サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
今のところのまとめ-3復帰という観点
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     復帰という観点

    一緒に仕事をすることになった30代の兄弟に、
    「人を立てるということを教えないといけないから大変だ」と鹿太郎が言った。
    「小学生くらいに教える内容かもしれないね」と私。
    「小学生からそんな内容を理解できたら、その人は豊かな人生を送れるのかもしれないね」と続けた。
    すると鹿太郎
    「思いやりとか他人を立てるとか、
    そういうことを小学生くらいから皆が皆覚えたら争いの無い平和な社会が出来上がる。
    だけどその社会は競争力が無いから周りから簡単に喰われてしまう。」

    現実です。
    ために生きる個人は周りから食いものにされてしまう。
    それが国家的な内容で浸透した国であれば、
    諸外国から食いものにされて滅んでしまう。
    かつてインカ帝国がスペインによって滅ぼされたのがそんな構図であったでしょう。



    罪の無い本然の人間が復帰されるのに三代かかると言われます。
    それは個人がいくら公共的精神を復帰しても、
    そのごとくに生きる環境が出来上がっていないので、
    環境を築いてゆくために戦わなければならない世界が残るから、
    相手を立てて生ききる事ができないからです。

    だから一世はホームチャーチを建てることにより、
    二世三世を育む基盤を立て、
    守られた環境の中に育った三世が始めて本当に為に生きることを実践し、
    本然の行き方ができるようになるのです。


    これは国家というレベルで考えても同様で、
    争いの無いために生きる伝統の国家は現代社会では
    競争力を持てず、食いもの成されてたちまち滅ぼされることになるでしょう。
    そこにアベル国連の構想がありますが、世界レベルで同時に復帰を進めなければ成りません。

    だから国防という課題が現れるわけですが、
    本然の国家が武力行使の伝統を持つわけには行かないのです。
    武力行使をすれば、お互いの生活圏を破壊することになるので
    『共に知る』道を塞ぐことになります。

    善悪交差の時に武力による火の戦いを持てば復帰摂理は大きく後退することになるのです。
    火の戦いをするにしても、アベル国家は相手に壊滅的打撃を与えることはできません。
    カイン国家はそのことにはお構いないでしょう。



    一方、現行の国家という概念から離れた国家的共同体の可能性があります。
    NGO,NPOの類です。

    現行の国家と言う概念は、
    国民・国土・主権の三要素から成り立ちます。
    しかし、国土と主権の問題はこれまでに多くの争いの上に立つものです。

    本然的国家というのは争いの概念を持ち込むことができません。
    国民・気候風土・言語文化の三要素で考えなければ行けません。
    そこで非政府組織であるNGO,非営利団体であるNPOの可能性を探る必要を感じます。
    非営利ということは『権』から離れることです。
    NGO、NPOの枠組みの中に規制の国家概念から抜け出す道を探るのです。

    こちらは規制国家の枠組みに対立するのではなく
    枠の隙間をすり抜けて共同体を立てることになります。

    そこに為に生きる新い共同体理念を立てなければなりません。
    これは競争原理に基づく弱者切捨ての資本主義では立ち行くことができません。
    一党独裁で唯物的な共産思想でもいけません。
    中央集権的UCの体制も勿論ふさわしくありません。

    共生、共感、共知、共義、共栄の観点からの理念が必要です。
    基盤になるのがホームチャーチ思想です。
    ホームチャーチは過程的、蕩減的内容ではありません。

    家庭に次ぐ天国の小単位です。


    生命の理念
    家庭的理念、
    ホームチャーチ的理念、
    夫婦の理念
    国家的理念、
    世界的理念、
    天宙的理念を

    生活圏(実経済)、知性圏(秩序)、情緒圏(愛情)で立てる必要があるのです。
    まだ分かりませんが、行政・立法・司法に対応するものかもしれませんね。
    これからの課題はここなのかもしれません。

    | おーば | 天国の作り方 | 14:47 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    今のところのまとめ-2
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       共に-com-con

      良心という言葉は "conscience" という言葉への訳語として誕生しています。
      この言葉は"con"と"science"に分割することができ、語源を辿ると『共に-知る』ということになります。

      また、 "common sense" (常識・共通感覚)という言葉もあります。
      接頭句として"con"と"com"はどちらも『共に』を表し、
      "science"の語源的意味は『知る』とともに『見る・認識する』までを含むようです。

      これは『良心』と『常識』が非常に近い内容を持つことを表します。

      『共通感覚』という言葉は耳慣れませんが、アリストテレスから提唱されることばであり、
      五感などを束ねる感覚と表現できるものです。
      例えば夜空に花火が見えて、どーんという音が聞こえたら、
      その二つの情報を一つの現象の結果と捉えることができます。
      これが『共通感覚』の働きです。
      見えたものの意味、聞こえたものの意味を理解できる感覚です。


      この『共通感覚』は『新生児期』には獲得されています。

      『常識』というものを学び始めるのは『乳幼児期』からです。
      『乳幼児』に『常識』と言ってもピンと来難いところもありますが、
      『常識』とは、『社会常識』ばかりではなく、
      生活に関わる『常識』も、『常識』とは意識されずに数多存在しています。
      食べて良いものと良くないものを知り、
      熱いヤカンやアイロンに触れればやけどをすることを知ることも『常識』を知ることです。

      『社会常識』を知るのは『少年期』からになります。
      『少年期』には『社会常識』とともに『良心』も要求されます。

      新生児期には自己を確立する意味で、『共通感覚』を確立し、
      乳幼児期には自己の利益を中心として『常識』を獲得してゆきます。
      少年期には兄弟・友人関係を確立するために、他者と共に知る『良心』が必要とされます。



      『良心』は“何者と共に”知るのかで三態あります。

      “他者”と共に知る
      “神”と共に知る
      “自己自身”と共に知る

      自己自身と共に知るというのは理性的整合性を指します。
      自身の記憶にある事象と眼前にある現実とを照らし合わせ、
      自他の利益に合致するように行動することが、『自己自身と共に知る』ことに忠実な行動となります。

      神と共に知るというのは『神』をどのようにとらえるかという問題にも関わりますが、
      直感的閃きや具体的な霊的語りかけを加味して判断、行動することです。

      他者と共に知ることは、一見すると他人任せにして自分で考えることを放棄するように見えますが、
      他者の状況や心情を共に知ることにより場にふさわしく行動することができる側面を忘れてはなりません。




      “知る”ことにも段階が存在します。
      前の記事で書いたとおり、

      『生命』と『体躯』の関係性の中から発揮される『体躯機能』の肉体感覚。
      いわゆる五感。共通感覚の結果としての“感受内容”“生活実感”。

      『情緒』と『体躯機能』の関係性の中から増量する『言語』及び『知性内容』。
      常識に裏打ちされた“言語による知識”と“生活実感を記録した知性内容”。
      (現在、言語知識が偏重され、知性内容が軽んじられる傾向が強いことは危険なことと言えるでしょう。)

      『情緒』と『知性内容』の関係性の中から得られる“情緒的共感”。

      この三段階を十分に通過した“知”が本来的な“知”であると言えるでしょう。
      肉体感覚と知性心情が一致した“知”であれば、
      心と体が一体化した状態と言えます。



      この三段階の“知”を
      どこまでの広さで持つことができているかが
      良心基準の高さであり、その人の成長段階に当たります。

      | おーば | 天国の作り方 | 12:29 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      今のところのまとめ-1
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         ここまで書き綴ってきたことだけれど改めて。

        『人』は『心』と『体』から成っています。

        『体』は『生命』と『体躯』から成っています。
        『心』は『情緒』と『知性』から成っています。

        『体躯』は『機能』と『構造体』から成り、
        『知性』は『内容』と『言語』から成っています。



        『生命』は燃焼します。
        『体躯』は成長し、やがて衰えます。

        『生命』と『体躯』の関係性の中から『体躯構造体』は成長し、『体躯機能』が発揮されます。

        『情緒』と『体躯機能』の関係性の中から『言語』は増量し、『知性内容』は精密化します。
        『情緒』と『知性内容』の関係性の中から『情緒』は成長します。



        新生児 → 乳幼児 → 少年期 → 思春期 → 青年期 → 壮年期 → 熟年期 → 老年期

        生命体として自立し → 家庭内の一員と成り → 兄弟友人間で対等な関係を築き
        → 特定異性との関係を築き → 生活基盤と子女育成通じ地域社会の成員と成り
        → 同一言語・同一文化圏の運営即ち国政に携わり → 異文化交流即ち外交に携わり
        → 環境圏全てを含む天宙的調和に至る。



        成長段階毎に成長目標課題は異なり、課題をクリアする方法が異なります。
        つまり、取るべき行動は異なります。



        自己中心的行動が是とされるのは思春期まで。
        青年期以降、自己中心性は内包されるに留まり、表出されるべきではありません。
        これは、思春期に人は父母の元を離れるからです。



        一般に、自己中心は『悪』であると言われることが多いのですが、
        思春期までは自己中心は表出されるものなのです。
        父母の元にある段階で自己中心性を十分に満たさなければ、
        人はその後の人生にストレスをもって進むことになります。

        自己中心がふさわしくない場に表出されることが『悪』と呼ばれます。
        幼児が親元からはぐれているようなものです。
        群れからはぐれた小象はライオンに喰われるべきでしょうか?
        勧善懲悪の理屈はそうなってしまいます。

        群れからはぐれた小象は群れに戻すことが一番でしょう。

        親が必要なのです。
        それが真の父母の役割であり、メシアなのですが、
        まだそのような働きを示した人はいません。

        ライオンは、はぐれた子供を喰うことは間違いでしょうか?
        調和を保つためにはそれも必要なことかもしれません。
        しかしライオンは象を絶滅に追い込むことをしません。


        善悪の概念に勧善懲悪の意が含まれていることが問題です。
        勧善はまだしも、懲悪-悪は懲らしめられなければいけないという意識は問題です。

        悪と感じられる存在は、実は不調和なだけの存在です。
        調和する場に移すか、調和できるように整えれば良いのです。
        絶対的な悪も、絶対的な善も存在しません。



        原理講論には、絶対者である神が創造した被造物の価値は絶対的であるというような行があったと思います。
        場によって善にも悪にもなるような相対的な価値は、原理講論では否定されるように感じられます。

        原理講論に絶対的真理性を求められませんが、
        あえてこの文章との整合性を求めるなら、
        「絶対者たる神の被造物には予め絶対的な価値が付与されている。
        神は絶対的善なる存在なので被造物に悪なる価値を与えることはできない。
        ただし人間は、神から創造性を付与されているので、
        この絶対的価値の上に更なる価値を上乗せすることができる。」

        つまり、『善』なる被造物のはずの天使と呼ばれる存在に、
        『悪』という付加価値を与えたのも人間であると考えられます。


        しかし『悪』という価値は絶対的ではないので、
        これは元返すことが出来るのです。
        根本には『善』の価値が秘められているわけですから。

        | おーば | 天国の作り方 | 02:44 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        「天国の作り方−実存の哲学−霊の章」
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           少々勉強する必要があり、久々の書き込みです。
          手元が進まないときには何かが違っていることが多いと感じられます。

          さりとても、一応形になりましたので、ご案内していました「霊の章」をアップいたします。

          「天国の作り方−実存の哲学−霊の章」先行配布版PDFです。
          関心のある方は右クリックで名前を付けて保存して下さい。
          http://www.o-baka.com/download-heaven1-3pre/heaven1-3pre.pdf


          先にアップした「知性の章」「情緒の章」の続きになっていますので、
          分かりにくいかもしれませんが前章に目を通してからご覧いただければ幸いです。
          http://www.o-baka.com/download-heaven1-1pre/heaven1-1pre.pdf
          http://www.o-baka.com/download-heaven1-2pre/heaven1-2pre.pdf


          書き上げた傍からそれらは古いものになってゆきます。
          「先行配布版」としてあるとおり、
          そもそも不十分であることを承知しての公表です。


          現在、変人博士のブログとして「天国の作り方〜共同体の哲学」を進行していますが、
          私が想定していた流れとは少々違っているようです。

          人間の“体”と“知性”と“心”が成長する上で
          個人の次元では語りえないコミュニティとしての成長が必要と感じ、
          それが縦横の8段階にあたるものと、単純に解釈してスタートしました。
          ですから、概要として8段階の全体像を考察すべきと考えて
          文章にそのような流れを作りました。

          ところが、どうやら“彼”が現在語りたいことの中心は3段階目にあるようです。
          「少年期」としましたが、「養子圏」「氏族圏」にあたる部分です。


          そもそも私は何年も前から自分が書いている文章の全てが
          自分自身の考えだけで出てくるものだとは思っていませんでした。
          そこへ友人が「チャネリング」なることを始め、
          そのチャネリングによって、私のこともチャネラーだというから
          「チャネリング」とはそんなものなのかと視点を変えて自らの思考方式を見直してみた分けです。

          “彼”が語る言葉はけっこう断片的だったりします。
          その断片を拾い集めて全体像を探し出し、
          それをブログに書くのであれば、
          読む人に判りやすく柔らかい表現になるように練り直します。
          これが従来の作業でした。

          「チャネリングである」と言われた後から試みたのは、
          全体像が見えるか見えないかでキーボードに向かい、
          表現の練り直しをせずにストレートに書くことです。

          流れの良いときには一気に書き進みます。
          しかし、時には突然暴走したり、ピタリと止まったりします。

          これがどういうことかというと、
          「相対基準」が完全一致していない時なんです。
          構想自体はそれこそ20年も温め続けているものですから、
          (チャネリングだよと言われれば、かれこれ30年以上前から「これはそうかしら?」と思い当たるものがあるので…。)
          何か書き始めれば、おおよそこのことだろうと私も予測をします。
          その予測が正しくはまれば書き進むんですが、
          “彼”が語りたいことが全く新しいことだったりすると進まなくなります。

          その都度私は“彼”と格闘し、調べものをすることを余儀なくされます。
          以前にはお釈迦様の「初転法輪」の勉強をさせられました。
          キーワードを与えられたり、本を一冊与えられたり、人と出会わされたりです。

          「チャネラー」と呼ばれる人たちは、もっとストレートに対象と対話しているんじゃないのかな
          という印象を持ちますが、私のことを「チャネラー」だと言った友人も
          対象の霊とのやり取りにはいろいろ苦労があったようなので、
          これもいろいろなケースがあるのだと思います。


          友人のブログは「霊」との付き合い方を考える上でとても参考になりました。

          | おーば | 天国の作り方 | 15:03 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          「天国の作り方−実存の哲学−情緒の章」先行配布版
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            ようやくアップいたしました。
            「天国の作り方−実存の哲学−情緒の章」先行配布版PDFです。
            関心のある方は右クリックで名前を付けて保存して下さい。

            http://www.o-baka.com/download-heaven1-2pre/heaven1-2pre.pdf



            先にアップした「知性の章」の続きになっていますので、
            分かりにくいかもしれませんが前章に目を通してからご覧いただければ幸いです。
            http://www.o-baka.com/download-heaven1-1pre/heaven1-1pre.pdf


            どなたにもご覧いただけないかもと思いながら配布版を出しましたが、
            読んでくださった方があるのでとても嬉しいです。
            知性の章で分かりにくかった部分を情緒の章で補完できる部分もあるかと思います。
            知性と情緒は対になるところもあり、併せて読んでいただければと希望します。

            | おーば | 天国の作り方 | 22:24 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            「天国の作り方−実存の哲学−知の章」先行配布版
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               予告してありました「天国の作り方−実存の哲学−知の章」先行配布版PDFです。
              関心のある方は右クリックで名前を付けて保存して下さい。

              http://www.o-baka.com/download-heaven1-1pre/heaven1-1pre.pdf

              ご意見等いただければ幸いです。

              以下はPDFにも入れてありますが予定目次です。

               

              天国のつくり方

              序 幸福になりたい〜万民の幸福〜

              第一部 実存の哲学 
              一 知性の章《思考するフィールドと共通理解》
               1・思考と言語(思考のツール・コミュニケーションツール・共通言語)
               2・言語の仕組み(比較・分類・命名・固定・圧縮)
               3・言語の対象(肉体の感覚-センサー-・五蘊・感情)
               4・概念と観念世界
              (シニフィアンとシニフィエ・概念を組み上げる・理性・観念世界-記憶-人格・整合性)


              -以下書きかけ-

              二 情緒の章《価値決定の要》
              1・情緒の位置と対象(想蘊というフィールド・五蘊と二性性相図)
               2・快と不快(快によるエネルギー)
               3・成長する情緒と情緒の優位性
              (公共心と公共意識・情緒の優位性・本能〜感情〜愛・肉体〜知性〜愛)

              三 霊の章
              《共通体験が困難な為、仮説的にしか表現することが出来ませんが意識して下さい》
              1・現象学の視点(精神と延長)
              2・お釈迦様の説(五蘊非我-情緒と理性-)
              3・想蘊の同乗者
              4・輪廻転生と再臨協助
                


              −以下構想中−
              第二部 共同体の哲学
              個体の成長のために(共通言語・共通知性・共通法---共生・共栄・共義・共感・共知)
              共通体験・共通認識・共通言語・共通概念
               力の原理(闘争、争奪)・理性の原理(正義−平等、権利、貨幣経済)・愛の原理(一致調和の接着剤)
               前文明期・文明期−化学文明・精神文明−宗教文化

              成長に応じた行動圏・意思〜コミュニティ
               他者を認識しない自己中心      僕の僕---個人
               他者を認識した上での自己中心    僕---家庭
               他者の人格を認める兄弟・友人関係 霊的他者との関係   養子---氏族
               特定異性との関係          庶子---民族
               顔と名前の一致する共同体参加    実子---国家
               同一言語圏             夫婦(母)---世界
               全人類               父母(父)---天宙
               全環境               神---神
              失われた真の父母(成長を促し保護する存在)〜アダルトチルドレン問題
              父母は権威であろうか?愛であろうか?
              力の権威・理性の権威・愛の権威…これ等は存在しえる?…あくまで知性的判断。

              ※一部統一思想的表現を引用しますが、著者の解釈による表現の引用であり統一教会の公式見解および「みことば」による裏づけを持つものではありません。

              第三部 創世
              無から有へ(無とは?〜カオス〜)
              分割〜分かる〜一人称と二人称
              第三点〜運動と時間の始まり
              無形世界から有形世界へ(イメージだけの世界を実体化するとは、安定を目指すことである)
              有形の意味〜共有すること〜チャンネルが合うから観測できる。共通チャンネルを開くことによって共通体験があり、概念共有が可能になる。フィールドを共有できる。
              世界と観測者の絶妙なるバランス。設計。

              | おーば | 天国の作り方 | 18:54 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
              愛の話(メモ)
              0

                愛は一致することと私の中では確信に至っています。
                と、いうよりはそのように定義したとも言えそうです。

                愛していますと言うのは、
                一致による調和を喜んでいる状態
                または、一致による調和を望んでいる状態。

                愛の反対は無関心か憎しみか?

                無関心は一致を見出していない状態。
                憎しみは一致することが疎ましく思える状態。
                …どこかが一致しているから憎いと思うんです。

                人間複雑だから一致する部分がある相手にも
                完全一致ではなく部分一致でしかないなんて事があります。
                そうすると不一致部分がどうにも気持ち悪いんです。
                パズルのピースの似ているけれど違うものを無理矢理押し込んだような感じ。

                歪んだ愛で横恋慕して憎しみに変貌していくのは不一致をきちんと認識しないでごり押しすると起こります。
                愛しているから憎さ百倍。




                ここのところハードワークでくたびれ気味…。
                ブログ記事やあちこち書き散らした文章をまとめて
                『天国の作り方』と題してレポートを作っています。

                第一部 実存の哲学
                 一 知の章
                 二 情の章
                 三 霊の章

                現在、知の章は大方できたけれど情の章が難航中。
                第一部を書き終わったら第二部として『共同体の哲学』としてブログの方でも展開したいと思ってます。
                実存の哲学がまとまったらPDFにしてダウンロードできるようにしたいと思ってます。
                「ればたら」だから怪しいですね。
                知の章だけ先行して出そうかしら…。

                | おーば | 天国の作り方 | 12:34 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                言葉の違い・行き違い
                0

                  分かるっていう機能はとてもとっても個人的な出来事でしかありません。

                  分かろうとするものや出来事が、
                  その人の過去の経験(実体験ではなくても見たり聞いたりして分かっていると思っていること)と矛盾無く合致すれば分かったことになりますし、
                  矛盾すると感じれば分からないんです。
                  分かったと思っていてもどう分かったかは必ずしも一致しません。

                  天国人と地獄人の違いも過去の経験や知識の違いで千差万別の意見が出るようになります。

                  多くの宗教団体では組織内で言葉を統一をしてこの基準を固定化しようとします。
                  組織の中では意見統一するようにしちゃうんです。
                  これは組織の団結や統率を図る上で必要になるみたいです。
                  もっとも、構成員の一人一人の理解力もまた千差万別と言うことになりますから言葉では一致できても内容の一致はそうとうに難しいことです。


                  これでは人間同士が分かり合うことが絶望的に感じられますが、
                  問題を踏まえたうえで語り合うことで互いの溝を埋められる可能性はあると思います。
                  なぜなら人は人としての感覚を共通に持っているからです。

                  前回の記事に書いたデカルトさんは、「感覚はまちがう」と言ってましたが、
                  感覚が間違うことはありません。
                  間違うのは、感覚した内容が何であるのかを判断する理性の方です。
                  感覚は感覚するだけですから正しいも間違いも無いのです。

                  私たちは日常生活の中で、人間同士の体のつくりや機能が良く似ていることを確認しあっています。
                  同じつくりのものであれば同じように機能することは容易に想像できます。

                  一緒にきれいなものを見れば感動を共有できます。
                  一緒においしいものを食べれば喜びを共有します。
                  一緒に楽しく遊べば思い出を共有できます。
                  苦労や痛みも同様のことが言えます。
                  共有した体験にまつわる言葉はお互いに共通の言葉になるでしょう。

                  「同じ釜の飯を食う」と気心が知れるというのです。
                  同時に言葉も通じ合うのです。

                  私たちは幼い頃から母国語を学びます。
                  これは日常生活に根ざした経験を通じて経験の一つ一つの名前を覚える作業です。
                  付けられる名前は予め大人たちが付けてありますから、
                  子供たちは名前を覚えるだけです。
                  ここで覚えた名前が最初の概念と観念世界形成の土台になるのです。

                  関東で「てんぷら」と言えば魚や野菜に小麦粉を水で溶いた衣を付けて油で揚げた料理をさします。
                  九州辺りでは「てんぷら」と言うと魚のすり身を油で揚げたものを指すようです。
                  これはその土地での習慣が人々の間での共通した体験であるから土地ごとに名前の中身が変わるのです。
                  「てんぷら」という名前の概念が違うのですが、最近では情報化のおかげでこのような習慣上のギャップもずいぶんと埋まってきたようです。
                  埋まるのです。


                  しかしながら、生活上の言葉の違いは克服しやすいものなのですが、
                  見たり触れたりできないものについての言葉はなかなか共通化するのが難しいようです。
                  過去の宗教・思想・哲学でも、実は表現する言葉の違いで争うことも多いのではないでしょうか?

                  | おーば | 天国の作り方 | 17:54 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
                  分かるということ
                  0

                    天国人、地獄人、人間について分かってないから違いなんて分からない。

                    そもそも、「分かる」ってどういうことなのか?
                    書いて字のごとく「分ける」んです。
                    黒と白を分けたり、男と女を分けたり、食べられるか食べられないかを分けるんです。
                    解ったり判ったりもします。
                    解るのはバラすことです。
                    その存在を要素ごとにバラしてその一つ一つの違いを見つけてゆくのです。
                    そして判断するんです。
                    判るという文字は判断とか、判別というふうに使いますが、
                    これも刀で半分にすると書かれています。
                    断も別も混ざっていたり元々一つだったものを分ける事を意味します。

                    人間というくくりのなかで、
                    生殖器の種類を見分けて男と女に分けます。
                    人間の構造を見て霊と肉の部分に分けます。
                    これはもっと一般的な言葉を使えば心と体という表現になります。
                    「我思う故に我在り」という有名な言葉を残したルネ・デカルトさんによれば
                    広がりと延長を持つものが体(客観世界)で、そうではないものが心(主観世界)だという説明です。

                    こんなふうに分けたものには「名前」を付けて整理分類しているのが人間の思考回路です。
                    一個一個には先のデカルトさんのように言葉による説明がついています。
                    分類して名前や説明を付けた一つ一つは「概念」と言われます。
                    概念は個人が色んな経験をした内容で増やしてゆくことが出来ます。
                    つまり概念の量と内容には個人差が有ります。
                    「クマ」と言われてリアルなヒグマを思い出す人、プーさんを思い出す人、テディベア、北海道の木彫りの置物を思い浮かべる人も有るでしょう?

                    人はこういった「概念」のピースを組立てて独自の「観念世界」を組立てています。
                    組立てるのにはルールが有って、相互に矛盾してはいけません。
                    うっかり矛盾することもありますが、矛盾した内容を見たとき
                    人は「解らない」と言うのです。

                    解らないことについての対処は人それぞれで、
                    必死になって考えて整合性を合わせようとしたり
                    大した問題ではないから横において後から思い出して考えたり、
                    そのまま忘れてしまったり…。

                    これまでの人生経験の中で組み上げてきた観念世界の中に、
                    矛盾無くぴたりと収まることを人は「わかる」と言うのです。

                    天国人と地獄人をどうやって分けるのか
                    どこに違いを見出して分けるのか?
                    (もっともこんな区分さえ意味を持つかどうか解りませんが)
                    外見では区別できなさそうです。
                    天国人の条件に、容姿端麗なんて項目があったら私はかなり困ります。
                    キリスト教の洗礼を受ければそれが分類条件でしょうか?
                    統一教会の祝福を受けることが分類条件でしょうか?
                    これらは外観には関わりません。
                    天国について唯一外すことが出来ない条件があります。
                    それは幸福な世界であること。
                    幸福に暮らせる人が天国人。
                    不幸せから逃れられないのが地獄人。
                    幸福を感じるのはどこでしょう?
                    心です。

                    心と霊とは同じものを指しているように思われます。
                    ただ、霊と表現すると死んでしまった人の事を指すことが多いようです。
                    生きている今幸福を感じることが出来ない心が
                    死んであの世で幸福を感じることが出来るのでしょうか?
                    洗礼や祝福を受けたその時はとても喜ばしく感じるかもしれません。
                    が、一生涯を通じてその喜びを維持することは難しいようです。
                    何故でしょう?

                    心について知らなければ答えは出て来そうにありません。

                    | おーば | 天国の作り方 | 16:20 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    天国人と地獄人
                    0

                      本質的なところを少し書ければと思います。

                      昨日、地獄を撤廃しなくっちゃと書きましたが、
                      これが実現できればそこそこ良い世界になると思うのです。

                      ところで地獄とはどんなところなのでしょう?
                      天国ってどんなところなのでしょう?

                      皆色んな意見考えがあると思いますから、
                      それだけでも一つのイメージにまとめることは難しいでしょう。
                      ある人がこんな世界があればそこが天国だと言っても、
                      同じイメージを指してそんな世界は地獄だとも言うでしょう。

                      長い箸のような話もあります。
                      天国も地獄もそれは同じところで
                      そこではみんなでご馳走を囲んでいます。
                      それぞれが持つ箸はとっても長いものなので
                      自分で自分の口に食べ物を入れようとしてもこぼれてしまうばかりなので
                      ご馳走を目の前にしながらもお腹を空かせていなければならないこれが地獄。
                      一方、自分の箸で他の人の口に食べ物を運んであげようとすればそれは容易く、
                      お互いに仲良く食べさせあえば楽しく満腹になると言い、これが天国。

                      年がら年中食べ続けるのもどうかとは思いますけど、
                      同じ環境にあっても幸福になれる人と不幸せになる人とに分かれてしまう例。


                      極論ですが、争いや苦痛に満ちた一般に言われる地獄のような環境の中で幸福を感じる事が出来る人もある分けです。
                      これは2パターンに分けられます。
                      一方は争いや殺戮を好む鬼や悪魔のようだと言われる人。
                      一方はどんな環境にも希望と喜びを見出して心から感謝できる人。
                      (こんな人はほとんど居ないですね)

                      前者は他の人からはとても嫌われる存在になってしまいます。
                      嫌われると言うことは行った先で追い出されてしまうようなこともありますから
                      自由度が下がります。狭い世界に留まらなければなりません。
                      後者は大概のところで歓迎を受けますから何処へでも自由に行くことができるでしょう。
                      自分の好むところへ自由に行くことができるのも普通に求められている幸福です。
                      自由に何処へ行くこともでき、何処へ行っても幸福で居られる。
                      これが天国人ではないかと思うのです。
                      勿論、彼は長い箸の宴会場もOKです。

                      天国地獄は環境の問題以上に人間の方の問題が大きいのです。

                      その上で多様な世界でなければなりません。
                      一様な世界であったら、そこに個性を発揮する機会がなくなってしまうからです。
                      そして苦痛の大きな世界に閉じ込められるようなことも
                      あってはならないでしょう。



                      天国人と地獄人はどこが違ってくるでしょう。
                      見た目には大差は無いと思われます。
                      地獄人が居る限りは地獄は撤廃されませんが
                      「あなたは地獄人だから天国人に変わらなければいけません。」
                      などと言えばそれこそ余計なお世話ですし、
                      言われて変わるものではありません。
                      そしてそんなことを言う人自身も天国人には至っていないでしょう。
                      相手を地獄人とは言わないまでも、罵るときには、
                      多くの場合その人を嫌いだからと言うことが多いのです。
                      そもそもそんな区分をする権限が誰にあるのか?
                      過去に多くの宗教がそこを区分して来ましたがどの宗教も地獄の撤廃はしませんでした。
                      実は天国と地獄、もっと言うと天国人と地獄人の何処が違うのかは本当のところ誰も分かっていないのではないでしょうか?

                      違うところが分からないのは、
                      そもそも人間の何たるかを分からないからなのでしょうね。

                      | おーば | 天国の作り方 | 17:06 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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