サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
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    人間は成長するものです。
    肉体と共に精神も成長します。

    わたしはこのことを皆さんに伝える努力をもっとするべきなのだと最近思い始めています。

     

    成長のことはブログで何度も書いてきたことですが、ブログの魚拓版PDFを作ってみました。
    ページ右側にあるカテゴリーの『心の成長』と『七つの封印』がそれを中心としたまとまった記事です。
    カテゴリーで選択すると、新しい記事が前に来てしまって読みにくいのですが、PDFでは記事の順番通りに読めるように並べてあります。
    以前に造ったレポートと、『夜の神・昼の神』も下記のダウンロードページに置いておきますので、関心のある方はページに飛んで該当ファイルをお持ち帰りください。

    http://www.o-baka.com/Leaf-download/Leaf-top.html


    心とか精神とか言いますが、これは霊や魂と同義です。
    霊魂などというと肉体を持たない死者のことだと思ってしまいがちですが、人間は生きている時から霊魂を持った存在です。
    肉体が死んだときに、霊魂だけになってしまうので、霊魂を指して死者と勘違いするのです。
    肉体が生きているうちは、霊魂は肉体の中に納まっているので意識されにくいのですが、
    肉体の命があるうちから、霊魂の方が個人の本体なのですよ。
    見えないし触れないのでついつい忘れがちですが、見ている本体であり、感触している本体は心即ち霊魂なのです。

     

    霊的な成長と表現してしまうと、スピリチュアル系のアセンション(=次元上昇)というのが連想されます。
    三次元から四次元、五次元へ。
    更には十一次元くらいまであるんでしたっけ?
    ただ数字で表現されますと、何やら階級制度みたいで胡散臭く感じてしまいます。
    高次元にいる人たちから何やら見下されているような宇h会館を感じてしまいます。
    実際に、スピリチュアルで語られているアセンションした人たちの話というのは聡明であり人を見下すような精神状態の人ではないのでしょうが、
    この高次元とか低次元とか言う表現や数値で表される階層が、どうしても上下関係をイメージさせるのです。
    上下関係でしかとらえられないのは、その人の精神が「その程度」なのだとここもバッサリ切り捨てられてしまいます。

     

    文師が語られた心情の八段階の成長段階はもっと酷い言葉を使っています。
    「僕の僕」「僕」「養子」「庶子」「実子」「母」「父」「神」
    封建時代の奴隷制度、家父長制度のごとしです。
    「僕」「子」「父」「神」は聖書に出て来る格位なので、それを利用して説明しようとしたときに、
    こういう段階になってしまったのだろうと私は理解しますが、それならスピリチュアルが数字で表現したのも何か致し方ない理由があるのかもしれないと考えるべきなのでしょう。
    ちなみに、人間関係を上下関係でとらえるのは「僕の僕」から「養子」まででしょう。
    「庶子」は達観というよりはドロップアウトしてるので。

     

    数字で表現されると、その内容を探る上での手掛かりに困りますが、どんな言葉でも言葉で表してもらうと何かしらの手掛かりを探れるものです。
    今「認知言語学」というジャンルの本を読んでいますが、ここに出て来る言葉は解説するのに役立つかもしれません。
    少々お待ちください。

     

    また、アフターコロナ、あるいはウィズコロナの社会を考えるために、横の八段階の考察をするべきかなというアイデアもあります。
    「個人」「家庭」「氏族」「民族」「国家」「世界」「天宙」ですね。
    こちらはまとまるかどうかは怪しいですね。
    書くとなるとちょっと過激な表現になりかねない気もするので。

     

    | おーば | - | 21:04 | comments(4) | - | - | - |
    COVID-19
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      新型コロナは色々な問題をあぶりだしました。
      為政者と民衆の感覚の乖離が最たるものでしょうね。

       

      感染防止のためにできる限りリモートワーク(テレワーク)に切り替えてくださいと、聞いた時には情けなかった。
      この発想は、命令を下す側の人間が、何をやらせようかという会議や、その資料の取りまとめをするオフィスワーカーだけに可能な事なのよね。
      現場で汗を流す人間のことなんか眼中にないわけ。
      そして、このテレワークで仕事をしているつもりの人間が、その報酬として現場か債権のような形でお金を吸い上げている。
      今、商売をやっている人たちが家賃が払えないとか、リース料が払えないとか問題になっていますが、
      家賃を受け取る大家さんが債務を持っていたらその支払いのために家賃を待つことができないという話です。
      個人商店を止めるならばその川上で蜜を吸っている連中を止めなければ川下は死んでしまうしかないんだ。
      川上は家で仕事するんじゃなくて家出休んでなさい!!

       

      原油価格が一時マイナスになりましたね。
      今はどうなっているのかしら?
      証券とか金融商品とか先物取引とかやっていないのでよく分かりません。
      そのよくわからない市場の中に債権の取引も含まれています。
      家賃とか、保険とか、預貯金までもがこういう市場に繋がっています。
      この市場は大きな金額が日々動いていますが、ほとんどがネット上での数字のやり取りなのでしょう。
      これらはテレワークで十分動きます。

       

      原油価格が暴落したのは何故ですか?
      世界中で飛行機やクルーズ船が運航しないし、自動車も動いていないからでしょう?
      現場が動いていないからなんですよ。

       

      もっとも、飛行機やクルーズ船はテレワークで仕事する人あるいはその家族たちが主に使っていたものなのだけれど、
      今回の感染劇にはずいぶんな役割を果たしました。
      この現場で働いていた人たちに何か悪意があったわけではありませんが、
      彼らが相手にしていたお客たちにはいささか問題があると思えるのです。

       


      個人商店や中小零細企業は生き残りに必死です。
      最近露店でマスク販売している人たちがいますが、普段衛生用品を扱わない会社がつてをたどって中間業者から仕入れたものを販売しているというケースらしい。
      通常ルートのドラッグストアや薬局には入らないのは多分日本に入る時点で通常ルートじゃないからなのでしょう。
      戦後の闇市みたいな感じですね。
      戦後みたいに配給制で販売しちゃいけないものを売っているわけではないし、
      営業できない人たちが生き延びるためにやっているんだからいいことだと思います。
      庶民は逞しいのだ。
      もっとも、マスクに関しては、国がきちんと数を仕入れて混乱しないように配給するくらいのことをしてほしかったですが、そんな能はありませんでしたね。

       


      この騒動の中で、麻生さんが言っていた「ウハウハなところ」というのは
      スーパーマーケットとドラッグストアと、衛生用品関連、デリバリーショップ、通信販売、宅配業者、通信業者、通信機器関係、ネットコンテンツ事業、医療関係(?)
      売上的にはウハウハかもしれないけれど、現場は修羅でしょう。

       

      飲食関係でアルバイトしていたような人たちが仕事を無くしているのだからそちらへ回ればいいのかもしれないとも思うのですが、
      なかなかそうもいかないようですね。
      実際、怖いからしかたない。

       


      子供たちの問題も今回浮き彫りになってきました。
      学校が閉鎖されてしまったものだから給食が食べられない。
      各地域での子ども食堂も“蜜”をつくるからと言って開催できなくなりました。
      そこまでの貧困問題になっていない家庭でも、両親が共稼ぎの家庭では居場所がなくて大変なことになっていました。
      一日中留守番させられる年齢ではなく、学童保育も“蜜”問題に引っかかる。
      今回は祖父母に預けるという選択肢も高齢者が危ないという理由で塞がれました。
      そもそも三世帯同居であれば同居家族ですからかまわなかったんじゃないのかな?
      アフターコロナの新しい生活習慣に、子供たちの居場所の“蜜”問題は考えられているのかしら?

       

      そして家庭内DV問題も心配です。

       


      学校給食で契約しているから他へ流せない生産者。
      一部地域でフードドライブに回し始めているようです。
      ただ、子ども食堂が閉鎖されているからどうやって届けるべきかという問題があるようです。
      子供給食だけではなく、路上生活者向けの炊き出しなどもできなくなっているようです。
      都内でもネットカフェ難民と呼ばれる人たちが行き場を失っていて、支援団体は彼らがどこへ消えてしまったのか心配しています。

       

      社会の弱いところが助け合って回っていく仕組みが出来上がればいいのだけれど、これは現場からの知恵がなければ動かない。
      「おうちで楽しむ術を見つけて過ごして下さっている皆さんありがとうございます」
      などと言っている人には思いもつかないことなんだ。

       

      | おーば | - | 00:33 | comments(2) | - | - | - |
      バカな呟きです
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        新型コロナウィルス問題が、古い世を滅ぼしてくれるのではないかという淡い期待を抱かなくもない。

         

         

        日本で5月6月で落ち着きを取り戻せるのならばCOVID-19は黙示録の第五のラッパのイナゴの害なのかもしれない。
        だとしたら、第五の教会であるサルディスの教会に奨められたことを実践する必要がある。

         

        「わたしはあなたの行いを知っている。
        あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
        目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。
        わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。
        だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。
        もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。
        わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたは決して分からない。
        しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。
        彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。
        そうするにふさわしい者たちだからである。
        勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。
        わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。
        耳のある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」

         

         

        実は死んでいる人は新生を成し遂げている人、死にかけている者たちというのは、新生しようとしている人たちですね。
        わたしの神という表現があるので、わたしと名乗る方は神ではないとするとメシアでしょうか?
        ここで来られるメシアは第六の封印を解かれて新しいエルサレムを築かれる方でしょうか?
        だとしたら第四アダムと呼ばれる方かもしれません。
        あなたの行いはまだ不完全だからもっと頑張れと。
        目を覚ましていれば知らせをもって訪れる。
        (ラッパの音を聞きなさい。)
        だけどいらしたとしても分からないというのは残念至極。
        衣を汚していない少数の者たちはいるということなので、
        彼らがメシアと共に歩くことができるように、これまで受け取ったものを活用しなければいけませんね。

         

        これを自分のこととして読むのはあまりにもおこがましいけれど、
        ここで謙遜傲慢で失敗するのも悔しい事でしょう?
        そもそも“おーばかよ”と名乗ってるんだからバカになりましょう。
        衣を汚していないと自負する方もバカになって下さい。
        願わくは、私が受けて聞いた事柄を活かす方法を共に考えてはくれませんか?
        共感し、共有しなさいとも聞いているので。

         

         

        | おーば | - | 23:22 | comments(0) | - | - | - |
        趣味と信仰 十字架と復活
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          暗い世相に「ヨハネの黙示録」なんていかがなものかと思えるが、どうやら私は『7年の艱難』を『7段階の教練』と読み替えたようだ。
          『死』を『古い価値観の死』と読み替えるのは決して目新しい話でもないので大した楽観論でもないだろう。

           

          あちこちのキリスト教会が会堂での礼拝を中止しでオンライン礼拝に切り替えているらしいです。
          私が礼拝に通っている教会はそれでも集まって礼拝をしています。
          もともと規模の小さい教会で、この自粛令の影響もあり参加人数は当然のように半減しています。
          私はサンデークリスチャンなのですが、それでも教会の役員みたいなことをやっているので基本参加しないと不都合が出ます。
          11日土曜日に「受難日礼拝」12日日曜日に「イースター礼拝」があったので参加しました。

           

           


          クリスチャンにとって『礼拝を守ること』というのはそこに信仰をかけているようです。
          統一教会を経て来た私には、そういう価値観はちょっと違和感ありますが、クリスチャンの心情を理解することも必要だと思っています。
          教会員の中には、家族全員で信仰している人もあれば家族の中で一人だけという人もいます。
          そういう人たちはこの状況で礼拝に参加するのは難しいようです。
          『信仰』というのは傍から見れば『趣味』と同じようなものです。
          多くの人たちが今は『趣味』を我慢して巣ごもりしています。

           

           

          だけど『趣味』はその人の人生を変える。
          『趣味』が高じて生業になる人も多いのだ。
          アスリートとかアーティストとか呼ばれる人たちの多くは学生時代からの趣味を職業にした人が多いのではないか?
          『信仰』を職業にするのは牧師とか僧侶なのかな?
          信仰者にとって、信仰は趣味と一緒にされては困るものでしょう。
          でも、傍目からはアイドルの「おっかけ」とどこが違うのかということになる。
          どこが違うか説明できますか?
          出来ないんですよ。
          アイドルを追っかけている人たちの気持ちが分からないでしょ?
          神様について十分に語り切れますか?

           

           

          クリスチャンはイエス様のおっかけです。
          ジーザスクライスト・スーパースター!!!

           

          新しい宗教は教祖様のおっかけです。

           

           

          雨が降ろうが槍が降ろうがコンサートに集まるファンたちはアイドルに自分たちの愛情と熱意を示したい。
          外出自粛が出ている時に礼拝に集まるクリスチャンはイエス様に自分たちの信仰を証したい。

           

          アイドルへの情熱は時に冷めるけど信仰は違うのか?
          やっぱり冷める人は冷める。
          一般にアイドルよりも信仰の方が少々賞味期限が長いかもしれない。

           

          アイドルはコンサートやメディアに露出するときと、素の顔はイコールではない。
          多くの人が様々な演出をしてキャラクターを創っている。
          長いことやっている人はうまくバランスを取りながら素の顔を少しづつファンの前にも出している人もいるかな?

           

           

          宗教の教祖はどうなんだろう?
          演出なんかではないと信者は言うけれど、一体どれだけ理解できているだろう。

           

           

          私は文師も好きですし、イエス・キリストも好きです。
          だけどどのくらい理解できているかと問われると難しいよね。
          そして、元統一教会員としてはイエス様に対する理解がキリスト教だけを信じてきたクリスチャンとは少しずれる。
          礼拝はエンターテインメントなので、行けば気持ちが上がることもあるし、外れればそれなりのことだってある。
          ネット配信よりも生の方がいいのは当然。

           

           

          イエス様は罪のない方なのに、私の罪を負って十字架上で亡くなられた。
          という信仰観が私には無いのです。
          旧約的に、供え物を捧げることで自分たちの罪が赦されるという信仰があればイエス様が供え物となってくださったことが「私の救い」に繋がるかもしれないけれど、私にはそんな信仰は無い。
          クリスチャンが羊やハトを捧げないのはイエス様に優る捧げものはないからで、十字架以降捧げられるべき供え物の全てをその身をもって代えて下さったと考えるからなのでしょう。
          もっとも、そこまで考えている人はほとんどいませんが。

           

           

          勿論、十字架に意味が無いとは言わない。
          イエス様の十字架と復活があったから、弟子たちの人生が変わった。
          十字架なんかなくっても、弟子たちの心に火が付いていれば伝道は進み、み言葉の種を広めていくことができたであろうけれども、
          エルサレム入城の前に、弟子たちが考えていたことはイエス様がイスラエルの政治的な王様になって自分たちは出世できるというようなことだったらしい。
          そんな考えでいたらみ言葉の真意なんて理解できるわけはないのだ。
          御言葉に相対することができなかったその『罪』がイエス様を十字架に付けたとは言えるかもしれない。

           

           

          その弟子たちの姿が自分なのだと重ねて考えることを牧師は勧める。
          弟子たちの有様を我がこととして悔い改めなさいと言う。
          悔い改めればいいのか?
          そこから先に進まなければイエス様の願いに生きることなどできない。
          クリスチャンは悔い改めが好きだけれどなかなか先に進めていない。
          悔い改めようとする以上にみ言葉に生きて先に進もうとは思えないのか?

           

           

          イースターにイエス・キリストは復活した。
          違う。
          復活させられたのは弟子たちの信仰だったんだよ。だけどそこから進めていない。。。。

           

           

          食口達は?????進んでますか??????

           

          | おーば | - | 16:51 | comments(6) | - | - | - |
          七つの封印-21完結 ヨハネの黙示録(後編)
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            後編−本題です。

             

            まず、第一段階は『僕』です。僕に上がるために『戒め』を必要とします。
            第一の教会エペソにあてた手紙には何と書いてあるのかというと、律法的に生きて「初めの愛から離れてしまった。」と書かれています。
            初めの愛とは、キリストの教会であれば『キリストの愛』と考えて問題ないでしょう。
            そして「あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。」という記述は悪魔的所業を戒める立場を書いているように読めます。
            第一の教会はイスラエル民族を表していると考えられます。
            そして第一の封印が解かれた時にあらわれた者は冠を与えられ勝利を重ねるというのは『王』の風貌であり、『主』である。
            つまり僕として使えるべき主人がやってくることが書かれているのです。
            第一のラッパで「地上の三分の一が損なわれる」というのは、『僕の僕』の三分の一が『僕』としてあがなわれるととれるでしょうか?
            第一の災いで獣の像を拝むものというのはやはり偶像崇拝を思い起こさせます。

             

             

             

            第二段階は『養子』です。養子になるために『福音』という愛の御言葉を必要とします。
            第二の封印が解かれた後に現れる赤い馬に乗った「地上から平和を奪い取ることを許され」大きな剣が与えられたのは、マタイによる福音書10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」と言うイエスにみごとに一致しています。
            第二の教会であるスミルナへの手紙には、この教会が「ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられている」と書かれており、まさにイエスの福音に生きること、すなわちクリスチャンとしての信仰が示されています。
            ここにイスラエルではなく、ユダヤという名称が使われているのが空恐ろしいのですが…。
            の三分の一は血となり」も、血は生きたものの象徴という原理講論の主張を取り入れることで、『僕』の三分の一が『養子』としてあがなわれたととれるでしょう。
            「血」の表現は第二の災い、第三の災いのほか、衣を血で洗う、血染めの衣等の表現も、生きた者の象徴という解釈をする方が意味が通りやすい。

             

             

             

            第三は『庶子』の段階です。第三からが問題になるかもしれない。
            ペルガモにある教会は困難の中にも信仰を立てつつも、第一の教会エペソで憎まれる「ニコライ宗」や「バラム教」を奉じてみたり不品行に陥ったりしている。
            霊的に明るくなることによって、却って霊に主管されてしまう危険が伴うことから僕の僕へ陥ってしまう危険性が指摘されているように感じました。
            そして第三の封印が解かれた時に黒い馬に乗ってあらわれた者は「はかり」を持っています。
            はかることは判断することです。
            ただ従って行く段階から自ら判断する段階に踏み入れたことを表すように考えられます。

             

            第三のラッパに「にがよもぎ」の記述があります。
            1986年4月26日、ソ連(当時)のチェルノブイリ原発事故が発生しましたが、チェルノブイリというのが「にがよもぎ」を意味しているんだというのを聞きました。

            (Wikipediaにも記述があります。https://ja.wikipedia.org/wiki/チェルノブイリ原子力発電所事故#チェルノブイリと聖書)


            ラッパというのは時を告げるものともされます。
            封印の時というのは、一人一人の成長に応じて個人的に迎える“時”と、
            別に、全人類的に初めてその段階が解かれる“時”があるのです。

             

            1986年に、UCで何があったのか?
            愛勝日(1984年)の後アベルとして霊界に行った興進様を思い、長男の孝進様が悔い改めの基準を立てて勝利され、注目を浴びていたころかと思います。
            あるいは、ブラック興進様が表れた頃かもしれません。
            この時、例えば聖進様はどうしていらしたのかは知りませんが、心情的には複雑だったのではないかと思います。
            本家以外にいらした子女様が本家の長男に抱く嫉妬心はとても強いと思いますが、本家の長男がもてはやされるこの時に、庶子の立場でその嫉妬心を克服していたことがあったかもしれません。
            そしてブラック興進様の問題は霊的問題であり、庶子が越えていくべき課題の一つでもあります。
            文師にささやかれる女性問題はこの『庶子』のような立場を作り出す為であったとも言えるのかもしれません。

             

            第三のラッパと災いは川とその水源と書かれていますので、これは“泉”を指すと読むことができます。
            聖書の泉と言えば、イエスの御言枯れることのない泉、命の泉、福音に他なりませんね。
            つまりクリスチャン『養子』の立場に与えられる災いであり、『養子』から『庶子』の心情圏に成長するための“災い”となります。
            聖進様のような庶子的立場にとってのニガヨモギは孝進様という事、そういう読み方です。

             

             

             

            第四の教会テアテラには女性の問題、姦淫の問題が挙げられています。
            カップルの問題を越えていかなければならない段階に通じます。
            実子圏に上がる段階であるので、勝利を得るものには諸国民を支配する権威が授けられ、「明けの明星」が与えられます。
            「明けの明星」はルーシェルの象徴ですが、サクラleafでは「ルーシェル」は昼の神の幼名とも言うべき名前であり、女性として目覚めていない状況であると考えます。
            詳細は過去記事をご覧ください。

             

            http://blog.o-baka.com/?eid=344

            (↑13回シリーズの一回目のリンク)

             

            第四の封印が解かれると、青白い馬に乗った「死」が登場します。
            『実子』の段階は名実ともに神の血統に入る立場であると考えれば、ここで訪れる「死」こそ正真正銘の「死」になるのでしょうか。
            対象となるのは“太陽・月・星”、八段階の順番から行くと『庶子』であり、『第三イスラエル=成約聖徒』ですね。
            “太陽・月・星”はヨセフの夢解きでは“父・母・子”なので、祝福家庭を象徴しているかのようにも捉えられます。
            ラッパが鳴るときには暗くなり、災いの時には太陽だけ燃え盛るという、振る舞いが一貫していません。
            庶子の立場ならば、判断は各自に任されているので一貫しないこともあるのでしょう。

             

             

             

            女の問題、太陽・月・星と言うと、12章から書かれている女が気になります。
            「太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。」とある。
            『庶子』圏の女性ならば単に『月』と表されてもよさそうだが、『月』の“上”に立っているのならばこの女性は『実子』以上の女性、
            第五段階ということになる。
            『実子』を対象とするのは第五の封印であり、『母』に向かう段階です。
            また、17章に「大淫婦」というのが出て来る。
            彼女もまた「地の憎むべきものの母」と書かれています。
            彼女は赤い獣にのっているが、この獣は12章に描写される「赤い龍」と同じ特徴で書かれています。
            赤い龍、赤い獣は13章にも描写されており、淫婦とともにかなりヤバイ、ラスボスのようです。
            多くの人はこの獣についての謎解きを期待するでしょうが、今の私にはそこまでできませんので悪しからず。
            第五の災いは獣の座を対象としています。
            つまり、第三の封印では男女の問題でしたが、第五の封印では女性単体での攻防になるようです。
            攻防と言っても「月を踏む女」は防戦一方のようですが。

             

            第五の教会サルデスでは「死」を宣告され、「死にかけているのこりの者たちを力づけなさい。」とあります。
            そのまま読むと現在の疫病との攻防を彷彿とさせますが、「死」が新生のためのものであるとすれば「死にかけ」るのは新生の前触れです。
            12章の女は生みの苦しみを受けていますので一致しますね。
            そしてサルデスには「白い衣」を汚さない者が出てきます。
            第五の封印でも、神の証を立てた故に殺されたとする者たちに白い衣が与えられます。
            子羊の婚宴に招かれたもの、都に入るために衣を洗う者、十四万四千人の描写の後「数えきれないほどの大ぜいの群衆」が白い衣をまとっています。
            気を付けて読んでみるとなぜか十四万四千は衣について書かれていません…?。
            イスラエルでなくとも白い衣を着ることはできるようです。
            この脈絡ですと、衣を与える『母』と受け取る『子』の立場があるようですね。

             

            第五のラッパの時、天から一つの星が落ちると言うのですが、子女の誰かということになるのでしょうか?
            底知れぬ所の穴を開くというのですが、これは何を意味するのかよく分かりません。
            ただ、続いている文章は、イナゴが人に五か月間害を与えるとあります。
            イナゴは「金の冠のようなものをつけ」とあるのが冠=コロナと読めてしまい気持ちが悪い。
            彼らの王は「ヘブル語でアドバンと言い、ギリシャ語ではアポルオンと言う」これらは破壊神のことだが、アポルオンは太陽神アポロンに通じる。
            太陽もコロナと近いですね。
            現在の騒動が五か月(日本で6月、世界レベルでは8月いっぱいというところかな?)で収束または目処でも付くなら“今”かもしれませんが、どうなのでしょう?
            現在の状況から夏に収束する気配は見えませんよね?笑って見過ごしてください。
            そしてイナゴの害を受けても聖書的には「死ぬ」ことはないと書かれているので、イナゴと「新生」は無関係のようです。

             

             

             

            第六の教会ヒラデルヒヤ。
            この教会はべた褒めです。
            しかし、ここでもう一度「サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たち」が出てきます。
            彼らを連れてきて平伏させると書かれています。
            私は陰謀論とかあっても不思議はないかと思うので頭から否定するつもりはありませんが、積極的にそうだと決めつけようとは思いません。
            しかし、イスラエルの子らと書かずにユダヤ人と書かれると、今、陰謀を巡らせている輩を降参させるよと書いてあるみたいでなんだか変な感じです。

             

            第六の封印については掘り下げていないので十分な考察はできないのだけれど、このヒラデルヒヤの教会で勝利を得る者の褒美の中に
            「わたし神の御名と、わたし神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」とあります。
            私はここに注目しています。
            都と言うのは社会システムの中心地にあたります。
            「聖なる都、新しいエルサレム」の記述は21章。
            エルサレムと対比される都「バビロン」は17章から「大淫婦」の正体として描きだされ、18章で滅びが描かれます。

             

            第六の封印はほぼ天変地異状態。
            第六のラッパは人間の三分の一を殺しに来る四人の天使。
            四人の天使の挿話は7章にある。
            十四万四千人に印を押してしまうまでは、地と海と木とを損なってはならないと「もうひとり」から命を受けているので、守護しているのか、攻撃を準備しているのかである。
            また、14章にも天使の記述がある。
            ただし「もうひとりの」「第二の」「第三の」「もうひとりの」「もうひとりの」「もうひとりの」と、6人くらいいそうなので一人多いかな?的外れかもしれない。
            天使の記述はもう少し読み込めば何か見えるものがあるのだろうか?

             

            二億の騎兵と、火と煙と硫黄、ハルマゲドン、これらが恐らく古いシステムを壊すのだろうけれども一体何を表すのか?
            今回のコロナ蔓延の中で『ポストコロナ』というのが囁かれているようです。
            新型コロナの蔓延はグローバル経済にダメージを与えるので、システムの再構築が必要になるのではないかという話です。

            パンデミックにはそのくらいの力がある。
            四十二か月間の世界政府でもできるのだろうか。(ただの思い付きです)

             

             

             

            第七の教会ラオデキヤ。
            各教会への手紙は必ず「勝利を得る者には」の記述があります。
            ここでは「わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。」と書かれています。
            七番目の封印を解いて上がればそこは『神』の圏ですからまさしくその通りですね。
            第六の教会はべた褒めだったのですが、ラオデキヤはけちょんけちょんに能無しあつかいです。
            足りない者なので色々なものを買いなさいと勧めます。

             

            第七の封印が解かれた後は半時間の静けさです。
            第七のラッパの後は「この世の国は、われらの主とそのキリストの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。」
            第七の災いは激しい雷と地震ですが、これは前の段階に留まる者への災いです。
            なので災いの前に「事はすでに成った。」と書かれています。

             

            第七の封印の簡単明瞭な封印の内容とは、「何もするな」ということです。
            『僕』段階の人がこれを言われればいともたやすく従うでしょう。
            しかし、『父』や『母』の段階の人はそれまでに様々な建設・運営に携わってそこまで来るのです。
            後から来る人達のやっていることにはあれこれ口や手を出したくなるものですが、そこをこらえて、彼らを信頼して見守りなさいということです。

             

             

            さて皆さんは今、どの封印にチャレンジしているのでしょう?

            飛び級はほぼほぼ認められませんので目の前の課題に真剣に取り組みましょう!

             

            ご意見、質問などコメント欄など通じていただければ幸いです。

            都内であればミーティングも可能ですよ。。。コロナ騒動が終わってからの方がいいかな。。。?

             

             

             

            | おーば | 七つの封印 | 01:13 | comments(6) | - | - | - |
            七つの封印-20 ヨハネの黙示録(前編)
            0

              第七の封印について、これは私の中では比較的早くから簡単明瞭な結論が付いていて大した説明も無いのです。
              これを書けばこのシリーズも完了です。
              去年の1月から書いていますから、かれこれ一年以上かけてると思うと我ながらよくやったかなぁと。


              第七の封印の前に、ヨハネの黙示録について触れておこうかと思います。
              新コロナウィルスの禍中でここに触れるのもいかがなものかと思われますが、時が重なってしまいました。

               

              七つの封印というのはご存知のこととは思いますが、新約聖書の中のヨハネの黙示録に出てくる言葉です。
              おととしの暮れにこの言葉を持ち出したときには、実はほとんど思いつきのようなものでした。
              なんとも重たいタイトルを付けてしまったものだと今思います。
              私は黙示録についてそれほどよく読み込んでいたわけではありません。
              太陽を纏い月を踏む女については書いたことがありますが、実に断片的な読み方しかしていませんでした。
              (あ、通読くらいはしていますよ。)
              実に比喩の多い謎めいた文章です。

               

              ふとした思いつきが後から大きく意味を持ち、きちんとした整合性を持ってくるということは割とよくあります。
              そこで黙示録を通して読み直ししてみましたので、その辺のお話を書いてみましょう。
              しかし、ここで書く動機が問われています。
              何を目的として書くのか?これによって文章が全く違うものになってしまいます。
              そもそも、この黙示録が書き残された理由は何なのか?
              こんなに恐ろし気で訳の分からない文章がどうして聖書に残されているのか?
              信徒たちからしてみれば、最後の時には恐ろしいことがあるから十分に備えなさいという警告かもしれませんが、
              一体どんな備えをしたらいいのかもわからないような文章です。
              これもまた『時』に備えて解明されることを見越した暗号伝文なんでしょうか?

               

              これを解き明かせばちょっとカッコイイですよね?
              でも、そんな動機で書くとまともな文章にはならないのです。
              かっこよく見せようとする思いが文章の端々に出てしまいますし、何より正確な読みと気をするためのひらめきが与えられません。
              何を動機とすべきかというと、このシリーズを書いている動機と同期することになります。
              この一連の記事は、食口の皆さんが、成長していただく一助となればという願いをもって書いています。
              また、様々な考えを持っている方々と意見交換のたたき台になれればいいとも思っています。

               

              ですから、黙示録についても滅亡の書ではなく、希望的に読んでいくべきだと考えます。

               

              これは、黙示録から心情の八段階を解いたのではなく、心情の八段階を前提として黙示録を読むことで黙示録を解く試みです。(※注:完全網羅してはいませんのでご了承ください。)

               

               

               

              黙示録を読んで思うのは、全体に訳が分からないにもかかわらず、何か恐怖心をあおる内容になっているということです。
              何かをしなければ大変なことになるという恐怖心、逆に、何かをしたらとんでもない目に合うという恐怖心。
              これを強調して人を動かす宗教は『恐怖信仰』と呼ばれます。

               

              恐怖信仰というのは『僕』の信仰です。
              『養子』の信仰は、恐怖を(やせ我慢でも)越えて、許されていることを信じる信仰です。

               

              キリスト教自体は愛と赦しの宗教と言っていますが、聖書の中にはこういう警告というか脅しのような文章は少なくありません。
              信仰の入り口として戒めを守る必要があるのと、いきなり養子信仰に到達することができないからなのだと思われます。
              黙示録の冒頭には、ヨハネは自らを僕であると書いています。
              これは信仰の段階として僕信仰だと表明しているわけではありませんが、『主なる神の僕』という意味合いです。
              しかし、裏を返せば『父なる神の子供』ではないわけです。
              (養子は父なる神という表現はできても、神の子という表現はなかなかできないものです。
              何故か神道は人間を神様の子供であるという意識がしっかりあるようですが。)

               

              黙示録が難解で、恐怖におののくような内容になっているのは、記述者であるヨハネの視点が『僕』の立場にあるからだと考えられます。
              これは彼の時代的に致し方ない事です。

               


              死や滅びについての記述は、古い価値観の終焉として読み直してみましょう。
              これはなのも目新しい事ではなく、新生するためには一旦死ななければならないというクリスチャンにはおなじみの考え方です。
              洗礼を受ける時に一旦水に身を沈めることを『古い私の死』と位置付けています。

               

              ヨハネはキリスト者ではありますが、八段階的に捉えるならば僕の段階であり、そこから上がっていくにはまだ六つの段階があると考えられます。
              その段階ごとに封印が解かれていくならば、その都度新しい価値観を受け入れていかなければならないことが想像できます。
              それを一段階を越えたばかりの第二段から見るとすれば、そら恐ろしい事だったことは想像できます。

               

               

               

              黙示録には同じ言葉が文章をまたいで繰り返されているところもあります。
              キーワードと言っていいのでしょう。
              これらを解く試みは皆さんやっていらっしゃるのだろうなと思います。
              私はこれまで取り立てて関心を持ってこなかったので、ここでの解き方はありきたりな解き方かもしれませんね。

              桜葉はそういう読み方をしてるのかくらいに読んで下されば幸い。

               

              そして、七つの封印以外に、七数がいくつか出てきます。
              他にも数字は出てきますが、今回は七数に注目して読みます。
              七つの燭台、星、教会、み使い、封印、ラッパ、獣の頭、災い。
              この中で、1番目〜7番目までの解説がついているのが『教会』『封印』『ラッパ』『災い』です。
              七つの教会にそれぞれ宛てた手紙が紹介され、
              封印が一つ一つ解かれるごとに起こった事柄が書かれ、
              次いで七つのラッパが吹き鳴らされるごとに災いが起こり、
              「神の怒り」の七つの鉢から災いが繰り広げられていく。
              第七の災いの後、バビロンの大淫婦が滅ぼされ、千年王国が来るわけですが、扱うのは七つの災いまでにします。

               

              文脈としては『七つの教会』→『七つの封印』→『七つのラッパ』→『七つの災い』なのですが、
              『第一の教会、第一の封印、第一のラッパ、第一の災い』
              →『第二の教会、第二の封印、第二のラッパ、第二の災い』
              →『第三の教会、、、、』と読んでみます。

               

              このように読むとき、繋がりがあることに気が付きます。
              全てに繋がりを見出すわけではありませんが単純なところでは、
              第一のラッパは血のまじった雹と火が『地上』をそこない、第一の災いは「神の激しい怒りの七つの鉢を、地に傾け」と、
              『地』という言葉が第一の数字に関連付けられています。
              同様に、第二は『海』、第三は『川』『水源』、第四は『太陽・月・星』または『太陽』。
              第五のラッパと災いについては他と記述方式が違っているので明確ではありません。
              しかし、教会で「勝利を得るものは白い衣を着せられ」、第五の封印が開かれた時神のあかしを立てた故殺された人々に白い衣が与えられています。(白い衣は第六、七にも関連する言葉がありますが、第四までにはありません。)
              第六は『大ユウフラテス』なのですが、これはラッパと災いの記述に出てくるだけで他とつながりを見出せません。
              第七は『天』または『空中』です。

               


              ここに更に心情の八段階の言葉を重ねて考えていきますが、長くなるので一旦止めます。

               

               

              | おーば | 七つの封印 | 22:20 | comments(2) | - | - | - |
              七つの封印-19 母そして父へ
              0

                珍しくの連投です。

                 

                 

                個人 −家庭−氏族−民族−国家−世界−天宙−神
                僕の僕−僕 −養子−庶子−実子−母 −父 −神

                 

                第四の封印ペアシステムの話は国家・実子に向かう時に開く。
                次に来るのは世界・母になる封印。

                 

                実はこれは八段階の御言そのものなのです。

                 

                人としての成長段階を理解した上で子供たちを育て教育してゆくのが母です。
                八段階の御言は、母の国日本の姉妹たちがコディヤックの水産工場で何年も缶詰加工の仕事を続けて立てた勝利圏によって語られたものです。
                女性に関係の深い御言なのです。

                 

                八段階の御言は、
                母−父−神とするものと、
                夫婦−父母−神とする話を聞きます。

                 

                『母』としてしまうと女性だけ、『父』としてしまうと男性だけになってしまうので、
                『夫婦』『父母』とすることが正しいんだと考える人もありますが、
                サクラLeafでは『実子』の段階でカップルが一体不可分になるという前提で、先に『母性』の完成があるという話になります。
                恐らくは、この母性の完成によって、男性もまた育まれる世界があり、第六の封印を解く方向へ向かうこととなるのでしょう。

                 


                知的にはこのシリーズ全体が第五の封印について書く試みということになりますので、ここで書くべきことはありません。
                心情的には子女を愛する基準が必要なので、これは黙示録に書かれている『月を踏む女』と被るように思います。

                 

                http://blog.o-baka.com/?eid=336

                 

                ↑過去記事

                 

                『蛇は、口から川のように水を女の後ろに吐き出して、女を押し流そうとした。しかし大地は女を助け、口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。』
                去年この光景を見ましたね〜。
                台風19号の時の地下神殿はまさにそのものですね。
                2012年からだったかに運用開始しているものなので、既に時なのかなと思わされます。

                 

                女が生んだ男の子は天の御座に引き上げられ、
                そして荒野で女と他の子供たちが養われます。
                黙示録からすると、5番目には『白い衣』がかかわってきます。
                衣を洗うものは幸いである。
                この衣を配るのが母なのでしょうか。
                何故衣と表現されているのか?
                礼節を知らしめるものなのでしょうか。

                 

                 

                 


                では第六の封印はどういうものなのでしょうか・
                ここまでに個性完成と子女繁殖までが解かれてきました。
                万物主管が残されていますね。
                『父』の段階は横的には『天宙』を指します。
                天宙は万物世界をも含めた世界です。

                 

                昔のホーム生活で万物主管と言えば身の回りの生活用品を管理することを指していました。
                だから万物主管は個性完成をするまでにクリアする問題だと考える人もあります。
                そんな次元ではありません。

                 

                もっと大きな規模で物理的な万物は主管する必要はないのでしょうか?
                物理的世界を主管するのは科学に任せればよいでしょうか?

                 

                そうです、私たちは社会システムとしての政治と経済システムを見出す必要があります。
                このシステムは八段階の成長過程を踏む子供たち全てが幸福に暮らせるものであり、
                その成長を助ける社会システムであるはずです。
                共生共栄共義。
                ここにはホームチャーチの理想も実現されています。
                ホームチャーチを実現するのはコミュニタリズムになると思われます。
                資本主義も影をひそめることでしょう。
                共産主義社会はサタンが先駆けて実現した理想社会の模擬形体だと言われています。
                現在の共産主義国家は独裁国家でしかないでしょう。

                 

                八段階は全人類が行かなければならない道だと語られています。
                つまり、母も父も人類の中で唯一の存在というわけではありません。
                真の父母という立場は唯一かもしれませんが、教育を担当する母と社会システムを治める父は唯一ではありません。
                協議を通じて運営されるものとなるはずです。
                それは利己主義を克服した成人によってなされるものです。
                その様な父母たちの下子女たちは生まれ育ちまた父母へと成長していきます。

                 

                第三の封印までは一人で解くか、あるいは長上に導かれて解くものなのだと思いますが、
                第四の封印からは対等または後から来る者たちと向き合い、愛してゆくことが求められます。
                中心にぶら下がってついて行くだけでは上がっていくことができませんし、
                愛の対象を持たなければ先に進むことができません。
                勿論、幼い時代は誰しもが通過しなければならない時代ですし、
                その幼い存在が、先行する人たちを同時に育てていく構図になります。
                しかし、幼いものもいずれは成長して後進を育てる立場になっていかなければ、天国で最も小さなものに留まることになるでしょう。

                 


                このように八段階を踏まえた成長をしてきた者たちは小さな存在を抱えて自らを育てていくので、
                彼らが暮らす地域と時代に応じて社会的な運営をせざるを得ません。
                八段階は縦の関係と共に横の関係を示しています。
                これまで万物に隷属してきた歴史は万物と共存する歴史へと切り替えられることでしょう。
                地上天国はそのように運営されるものです。
                専制君主制でも独裁国家でもありません。

                 

                そのシステムの詳細を示すのは女性である私の任ではないだろうが、
                断片的なアイデアは与えられているので機会を改めて書くことができればとも思います。

                 

                 

                | おーば | 七つの封印 | 17:31 | comments(4) | - | - | - |
                七つの封印-18 自由意思と運命
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                  さて、男女の問題について、『男はかくあるべき』『女はかくあるべき』と決めつけたくはないと思うのはどういうことなのか?

                   

                  『自由』の問題なのです。
                  『個性』の問題かもしれません。

                   

                  『意思』というのは『自由』な存在であると定義せざるを得ない。
                  これが『不自由』であるとき、自立性が失われ、他者からの影響に拘束されることを意味する。
                  拘束を受けるということは意思を発動できない状態です。
                  『自由意思』と言うけれど、『不自由意思』というのは聞いたことがない。

                   


                  意思について、今一度考えてみたい。
                  自らの欲求に基づき行動を決定するのが意思であろう。
                  行動と言うのは何らかの運動または変化の表出と考えます。
                  静止・変化しないという意思もありますので、形体的表現とすべきかな?

                   

                  以前マズローに触れたけれども、彼が言うには以下のように段階を踏んで欲求は変化していく。


                  マズローピラミッド

                   

                   ○生理的欲求 (Physiological needs)
                   ○安全の欲求 (Safety needs)
                   ○社会的欲求 / 所属と愛の欲求
                    (Social needs / Love and belonging)
                   ○承認(尊重)の欲求 (Esteem)
                   ○自己実現の欲求 (Self-actualization)

                   

                   

                   

                  生理的欲求というのは肉体的な情報の中で個体の維持と成長に関わる事柄を指し、その中で快不快を得ていく。
                  安全の欲求では、個体以外の対立する存在を認めた上で個体維持が保てる環境を快適と感じる。
                  ここまでは、肉体的環境に拘束されていることに気が付くだろうか?

                   

                  “肉体の維持に必要な”という条件は、肉体の構造に規定されているのです。

                   

                  社会的欲求の中身は、自身が知っている社会環境の中からセレクトして求めるのです。

                   

                  欲求は自由に発動するものと思いがちですが、実は環境によって規定されているのです。
                  感覚し、知り得た範囲からしかセレクトすることができません。

                   


                  ある程度の規定を受けた中でいくつかの選択肢を得てその中からセレクトできるのが自由な意思です。
                  まるっきりのやりたい放題はありません。

                   

                  選択肢がない事柄も少なくはありません。
                  私たちには空気がよどんでいるからといって呼吸しない自由はありません。
                  カロリーを消費したくないといって心臓を動かさない自由はありません。
                  しかし自由を制限されたとしても、私たちは日常的にそれを不自由だとは感じず、受け入れています。

                   

                  これは地球上に哺乳類として生まれた生命の運命です。

                   

                  男として生まれること、女として生まれることも運命として受け入れざるを得ない内容です。
                  自分でセレクトできることではありません。
                  男として許される選択肢はどこまでなのか?
                  女として許されている選択肢はどこまでなのか?
                  ここは問われ続けることだと思いますが、ここの選択肢を理解するためには実子圏の知恵が必要であり、
                  幸福な選択をするためには実子圏の心情を持たなければできないということになります。

                   

                  実子としての意思を持ててから結論を出すべきことなのでしょう。
                  ですから、今、僕や養子段階で言われている男らしさとか女らしさと言うのはまるっきり的外れである可能性があるのです。

                   

                  統一教会における祝福式も、長成期完成級に到達せずに受けているのですから、
                  その価値が発揮されることも理解されることもあるわけがありません。
                  長成期完成級と言うのは庶子を示していると考えています。
                  養子圏の社会性と天使の屈服に象徴される霊的自立を確立したうえで初めてパートナーを選択する自由意思を持つことができます。
                  それ以前には自力での選択はある意味では博打でしかありませんので誰かに頼ってみたり、失敗もする。
                  具体的に付け加えるならば、霊的な協助の問題を主管できること。
                  主管するというのは周囲の意見に振り回されずに目的に叶う選択をできる意思を発動するという意味です。
                  言われることを鵜呑みにしない判断力。

                   

                  まぁ、これができないから『霊的に守られるように』献金で徳を積むという話になるけど責任を霊界に押し付けてるだけでしょう。
                  誰も実子圏に届いていないのですから、完璧なカップルはそうそうできませんが、それでも自らの意思で決定することで
                  はた目からは失敗に見えても、当人たちには経験として有意義になり得ますし、成長にも繋がり得ます。
                  カップルを形成した後から心情的成長により見出される世界もあるでしょう。

                   


                  個々人のケースは個性に応じて色々あると思うのですが、唯一、真の父母という立場についていえば、
                  唯一の創造主夜の神と、世界を展開するために支えるもう一柱の昼の神を各々臨在させるお立場であれば、
                  その規定性は見えてきます。
                  絶対愛、絶対信仰、絶対服従…これを死守しなければならないのが真の母の立場ではないかと思います。
                  夜の神と昼の神が一つでなければ天宙は基軸を失うのです。
                  非情に不自由なお立場となりますが、父母には子女を放り出す自由はありません。

                   

                  その中で、様々な選択肢を見出し創造性が発揮される世界が形成されていくことになると考えます。
                  自由意思が発動されることがなければ愛は存在する余地がないからですね。

                   

                   

                   

                  | おーば | 七つの封印 | 18:14 | comments(0) | - | - | - |
                  七つの封印-17 男女の問題についての考察(迷走気味)
                  0
                    男性と女性の差異について語ろうとするときには、
                    「○○でなければならない」という表現は絶対に避けたいと考えます。
                    必ず個体差があるし、「〜ねばならない」という表現は『僕』段階の思考形式だからです。
                    この思考方式は『庶子』の段階で消え去ります。
                    お釈迦様の蒟蒻問答は「〜ではない」という形で展開しますがこれは『庶子』段階なのかもしれません。

                    今扱おうとする男女の問題は『僕』段階でのテーマではなく『実子』段階でのテーマです。
                    なので断定形式は避けたいと思います。
                    表現の曖昧さを避けるため、ところどころ断定系の言い回しになることもあるかと思いますが、あくまで傾向的なものと考えるべきでしょう。



                    絶対的な『無』の認識に基づく『存在・存続』への固い意志。
                    これを真の主体性だとして、一般の男性がどうやってここに辿り着くことができるのか?
                    『在る』ことが当たり前の世界に生まれ育っているのだからどうしようもない。

                    これは夜の神から相続するしか他にないのだが、アダムがこれに失敗している。
                    つまり道が閉ざされている「ケルビムと回る炎の剣」によって。
                    『生命の木』、生命の根源としての意志なのか。

                    もっとも、世界に責任を負う主体は一人いればいい。
                    それ以外はそれぞれが分け持つ責任の中でオンリーワンであればいいわけです。
                    ただし、自分が成さなければ代わる者はないという心情は必要でしょう。



                    『僕の僕』時代に喜怒哀楽の感性を身に着け、
                    『僕』時代に原理規範の必要性を理解し、
                    『養子』時代に協調性を身に着け、協調する中での個性を確認し、
                    『庶子』時代に霊性と主体性を確立する。


                    それらを踏まえた上で、置かれた環境と向き合い、ミッションを見出してゆく。

                    これは完成した『庶子』の立場であるが非常に孤独な境地での歩みになる。
                    この時にミッションを通じての協調関係が生まれてくるのでしょう。

                    養子時代の協調関係と異なるのは責任心情の差でしょうか。
                    向き合うミッション自体が、自ら選び取るものであることも重要。
                    養子時代の環境は保護者の笠の下である。

                    現代社会に於いて、例えば社内のプロジェクトチームでチームリーダーになるのは、会社からの任命か、あるいは自発的発案によるものか。
                    会社からの任命は養子圏に近いかもしれない。
                    自発的プロジェクトや起業などであれば、それに対する責任心情と主体性はとても強い。
                    会社からの任命であれば同等の主体性は発揮できないかという訳ではないが、そこに霊的な必然性(運命)を見出せるか否かでしょう。

                    女性起業家や女性リーダーはあり得ないのでしょうか?
                    現代社会には山ほどいる。
                    不可能ではないはずです。
                    女性だってミッションを得ることはできるのです。
                    ただし、それは養子圏に留まることを意味し、実子圏への扉は開かれない。

                    リーダーの下にサブが育つ。
                    そこに相対関係が生まれやすいが、『サブ』という表現は誤解をされるだろう。
                    そのミッションに共感する『同士』として協調関係を築く者である。
                    異性であるとは限らないが、同性である場合には相対関係にはなり得ないのだが、
                    あくまでも実子圏での話であり、養子圏においてはここでパートナーシップを感じて同性愛に向かうカップルも現れる。
                    (仕事ばかりではなく生活圏内に於ける目標・目的全てがミッション足りうる可能性があるので、様々なシーンで協調関係は生まれる。)




                    私には偏見があるのだろうか?
                    それは抜け出したいと願う問題です。
                    ちょっと疑問点・気になるところを書き出して迷走します。


                    男女のカップルになることにどんな意味があるのでしょうか?
                    子孫を残すことが可能なのは男女のカップルだけなので永遠性へとつながる?
                    それならば子供を授かることができなかったカップルは意味を持たないのでしょうか?
                    そんなことはないはずだ。

                    異性を排除することは真の愛をもたらさない?
                    これはあるかもしれない。
                    同性カップルだけでは男性であること、女性であることの意味を見出す可能性は排除されている。

                    女性は真の主体性を持つことはできない?
                    男性ならば可能であるという根拠はどこにあるのでしょう?

                    愛に二つある。
                    相似形合流と相対形合致。
                    相似合流は共鳴して流れを一にするが、いずれ別れることもある。
                    相対合致は凸凹関係なのできっちり組み合って離れにくい。
                    相似と相対の両方を兼ね備える愛が最も強くなるのは目に見える。

                    同性カップルでもどちらかが陽陰の役割分担をする。
                    交互に分担するとしても常に陽陰の関係性でつながるものでしょう。

                    女性は対象格位をとりやすのだろうか?
                    それは肉体的な弱さによるのか?
                    だとしたら虚弱な男性は存在してはならないのか?


                    夫婦愛(実子的協調・陽陰を踏まえる)と友愛(養子的協調・陽陰を前提としない対等)
                    男女のカップルだとしても友達夫婦はゴマンといる。
                    というよりは完成した男女がいない現状でほとんどが友達夫婦だと言っていいのでしょう。
                    その友達次元の夫婦を見ていれば、同性カップルは社会的に認められないことに不満を持つのは当然のこと。

                    対等意識は友達関係。
                    主体的責任心情の必要性。
                    主体的責任心情を育むのは対象からの刺激。


                    前近代的と言われる家父長制度は本然的だろうか?
                    近いものはあると思うけれど、男女ともに個性完成せずにカップルになっている。
                    『家』に対する責任の発端が僕的に「〜ねばならない」という動機に始まらざるを得ない。
                    そうすれば養子的協調以前の僕的従属となる。
                    『家』に対する十分な誇りを持ち、それを理解する花嫁を迎えた場合にはかなりいいカップルになるかもしれない。
                    『家』が運命的ミッションとしての役割を果たすということ。
                    名家の場合、地域社会への貢献が生活に密着したミッションを引き受けている場合がある。
                    名君というのは生まれ得ると思う。


                    ならば祝福家庭はどうだろう?
                    絶対的主体(メシア)に侍ることにより、女性は対象としての性質を獲得。
                    侍るというのは絶対信仰絶対服従なのでしょう。
                    形状的に従うのではなく、心情世界に至るまで相対する必要があるのです。

                    メシアに侍る如くに侍ることで主体者を育てる。
                    メシア(=神)を愛することは天宙を愛することなので存在全てを愛するのと同義。(正確には天宙以上の存在)
                    メシアを立てる如くに主体者を立てることで立てられた主体者は立ち方を覚えることができるのかもしれない。

                    ただし、庶子完成(霊性と主体性の確立)までは人の責任分担である。
                    祝福前の条件として万物復帰と人材復帰というのがあるが、これが天使の屈服の象徴なのだと思われる。
                    残念ながら本当の意味で天使の屈服を成し遂げたことにはならない。
                    庶子完成に至ってから祝福を受けたカップルって私は知らない。
                    多くが僕、養子の基準で祝福を受けているように思う。

                    絶対的主体性はみ言葉によって相続する。
                    それならば、み言葉によって主体性を獲得すれば個性完成できるか?
                    庶子完成までは充分に可能なことだと感じます。

                    対象格位が対象性獲得する方が問題なのかもしれません。
                    だからこそ、文師は女性を重視し教育してきたと感じます。




                    究極的陽陰は『剛』『柔』(硬軟)かもしれない。
                    女性は柔軟であるからこそメシアの固い意志に相対して自らの形を変えていくことが可能になる。
                    勿論、個体差があるから『剛』にも『柔』にも程度や部位の佐賀あると思います。
                    ...原理用語やみ言葉に出てきた記憶はないなぁ。

                    剛硬は頑なさに通じる。
                    場合によっては僕的勧善懲悪に陥るかもしれない。
                    柔軟は方向性を失いやすい。
                    技巧に走って目標を見失うのだ。

                    優柔不断な男子は無価値だと言うのか?
                    頑なな女子は無価値だと言うのか?

                    これは幼さと考えるべきだろう。
                    優柔不断は女子にも歓迎しにくい性質だし、
                    ただ頑ななだけではリーダーシップにはならない。
                    正しい知識と愛情によって改善の余地があると思う。

                    硬質な脆さを理解するとき、柔軟は強さになる。
                    このことに気づくのは女性が対象格位としての愛情に目覚める一助となるかもしれない。


                    『剛』は男性の身体的特徴と言えるし『柔』は女性の身体的特徴と言える。
                    そのまま心情的性質に反映されている特徴と考えられるものではなかろうか?

                    そして相似形の愛はミッション(=目的)を同じくすること。
                    相対的合致の愛は剛柔凸凹という主に形状的性質とまとめられるかもしれない。

                    | おーば | 七つの封印 | 17:10 | comments(2) | - | - | - |
                    七つの封印-16 陽性実体と陰性実体
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                      人間個体は単体では自身が男なのか、女なのかを知ることができない。

                       

                      なんて書くと「何をバカな」と言われそうですね。
                      まぁ、極論です。

                       

                      男というのは陽性実体、女というのは陰性実体です。

                       

                      陽性か陰性か…ウイルス判定は持っているか持っていないかが陽陰ですが、人間の場合はあれを持っているかいないか…じゃなくて魂の問題として陽性か陰性かという問題。
                      肉体としても、生殖器で判断しますが男性器か女性器かは学習するまでは理解しない。
                      学習するというのは家族の中で学ぶ段階ですが、自分の肉体だけを見ていても男か女かは理解しない。
                      また、誰かから男の子だから、女の子だからと言われるまでは分からないし、その意味も理解してるわけじゃない。
                      誰かから教わる性の問題は総じてジェンダー(社会的性)と考えていいかもしれない。
                      それに順応できる個人と順応できない個人があって、LGBT問題なんかがおこっている。

                       

                      その問題を抱えている人たちには、「ジェンダーなんか気にするな、あなたはあなたなんだ」と伝えたい。
                      肉体の形によって社会的立場が決定されるのはちょっと理不尽だ。

                       

                      だけど私は女性が女性らしく、男性が男性らしいのは好ましいと思う人種でもある。
                      肉体の形によって(機能的な問題を含め)、心持も変わって来る。
                      思春期以前の性差は小さなものだけれど、初潮や射精を経験する頃には肉体からの影響で行動にも差が生まれる。
                      行動が変われば経験が変わる。
                      経験が変われば考え方も変わるのだ。

                       

                      それ以前に社会文化的に男だから、女だからという教育で、社会順応的に男らしさや女らしさを身に着けたり、あるいは不自然な反発を持ったりするのだが、これは教育論的な問題だから詳しくは突っ込まない。
                      社会という関係性が集約されている場での性。
                      肉体的な感覚・機能から影響される「らしさ」。
                      「らしさ」の方には個体差があるものなのだから、社会的な性を四角四面に押し付けてもいけない。
                      押し付けるまでもなく明らかに違うのだ。
                      押しつけによって生まれた反発は、自分の肉体の感覚さえも否定してしまう。
                      それは不幸だ。

                       


                      現代日本ではジェンダーの影響を全く取り払うことなど現実として不可能なことではあるけれど、
                      全く無垢な状態で思春期の男女が出会ったと想定した場合どうなるだろうか?
                      肉体的な差異つまり体力とか行動パターンによって二者の間に陽陰の差が見出されるだろう。
                      肉体的な性衝動によって結ばれることも考えられる。

                       

                      ここで問われるのが陽性と陰性によって生じる主体性と対象性の問題だと思う。
                      体力的な差異で支配的に主体に立つことは心情世界を中心とする人間にはあるまじきことである。
                      ジェンダーの知的理解で男は主体、女は対象というのもあてはまらない。

                       

                      真の主体性とはなんであろうか?

                       

                      八段階の問題から振り返れば、この陽陰の問題の前に霊肉の問題での主管性が問われる段階がある。
                      庶子における、霊的主管性、天使の屈服の問題だ。
                      男も女もどちらも霊的な主管位を確立してから陽陰の問題に向き合うのが『本然』なのだ。
                      アダムもエバもこの霊的な主管位を立てる前に男女の関係を結んでいる。
                      特にエバは主管性を立てる試練に失敗した物語が聖書の中に書かれている。
                      天使に主管された立場でアダムと向き合ったのです。

                       

                      しかし、仮に女性が天使の主管に成功した立場で、男性からの主管を素直に受けることができるかというとこれも難しい事のように感じる。
                      男性も女性も主管位を立てていれば主体格同士、プラスとプラスになってしまうから反発することが予想されます。
                      女性は主体格位を立てた立場から対象格位として主体格の男性に屈服できなければならないということになる。
                      これはちょっとしたハードルである。
                      一方男性は、天使の主管以上の主体性を発揮して女性を自然屈服できる主管力が求められる。

                       

                      これは、夜の神様と昼の神様の間にも生じた問題だったと考えられます。
                      独立した意識体であるにはそれぞれに主体性が必要です。
                      特に、霊的な存在である夜の神様と昼の神様の間では、『肉体的差異』による陽陰は決定的ではないと予想できますから、問題はさらに大きかったと思えます。

                       

                       

                       

                       

                      創造主は絶対的な主体である。
                      これは存在の根源であるから揺らぐことは許されない。
                      根幹が揺らげば存在は根拠を失うのである。

                       

                      例えば、紙の上に描かれた美しい絵はその用紙があるからそこに姿をとどめていられますが、紙が無くなってしまえば散り散りになってしまうしかありません。
                      不思議なことにここで描き出される主体は実にベーシストなのです。
                      とても地味に対象の意味づけをし続けています。
                      絶対的な主体であればリードをとる存在だと錯覚しますが、どうも違うのです。
                      派手なパフォーマンスを好むのは対象格位です。
                      華やかなパフォーマンスは確実なベースの上に成り立ちます。

                       

                      夜の神は絶対的な無を知っているので存在に対する強い愛着を持っています。
                      なので意味の根幹であるところのメトロノームのようなリズムを崩すことはない。
                      そのリズムの上に様々なメロディーは繰り広げられる。
                      これは無を知っているという記憶の形によってその情動が決定されているのです。
                      昼の神にとっては在ることが当たり前なので、それ以上の変化を求めるのかもしれません。
                      当たり前に在ることの意義を理解したところで初めて、昼の神は夜の神に首を垂れることになるのでしょう。

                       

                      真の主体性というのは存在存続への固い意志かもしれません。

                       

                      そんな地味で退屈な主体という立場を昼の神はねたんだのでしょうか?
                      その立場に自分が立てばもっと素晴らしい創造ができると思ったのでしょうか?
                      多分後者なんだろうなぁ。
                      自分がやればもっといいものができる。
                      驕りですね。

                       

                      さて、アダムは夜の神様から、そういう固い意志を受け継いでエバを迎えなければならなかったということか。
                      アダムは夜の神様との対話を通じ、また被造世界の美を愛することを通じて自分の意志としてそれを受け継ぐはずだったんでしょう。
                      でもその意思を固める以前にエバを迎えてしまったのかな。
                      エバはエバで、驕りによって主体者意識を持った昼の神にそそのかされて、主体の意を汲んでいこうとする姿勢は一切ない。
                      結果、原初の創造理想の秩序を受け継ぐものが誰もいない真の主体性を持つものがいない
                      世界が出来上がってしまったわけですね。

                       

                      夜の神の悔恨としては、昼の神に対して主体的な愛を示し受け入れてもらえなかったこと。
                      そのことに責任を強く感じておられるのだと思います。
                      昼の神はやってみたけれどしっちゃかめっちゃかな人類歴史を築いてしまって、あらどうしましょうと思っているのかな?
                      だけど元を作ったのは夜の神なんだから自分だけのせいではないと思っているんだろうか?

                       

                      だからメシアは男性として来る。
                      存在と存続への固い意志を夜の神から相続して、地道なベースを構築する方である。
                      この地道なベースに呼応できるのは対象格女性。
                      女性が対象格位としての自覚を呼び覚ますこと。
                      主体的な陽性実体を前にしなければこの自覚は生まれない。
                      陽陰は関係性の中にしか表れないから。

                       

                      なのでキリスト教でも主は花婿としてやって来る。
                      信徒は新婦の立場なのね。
                      絶対的な主体が立って初めて対象格は自らが対象格位であることを自覚することができる。

                       

                      | おーば | 七つの封印 | 22:23 | comments(6) | - | - | - |
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