというのが昔からの定説であります。
                その定説に則れば、名前の無いものについて考えることは困難になります。
                ソシュールは人間の思考は母国語に強く影響を受けると考えました。

                これを他の学者たちが「構造主義」と呼びましたが、ソシュール自身はそう呼ばれることを否定していたそうです。
                「構造主義」とはいろいろなものの仕組みや造りが、結果に影響を及ぼすことを言います。
                構造と言っても様々な仕組みを取り出してみては「この構造こそが世の中を動かしている真理なんだ」と、言う人が多く出てけりがつかないのでこの「構造主義」というのはあまり流行らなかったとどこかに書いてありましたが…。

                この「構造主義」、統一原理には「性形の二性性相」と言う名前で出て来ます。
                見えない性相は見える形状に表れ、見える形状は性相を表す。
                手相・観相の根拠にも使われています。
                「構造主義」的考え方は決して間違いではないと思いますが
                思想・哲学界では扱いを間違ってしまったように感じます。

                | おーば | 言語学 | 20:28 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
                言語学
                0
                   言語学と言う学問分野が存在するのですが、
                  私はこの分野の存在を哲学入門書で認識しました。
                  ブログ村にもこの名前のカテゴリがありますが、これは外国語の分野内に設定されています。

                  多くの言語学は、
                  とある国語や民族の言葉の成り立ちがどこそこからの影響を受けて成立しているとか、
                  この言葉の語源はどこそこのこの言葉から来ていてこんな風に変遷してきたんだよと研究しています。
                  これならば確かに外国語の分野に所属するものでしょう。


                   しかし、私が言語学に関心を持つのは
                  言葉というものが人間の思考に大きく影響を与えていると感じるからです。

                  このことはソシュール(1857〜1913)という言語学者が指摘していることです。
                  彼は
                  「人の思考はその母国語によって制約を受ける。」
                  と指摘しています。

                  言葉は私の思考に大いに役立っていて、
                  考えを人に伝えようとするときには必要不可欠なものです。

                  同じ日本人でありながら私が使う言葉と他の人が使う言葉とが
                  必ずしも一致しない現実が目の当たりにされます。
                  言葉はとても個人的な世界を呈して
                  微妙なニュアンスは必ずしも正確に伝わらなかったりするのです。

                  こういったところを言語学を調べればなにか解決策が見つかるのではないかと思ったんですけれど、
                  残念ながら言語学の主流はこちらではなく、
                  各国・各民族の言語の流れを研究するものになっているようなのです。

                  前の記事で面白いブログを見つけたと言うのは
                  言語と記憶の関係を明かしたいと試みるものです。
                  http://plaza.rakuten.co.jp/clg2009/

                  読んでいて難解です。
                  出てくる単語をウィキペディアで調べながら読みます。
                  ウィキでは追いつかなかったりしますが、まぁ、あちこち探しながら読みます。
                  Webは便利ですよね。

                  ここの記事に全面的に賛同するものでもありませんが、
                  キーワードをもらえるだけでそこから様々なヒントが出てきます。
                  言葉の力ですね。

                  統一原理では言語の統一が必要だと触れますが
                  突っ込んだ内容はありません。
                  しかし、真理を言葉で表そうとするなら
                  言語についての哲学は必要不可欠なものと思うのは私だけでしょうか?
                  | おーば | 言語学 | 02:25 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
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