おーばのつぶやき

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
霊と肉
0

    霊的存在についての理解が、あまりに観念的で、
    いたずらに恐れる傾向が強いように思います。

    神様も、天使もサタンも、存在するのであれば全て霊的存在であるはずです。

    霊に対する理解不足が恐怖信仰につながります。


    霊についてはこれまでもいく度か書いてきていますが整理する試みをしたいと思います。

    一応、過去の関連記事↓
    http://blog.o-baka.com/?cid=18
    http://blog.o-baka.com/?cid=20



    堕落論批判で表明しましたが、私は創造原理は支持する立場です。
    殊に、性形二性性相、陽陰二性性相、正分合作用、授受作用と四位基台に関わる部分が見事と感じます。
    それは、人間の思考方法と一致していると思えるからです。

    分かるという事は、見分けられる、聞き分けられるということに他なりません。
    何を持って分けるかというと、
    それが陽陰であったり、性形であったりするのです。
    ここでは、霊という存在を人間存在の一部分であるという前提で、
    分析的に考えて見ます。


    性形二性的人の構造


    人間は霊肉の存在ですから地上に生きる私たちの中にも霊的部分があるということです。
    霊と肉で出来ているなら、肉に属さない部分が霊ということになります。
    肉に属さないと言うのはつまり心です。
    精神と呼んだり魂と呼んだりもします。
    心と呼ぶと、情緒だけを考える場合もありますが、ここで心は知情意の全てを意味します。
    それら全てが霊であると考えることが出来ます。



    肉体が滅ぶことを死と呼ぶならば、
    肉体に属さない知情意はそのまま残るということになります。
    肉体を失うということがどういうことかは
    肉体の機能を考えれば理解できるはずです。
    引き算して想像してみるのです。

    ちなみに、輪廻転生説によれば、死後に記憶を手放すとされます。
    これは、転生してきた存在であるはずの私に過去世の記憶が無いことに由来するものと考えられます。
    一部には、記憶を失うのは地上生活の間だけで、
    霊界にあるときには全ての記憶を持っているとする説もあります。

    私は、転生説はとらず、再臨協助説を支持しますので
    記憶は失われないと解釈しています。
    (再臨協助説を採用する根拠↓)
    http://ameblo.jp/albert-o-baka/entry-11814801139.html



    肉体の機能について考えてみましょう。

    私たちは肉体に備わる感覚器官を通じて物理的世界を感覚して心に味わいます。
    その内容から様々な喜怒哀楽を得るのです。
    また、肉体を用いた様々な表現(会話やパフォーマンス)を通じて他者とのコミュニケーションを持ちます。
    肉体そのものを維持するための行動もします。
    肉体の機能とは、その維持を考えなければ、
    心に対する入力(インプット)と出力(アウトプット)であることが理解できます。

    このインプットとアウトプットについては
    お釈迦様の説かれた『六入』『六境』『六識』および『五蘊』をお借りして解説してきました。

    五蘊入出力図



    大きいサイズのPDFファイルをリンクしますので参照してください。
    http://www.o-baka.com/goun-in-and-out.pdf


    五蘊とは人間存在を分析したもので、以下の五つで構成されます。
    また、この五蘊が人間の認識行程を表すともされ、
    上の図は、インプットとアウトプットの行程を私が図式化したものです。

    色蘊 色かたち、つまりは身体…肉体
    受蘊 感受作用…感覚
    想蘊 識別作用…認識
    行蘊 記憶・意思などの作用
    識蘊 判断作用…概念・観念

    目(色蘊)で光を捉え(受蘊)、
    存在の色形そのものを味わい(想蘊)
    その情報が、花なのか、動物なのか、はたまた人なのかを分類(行蘊)し、
    知っているものなのか、知らないものなのか、どのように対処すべき対象であるのかを判断する(識蘊)。

    という流れです。
    図中で『自己』としてある部分は情緒であり、欲求と解釈していただいて良いでしょう。

    六入というのは “意”“身(皮膚)”“舌”“鼻”“耳”“眼” です。
    これらは“意”以外は色蘊に属する部位です。
    “意”についてはアウトプットサイドと考えられます。
    つまり、インプットするためには色蘊(肉体)が必要であるということです。

    そして、六境というのは “法(思考対象)”“触”“味”“香”“声”“色”です。
    これらが現れるところが想蘊です。 
    “法(思考対象)”は“意”に対応するものです。

    最後に六識で、“意識”“身識”“舌識”“鼻識”“耳識”“眼識”。
    聞きなれない言葉ですが、六境が識蘊に貯えられた記憶をこのように表現したようです。

    当然の事ながら、生まれつき目が見えないというハンデを負っていた場合、
    “眼識”は形成されず、耳が聞こえなければ“耳識”は形成されないということになります。
    そのような記憶を持てないということです。

    肉体を持つことによって六入と六境が形成されるということです。
    肉体を離れるとこれ等を得ることが出来ません。
    肉体を離れて持ってゆける財産は六識ということになります。
    霊の外形はこの六識によって決定するのではないかとも思えます。



    では、肉体を持たない霊はどのように地上に生きる人間に関わるでしょうか?
    五蘊のうち、色蘊と識蘊は個人のアイデンティティに関わる部分ですから
    直接の干渉は難しいと思えます。
    受蘊と行蘊は個人が発する作用力と考えられますので、
    他者が発する場合には、別な流れとして現れるでしょう。
    残されるのは想蘊です。

    想蘊に現れる六境を共有することが考えられます。

    前述の“眼識”“耳識”等を形成できなかった霊も、
    再臨することによってこれらを獲得することが可能ではないかと思われます。

    もっと言えば、肉体を持ったことの無い霊、神様も天使も、
    人間の肉体を通じて初めて地上世界の森羅万象を堪能することができたと考えられます。
    神様はご自身で創造されたにも関わらず、
    肉体の感覚器官をもって感得できる世界はやはり肉体を通じなければ得ようがないのです。
    地上世界を創造された動機もこのように考えると明確になります。


    肉体をマジンガーゼットやガンダムのような巨大ロボットだと想定してみてください。
    これらには必ずコックピットが存在しています。
    コックピットには操縦に必要な機器があると同時に、
    外界や、マシンの状況を知るためのスクリーンやスピーカー、メーターなどが装備されます。
    空調設備もあるでしょう。
    このコックピットが一人乗りではなく、大型のバンのように何人も乗れる状態であれば、
    再臨した霊は助手席や後部座席で地上人と同じ経験をすることができます。
    ここで重要なのは、操縦桿を握るのは地上に生きる私であるというところです。

    助手席や後部座席から色々と助言や注文が聞こえてくるのですが、
    その言葉に従うべきか否かは、操縦桿を握る本人が決定しなければならないということです。
    これらの言葉はインスピレーション・閃きとして受け止められるものです。
    中には、プロジェクターを持ち込んで、映像や音声を聞かせる霊もあるかもしれません。
    これは協助霊の性質や、受けとる人の感性によると思われます。


    ところで、脳科学と呼ばれるものが流行っていますが、
    脳科学では心は脳の産物と考えています。

    心が脳の産物であれば、心は肉体に属するもの、肉体に依存するものということになります。
    この説で考えると肉体の死後霊も滅ぶことになるか、
    霊的存在とは、地上に生きる私には全く認識不可能なものということになりますね。

    確かに、脳と心の関係は密接です。
    心理状態が脳波や脳の血流、脳内物質の分泌と連動しているのは確かなことなのだと思います。
    しかし、現代脳科学では、連動していることを証明できても、
    脳によって心が動くのか、心によって脳が動いているのかは証明できていないはずです。

    化学物質が心に影響を与える現象ははありますが、
    そもそも心は肉体からの情報に一喜一憂するようになっており、
    脳は人体のコックピットにもっとも近いところにあれば、
    そこに与えられた刺激が心に強い影響を与えることも何ら不思議なことではないと思います。

    逆に、心と脳の関係の強さは、
    心の状態が肉体の健康状態に影響することも予想させます。
    脳は肉体をコントロールする中枢であることは間違いありません。
    個人の心の状態を反映するのは当然ですが、
    想蘊に於いて他者の霊の言動が
    地上に生きる人間の肉体に影響を与えることも考えられるということです。

    | おーば | 考察 | 00:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    memo:エントロピー増大則
    0

      エントロピー増大則は正しくないという論を過去に書いています。

      エントロピー増大則は、
      単に多く持つ者が待っていない者に分け与える原則を表していると考えると
      これは授受法に沿うものとなる。

      熱エネルギーで考えるなら、
      エネルギーが移動するだけなのだけれど、
      人の感情が絡むときには、
      受けたものは感謝の意を表することが出来る。
      そこには喜びがあり、発展の力が新たに生まれる。

      | おーば | 考察 | 22:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      理性的行動と情緒的行動
      0
        我慢してでもやるのが
        理性的行動。

        喜んでやるのが
        情緒的行動。


        書いてみたら単純なこと。
        | おーば | 考察 | 18:14 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        再臨協助と輪廻転生
        0

          堕落があったかなかったか?
          あったと思う。
          だけど堕落の内容がどんなもので、原罪が遺伝するという表現は難しいと思う。

          人類は堕落によって真の父母を失ったという表現は良いと思う。

          真の父母がどういう存在か、
          少なくとも文鮮明夫妻は真の父母としての権能を果たすことは出来ていない。
          それは罪の無い真の子女を残すことが出来なかったから。

          それは実子にもカイン圏の子女にも言えること。

          真の父母は真の愛を子女に指導し、人生を導く。
          そんな存在であるべきではないかと思えるのです。


          ツインソウルとかソウルメイトなんてあるんだろうか?
          これは輪廻転生が大前提だからそこから考えないといけないんだよね。
          輪廻転生と再臨協助のどっちが真実か?
          私は再臨協助派なんです。
          再臨協助ではツインソウルは成立しないように思える。
          だけど輪廻転生と再臨協助も同じものだと考えることが可能なことに気づく。
          “私”という存在をどう定義するかで輪廻転生も再臨協助も成立する。

          再臨協助で考えるならツインソウルなんて考えられないと思うのが素直な考え方。
          協助霊同士がかつて夫婦だった結びつきの強い霊だと考えることは可能。
          協助霊と私との関係がとてもとても強いものであればその影響を受けて恋をすることも考えられます。
          また、霊的協助も強く受けられますから円満な関係を築くこともできます。
          協助霊というのがころころと入れ替わるのではなくて生まれたときから生涯同じ霊が居るのならば
          私の成長自体に大いに影響するわけですから
          私と彼(協助霊)は一体不可分で人生を経験するのです。
          ただ、私の記憶は私の生涯の記憶しかありませんが、
          彼の記憶は私の生涯プラス過去に何度か協助してきた人生の全てと考えられます。

          UCでは、私の好みは先祖の好みだから
          同じ因縁を繰り返すだけだから蕩減復帰には繋がらないといっていた。
          過去に積み上げたもの全てが罪悪と決めているので。
          勿論よからぬものも沢山あったと思うけれど良いものも沢山合ったのではないかと思うの。
          見極めることなく全部を決め付けてしまったのね。


          霊という存在が、地上に生きる私たちの存在のように
          一個体一個体明確に区別できるものであるとは限らないと感じたのです。
          だから霊界へ行った後に彼と一緒に行動することも別々に行動することも出来るのではないかしら?


          人類始祖の時には、天使たちが協助霊としての役割を担ったのでしょう。
          天使と言う存在がいかようなものなのかも私たちは実は良く知らない。
          「サタンの正体は天使長ルーシェルだ」と言って
          その正体を知っていると思うのはなんておかしなことでしょう。


          最近はアセンションとか、後天時代とか、そんな話題が多いから、
          罪とか堕落の問題はそれほど取りざたされない。
          最後の審判でしょうか?
          別段変わるなら変われば良い。
          私は私の最善を尽くすのみ。

          文章に取り止めが無いのは風邪を引いているせい?

          | おーば | 考察 | 17:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          現象学的視点に立ち、構造主義的手法による、実存の哲学の試
          0

             私がやっていることは
            統一教会批判・検証をする人たちの多くとは違い、
            原理やみ言葉の検証、教会組織の実態の暴露ではありません。

            『現象学的視点に立ち、構造主義的手法による、実存の哲学の試』です。
            宗教に携わる人に分かりやすい言葉を使えば『思考を伴う瞑想』と言っていいでしょう。
            これはお釈迦様の瞑想方法を表現した文章に見つけました。



            現象学とは…(コトバンクよりhttp://kotobank.jp/word/%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E5%AD%A6
            フッサールは、諸学問に根拠を与える「基礎づけ」の学として現象学を構想した。
            真・善・美という意味や価値の本質、
            また広く精神や文化に関する問いは、自然科学を中心とした実証的な学問では扱えない。
            それゆえフッサールは、実証的な学問についても、
            意味や価値を扱う学問についても、それぞれの成立根拠と範囲を明確にしようとしたのである。
            現象学はあらゆる学問・認識の根拠を個々人の主観における妥当(確信)に求める。
            これは、客観的な世界の存在を当然視する素朴な見方を根本から変更するものだった。
            この態度変更を自覚的に行うことが「現象学的還元」と呼ばれる。
            客観的な世界がある、とする私たちの素朴な態度をいったん停止して、
            そのような妥当が生じる条件や理由を自分の意識の内側に探っていくのである。
            現象学的還元を通じて、フッサールが主に行ったのは、
            事物知覚の本質構造の記述であり、
            自然科学が土台とする客観的世界の妥当が成立する普遍的な(誰にも共通するような)条件を探ることであった。
            普遍的な構造や条件を取り出し記述することを現象学では「本質観取」という。
            この方法は、自分の経験を見つめ、そこから善、美、自由、正義といった
            人間的な諸価値の普遍的な意味あいを取り出す試みでもあり、
            その方法的意義は現在も失われていない。
            ( 石川伸晃 京都精華大学講師 )

            構造主義とは…(はてなキーワードよりhttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%B9%BD%C2%A4%BC%E7%B5%C1
            非常に簡単に表現すると、「人間の現実把握や思考は、その個人が所属する構造に規定される」と言うこと。
            「所属する構造」には民族、言語、国家、社会的階層などがある。
            この事実を理解することにより、自己の判断を客観化するのが「構造主義的な考え方」である。
            「〜の人たちにとっては大変なことでしょう」などの考え方がこれに該当する。

            実存の哲学とは…(コトバンクよりhttp://kotobank.jp/word/%E5%AE%9F%E5%AD%98%E3%81%AE%E5%93%B2%E5%AD%A6
            個の生を中心テーマに据える哲学を「実存の哲学」と呼ぶ。
            マルクス主義が歴史の発展というモデルをもとに社会が進むべき大きな見取り図を描いたのに対して、
            20世紀の実存の哲学は、キルケゴールやニーチェの哲学の影響のもと、個としての生き方に注目し、
            ひとりの人間が生きるうえでの可能性を問う。
            ヤスパースと共に実存の哲学の代表的思想家とされるハイデガーによれば、
            人間存在(「現存在」と呼ばれる)は、絶えず自分自身のあり方を気遣うような存在であり、
            事物存在とは本質的に異なっている。
            こうした人間特有のあり方が実存と呼ばれる。
            ハイデガーは、この実存の構造を被投性(ある状況のなかに投げ入れられていること)と
            企投(ある可能性をめがけること)といった用語で分析した。
            またサルトルは、企投は政治的ことがらへ向けられるべきだとするアンガージュマンの思想を打ち立て、
            自分の思想的立場を「実存主義」と呼んだ。
            これは、実存的な生き方の問いを社会参加に接合する試みであり、
            やがて、マルクス主義と結びつくようになる。
            ( 石川伸晃 京都精華大学講師 )


            こういう表現で分かる人も少ないと思います。
            マルクス主義に結びつく思想であるところに危険を感じる人もあると思いますが、
            私の思索はこれを批判する方向に展開しています。


            これまでの言語学への考察、こころの在り様についての考察もこの方法によります。
            自分勝手なデタラメをまとめることも出来るかもしれません。
            しかし、神への祈りと信頼を持って自己を分別しながら作業することで
            良い結果にたどり着くと信じます。

            | おーば | 考察 | 13:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            情緒の成長過程について-2
            0

               情緒の成長の段階を書いてみたけれど
              その段階をどうやって越えてゆくのか?

              公共意識と公共心のバランスの問題です。
              8月の記事「宗教と科学・情緒と知性」で書いた内容です。
              知性=公共意識、情緒=公共心なので、
              先行する公共意識に公共心が追いつかなければいけないのです。
              追いつくことが出来れば情緒は知性よりも強いエネルギーを発揮するので
              情緒の主導の下、
              個人は喜びに生き、他者との円満な関係を築きます。

              公共意識に見合う公共心があれば、
              知性は情緒を押さえつける必要がありません。
              公共心が公共意識に追いつくことが出来ないので、
              公共意識、即ち知性は情緒を抑える方向に働くのです。
              しかし、元々情緒の方が強いエネルギーを持っているものですから
              これを押さえ込むには相当な苦労が求められるのです。
              これは幸福とは程遠い状況です。


              成長の最初の段階は肉体的発達によって越えて行きます。
              知的には、自身の肉体と外界との差異を認識したところでこの段階を越えて行きます。
              情緒的にも同レベルですから、他者の感情を感じ取ることで越えたと言えるでしょう。
              意識として他者を認識していても、他者の感情を認識しない大人も存在します。

              次いで認識した他者を想う情緒が芽生えます。
              愛情を注いでくれる相手を好きになり、
              その好意を相手に示すこと。
              好きという情緒は当然喜びであり、多くのエネルギーを生み出します。
              その後の情緒成長の原動力になるのです。
              これは親から無条件に愛が注がれていることを前提とします。
              アダルトチルドレンというのはこの段階で愛情をよく受け取ることが出来なかった人で
              以後の情緒成長のエネルギーを得ることが出来ません。

              友人、兄弟との関係は一方的に受け取る関係ではありません。
              対等な関係の中には好き嫌いも発生します。
              好きな相手との情緒的関係は前の段階で超えていますので、
              ここでは嫌いな相手との関係が問題になります。
              嫌いな相手との関わりの中で認識が拡大します。
              互いの事情を知って差異を受け入れあう柔軟な情緒が必要になります。
              それは保護者からの願いに応える形で成長します。
              個々人の間の距離感の差も生まれます。
              差異の中にも共通性を見出す感受性、許容力、社会的秩序を求める心。
              アイデンテティが確立されてゆきます。

              異性との関係は、肉体的・社会的性の差異を持つ二つのアイデンテティの確立が前提になります。
              男性らしさ、女性らしさについて語ることは膨大なことになりますから又の機会にします。
              ただ、二者は互いを補足しあえるものです。
              前段階で差異を許容できる情緒が成長していなければなりません。
              前段階で築かれた人間関係を大切に感じる心があれば、
              更に外へ向かうためにプラスになる関係性を求めるようになります。
              自分と似ている、好いてくれるから、という内向きなだけの動機にはなりません。
              これは前段階までの成長がそのようにさせるのです。
              相手が「誰」だからという問題はここでは分かりませんが、
              お互いの情緒がどれだけ成長しているかは大きな問題になると思われます。
              成長した情緒であればふさわしい相手を見出す可能性が高くなると思われます。

              男女の一致によって個人で居るときよりも安定性を持ちます。
              家庭を運営する立場に立ちますので、生活を支えあうコミュニティへ参加するようになります。
              女性的協調性、男性的競争心を調和させることによって平和的な向上心を発揮します。
              (勿論個体差はあります)
              身近なコミュニティを支え、発展させる核となってゆきます。
              この時、兄弟・友人との情緒関係が基礎となり、
              その発展的延長線上にコミュニティ構築が動機付けられます。
              しかし、情緒的成長が成されなければコミュニティでの責任は面倒な義務としてのしかかり、
              できれば避けたいと考えるようになります。

              ここから次の段階に進むためには
              コミュニティ全体を自身のことと思うことが出来る公共心が必要になります。
              これは相似形合流合体的な調和の愛を経験することで可能になります。
              基本は兄弟・友人との情緒関係であり、それを築くための親子関係の情緒となります。
              この情緒的成長をせずに異性との関係を求めると男女一対一の関係に振り回されかねないのです。

              世の中には理想的な親子関係ばかりではありません。
              出会う人たちの全てが良好な情緒的成長を遂げている人ばかりではありません。
              しかし、親子関係がよくなかったら人生の全てを棒に振らなければならないでしょうか?
              それでは夢も希望もありません。
              親子関係に問題があったとしてもそれに変わる師弟関係などで疑似体験を持つことが可能です。
              幼少期の兄弟・友人関係よりも難しいことが多いですが、
              大人になったからと言って友人を作ることが出来ないわけではありません。
              多くの人たちが精神の修養のために努力しています。
              自分自身の成長の段階を理解した上でどんな努力が必要なのかを考えなければいけません。
              多くの場合は前の段階の情緒的成長が出来る前に
              次の段階以上の課題に取り組んでいるのではないでしょうか?

              | おーば | 考察 | 17:33 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              情緒の成長過程について
              0

                 情緒は成長しなければならないと書きましたが
                一体どんな風に成長できるのでしょうか?
                私自身十分な成長をした人間ではないので
                あくまで想像でしか書くことは出来ません。
                内省を通じて必要と感じられる世界を書いてみます。


                  情緒の成長の重要な一面は公共心の拡大にあります。
                平易な言葉で表現するなら「思いやり」と言えるかもしれません。
                他者の喜びを喜ぶ心であり、他者の悲しみと共に悲しむ心です。
                公共心は公共意識と違い、守るべき約束ではなく守りたいものです。
                守ることによって心が嬉しいのです。
                公共意識は打算的です。
                「その様にする」ことが社会秩序を守ることであると考えるので、
                私の利益が社会の安寧の上にあると考えるので、
                「その様にする」ことが私の利益と感じられて「その様にする」のです。
                又、ルールを守らなければ「私」が仲間はずれにされるので、
                公共のルールを守ると言う意識なのです。
                勿論、日々そんな風に考えている訳ではありませんが、
                考えてみるとそうなのです。
                しかし公共心は約束を守ると誰それからの評価が良くなって嬉しいのではなく、
                喜ぶ他者を感じて嬉しく思う。
                たとえ直接ありがとうと言われなくても嬉しい。
                誰でも好きな人が喜ぶと嬉しくなります。
                しかし、この時も、
                他者が自分を評価して喜ぶことばかりを望むのではなく、
                純粋に、他者の喜びを自分の喜びとするのです。
                自分の子供が喜んでいる姿は無条件に嬉しいです。
                そんな相手が身近な人ばかりではなく遠くの人・存在にまで多く拡大されることが公共心の拡大ということです。

                 又、別な側面に、感受性というのも挙げられます。
                どんなに広い公共心を持っていても、
                相手の心を感じ取れなければ喜びを感じることが出来ません。
                感じ取るにしても、
                具体的に言葉に表現されたものだけを感じ取れる心と、
                隠された心を感じ取る心ではその精度が異なります。
                この感受性が育っていなければ独りよがりに奉仕を押し付け独善的になり、正しく公共心を培うことが出来ません。
                この感受性は他者との共感により培われるようです。
                相似形合流による一致の調和がこの感受性を培います。
                個人的な喜びを身近な人に否定されると悲しくなります。
                しかし、共に喜んでくれた時、それは快の経験として記憶され、情緒はエネルギーを発します。

                 公共心は情緒の量的成長、感受性は質的成長とかなえることが出来るでしょう。


                 生まれたばかりの赤ん坊は肉体的にも知的にも情緒的にも未発達なので
                意識も心も自己の世界にとどまり、外界を認識しません。
                外界からの働きかけは快い状況か、不快な状況かとしか感覚しません。
                究極の自己中心状態です。

                 感覚的な経験を繰り返すうちに、経験は記憶を蓄積しやがて
                自己と他者を認識するようになります。
                それは認識しても受身一方ですが、共感を通じて他者の情緒を理解することが出来るようになります。
                知的にはこの時から言語の獲得が始まります。
                ここでの他者は保護者ということになりますが、
                この時に問題が起こると「アダルトチルドレン」という状況に入ります。

                 一方的に与えられる状況から、対等な他者との関わりが始まります。
                これは、兄弟または友人との関係で世界が大きく広がってゆきます。
                最初の段階を点のような存在、二番目の段階を縦方向の関係と考えれば
                ここでは横方向の関係と考えることが出来ます。
                共通体験を多く持ち、共通認識、共感性を培います。

                 思春期を迎えると多くの友人・兄弟関係の中から、
                特定の異性との関係が持たれるようになります。
                保護者との関係・兄弟や友人との関係は相似形の関係ですが
                ここでの関係は相対形の関係になります。
                相似形の関係は合流による一致なので流れは合わさったり分かれたりを繰り返します。
                しかし、相対形は合致による一致なので非常に強い関係になります。
                相対形の関係は陽陰の関係です。

                 カップルが決定し、陽陰が補い合う一体化した存在としてコミュニティ参加が始まります。
                友人、兄弟との関係とは異なり、
                幅広い世代とのかかわりを持つようになります。
                保護者の保護下から離れて独立した存在としての社会参加となります。
                何より、個体で他者との関係を築いていたところから、
                カップル(夫婦)一致での他者との関係になるのです。
                しかし、個人主義の考え方をすればこの段階は存在しません。
                又、夫婦が完全一致するのは簡単なことではないようですし、
                コミュニティ内の意思統一などもたやすくは無いようです。

                 顔や名前を分かっているコミュニティの関係の中で一定の責任を果たすようになれば
                同一文化圏への参加が求められるようになります。
                コミュニティ間の調和が必要だからです。
                コミュニティの内側に目を向けていれば
                それぞれのコミュニティの利益しか考えることが出来ないからです。
                それでは争いが起こってしまいますのでコミュニティ間の調整が必要なのです。
                同一文化圏というのは過去に交流を持ってきた歴史があり、
                相互補完的な役割分担がある程度確立しているので比較的理解しやすい間柄です。

                 現代においてはグローバル化により異文化圏との交流が必要とされています。
                しかし、国境を越えての関係は争いの歴史が多く、困難を極めます。

                 人間社会の一致さえも難しいものなのですが、
                人間が環境に与える影響の強さを考えるときには
                地球・宇宙環境にまで意識の拡大が求められます。
                知的にはこの段階に到達しているのですが
                この世界を利益の対象と見るばかりでは世界を食いつぶしてしまうのがオチです。
                調和への情緒はどれ程啓発されているでしょうか?


                 このように公共心の拡大は段階を踏んで成長します。
                それぞれの段階で感受性も成長します。
                年齢やその立場に立てば情緒が自然と成長するわけではありません。
                アダルトチルドレンの問題がそれを象徴します。
                しかし、アダルトチルドレンは問題の一端を捉えただけで、
                その全てを解明しているわけでもありません。

                世界中の人が情緒的成長を完璧に成していれば
                この世界に深刻な戦争を初めとする諸問題は起こっていないか、
                あるいは比較的簡単に解決しているのでしょうね。

                | おーば | 考察 | 01:40 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                情緒の成長の必要性
                0

                   生命は天与のものであると考えます。
                  そして、生命と肉体との関係の中から生まれるのが本能的欲望です。
                  即ち「生きたい」「食べたい」「眠りたい」「繁殖したい」です。
                  これらの欲望が満たされるときに、結果として肉体は成長し、情緒は快いと感じます。

                  知性の内面には観念世界と理性を見出すことが出来ます。
                  観念世界は肉体から来る情報を写し取り、理性により整合性の取れた世界を形作ります。
                  理性と観念世界に写された世界の刺激は、観念世界の更なる拡大を求めます。
                  このことが知りたいという欲望を生み出します。
                  観念世界が拡大(成長)することを情緒はやはり快いと感じます。

                  肉体の成長は観念世界の成長を助けます。
                  観念世界の成長は情緒の喜びの拡大に繋がっていきます。

                  情緒の喜びは最初は本能的欲求の充足という極めて個人的内容に始まります。
                  しかし、この本能的な欲求を満たす行動を通じて観念世界の拡大が始まると
                  今度は観念世界の拡大そのものの刺激が大きくなり目的化してゆきます。

                  観念世界の拡大とそれを満たす行動はなにをもたらすでしょうか?
                  これは観念世界の内容によって大きく左右されるでしょう。

                  人間の肉体の構造はおおよそ共通するものなので本能的欲望は大きな差異はありません。
                  しかし、生きる環境はそれぞれに異なるので、作り上げられる観念世界には差異が生じます。
                  この差異によって次に求めるものが違ってくるのです。


                  肉体の成長は寸法を測ればわかります。
                  運動能力なども測定することが出来ます。
                  観念世界の成長も知能検査や様々な試験で測定されます。
                  情緒の成長については?
                  なにか測定方法があるという話を私はまだ聞いたことがありません。


                  肉体は成長します。
                  生命は天与のものであり、成長することは無くやがて燃え尽きるものです。
                  知性は肉体の成長を土台に成長してゆきます。
                  情緒は成長しますか?

                  成長します。
                  喜びを感じる対象の変化がそれを表します。
                  本能的欲求が満たされることだけを喜ぶ幼い時代から、
                  知的欲求を求める時代がやってきたりします。
                  またその後にも違った喜びを求める展開がありますが
                  測定方法が確定していないことが物語るようになにをもって成長と言うかは確定的なものがありません。

                  前の前の記事で
                  「“情緒”の中心は“愛”であり、その主たる力は『価値決定』なのです。」
                  と書きました。平たく言うと好き嫌いの問題です。
                  子供の好き嫌いと大人の好き嫌いには明らかに違いがあります。

                  前の記事では愛は一致することと書きました。
                  当初の書き込みでは「私の望みに一致するものを好む」くらいのニュアンスでしかなかったかもしれません。
                  しかしその記事に『調和』というキーワードをコメントでいただきました。
                  私には『調和』という言葉は『愛』が目的とするものに感じられます。
                  一致は一方的になる可能性がありますが『調和』は双方向的でなければ成立しません。
                  そして幼い情緒には双方向の一致を感じ取る感性はありません。


                  さてさて、
                  他者の情緒を理解するのは知性による理解なのか情緒による理解なのか?
                  他者の状況と反応が何を示すのかを視聴覚の情報から知性的に分析し、
                  自己の情緒の価値観に照らして判断するという流れになりますから、
                  知性と情緒の共同作業にほかなりません。
                  結果、幼い経験の乏しい情緒には複雑な他者の情緒との一致は難しいと言えます。
                  逆に言えば、
                  多くの他者の情緒と共鳴できる情緒は
                  それだけ成長した情緒であると言えるかもしれません。

                  成長した情緒であれば知性に対し優れた価値判断の基準を与えることが出来ますが、
                  本能欲求のみを喜ぶ情緒であれば知性をリードすることが出来ません。

                  | おーば | 考察 | 21:27 | comments(7) | trackbacks(0) | - | - |
                  知と情と意
                  0

                    今年の風邪はしつこいと皆言ってます。
                    私もひいてます。
                    熱こそ大して上がらなかったものの、最初鼻風邪、治まってきたなと思ったら今度は咳き風邪…咳き風邪は私の場合は3ヶ月くらい平気で引っ張るものですから覚悟が必要。
                    皆様もお気をつけください。

                    さて本題。
                    最近つくづく思うのです。
                    統一原理では知情意について一つの心の3側面であると言われていたように記憶しているのですが、
                    知と情の間に授受の関係が成立しているなぁと…。

                    一つの存在の側面であるとするならばその間に授受の関係は成立しないように思います。
                    だって、ピラミッドの三角形に見える面と四角形に見える面がどうやって授受作用するのか?ということですものねぇ。
                    力学的に支えあっているなどが成立しているのでしょうか?
                    専門外の難しい処は分かりませんが、知と情の間には間違いなく授受の関係が成立しています。
                    これは実感です。

                    どういう事かと言えば、「空想」するシーンを思っていただければ分かります。
                    過去に蓄積された知的な情報から、あれやこれやと推測したり組み合わせたりして考えます。
                    わくわくと楽しくなってきますよね?
                    これは知的な活動に情が喜びを感じているのです。
                    情の喜びを受けて知も更に空想を発展させてゆきます。
                    つまらなかったら続けません。
                    つまり授受作用における発展の力を得るのです。

                    発展を続けると今度は作品に仕立てようとか、誰かに話してみようとか
                    行動の意欲が湧いてきます。
                    つまり、知と情の授受作用から意欲すなわち意が生まれているようです。

                    知情意は対象と主体と結果のような関係を成立させています。

                    | おーば | 考察 | 10:11 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    真理の探究
                    0
                      1+1=2
                      3×3=9
                      これらを疑う人は殆どいない。
                      見方を変えればこれも真理。

                      しかし、
                      「問:1+1=?」
                      「答:田」
                      これも有名。

                      何が起こっているかと言うと
                      ルールのすり替えです。

                      計算式のルールで答えを出せば「2」
                      図形として並べ替えるというルールでの答えが「田」

                      厳密にルールを共有すれば普遍的真理は成立するけれど
                      ルールが決まらなければ導かれる答えは無限の可能性を持ってしまいます。


                      私が幸せだと感じていたとしても、
                      他の人から見たら哀れむような状況かもしれない。
                      私が不幸せだと感じていたとしても、
                      他の人からはそれはゼイタクだと思われるかもしれない。

                      人の幸・不幸を計るルールが普遍的にあるとすれば
                      そのルールにそぐわない感想を持つ「私」が間違っているんだということになります。

                      だけど、誰がなんと言おうと幸せ・不幸せは私の心に映るものなのです。
                      他の誰かにそのルールを決めてもらうわけにはいきません。
                      人間の幸・不幸に絶対普遍的な真理は適応されそうには思えません。

                      そんな風ですから、
                      普遍的なルールの適応できない事柄を語ってはならないと言ったのが
                      言語学者のヴィトゲンシュタイン。
                      言葉は個人的なものではありえず、共通に認識できるものでなければならないとしたので。
                      だけどそれではちょっと息苦しい。


                      幸せについて考えるときには
                      「私」についての哲学である、「実存の哲学」が必要になってくるのです。

                      私にとってどのように感じられるのかを考える「現象学」という哲学の手法があります。
                      「実存の哲学」は、この「現象学」の手法を用いて考えられるようです。
                      この二つについて、本で読んでみてもその境目が何処にあるのかが私にはよく分かりません。
                      共通して「客観」と呼ばれるものについて一旦眼を瞑ってしまおうとする性格が感じられます。

                      20世紀初頭の哲学者ハイデガーという人が、
                      自ら「現象学」を研究すると言いながら、
                      ニーチェからは「実存主義者」だと言われています。
                      彼はそのことを否定しますが、恐らく「現象学」と「実存の哲学」はかなり密接なものなのでしょう。

                      ハイデガーはそもそも神学を学んだ人です。
                      転向してフッサールという哲学者に学び、
                      後にナチスに加担したと言うことで問題視される人でもあります。
                      ハイデガーは芸術に希望を見出しますがナチスとの関係を思うと
                      ワーグナーの音楽が頭をよぎります。
                      ナチス軍が紹介されるTVなどの映像のBGMに用いられることの多い曲です。
                      戦意を掻き立てるというか、不安をあおると言うか実に独特のあの曲です。
                      ハイデガーもワーグナーもナチスに加担したと言われますが、
                      時代の流れに飲み込まれていった結果ではないのかなと、漠然と感じるものです。

                      ハイデガーは言葉を論理的に操る哲学のフィールドに居ながら
                      信仰や感動の世界を傍らに感じながら生きた人ではないかと思います。
                      もしかすると言語に表現できるものの限界を感じたが故に芸術を求めたのではないでしょうか?
                      なにやら理解不能な言葉も多いようで、哲学者らしからぬ哲学者だったかもしれません。

                      この実存の哲学や現象学のあたりから哲学という呼び名が使われないで、
                      現代思想と呼ばれ始めます。
                      先駆的なのはキルケゴールで、
                      彼はそもそも哲学書ではなく神学書を書いたつもりのものが「実存の哲学」と呼ばれるに至ります。
                      その後、「実存主義」と呼ばれるのはニーチェやサルトルなのですが、
                      彼らは唯物的であったり、「力」に傾倒したりして、信仰とは縁遠いポジションを取ります。
                      というよりは信仰することから抜け出すための理由を立てたかったように感じられます。

                      「実存の哲学」と「実存主義」とは別なものと考えなければいけません。
                      「実存」とは私と言う存在を指しますが、
                      「実存主義」と言えば「私主義」となりますから、非常に身勝手に陥りやすいでしょう。
                      「実存の哲学」に於いては、神と呼ぶ存在を人はどのように捉えているのかを含めて考察すべきです。
                      結果として神を否定するものとなれば「実存主義」になるかもしれません。
                      「実存主義」を私は好みません。
                      私は信仰を好ましく感じるからです。

                      好き嫌いの分かれる主義主張は真理足りえません。

                      「現象学」の手法を用い、
                      「言語学」の問題を考慮しながら、
                      「実存の哲学」を試みる。

                      これが現在の私のスタンスです。


                      「実存」とは私のことですが、
                      桜葉佳代個人も「実存」であれば、ニーチェやサルトルもそれぞれ「実存」。
                      ハイデガーもキルケゴールもそれぞれ「実存」です。
                      文鮮明師もイエス様もお釈迦様もそれぞれが「実存」です。
                      自分自身については内省できますが
                      自分以外の他者についてはその人の書いたり語ったりした言葉や、行動を手がかりとして考える以外には方法がありません。
                      この「実存の哲学」に共通ルールを見出すことが出来れば
                      「言語統一」の可能性が現れ
                      「真理」と名乗るものの真偽を見ることが出来るように思えるのです。
                      | おーば | 考察 | 15:44 | comments(3) | trackbacks(0) | - | - |
                       123456
                      78910111213
                      14151617181920
                      21222324252627
                      28293031   
                      << July 2019 >>
                      + 自画像・ホームページ
                      + ブログ村ランキング
                      + SELECTED ENTRIES
                      + RECENT COMMENTS
                      + CATEGORIES