サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
昔話のつづき
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     年齢や信仰歴を公表することは私の考えのバックボーンを知っていただくことなので、読んでいただけるのはありがたいことです。
    実名などを公表すると周りの人や関係者に不快感や迷惑を与えることがあるのでひかえております。

     教会支部時代には大した実績が無くて勝利できないがゆえに長居をしていた感じです。
    ビデオを見てもらったのは数名、主を明かしたのは2〜3名、誰も教会に残っている人はありません。
    周りのみんなは数ヶ月で販売のお仕事に就いたりしていなくなってしまいますから寂しかったですね。

     販売店の仕事に移ったからといって活躍できたわけではありません。
    もっとも、鼻っ柱の強い高慢ちきな私が簡単に実績を与えられていたら天狗になって手が付けられなかったでしょう。
    その店舗で再び台所の責任分担でした。
    当時は台所に立ちながら聖歌をよく歌っておりました。
    自分が落ち込んでしまうのがいやだから歌っていたんですが責任者は喜んでいましたね。
    そりゃあ暗い顔で作ったご飯を食べたいとは思いませんでしょうから
    結果オーケーだったわけです。
    喜んで責任を果たすことが周りにも良い影響をおよぼします。

    台所をやりながらもたまには前線にもでてました。
    東京ではなんの実績も出ませんでしたが、
    そこの店舗がそっくり千葉へ移動になった後、
    前線に出る時間を多くいただけるようになりようやく数件のお客様との出会いを持つことが出来ました。
    当時は「愛好会」から「天地聖教」が始まった頃です。
    お一方だけご紹介できましたが御言葉には相対できませんでした。
    情の厚い方でしたがそれだけで来ていただいた感じです。
    今どうしていらっしゃるでしょうか。
    担当エリアでは交流を持った方は多くいらしてもそれこそ相対基準で経済的に困難な方ばかりでした。
    「占い師は売らないし」なんて言われてましたね。

    「天地聖教」の道場のお手伝いもよくしました。
    供養祭で使う精進料理を作ったりするのですが、
    年配の婦人(おかあさんと呼んでました)中心に手際のよいこと。
    散らし寿司をつくるのにグラスに砂糖と塩と酢を目分量で「このくらい」といいながらぱぱっと作ってしまいます。
    勉強になりました。
    支部にいたころ「絵画展」「キモノ展」「CB展」「I展」などの接待スタッフをやりましたけれど、青年中心の展示会とは全く違い、婦人たちの情と信仰に支えられた道場には癒しの空気がありました。
    (内容も違いますけどね)


    勝共連合へ行くことになりました。

    事務局員ではないのでひたすらにアルバイト生活です。
    選挙事務所のお手伝いもありましたが、
    派遣会社に登録してデパートでマネキンをしてみたり、
    みんなで集まって内職仕事をしてみたり…です。
    デパートのマネキンは婦人服のニットを販売してましたが
    惨憺たるモノでした。
    おしゃれなんて縁の無い生活をしていましたから何をどう薦めたらよいのか皆目検討がつかないのです。

    選挙事務所…と言っても選挙期間前だからなんと呼ぶのだろう?
    ポスター貼りやリーフレット配りはFの経験を活かせばお手の物でした。
    こちらは先方にも好評でした。
    何件かの選挙を経験しましたが、事務所に入って応援したところで勝てたことがありません。
    なんということか……。

    こういうことの積み重ねが教会から離れる素地を作っていったと思うのです。
    「負け癖」というやつです。

    おーばはこれでもそのたんびに一生懸命歩んでいたのです。
    「完全投入」してたつもりですが
    大した実績もなく中心者を十字架にかけるカインでありました。
    蕩減が満ちるのに時間がかかっているんだと励まされつつ言い聞かせつつ歩んでました。
    だけど結果がありませんでした。

    事務局に入って勝共支部活動もさせていただきました。
    なかなか盛り立てることはできませんでした。

    このころの私は恵みを数えることが出来なくなっていたと思います。
    力を失い朝起きられなくなってしまったことから生活基準を整えなさいということで
    一般の会社で仕事をすることを進められました。
    勤労青年として教会支部に所属を移し、
    一人暮らしを始めるに至ります。

    ここにいても摂理にプラスになる歩みは出来ないのだなと感じ、
    いたとしてもただ飯ぐらいでしかなかったので
    3万双の祝福にも入れなかったのを期に
    「御用があればまたお呼びください」
    とお祈りして通うことをやめることにしました。
    なかなか踏ん切りはつきませんでしたが…。

    まぁ、とても基準の低い歩みしかできなかった私です。
    しかし、だからこそ様々に御言葉を求め祈った世界もあります。
    実績という形は与えられませんでしたが振り返ってみれば様々な愛をいただいてきたと感じています。

    つらつらと流れだけを書きましたがまた、深く書いてみたくもあります。

    | おーば | 昔話 | 16:23 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
    昔話
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       私が統一教会に出会ったのは高校を卒業した年の今頃です。
      …1984年、27年も経つのですね…。
      ダンベリー収監直前だったと思います。
      興進様が昇和された直後だったでしょう。
      教育部の姉妹たちはこぞって興進様のお写真入りの銀色のペンダントをつけていたことを憶えています。

      献身生活は10年もたなかったのが正直なところですが、
      30代の頃に一度戻りかかったこともあったり、
      霊の親とは未だに連絡を取っていたり、
      信仰の友達ともやり取りしています。
      同期の殆どは3万双です。

      兄弟たちは6500双にも多く入りました。
      当時はエバさんばかりが多くてアダムさんが足らず、
      「信仰歴足りないけど皆行きなさい」送り出されておりました。
      信仰歴がなくても年齢がある程度達していればエバさんたちも行きました。

      私にとって古い食口と言えば、1800双や777双を連想します。
      私がホームにいた頃は『アメリカ摂理』と言われて彼らの多くは渡米していました。
      私たちは6000双のお姉さんたちに育てていただいた格好です。

      今、古い食口と言えば6500双や3万双も入るのでしょうね。
      3万双の友人たちは家庭に入って子育てに頑張っています。
      一般家庭・埋没食口などと自称しています。

      青春でしたが『返せ』などとは思っていません。
      苦しいことも多かったのですが、それなりに宝物のような経験です。


      地元の駅前のビデオセンターに通い
      2Day、4Day、21トレには通いで参加し、実践トレで入教しました。
      「ぐちゃぐちゃと考え込むのは高校時代で終わりにして、
      これから一生懸命仕事してキャリアをつけるぞ!」
      と思っていた時期ですから、
      「何で今頃こんな話に巻き込んでくれるんだ。」
      とうらめしくもありましたね。

      勤めを辞めるときには会社で大騒ぎになりました。
      入社して1年未満は教えるばかりで何の役にも立っていないんだぞと言われ、
      「退社」ではなく「解雇」になりましたよ。
      辞めさせてもらえたのだから形なんてどうでも良く本気で感謝してました。
      トレーニングが終了した後はまさかの食当で、いきなり支部の台所をやりました。
      家では料理なんかしたことが無かったのに…。
      もちろん一人でやったわけではなくて2〜3人いたでしょうか?
      私はここで料理を覚えたのです!!
      だけど時間主管ができなくて、
      ゴハンが出来上がるのはいつも時間ぎりぎりでした。
      兄弟たちにはいい迷惑だったでしょうね。

      この後伝道前線があったかなかったか?
      あったとしても一ヶ月程度。
      次に強烈な印象があるのは世界日報の研修でした。
      新聞配達と珍味販売。3ヶ月だったかか4ヶ月が研修期間だったのですが、
      私は何故かそれを2期分やらせていただきました。
      ここでは女性店長とのアベル・カインの葛藤がきつかった。

      このときの恵みは、毎月の決断式が渋谷松涛本部だったり、
      御言葉が豊富だったり、お写真がどっさりもらえたり
      (この時のお写真は未だに押入れに残っていると思います)
      何よりお母様が世界日報本社を訪問されたときに
      全販売店に全員集合のファックスが流れ、
      お母様がびっくりされるような騒ぎになったことでしょう。
      2メートルくらいの近さまで行ったのですよ。

      この世界日報のときに新聞配達をしながら成約断食7日間をやりました。
      2日目3日目あたりがきついんですよね。
      あとは明けてからのおかゆ生活も辛い。
      しかし、年上の経験豊富なお姉さんたちに囲まれていましたから
      かなり守られていたのではないでしょうか。

      研修を終わって支部に戻り、伝道前線はやっただろうか?
      私は内務の責任分担が多かったのです。
      前線に出ても「基準が低い」実績の上がらないメンバーでした。
      再び食当をやってたように思います。
      このときが教育部の台所のチーフだったかしら?

      そして再び支部から出ます。
      東京マイクロと言って分かる方は分かると思いますが、
      珍味販売の研修部隊です。
      一ヶ月間車中生活。
      この時の実績は、世日研修で販売したときと同程度でした。
      世日研修ではトップクラスの実績も、東京マイクロでは最低でした。
      同じ数字を出していたのですがね。
      つまり自分でやっているということなのです。
      運勢とか霊界とか一切関係なしということ。

      そして卒業できず。

      通常東京マイクロの後は販売店に行くのが当時のルートなのですが、
      私は支部へ出戻りました。
      …そして内務仕事…。

      基準が低かったおかげで、チャーチマザーや巡回師という皆様からたくさん牧会を受けて御言葉をたくさんいただきました。

      都内に教会が幾つかあったのですが、
      私があまりに基準を下げるものですから
      責任者は別な教会へ移動することで変化があるのではないかと期待したのか、あるいは匙を投げたのか?
      前線に出られない、実績が無いという愛の減少感がとても強く感じられていましたから、匙を投げられたという思いが強かったと思います。

      そう、愛の減少感といえば、
      私は駅前で声をかけられて伝道されたので、
      声をかけてくれた人が「霊の親」ということになるのですが、
      私の場合にはこれが男性で、
      とても面倒なことになりました。

      統一教会では男女問題は大変厳しく、
      恋愛感情などもってのほかなのですが、
      私はそれまでに彼氏など付き合いが会ったこともなく、
      恋愛経験ゼロで伝道されたわけです。

      好意を持つことに異性に対する思いなど入ってなかったわけですが、
      どんな好意であろうとも、好きになることは恋愛感情と周りが決め付けてしまうのです。
      自分ではよく判らないので「そんなもんなのか」と思わざるをえないのですが、
      周りでは霊の親子が仲良く交流しているのを見るわけで、
      そんなところで愛の減少感を感じていましたね。
      スタッフも幼かったのだと思いますがきちんとした指導をして欲しかったです。

      さて、都内の別な教会へ移動することになりました。
      そこでは伝道前線を少しやった後、
      壮年婦人部の子守という責任分担をやらせていただきました。

      マンションの一室で、前線活動する婦人たちのお子さんを面倒見るという役です。
      自分では子供を持つチャンスが無かった私には小さな子供と触れ合った唯一の経験でした。
      これもきっと神様の配慮だったのでしょうね。
      ここが半年くらい。
      そして待望の販売店への人事が出ます。
      続きはまた書くことにします。

      | おーば | 昔話 | 21:47 | - | trackbacks(0) | - | - |
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