おーばのつぶやき

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
五蘊非我(ごうんひが)
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      先に取り上げた四聖諦の一つ目『苦聖諦』。
    八つの苦の最後に上げられていた『五陰盛苦』の
    五陰は五蘊のことらしいのです。
    で、この五蘊については
    『五蘊非我』『五蘊無我』『五蘊皆空』などと言われます。

    『五蘊非我』と言えば、
    五蘊すなわち身体から感覚作用、判断作用までの心身は、“非我”つまり我に非ずです。
    『五蘊無我』と言えば、
    五蘊(以外に)無我、つまり我無しとなるそうです。
    五蘊以外に我無しと言うことは、五蘊こそ我であると言うことです。
    言っていることが正反対に感じるのは私だけでしょうか?
     
    これは同じ言葉の翻訳違いなのか、解釈違いなのかはよく分かりません。
    ただ、お釈迦様の教えについての解釈が割れているようです。
     
    どちらの立場をとるかにより、『五蘊皆空』の解釈も変わります。
    『五蘊皆空』は般若心経に出てきます。
    五蘊は空しいものだよと説いているのか、
    五蘊を空しくすれば、存在を無くすことが出来るから苦しい転生をしなくて済むよと説いているのか?
     
     お釈迦様はアートマンとして、五蘊以外の存在としての『自己』の存在を認めていないという解釈が大勢を占めているように感じます。
    しかし、当時の哲学を研究する人の話ではお釈迦様以前の印度の哲学者ヤ−ジュニャヴァルキヤの言葉を持ち出します。

     「(自己は)見られることがなく見る者であり、
     聞かれることがなく聞く者であり、
     施行されることがなく思考する者である。
     これより別に聞く者はなく、
     これより別に思考する者はなく、
     これより別に知る者はない。
     これが汝の自己であり、
     内制者であり、
     不死なるものである。
     これより別のものは苦しみに陥っている。
    (『ブリハッドアーラニヤカ・ウパニシャッド』三・七・二三)

    お釈迦様は詳細に語られなかったようです。
    このような自己(アートマン)の存在は大前提であったからあえて語られなかったのか、
    自己(アートマン)の存在を認めていなかったから語られなかったのか、
    人はそれぞれの立場で都合のいいように解釈してしまうのです。

    おーばはアートマンを認める立場です。
    地獄とともに極楽を想定し、お釈迦様や菩薩を崇める姿は
    解脱をしてしまえば何も存在しなくなるという考えからは不自然で無理のある理屈になります。

    人間には性として、分かりにくいことを自分の概念に収まるように解釈しなおしてしまう傾向があります。
    大乗仏教などの解釈にはそういった傾向を感じますが、
    無常観、空・無の理念を追求する姿勢は、執着を絶ち人の心を善導するには一定の使命を果たしてきたのではないかと感じます。

    | おーば | 仏教・印度思想 | 17:18 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    十二因縁(十二支縁起)
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      前記事に出てきた十二因縁です。

      無明に縁って行が生じ、
      行に縁って識が生じ、
      識に縁って色名が生じ、
      色名に縁って六処(六入)が生じ、
      六処(六入)に縁って触が生じ、
      触に縁って受が生じ、
      受に縁って愛が生じ、
      愛に縁って取が生じ、
      取に縁って有が生じ、
      有に縁って生が生じ、
      生に縁って老と死が生じ、
      老と死に縁って怒りと悲しみと苦と憂慮と悩みとが生ず。

      ということですが、
      一つ一つの言葉(文字)の意味するところがわかりません。

      Wikipediaによると 
      1.無明(むみょう) 過去世の無始の煩悩。煩悩の根本が無明なので代表名とした。 
      2.行(ぎょう) 志向作用。 
      3.識(しき) 識別作用 
      4.名色(みょうしき)物質現象(肉体)と精神現象(心)。 
      5.六処(ろくしょ) 六つの感覚器官。 
      6.触(そく) 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。 
      7.受(じゅ) 感受作用。 
      8.愛(あい) 渇愛。 
      9.取(しゅ) 執着。 
      10.有(う) 存在。 
      11.生(しょう) 生まれること。 
      12.老死(ろうし) 老いと死。

      これだけでもよく分かりません。


      先述の世界の思想史に図が載っていたので転載します。
      ネットなどで調べてみても、こういう解釈は見つかりませんでした。
      一般的な解釈ではないかもしれませんが、
      理解の手がかりには有効かと思います。
      (一般論が必ずしも求める答えとは限らないものです。)




       生の車輪


      おーばが勝手に色を塗りました。
      よく見ると、3〜10のピンクに塗った所が人生の1サイクルで
      黄色と水色の所は簡略化されていますが前世と来世のそれぞれの人生のようです。
      ピンクの部分も3・4・5はお母さんのお腹の中、
      6・7は小児の段階で
      8・9・10がやっと成人としての人生。
      11・12は現世の結果としての来世ということになります。

      おーば流に読み替えてみると
      1〜2 前世以前の前世の煩悩によって前世での行いがあり、
      3〜4 その行いによって現世に生まれる胎が識別され、肉体をまとい、人の形に成長して誕生する。
      5〜7 世界を感覚できる機能を備えた体で、世界に触れて、様々な基本的知識を獲得し、
      8〜10 自らの意思で様々な欲望を持ち、それを満たすために人生を送り、様々な結果を得る。
      11〜12 その結果に応じて来世の生老病死の報いを受ける。

      こう考えれば私たちが自らの意思で何とかできそうなのは8と9のみです。
      8〜10が来世的には2の行となって3〜7に影響できると考えられます。
      八正道の修行もせずに分かったようなことを書くなと叱られそうですね。


      この十二因縁の理解のために“六入”と“五蘊”について書く必要があります。
      “六入”は5番そのものです。
      “五蘊”は四聖諦の最初の苦聖諦に出てきた「心身のすべて」というものです。
      ここには十二因縁の中に書かれている文字が含まれています。


      先ず六入
      意     身(皮膚)  舌   鼻   耳   眼  以上が六入(六根)
      (思考対象)  触   味   香   声   色  これ等は対応する六境
      意識   身識   舌識  鼻識  耳識  眼識 これ等は対応する六識

      五感のほかに思考する意識まで数えられています。
      般若心経で耳に馴染みのある方もいるのでは?


      次に五蘊
      色蘊 色かたち、つまりは身体…肉体
      受蘊 感受作用…感覚
      想蘊 識別作用…認識
      行蘊 記憶・意思などの作用
      識蘊 判断作用

      まさしく心身のすべてです。
      Wikipediaの解説は比較的多くのところで見受けられる解釈なのですが、
      こちらの五蘊の解説に照らしているように感じます。
      しかしそれでは「名色に縁って識が生ずる」ならいざしらず、
      「識に縁って名色が生ず」というのが非常に理解しにくいことになります。
      同じ文字が当たっていてもその意味するところは微妙に違っているのではなかろうかと私などはかんぐってしまうのです。

      ところで、お釈迦様は『五蘊非我』とおっしゃいます。
      心身の全ては我に非ずです。
      他にも『五蘊無我』『五蘊皆空』という表現もあります。
      ここも解釈が割れているようです。

      次の記事に続きます。

      | おーば | 仏教・印度思想 | 15:46 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
      初転法輪(しょてんほうりん)
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         お釈迦様が瞑想をなさったときに思考を伴われたということですが
        それはおそらく『縁起』に基づく思考であったと思われます。
        「これあれば、かれあり。
        これ生ずれば、かれ生ず。
        これなければ、かれなし。
        これ滅すれば、かれ滅す。」
        ということが確認できれば“これ”は“かれ”の原因と言える。
        とてもシンプルに合理的に思考されたということでしょう。
        思考法を提示することも、真理を提示するための重要な要件と言えます。

        ここで気になったことがあります。
        『縁起』は原因と結果について説いたものですが、
        集合的な要素にも適合できてしまうことです。
        例えば、
        林檎があるから紅玉がある。
        林檎(という存在が)生ずれば、紅玉が生ずる。
        林檎なければ、紅玉なし。
        林檎(という存在が)滅すれば、紅玉滅する。
        ということも言えてしまいますが、林檎とはカテゴリであって原因とは言いがたい。
        紅玉自体も林檎です。
        紅玉という品種に先立つ原種の林檎は原因と言えますが、ここに原因と結果を適用するのは難しいかなと思います。
        また、紅玉の原種が先に絶滅したとしましょう。
        この場合、原因が滅しても紅玉という品種の絶滅に直結はしません。
        逆に、紅玉以外の全ての林檎の種が絶滅してしまった場合、
        紅玉が滅することが林檎が滅することに繋がり原因と結果の逆転も起こりえます。
        つまり時間的制約の問題です。

        滅すると言っても原因が将来的に滅したとしても結果は存在し続けるのです。
        お釈迦様の『縁起』については、過去にも未来にも存在した形跡の全ての有無生滅について考えなければいけません。
        『縁起』を適用する場合にも暗黙的なルールが予め存在していることに留意が必要となります。
        適用を間違えば正しい答えは導かれません。



        初転法輪にもどります。

        悟りを開いたお釈迦様が最初に説かれた説法のことです。
        誰に説かれたかと言うと、苦行を共にされた五人の行者に説かれました。
        この五人は五比丘と呼ばれます。
        お釈迦様と一緒に苦行されたわけですから、既に相当な条件を積んでいたことになるでしょう。

        内容は『四聖諦(ししょうたい-四つの尊い真実)』にまとめられます。

        1.苦聖諦(苦諦)
         生・病・老・死・愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰(蘊)盛苦
         前四つで四苦。後の四つを合わせて八苦。すなわち四苦八苦です。
         「生」は、安らかな胎内から狭い産道を通って苦しい思いをしながら誕生しなければならない苦しみ。
         「病」「老」「死」は説明の必要も無いと思います。
         「愛別離苦」は愛するものと分かれなければならない苦しみ。生きて分かれずとも死に別れることにもなります。
         「怨憎会苦」は嫌いなものと出会うこと、一緒に居なければならないことの苦しみ。
         「求不得苦」は望むもの(こと)が得られない苦しみ。
         「五陰(蘊)盛苦」は後から説明しますが五陰(蘊)というのが心身の全てを表し、その全てが苦しみに満ちているとお釈迦様はおっしゃいます。

        2.苦集聖諦(集諦)
         輪廻的生存という苦の原因が「渇愛」にあると見極めること。
         見極めるというのは骨身に染みて分かる位の事を指すようです。
         渇愛には三種類あります。
          一、自覚できる欲望。
          二、無明、自覚しがたく抑制しがたい欲望。(生への執着?)
          三、死への衝動。
         これは『十二因縁(十二支縁起)』を順に観ずることに通ずるとのこと。
         『十二因縁』は輪廻にまつわる因果関係のメカニズムです。後ほど解説。

        3.苦滅聖諦(滅諦)
         原因(渇愛)を取り除けば苦がなくなると見極めること。
         これは『十二因縁(十二支縁起)』を逆に観ずることに通ずるとのこと。

        4.苦滅道聖諦(道諦)
         苦を滅ぼす道は「苦楽中道」としての『八正道』に他ならないと見極めること。
         「苦楽中道」というのは、出家して苦行を積んだからと言ってそれでよいということではなく、
         かと言って、欲望の原理で生きる俗世で救いの道が開かれるわけではないといった意味合い。
         そしてその内容は以下の通り。
          正見-正しく物事を観察する
          正思-正しく思考を運用する
          正語-正しい言葉遣いをする
          正業-不殺生などの正しい行いをする
          正命-正しい生活規律を守る
          正精進-正しく努め励む
          正念-正しく物事を頭に刻み込む
          正定-正しく精神集中する

         

        『四聖諦』は言葉は難しいのですが、私たちの身近でよく聞かれる「自業自得」についての解説なのです。
        日常的でないのは、原因が十二因縁つまり前世の行いにあり、
        現世の善行はは来世の幸福(究極的には解脱して転生しないのが最高の状態)のためにあると感じられるところです。
        来世のためと言いながらも、悟りを得ることにより現世に於いては迷い・不安から開放されます。

        多くの場合「自業自得」の“”と“”が注目されます。
        それだから、悪いことをしてはいけませんとか、天国と地獄がことさらに強調されます。
        これは「どうしたらその分け前を得ることが出来るのか?」ということが注目されるのと似ています。
        もっとも、“”については皆分かっているつもりなので関心を持たないというのもあります。
        しかし、お釈迦様の教えでは、この“自”についての解釈がより重要だとおーばは思うのです。

        | おーば | 仏教・印度思想 | 13:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        お釈迦様の生きた時代
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           お釈迦様の生きた時代の背景

           インドには前1600年頃からアーリヤ人が侵入を始め、先住民を支配する立場からカースト制度が始まったようです。
          彼等のヴェーダの宗教を持ち、デーヴァとアスラの二派に分かれる神々を崇める多神教でした。
          儀式、祭典を重視するものでしたので、ブラーフマナ(バラモン)という祭司が強い力を持っていました。
          一方、ブラフマンという最高神による創世神話も有します。
          ブラフマンは宇宙の根源真理とか、真実語という意味合いも兼ね備えています。
          真実語と言うのは「誓いを立てて守り抜くこと」という意味合いで、
          ある有言実行することによって他の願いの言葉も現実化できるということのようです。
          インドカーストの最高位のバラモンというのは真実語であるブラフマンから来るもので、
          彼等の言葉は真実になると畏れられたようです。

          このアーリヤ人の文化の中に輪廻転生説は定着していました。
          輪廻転生説は現世の行いによって来世の運命が決まると考えるもので徹底した自業自得の考え方です。
          高いカーストに産まれつくのは前世でよい行いをしてきたからであり、
          低いカーストに産まれたものは前世でそうなる行いをしてきたものと考えられました。
          輪廻転生は何度でも生きなおすことが出来ると感じるのではなく、
          何度も死を味わうことになる苦しみ続けなければならないという否定的な考えで捉えられていました。
          物事の善悪はヴェーダ聖典によって定められていました。
          善悪の行いに導くのは人の欲望によるものだとして、欲望を減ずれば輪廻も減ずるとして
          お釈迦様の以前から
          真理を知って欲望を減ずる。
          無念無想の瞑想によって欲望を抑える。
          苦行によって欲望をねじふせる。
          というようなことが多く行われていたそうです。

           お釈迦様がお生まれになったのは紀元前5世紀頃のガンジス河中流域のインド(ネパール?)でした。
          農業、商業、工業ともに盛んであり、豊かな王制・共和制の国家が多くありました。
          物質的に豊かでありましたので、多くの出家者を養う余地がありました。
          国王らが哲学・進学の論争を好み、奨励したこともあり多く。学派、出家者、教団等存在したようです。

           


          お釈迦様の出生と修行

           お釈迦様は王族の出身です。結婚して男の子を儲けてから王宮を出、出家の身となります。
          先ず、無念無想の瞑想の修行をします。
          当時高名であった行者に師事して修行しましたが、程なく師に追いつき別の行者に就いたりします。
          『無所有処(およそ一切は空無であると感得する境地)』『非想非非想処』などの境地に至ります。
          しかしこれでは求めるものを得ることが出来ないと感じて、瞑想に並びポピュラーであった苦行の修行に向かいます。
          お釈迦様の修行は激しく、修行中に死んでしまったのではないかと思われたほどでした。

          苦行による修行は欲望を消すことが目的でありました。
          しかし、お釈迦様はこの修行の中で欲望を減ずることは出来ても消し去ることは出来ないと感じ修行を打ち切りました。
          ミルク粥で体力を回復し、先の無念無想とは違い、思考を伴う瞑想により『目覚めた人』となりました。
          このことは、先の苦行などを通じて悪魔を退散させてのことでしたので『降魔成道』と言います。
          お釈迦様は、ここで得た悟りを人々に伝えることは到底難しいと感じました。
          それを見た梵天(ブラフマン)は、それでは人の救われる道がふさがれてしまうとしてお釈迦様に説法することを要請。
          これは『梵天勧請(ぼんてんかんじょう)』と言います。
          このエピソードは梵天ではなく王侯か裕福な商人などによって要請されたものと解釈されています。
          お釈迦様の教えでは神はいないと伝えられているので、
          神様との出会いがあるわけはないということでしょう。

          | おーば | 仏教・印度思想 | 11:52 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          仏教:瞑想について
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             仏教について次に書かなければならないことは『瞑想』についてであろうと感じながら、キーボードに向かう気持ちにはなかなかなれませんでした。
            仏教に関心を持ったもっとも重要な項目でもありますが、どうしたことでしょうか?
            それはおそらく、『瞑想』というものが、キーボードとはおよそ縁遠いことだからでしょう。

            お釈迦様は瞑想や苦行を通して悟りを開かれましたが、
            それらは当時のインドでは行者達によって多く行われていたことで、お釈迦様が特別に行っていたことではありませんでした。
            ただし、先輩である行者達の下で瞑想や苦行を行ったときに、
            お釈迦様は「これでは求めている答えには到達できない」と感じられたようです。
            そして一人、菩提樹の木の下で『思考を伴う瞑想』により悟られたと読んだ本には書いてありました。

            古くからの『瞑想』について、キノコなどの幻覚作用のある食物を摂って異言を語っていたとか、
            極限的な苦行を通じて幻覚作用のある脳内物質を分泌させて異言を語ったとか分析する人たちがいます。
            彼らは臨死体験で語られる死後の世界も死への恐怖を和らげようとする脳の働きによって見せられる幻覚であると分析しています。
            彼らは瞑想からは最も遠いところにいるのではないかと感じます。

            脳内でどんな化学反応が起こっているかは別次元のこととして、
            瞑想によって目標とされる到達地点の最初は「自覚」ではないかと私は思います。
            よく使われている表現としては、「雑念を捨てる」「妄想を捨てる」「無になる」などです。
            雑念、妄想を捨てることは良いのですが、「無」の境地というのは非常にわかりにくい表現です。
            どんなにがんばってみたところで大概は一つだけは残ります。
            その一つをじっくりと味わうことが楽しみでしょうか?
            そして、味わっている「私」本体を見出す(自覚する)のです。

            瞑想について書かれていたサイトで「感覚する」ことを入門としているところがありました。
            そこでは「感覚」したことをいちいち言葉に置き換えてみなさいと言っていました。
            ラベリングと称されていましたが、言葉は無になることとは対極的に感じられます。
            これはどういうことなのかなと私なりに考えました。
            先ず、感じることを優先して言葉を従属させるということでしょうか?
            人は日常では連続的に思考し続けています。
            思考の多くは言語を用いて行われています。
            ともすれば、思考は感覚の先に立ち、感覚を狂わせます。
            氷は冷たいと信じているし炎は熱いと信じていますから、そうでない状況には驚きます。
            熱くない炎に触れても人は熱いと錯覚するはずです。
            思いこみです。
            つまり、思いこみを捨てて感覚を優先することから
            様々な思考に捕らわれている自身を解放すると言うことではないかなと思うのです。
            雑念も、妄想も思考による産物を指しているとも考えられます。


            幻覚作用のある食物を摂ること、極限までの苦行を行うことも
            そういった思考というしがらみから抜け出すのに有効な手段なのかもしれないなと思われます。


            そうすると、お釈迦様が行った「思考を伴う瞑想」とはどういう事でしょうか?

            幻覚剤や苦行によって瞑想するのが通常であれば、「思考」を伴う瞑想は斬新なものでしたでしょう。
            「思考」することが瞑想の妨げになることは容易に予想できます。
            これは「思考」に惑わされず、「思考」を「私」本体に完全に従わせた状態でなければ成立しません。
            (統一教会流に表現すると「ルーシェルを完全主管した」ような状態でしょうね)


            人が「分った」と思う時には、
            自分自身で築き上げた「概念」という思考の産物に、
            そのテーマが違和感なく組み合わさった状態を指すと私は思っています。

            「概念」の背景にどれほどの「実感」が伴っているかがその人の豊かさではないかと感じます。
            「実感」出来るのは「思考する私」ではなく「感覚する私」です。
            「感覚する私」ではなにやら本能的に行動する野蛮な人格に思えてしまいます。
            多くの人は「思考する私」を表に出して社会生活を送ることが常です。
            この2者のバランスはとても大切なものです。
            「瞑想」の本体も、「祈り」を捧げるのも、「愛する」のも「楽しむ」のも
            実はこの感覚する私なのです。

            | おーば | 仏教・印度思想 | 14:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
            仏教:輪廻転生
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               お釈迦様は「解脱」することを目的と置かれましたが、
              その大前提である「輪廻転生」はお釈迦様が説かれたものではありません。
              お釈迦様の時代よりも200〜300年前にインドに定着した考え方です。
              どのようないきさつで成立したのか理由は見つけられませんでした。
              生まれ変わりの思想自体は古代エジプトをはじめ多く見られます。
              当時のインドの考えでは生きること自体が苦悩であったので、
              お釈迦様同様に出家して苦悩から逃れる道を求める行者は多くあったそうです。

              日本では人生そのものを「苦悩」と捉えることはあったのでしょうか?

              飛鳥時代の庶民の生活が楽なものだとは思えませんが、
              後年の庶民のバイタリティーは民族の楽観性を感じさせます。
              仏教自体は聖徳太子が導入に注力したものと記憶してます。
              少々政治的なニオイが感じられます。
              実際に、平城京・平安京では仏教勢力が大きな政治的影響力を持ち、
              江戸時代まで寺受け制度のような役所まがいの位置づけをとっています。

              仏教を浸透させるための操作もあったと思います。
              しかし、日本でも優れた仏教文化が花開きました。
              導入のいきさつはともかく、教えそのものに優れたものであるからでしょう。

              もともとのニーズ自体が弱いからでしょうか?
              輪廻転生の理解は乏しく感じます。

              六道(りくどう、ろくどう)とは、仏教において迷いあるものが輪廻するという、6種類の世界のことです。
              天道(天上道、天界道とも) ・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道の中から、日本では単純に極楽と地獄だけが定着している感があります。
              しかも、転生するというより死後の世界という捉え方が一般的です。
              信じて手を合わせるとか、念仏を唱えれば「あの世」でいいところに行けるよと教える大乗仏教が大きく広まっています。
              万人救済論は探求されなければなりませんが、
              現在の仏教によって救済が完成されているとは私には思えません。
              (しかし、輪廻からの解脱ではないのに何からの救済なのでしょう?)

              日本では人間に生まれ変われれば、今生で失敗したことをやり直しが出来る可能性として希望的に捉える傾向が強いようです。
              同じ生まれ変わりでも
              人生そのものが苦悩であると捉えるインドの思想とは大きな違いです。
              人が逃れたいという苦悩とは、一体何ものなのでしょう?

              | おーば | 仏教・印度思想 | 20:58 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              仏教についてちょっとづつ書いてみようと思う。
              0

                 先ずおことわりしますが、仏教を調べてみようと思い立っていても、
                仏教に宗旨替えしようと考えているわけではありません。
                もちろん、学んで吸収すべきと考えられるものはどんどん取り入れるべきとは思っています。

                 紀元前5世紀頃、お釈迦様は王族の出身で、あるとき出合った「老」「病」「死」への問いの答えを見出すべく「出家」したと言われます。
                時代が時代ですから現代のような物質的に豊かではなかったはずですので、庶民の生活は大変だったでしょう。
                社会的な「苦悩」は多くあったと思われます。

                出家したお釈迦様は「瞑想」→「苦行」→「思考を伴う瞑想」を経て悟りを開かれたということです。
                お釈迦様が求められたのは、苦悩の原因とそこから開放されるにはどうしたらよいのかという問題だった様です。

                『四苦八苦』というのは仏教用語だったのですね。
                先の「老」「病」「死」と「生」(生まれるときに狭い産道を通って居心地のよい子宮から外界へ放り出されることの苦しみ)を『四苦』。
                「愛別離苦」(愛するものと別れ)、「怨憎会苦」(憎しむものと出会い)、「求不得苦」(求めるものは得られず)、「五蘊盛苦」(この肉体があるために苦しむ)。前の『四苦』とこの四つをあわせて『八苦』。

                これらの苦しみから解放されるためには「輪廻転生」からの『解脱』が必要不可欠である。
                『解脱』するためにはどうしたらよいのかというところから様々な「教え」が展開されるようです。

                多くの宗教は、圧政からの開放・天候不順などによる困窮などの困難からの開放を求めるところからスタートしてゆきますが、仏教については人生そのものが苦しみであるかのようなスタートを切っているのですね。

                | おーば | 仏教・印度思想 | 10:23 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                仏教について調べ中
                0

                   仏教についてあまり詳しいわけではないので、少し勉強しようと思います。
                  先に書いた「三位一体の神様」の記事で若干仏教に触れたのですが、
                  私のイメージに過ぎないからです。
                  勉強といってもソースは限られます。
                  ネットサーフィンと数冊の書籍。

                  『世界の思想史〈上〉』ハンス・J・シュテーリヒ 白水社刊から仏教に関する記述(部分)以下抜粋。

                   決定的な変化は、西暦開始前後の数世紀間に起こった。ブッダ自信は、個人をまったく自己自身に限定して、救いへの道を自己自身のなかに見出させる教えを説いていた。とくに彼は、祈りをささげて救いの手を期待しうるような神の観念を拒否していた。それどころか、「他者がわれわれに、幸福や不幸をあてがってくれることができるなどと考えるのは、愚かしい」とさえ言っていた。そして彼は愛弟子のアーナンダに教えて言った。「そして、アーナンダよ、いまもわたしの死後も、だれでもつねに自己自身を規準とし、自己自身をよりどころとして、他のよりどころを求めずに、自己の規準として真理〔法〕に加担し、……そして自己自身以外には、だれにもよりどころを求めないもの、そのような人こそ、最高の高さに達する人である。」
                   だがいまや、仏教は一つの〈教団〉になりはじめる。ブッダが神として尊敬される。天は彼以外の他の多数のブッダたちのすみかとなり、それらのブッダたちは、カトリック教会の聖者たちのように、人間に助力の手をさしのべるという。そのうえ、中世のキリスト教のばあいのように、礼拝儀式、祈祷、聖水と香煙、典礼文、正祭僧服、告解、葬儀ミサなどをともなう教会的な営みが発達する。われわれのテーマのわく内にははいっていないのだが、こうした事柄を詳細に研究するものは、おどろくほど多くの特徴が、個々の点にいたるまで類似していることを発見するであろう。そこで、多くの偉大なヨーロッパの思想家たちの心をゆり動かしてきた問題が、理解される。すなわち、キリスト教教会は、固定的な教義学、僧侶の位階制、その他のものを形成することによって、おそらくはキリストの純粋な教えから、はるかに離れてしまったが、それはちょうど、仏教教団が、ブッダの純粋な教えから離れてしまったのと同様ではないか、という問題である。ところで、いまふれた仏教の方向は、〈マハーヤーナ〉すなわち(救いにいたる)《大きな乗物〔大乗〕》と呼ばれ、それに対しして、ブッダの素朴な教えにもっと強く固執し、彼をたしかに偉大な開祖かつ師として崇敬はしたが、あくまでも人間としてであって、神としては崇敬しなかった方向は、軽蔑的な含みをともなって、〈ヒーナヤーナ〉すなわち小さな乗物〔小乗〕と呼ばれた。両方とも今日まで存続している。

                  以上転載終わり



                  ヨーロッパ人の視点です。
                  信仰は崇高なものだけれど、宗教団体になると堕落しやすいのは
                  人間の性でしょうか?
                  桜葉が強く関心を持っているのは〔小乗〕です。




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                  | おーば | 仏教・印度思想 | 23:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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