サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
七つの封印-13 神のはじめ
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    つぶやきと呼ぶにはなんだか長ったらしい文章ばかりなのでブログタイトルを変更してみました。
    サクラ・Leafって、名前そのまんまですが、葉っぱというのは書き記された用紙を意味するものなのでいいかなと。
    ついでにサクラも日本を象徴する花なので和風な考え方(?)という意味合いも載せましょう。

     

     


    私たちは、そもそも三次元の世界に生み出された存在なので、存在と言えば三次元的なものを思い浮かべがちですし、三次元空間自体は神以前に広がっているもののように捉えがちです。
    あったのかもしれませんが、空間が空間として認識されるには三次元的な存在が生まれてからのことになります。

     

    認識することで存在が確定されるというのは量子論的な考え方ですが、
    統一原理も実はそのような発想で書かれているところがあります。
    創造本然の価値を語るときに、素晴らしい博物館を建てても観客たる人間がいなければ存在価値がないと言います。

     

    価値があるかないかと存在するかしないかは別だろうと思われるかもしれませんが、
    これを分離して考えるのは唯物思考あるいは物心二元論です。
    統一原理は唯物論ではありません。
    霊的存在を貴重に考えています。
    では、唯心論でしょうか、物心二元論でしょうか?
    宗教と科学の統一を図ることから、科学をも尊重する立場をとるため、物心二元論的立場を模索していたようですが、あいまいです。
    物心二元論の弱点は、精神と物質がどうやって関係を持っているかというあたりのあいまいさです。
    神を奉じる立場であれば、精神の優位性を信じる傾向が強い事と思いますが、その優位性をどのように説明するかと言う問題です。

     

    唯物論と言うのは比較的理解しやすいと思います。
    精神は物質の副産物であるという考え方で、人間の心は脳内で作られているので脳の活動が終わったら精神は消えてしまい、霊など存在しないという立場です。

     

    唯心論というのはその逆になります。
    物質は人間の精神が作り出しているもので、実は実体がないという考え方です。
    これをそのまま受け入れてしまうところころ変わる人間の考えによって世界が影響されてしまうため現実世界との整合が悪くなります。

     

    唯心論で世界の合理的な説明を付けられないと考えることが普通のようで、理性的な主張の多くは物質を客観的存在として考えます。
    そもそも、人々の心がバラバラで、個人においても考えが替わることがよくあるのが人間です。
    そんな人の心を基準として世界が構築されていたとしたら安心して生活することはできません。

     

    それでも私はこのブログ上では唯心論をとろうと考えています。
    唯心論と言っても、個人の考え方で客観的現実がデタラメに変わるわけではありません。
    主観と客観の関係性について冷静に思考できればと思います。
    そこに至高の精神と言うべき神の霊が、宗教と科学の根源であり統一体として存在する世界観の可能性を語っていきたいと考えます。

     

     

     

    さて、唯心論的立場を表明しましたので、創造の初めに神ご自身が一次元的な存在であれば、世界もまた一次元的存在であったと言えます。
    唯心論的立場からは、世界は精神に認識される場・環境でしかありません。
    精神のための器です。
    二次元キャラクターはモニタまたは紙の上の二次元に収まっていますね?三次元空間を必要としません。
    そして一次元の神は一次元の場に収まっています。
    これは性相と形状の二性性相でもあります。
    精神が形状としての環境と相対基準を結んでいる状態です。
    精神が表れる以前はその環境も無かったということです。

     

     

     

    ★記憶としての存在


    創造の始まりは、一次元的でしかありえないのは、三次元や二次元の概念が、一次元を経ずには現れ得ないからです。
    そのステップをもう少し丁寧に記述してみましょう。

     

    前記事で書いた最初の「感じ」も、三次元的な気配ではなく、二次元的・視覚的な色や光でもありません。
    何かしら、痛みの様な感覚かもしれません。
    想像するのが難しいですが、その「感じ」が強弱をもって拍動するのです。

     

    拍動とか、振動とか何か存在しているならば、それが運動することは理解できます。
    しかし、存在しないものが運動するでしょうか?

     

    逆なのです。
    『運動』を『感覚』したので、その『感覚』を対象化して存在としたのです。
    存在とは、感覚された『そのもの』を指します。

     


    一次元的感覚というのは、一瞬の時には一つの感覚でしかありません。
    二次元的な言葉で表現すると、辺り一面真っ白とか、真っ赤とか真っ黒とか、一色しか見えないみたいなものです。
    視界に映る一面が一色で塗りつぶされていたなら、私たちはそこに何かがあるとは感じにくいものです。
    暗闇や、あるいは雪の中で「ホワイトアウト」して道に迷うような感覚でしょう。
    しかし、その前の瞬間に、あるいは次の瞬間に、別な色があればどうでしょうか?
    時間の流れを通じてコントラストを味わうことができます。
    「意味」が表れてくるのです。
    有無の拍動は、過去と現在のコントラストによって生じてきます。

     


    過去と現在のコントラストを味わうために必要なものがあります。
    「記憶」です。

    今と違った過去があったことを思い出せなければ、今が過去とは違うことを認識することができません。
    現代科学では人の記憶は脳に書き込まれているものだと考えているようですが、どうなんでしょう?
    少なくとも、原初の神様には脳みそは無いでしょう。

     

    記憶に「運動記憶」というのがあります。
    身体が覚えてるというやつで、自転車の乗り方などは頭で覚えているというより運動記憶らしいです。
    慣性の法則など、運動が保存されている状態も、そのものが運動を覚えていると言えないでしょうか?
    一定方向に進みつつ、突然方向を変えたりしませんよね?
    心臓や肺も一定のリズムで動いています。
    脳が動かしていると言いますが、全てが脳の指令ではありません。
    水産物などでは、捌いてる最中にも筋肉が動いたりしますが、その動きはデタラメな方向に動くわけではありません。
    運動の中に記憶が息づいている例は少なくないでしょう。
    三次元世界での記憶は、物質そのものに刻まれています。
    過去の運動の結果が今の物質の状態を決定しています。
    柔らかい地面の上を動物が歩けばそこには足跡が残ります。
    それもまた、物質に残された記憶です。

     

    一つの運動を繰り返せば、その動きは無意識に繰り返されることがあります。
    しかし、一次元的な運動が記憶化されるには、そうとうな繰り返しによる定着が必要だったのではないかと想像します。

     

     

     

    ★記憶と時間の矢

     

    記憶とは、運動パターンとして蓄積されている可能性を感じますが、その分析は置いておくことにします。
    過去の瞬間の記憶と、現在の瞬間の感覚との差異が、構造を生ぜしめて有無の存在を決定していると考えると、
    存在の根源に記憶があると言うことができます。
    現在の存在を過去の記憶が支えているということです。
    その前に、過去と現在の間に差異を生ぜしめるものが感覚内容の変化であるということは、運動がさらにその根源であるということです。

     

    運動が時間を生み、記憶がそれを支える。
    運動による変化が時間を生み、変化を支えているのが記憶。
    (運動がない静止した瞬間には過去の概念が立ち入る余地さえもない。)

     

    0次元というのが座標原点であり、
    1次元というのは、0次元に時間運動を加えた直線である。
    2次元平面は、1次元直線に時間運動を乗じたものである。
    3次元は、2次元の時間運動の結果である。

     

    つまり、加算あるいは乗ぜられた記憶が存在を支えている。
    そうすると、現存在である私は、過去存在に支えられている存在であるので、
    過去存在を記憶として閲覧できるけれど、過去存在当事者にはなることができない。
    現存在は確定した過去存在があるから存在が可能であるから、過去存在と現存在は存在として兼ねることはできないし、
    過去存在は変更可能な現存在と同じ可能性を持つことはできない。
    過去存在の変更は、現存在を否定することになる。
    『過去への介入の禁止』これはSF小説やコミックでよく出てきますよね?

     


    存在そのものはプラス方向にしか向かえず、時間は逆行しない。
    反物質と虚数空間はまさに虚構であり概念上の存在でしかありえない。
    (では、何故概念上に現れたのか?思うところはあるのですがそれは別な機会に論じてみたい。)

     

    そして在って在る神は、在ることを選ばれたので後戻りせず、イザナキノミコトも産むことを選んでいる。

     

     


    ★意思の発生

     

    『運動・変化』(変化は運動の副産物なので以下運動とのみ記述)と『時間』と『記憶』と『存在』について記述しています。
    ここまでは過去を参照する現在までの存在です。
    神を信ずる立場は、神に人格性を見出します。
    人格とは、喜怒哀楽の感情と、意思性です。

     

    運動、時間、記憶、存在の中で、
    『記憶』というワードは明らかに知的分野のワードです。
    『存在』については、対象格位、過去の裏打ちを持つ客観性の可能性です。
    『時間』は『運動』により生まれ、過去と現在に次いで未来の可能性を示唆します。
    『運動』はエネルギーを秘め、興奮など、情緒的可能性が見出せます。(エネルギーが満ちれば喜び、枯渇すれば悲しみ。)

     

    心や精神は、情知意と表現されます。
    ここまでに、『運動』と『記憶』という形で『情』と『知』が登場しました。
    では、『意』が何かというと、『意識』としての現在であり『意思』としての未来への要望。

     

    正の位置に『運動』(無意識的原因)

    分-主体の位置に『記憶』(原因認識)

    分-対象の位置に『時間』(認識対象・付随的)

    合の位置に『存在』(結果)

     

    第一次的にこうしていいかもしれない。

    運動によって生じた記憶であり時間です。

    第二次以降は、

     

    正の位置に『存在』(在って在るという目的)

    分-性相の位置に『運動』(情緒的方向性-快・不快)

    分-形状の位置に『記憶』(目的達成のための方向性判断対象・存在基盤)

    合の位置に『時間』(意思的未来)

     

    かな?

    少しすっきりしない。

    『記憶』というのはそれ自体にエネルギーが感じられないが、

    神の全知性を支える体のように感じている。

    おそらくワードの選択の問題だと思います。

    まだ言い当て切れていないのでしょう。

    ニュアンスで拾っていただければいいのですが…。

     

     

    Twitterで二世の男性が
    「意思とは物理現象であることにまちがいない」
    と、つぶやいていた。
    三次元物理世界に生きる私たちにとって、それは真であろうと思い印象に残っています。
    この世界では『存在』とは物理現象であることはまちがいない。

     

    しかし、意思が二次元的にも一次元的にも生じ得るとすればどうでしょう?
    それは物理現象とは限らなくなりそうです。

     

    | おーば | - | 13:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
    七つの封印-12 『無』から『有』へ
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      『無』について書きましたが、これが『ペアシステム』とどう関係するのか理解することができるでしょうか?

      恐らく簡単ではないと思います。

       

      『無』に至って、そこから何ができるのか?

      原初の『無』の瞬間には時の流れさえもありません。

      時が移るべきコマが無いのですから。

       

      次の瞬間に『有』が現れたとしても、その『有』という存在には何の歴史もありません。

      歴史を持たないその存在には『記憶』もありません。

      無垢の『有』は、いったい、何をもって『有』と主張できるでしょう?

      それはささやかな『構造』を持つことです。

       

      この、構造をもって『有』と主張した存在が「あってあるもの」としての創造主他なりません。

      私たちは全ての存在が創造主によって創られたと考えるからです。

      この存在が、「いや私は某乃何兵衛だよ」と名乗ったとしても、私たちが信頼する創造主はこの存在です。

      経験しえない『無』の記憶を持たれる唯一の方。

      そして、『有る』ことを選択し、『有る』ことを愛された方です。

       

       

      何の記憶も持たない存在が、いきなり複雑な構想を持つことは不可能です。

      知識の乏しい幼い子供の発想は、時に大胆にはなりますが、緻密さは持ち得ません。

       

      幼い子供とは何事か、神と言えば、それが一神教の創造の主であるとするならば、

      全知全能の何も欠けたところのない存在としてイメージすることが普通でしょう。

       

      しかし、無から有を生み出した瞬間に、一体何を知っていることができるでしょうか?

      知りうることは「世界には何もない」ということだけではありませんか?

      未来を知っているのでしょうか?

      未来はそこから創られるものであれば、空想したとしても知ることではありません。

      空想するにしても、そこには感覚できる内容が何もないので、色も形も音さえも無いのです。

      感覚できないということは、経験することができないということです。

      経験できないということは何の記憶も持ち得ないということです。

       

       

       

      本当に単純な構造とは、無と有を分け隔てるところから始まらざるを得ません。

      無と有を隔てることで時間が生まれます。

      『無』の瞬間と『有』の瞬間です。

      『有』と言っても何かの物質的な存在であるわけではなく、ぼんやりとした何かの、かすかな『感じ』程度でしかないでしょう。

      何しろ身体さえも持ち得ない瞬間です。

      オカルトか、何かのファンタジーの世界のようですね。

      (ああ、そういえばミヒャエル・エンデのネバーエンディングストーリーに書かれている脅威は『無』でしたね。

      人が書く、様々な物語の中にも実は啓示的な内容が少なからず含まれます。

      その出所は様々なので、有益なものを見極める、あるいは有益に読み取る心を持つのが庶子です。)

       

       

      時間を刻むことはリズムを産むことができます。

      『無』を訪ねたときに最後に残った心音のようです。

      人は母の胎に居たときには、母の心音に包まれています。

       

      原初には音でさえもなかったでしょう。

      『感じ』の粗密が感覚され強弱となり、音として意味づけることでそれは音になるのです。

      途方もないプロセスを経て、『感じ』は『音』になり、やがて『声』になるのでしょうか。

      古事記において独り神が現れては身を隠すプロセスが重なってきます。

       

      ゼロと1だけで書かれた言語がありますね?

      バイナリ―データです。

      バイナリ―データはコンピュータ言語ですから、その表現内容はとんでもない世界です。

      あるいはモールス信号も音と無音の組み合わせで表現される言語です。

      そしてこれらは立体であるはずもなく、平面でさえありません。

      直線的な一次元の世界でしかありません。

       

      そうして創造主は様々な幾何学パターンから複雑な意識を構築されていったと考えられます。

      人が神様と言うときに、意思をお持ちになる存在であることはあまり注目されませんが重要なポイントです。

      創造神にせよ、八百万の神がみであろうと、人が神様と呼ぶ存在はそれぞれに意志を持つ存在です。

      神様が意志をお持ちなので、御機嫌を損ねることのないようにお祭りするのです。

      信仰を持っていなくても、宇宙に根本的な原因があるはずだと人は考えます。

      科学者たちはビッグバンを宇宙の始まりだと言いますが、そこには誰かの意志を認めません。

      偶然の産物だというのが多くの科学者の暗黙のルールでしょう。

       

       

      このように、意識を構築されるプロセスは夜の神様と呼ばれる「光あれ」以前の神様の経験です。

      神様の自己創造でもあったと言えます。

      このご自身の意識が神様にとっての最初の『対象』です。

      ご自身の意識を対象化して自己分析するかのように成長されたということです。

      これは内的な陽陰の授受作用と表現されるところかもしれません。

      陽陰の中和体であられた存在が陽と陰をあるいは性相と形状を分立されて授受作用をされたと言えるかもしれません。

      多くの宗教は「光あれ」以前の神様に注目することはありません。

      統一食口の一部がみ言葉の中から『成長する神様』に注目をするようになってきました。

      また、シュタイナー思想の中に、神様とは認識せずに神様の成長の歴史に触れる部分があるようです。

       

       

      『無』から『有』を見出され、それを選択された神様の御意。

      『有』の根源となる『対象』の存在はどれほど愛おしいものでしょうか。

      気の遠くなるような『無』を意識することによって、対象を愛おしむ神様のご心情への信頼を深めることができるのです。

      | おーば | - | 18:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
      七つの封印-11 『無』への理解
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        記事に上げる前のテキスト量はなんだかすごい量になってきましたが、実際のアップが進まないのはどうにも表現が難しいからです。

        何故難しいかというと、庶子の知について十分に書けていないからなのでしょう。

        八段階は飛び級ができないのですね。

        これはすでにある建物のフロアを上がっていく行程ではなくて、何もないところに建物を立てていく工程だからです。

        二階部分の柱が立っていなければ三階部分を造ることができません。

        なので、庶子の段階をきちんと理解しなくては実子を正しく理解することができません。

        それを簡単に解説しようとするから書くことができないのだと理解しました。

         

        ですから、僕と養子を絡めて書いたように、実子も庶子と絡めながら書くことにしましょう。

        書き切ろうと思うと長丁場になるかもしれません。

         

         

         

         

        「世界はペアシステムでできています」

        そう言われればそうなんだろう、実際世の中見渡せばそういう組み合わせになってる事柄が沢山ある。

         

        この程度の理解では足りないんです。

        「ああ、そうだったのか!」と感動できる理解が必要です。

         

        そのためには、神様が最初に創造を始められた時に思いを馳せなければなりません。

         

         

         

        『無』について深く考えたことがある人はどのくらいいるのでしょう?

        神様は『無』から『有』を生じせめたお方です。

        『無』について知らなければ、神様の創造の動機をきちんと知ることはできません。

        愛の対象がほしかったという、『愛』の切実さを知るためにも『無』を考えなければならないのです。

        逆に、これを理解すれば神様との距離はぐんと縮まります。

         

         

        ちょっと思考実験をしてみましょう。

        『無』についてどれくらいイメージすることができるか。

         

        ●先ず、水の入ったコップを思い浮かべてください。

        普段ご自身で使っているコップで大丈夫です。

         

        ●次にコップの水を飲みほしてください。

        実際にやらないで、思い浮かべるだけですよ。

        コップは空になります。

        コップの中には何も『無い』状態です。

         

        ●次にコップを片付けてください。

        コップがあなたの視界から『無くなり』ました。

        何がありますか?

        何も無いテーブルがそこにあるかもしれません。

        テーブルの上は『無』ですね。

        でもそこにテーブルが『有り』ます。

         

        ●あなたのイメージの中からそのテーブルも消してください。

        テーブルが無くなりました。

        そこは『無』でしょうか?

        いいえ、おそらくは部屋の中ではありませんか?

         

        ●そうしたら、建物を消してください。

        実際に消すことは難しいですが、イメージだけですから大丈夫。

        建物という建物を全部消してください。

         

        ●何もなくなりましたか?

        広い原っぱでしょうか?砂漠でしょうか?何も『無い』状態ですか?

        誰かいますか?

        誰かいるようならばその人や動物もイメージの中から消してください。

        これだけでも、とても寂しくて不安な感覚になりませんか?

         

        ●それでもまだ、完全な『無』にはなっていません。

        足元に何かありませんか?

        地面、地球ですね。

        これを消すとどうなるでしょうか?

        宇宙空間に放り出される?

        それをイメージしてみましょう。

         

        ●真っ暗な宇宙空間、ここには空気も水もありませんが、イメージだけなので生命の心配はしなくて結構です。

        宇宙遊泳を楽しんでみましょう。

        地球が無くなると、重力を感じることがありません。

         

        どちらが上でどちらが下なのか?

        自分が立っているのか寝ているのかもわかりません。

        宇宙飛行士が宇宙に出ると人生観が変わると言いますが、『無』重力の体験はやはりインパクトの強いものでしょう。

        地球を消さずに似たような経験をできるとすれば、深い水の中に溺れる経験でしょうか?

        手足につかまるものが何も『無い』状況。

         

        ●さて、どこか別な星の上を想定してはいけませんよ。

        全ての星を消してみましょう。

        辺りは暗闇です。

        何の音も聞こえてきません。

        上か下かもわからない、

        自分が移動しているのか止まっているのかも目印になるものが無くなると判断が付かないものです。

        これが完全な『無』でしょうか?

         

        ●一つ聞こえているものがあるかもしれません。

        あなたの心音、呼吸音です。

        映画などで宇宙飛行士が宇宙を漂うときには「ヒュー、ヒュー」っと、効果音が入ることがよくあります。

        『無』に至るために最後に消さなければならないものがあります。

        あなた自身の肉体です。

         

         

        ●これで完全な静寂が手に入りました。

         

        ●あなたは死後の世界を信じていますか?

        信じていたとしたらこれでも完全な『無』を手にすることはできません。

         

         

         

        どこまでイメージできましたか?

        これで完全な『無』でしょうか?

        私自身が消えたからと言って、他の人たちが大勢どこかにいるではないかと思えますね。

        でも、とりあえずはあなた自身にとっての『無』です。

        見る、聞く、嗅ぐ、触れる、味わうという五感に働きかけてくるものが何もない状態。

        それどころか上下の方向感覚さえも持ち得ない。

        時を刻むものが何もない。

        『無』です。

         

        死後の世界が無いと信じている人たちにとっては、『死』と『無』は同じ意味になるかもしれません。

        だから特に宗教を信じていない人たちでも、漠然と天国と地獄をイメージしていたりするものです。

        完全な『無』とは想像しきれないほどに苦しいものなのです。

         

         

         

         

        全ての事柄には始まりがあります。

        全てを始められたのが神であるのならば、神は一番初めにこの『無』を経験する処から始められたということになります。

        何もないところからのスタートであれば、それこそ『記憶』さえもありません。

        何の記憶もなく、何もない闇の中に漂う感覚をイメージできますか?

        | おーば | - | 20:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
        七つの封印-10 ペアシステム
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          男女の問題は謎が多いです。

           

          そもそもどうして男と女なのか?

           

          男だけ、女だけでは子孫を残せないから当たり前のことのように思えますが、
          単に繁殖だけならばアメーバーのように分裂して増殖する方法もあります。
          しかしこれでは全てがクローン状態になります。
          また、カタツムリやアメフラシのように雌雄同体の生き物もいます。
          これは二個体で繁殖行動をするので個体が個性を持ちえます。

          https://kotobank.jp/word/%E9%9B%8C%E9%9B%84%E5%90%8C%E4%BD%93-77269
          (コトバンク)

           

          また、現代社会においては子供を持たない自由まで主張されていますので、
          子孫繁栄だけのために男であること、女であることの縛りが課せられることへの不満も出てきています。

           


          男と女は一体何が違うというのでしょう?
          先のコトバンクの説明からは単に生殖器の問題であって、人格に何の関係があるのかという事になってしまいます。
          生理的にホルモンバランスが精神に与える影響もありますが、
          個人においては心が主体であること思えばそれは精神的に主管すべき問題とされるでしょう。

           


          聖書には、男女の創造の行に二通りの記述があります。
          我々の形に似せて男と女に創造したというものと、
          男が一人でいるのは良くないから、男のあばら骨をとって女をお創りになったというもの。

           

          我々の形に似せて作ったら男と女になったというならば、原型としての男と女が人間ではなく存在していたという事ですよね?
          二つ目の記述の男から作り出された女というのが人間のモデルとしての前段階ではなかったのかと考えられます。
          つまり、生物としての繁殖目的以前に霊としての必要があって男と女は別々の存在になっていることを聖書は示唆しています。

           

          あばら骨を抜かれる前のアダムはアンドロギュノスのような両性具有状態ですね。
          創造原理では、神様にはもともと本陽性と本陰性が中和されていたと書かれているのですから、原初の神様の姿にも重なります。
          あばら骨を抜いて別な生き物を作り出すというのは生物学的には無理がありますので神話としての比喩的表現と考えていいでしょう。
          中和的神様から男性と女性を霊的に分離することに不自然さは無いと思います。
          おそらくそれが晩年の御言で表された夜の神と昼の神ではないのかと。

           


          主体と対象を必要とするのは四位基台の造成のために他ならないでしょう。
          四位基台は存在、発展のために必要な基台です。
          神様はご自身を存在させる段階でも四位基台を必要とされたはずです。
          ご自身が主体として立つためには対象が必要です。
          対象を持たなければ何をもって主体であることを宣言できるでしょうか?
          内的な四位基台を造成したとしても、他者としての存在を創造しようとした時点で、実体的な対象格を必要とします。
          最初の対象格位は昼の神様であったのか?それとも天使長ルーシェルであったのか?
          対象格位は女性を指しますから、ここは女神としての昼の神であると考えるのが妥当です。

           

          神様が二人という問題が生じますが、第一原因としての神様は夜の神様であり、その存在を支えたのが昼の神様です。
          厳密にいえば昼の神様の方が後から生まれた形ですから被造物のようでもあります。
          被造物を神様と呼んでいいのでしょうか?
          第一原因である神様の存在を支え、それ以外の存在を生み出すことに大きく影響を与えた存在であれば、彼女を神と呼ぶことは大して問題にはならないと思います。
          (こんな表現でいいのでしょうか?)

           

           


          『天地初めて発れし時に、高天原に成りし神の名は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)。
          次に、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)。
          次に、神産巣日神(かみむすひのかみ)。
          此の三柱の神は、並に独神と成り坐して、身を隠しき。
           次に、国稚く浮ける脂の如くして、くらげなすただよへる時に、葦牙の如く萌え騰れる物に因りて成りし神の名は、
          宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)。
          次に、天之常立神(あめのとこたちのかみ)。
          此の二柱の神も亦、並に独神と成り坐して、身を隠しき。
           上の件の五柱の神は、別天つ神ぞ。

           

           次に、成りし神の名は、国之常立神(くにのとこたちのかみ)。
          次に、豊雲野神(とよくものかみ)。
          此の二柱の神も亦、独神と成り坐して、身を隠しき。
           次に、成りし神の名は、宇比地邇神(うひぢにのかみ)。次に、妹須比智邇神(いもすひちにのかみ)。
          次に、角杙神(つのぐひのかみ)。次に、妹活杙神(いもいくぐひのかみ)。
          次に、意富斗能地神(おほとのぢのかみ)。次に、妹大斗乃弁神(おほとのべのかみ)。
          次に、於母陀流神(おもだるのかみ)。次に、妹阿夜訶志古泥神(あやかしこねのかみ)。
          次に、伊耶那岐神(いざなきのかみ)。次に、妹伊耶那美神(いざなみのかみ)。
           上の件の、国之常立神より以下、伊耶那美神より以前は、并せて神世七世と称ふ。』

           

          古事記に書かれた初発の神々の行です。
          神様が次第にご自身の形をつくられていくように見えてとても興味深い表現です。
          独神と成り坐した神は、身を隠していますが、宇比地邇神と妹須比智邇神の二柱ペアの神以降は隠れてとはされていません。
          霊的にも相対関係を結べば存在を確立できることが見て取れる箇所です。
          独神と言いつつも天之御中主神以外のお名前を見るとそれぞれ何となくペアになってるかのような感もあります。
          ペアシステムについては聖書よりも古事記の方が的を射るかもしれません。

           


          1994年の女性訪韓セミナーの御言には相対関係を結べば宇宙が保護すると書かれています。
          主体者にとっても相対者は自身の存在のためにも必要欠くべからずの存在なのです。
          唯一の対象格位を相対と呼ぶのも貴重な存在であることを表しているのですね。

           

          この、存在できることの重要性については『無』を理解しなければならないのですが、これは庶子の知恵です。
          無から有へ移行するためにどれほどのエネルギーと意志力が必要でしょうか?
          相対を生み出すことによってはじめて存在は安定的に存在できるようになるのです。

           

          相対は生み出された存在です。
          親子のようですが陽陰の関係なので夫婦です。
          真の御父母様が親子の様な年齢差でご夫婦になられたことはこのことと重なってきます。
          お父様が何も知らないお母さまを教育したという御言とも重なります。
          天宙復帰にかけられたお父様の執念は、存在し続けることを決心した神様の執念を相続しています。

           

          男と女では熱量が違います。

           

           

          | おーば | - | 22:57 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
          七つの封印-9 男女の問題
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            実子の話に移りましょう。
            ヌーソロジーについて引き続き「奥行きの子供たち」という本を読んでいるけれど、
            このブログで書いてきた話と似たものを感じます。
            なので類似点と相違点をきちんと整理しないといけないけれど、話がそれてしまうから先へ進むことにします。

             

            庶子と実子の決定的な相違点は夫婦であるかないか。
            たしか祝福講座でやったっと思うのですが、長成期完成級までは個人路程で、長成期完成期でメシアを迎えて祝福を受ける。
            完成期からは男女ペアで上がっていく。

             

            祝福を受ける時に、自分は長成期完成級まで成長期間を全うして受けたという人はどのくらいいるでしょうか?
            とりあえず、信仰年数と、伝道実績と、献金実績を全うできていればいい方です。
            人数が足りないから、年齢が高いから、カップルの片方だけが頑張った既成祝福とか、色々ありました。

             


            伝道実績というのは愛の成熟度の問題です。
            献金実績というのは万物主管の問題です。
            伝道による愛の成熟は兄弟姉妹を愛する養子圏の愛を意味しています。
            万物主管は万物の長である天使の主観を差し、庶子圏で越えるべき天使の屈服を意味しています。
            祝福を受ける前に天使の屈服を済ませたカップルはいらっしゃいますか?

             

            神様は人間を男と女に創造されましたので、男女の在り方、夫婦としての在り方をクリアしなければならないタイミングはどこかで訪れます。
            そのタイミングが実子として超える四つ目の封印・夜の神様と昼の神様の問題になります。

             

            創造主は唯一の神様であられるので、夜の神様と昼の神様というのはお一人の神様の陽陰あるいは性相的部分と形状的部分を表した言葉であるとか、
            万物を創造される以前の神様と創造されてからの神様を表示しているんだとか言われますが、

            私は夜の神様と昼の神様の問題は夫婦の問題と捉えています。

             

            御言の中に昼の神様は女性だというのがあります。
            女であり体であるとも言われていますが、擬人化してイメージすると、わけが分かりませんよね?
            女であり体である昼の神様ならば、男であり霊であろう夜の神様をどうイメージしたらよいか分かりませんよね?
            ここは2016年に書いた『夜の神様昼の神様』のシリーズで説明したのですが、霊として、男(主体)としての夜の神様が先にいらして、
            存在し続けるために体として、女(対象)としての昼の神様を生み出したような形です。
            創世記に於いて、アダムのあばら骨をとってエバを創造したイメージです。
            だからエバは『骨の骨、肉の肉』として存在する。
            じゃあアダムのあばらは骨じゃなかったのかともなりますが、霊的な世界での話として男の中のしっかりとした形の部分から女が出たという話です。
            具体的には言葉です。「光あれ」。
            こう考えると夜の神様と昼の神様はカップルであるとしたら年の差婚です。
            双子で結婚しなければならないとかいう御言もあるようですが、
            これは同じ父母から生まれた兄妹という意味よりも、同じ年齢でのカップルになりたいという希望ではないかと感じます。

             


            ブログ村を見ていると、実際の肉体を付けた人間に重ね合わせてとやかく言う話が多いので、実にどろどろとした話になっています。

            (もっとも、実際の人間に重ね合わせる時には夫婦の問題として考えてはいるのですね。)
            創世の、霊的世界の話としてきちんとイメージできればもう少し冷静な話ができるのですが、
            ここをきちんとイメージするには、先出の『庶子の知』を理解しなければ難しい話なのです。
            そして、『庶子の知』を持つためには、養子としての『兄弟姉妹の愛』が必要です。
            この愛を持てなければ、神様との信頼関係を築けませんし、『知』を持つことの優越感に負けて自己中心的な『僕の僕』としての情にまで落ち込んでゆきます。

             


            『男』であるというのは『主体』であるということです。
            肉体的に男性であるから自動的に『主体』になれるわけではありません。
            『男』というのは『主体』という意味なのです。
            アボジが私たちに堕落エバと天使長しかいないと言われたのも、真の意味での主体的存在、対象的存在がいないことを意味したのだと思います。

             


            それで、真の主体性(男性)、真の対象正(女性)が何か?
            色々な表れ方がありそうな気がしますが、一つだけ外せない条件が、カップルが一体化し、永遠性を持つように機能する要素であるということ。

            これは神様の創造理想を実現するにはそうでなければ成り立たないということです。
            これは伝統的な男らしさや女らしさでは表現できないと思うのです。

             

             

            祝福二世の中に性同一性障害を抱える子たちがいるようです。
            自分の生理的な性に違和感を持つとはどういうことでしょう?
            女の子が自分は女じゃないと言いながらも、男の子であることを経験しているわけではないのですから、単純に『性』の問題への違和感でしかないのではありませんか?
            女である、男であるということが社会的に表す記号に違和感を感じていることの方が多いのではないかと思います。
            異性よりも同性の方が好きというのも、好きという感情は嘘ではないにしても、偽りの性愛しか示されていない現状です。
            同性愛も異性愛も、本然の性愛が見出されていない状況では目くそ鼻くそです。
            ただ、肌の接触などに心地よさを感じることは、性の喜びと言うよりも生命への愛着なのかもしれません。
            実際、生殖器は肉体のどの部分よりも敏感な構造になっている現実もあります。
            この部分が肉体的に発達する時期に、性に対するいびつな価値観の中にいることはとても不幸なことです。
            一旦感じた違和感は、そうそう消えるものではありませんし、
            一旦思い込めばその思いを助長する情報を集めやすいです。
            今は様々な情報にあふれています。
            悲しいかな、統一運動は純潔運動はしても真の女性らしさの価値、真の男らしさの価値は提示できていません。
            実に平面的な男尊女卑になってしまっているようです。

             

            私たちはもっとこの問題について語り合わなければなりません。

             

            | おーば | - | 23:07 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
            七つの封印-8 のオマケ
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              前記事は書いていて本当に疲れた。
              書くべき記事ではなかったのでしょうか?
              ただ本当に、庶子の『知』の大半がこんな中にうずまっている。
              しかしそのまま鵜呑みにすればとんでもないことになるようなものばかり。

               

              かつて、共産主義国家は天の側が作るべき理想国家をサタンが先駆けて作ったものだというような御言葉を聞いたことがあります。
              天が望むものをサタンが先取りしてまがい物をつくるらしい。
              カインとアベルの時にサタンが先に長子をとったことと同じらしい。

               

              最先端の思想もサタンが先行して構築していくのでしょうね。
              ただ、そこには愛がない。
              形だけを模して作るから実りがない。

               


              ピラミッド構造の批判も、僕信仰の批判も間違いではないけれど部分構造を全体のように批判してくるのも癖みたいなものでしょうか。
              そしてすべてが弁証法でそこから出られない。
              弁証法は『正』『反』『合』
              反対することで新しい局面を迎えるシステムなので、いつまでたっても反対することをやめられない。

               

              天の側は授受法で『正』『分』『合』
              『反』は対立だけど『分』は節度なのね。
              互いを認め合うことで愛し合えるんです。
              そして分かつことが愛の始まりでもあるの。
              分かつというのは対象を見出すこと。
              雑踏の中から愛する人を見出すようなもの。
              お互いにね。

               

              見出された同士はそこに個人としての意味が出て来る。
              物語が紡ぎだされていくのよ。
              そういう意味でピラミッドの底辺のモブに甘んじていてはいけないし、
              私独自の価値は見出されるべきなの。
              私の物語を書くのが人生であり、その物語の主人公であることが私のアイデンティティであり『構造』。
              このアイデンティティは一生どころか永遠ものです。

               

              構造主義は各個体が置かれた社会的立場によって思考判断が決定するという考え方。
              日本人らしい考え方とか、韓国人らしい考え方とか欧米人らしいとか女性らしいとか経営者らしいとかなんとかあるでしょう?
              国というくくりだったり、職業的なくくりだったり、世代的なくくりもある。
              それぞれにそれ様な考え方の傾向と言うのがある。
              幼児体験によって大人になってからの考え方に影響が出るって言うのも聞いたことがあるでしょう?
              その人の人生のパッケージにふさわしく人はそれぞれ思考してるんです。
              そして全く同じ人生が無いように全く同じ思考回路も無いのです。

               

              だから『普通』なんていうのも本当は無いのです。
              全部個性の集まりだから。
              そしてピラミッドの頂点や、上部構造を目指すというのもあまり意味がない。
              そこへ行ったとしても私が私でなくなることはない。
              同じ環境に行っても同じものにはなれない。

               

              ああ、先の本でも何か書いてあったなぁ『同質異体』と『異質同体』か。
              同じであることが先行するか、違っていることが先行するか。
              先行するというのは前提としてそうであると強制されるというようなニュアンスかな?
              同じものとみなされても困るんです。
              異体・同体の意味には触れていなかったな。。。。。あの本を開くと頭が痛くなるからやめた方がよさそうだ。

               

              養子圏のキリスト教信仰であれば、違うことを喜び合う姿勢が薦められています。
              兄弟姉妹が互いに愛し合う事のすすめです。
              そういったことは先人から伝えられていることですが、なかなか実践できない現実も確かにあります。
              そこのところの情を育むことが必要なんですけれど2000年たってもできてないんだから人間には無理だと断定してしまうのはどうかと思います。
              2000年前と現代とで、人の考え方がどれくらい変わったかなんて意識されていないでしょ?
              目には目を、歯には歯を命には命を持って償わせるのが当たり前の時代から、今は人の心もずいぶん成長していると思いますよ。
              個体差はあると思いますが。

               

              分かりやすく表現しようとするとき、人は断定的な表現を使います。
              そうすることで読者を安心させて引っ張るのです。
              蒟蒻問答では誰もついてこないという現実はあります。
              でもそれって『僕』扱いしてるってことなんですよ。
              命令は断定されなければ困るでしょう?

               


              いい加減に『僕』思考はやめましょう。
              せめて『養子』思考、相手の立場を思いやって考える思考方法を身につけましょう。
              言われるままではいけません。
              その上で、自分の立場に責任を持って主体者意識のある『庶子』思考に進むことができます。

               

              これ、自分の立場で分からないことには口出ししないということでもあります。
              真のご家庭がどうしたこうした、先輩家庭があーだこーだというのも、自分で経験した事柄以外のことを憶測することも責任ある姿勢とは言うことができません。

               

               

              。。。。。Amazonにレビュー書いたら本名で行っちゃったワ。。。。。はははははは

               

              | おーば | - | 13:49 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
              七つの封印-8 庶子の『知』について書籍『ワンネスは2つある』感想
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                庶子の『知』について。

                 

                これが意外と世に出回っています。
                本当か嘘か判別がつきにくい話なので、与太話のように流布してます。
                図に入れたヌーソロジーやシュタイナー哲学もそういった知です。
                他にも、スピリチュアル系の話や、数学系、科学系の中に色々あるようです。
                東洋思想に傾倒するものが多いようです。

                 

                本当のことと正反対のことが同列に並んでいます。
                途中まで良い話しも突然変な誘惑話しになったりします。
                そんな都市伝説みたいな話の中身を整頓して筋の通った話として理解することが求められるようです。
                この過程が大事。
                探求する時の動機が狂うと神様への愛を失います。
                愛どころか、神様という存在を全く見失います。
                ここに神の庶子としての責任が問われます。

                 

                何が正しいのか判断すべき課題は次々と提示されます。
                判断スピードが重要なのではなく、良い判断をすることが大切なのです。
                判断基準はみ言葉の背後の愛と理想です。
                み言葉を愛するのに、表面的な愛ではならないのです。
                み言葉が指し示す理想を愛し、それに則った判断が必要です。

                 

                 

                 

                 

                先日、川瀬統心さんの『ワンネスは2つある』という本を読みました。
                先出のヌーソロジー関連本です。
                「面白かったら感想を」とリクエストをもらっていたので書いてみようと思います。
                面白かったかどうかというと、私にはあまり面白くはなかったです。
                どちらかと言うと不快でした。
                書き始めて相当時間と精神力を要しつつも収拾がついていない気がします。
                無駄に長文です。
                この本は『宮の頂上から飛び降りてみなさい』と書いてある。
                読んでみようと思う人は注意してください。

                 


                非情に盛沢山な情報が書き込まれています。
                しかしながら、盛りだくさんな情報の中に巧みなすり替えと独断が紛れ込んでいます。
                話がいったりきたりするところも思考を分断して読み込むことへ意識を向けさせて判断をかく乱させる本です。
                また、読者が持つであろう疑問を予測して丁寧に解説しています。
                しかしそれは、疑問に感じられるような問題には既に配慮の上での結論であることを提示しているだけで
                その根本解決は提示されていません。

                 


                例えば神について、「一神教精神が世界にピラミッド構造を築いてい」るとこの本は語るのですが、
                読み込んでいくとそれは「歪んだ一神教精神」とあり、「偶像崇拝化する一神教」が問題であると書いている。
                しかしその表現は説明する一瞬書かれるだけであって、全編を通して「一神教精神が問題だ」と簡略的な表現によりイメージ操作しています。

                 

                また、「創造神」の属性として「絶対性」のみクローズアップしてキリスト者にとって最も重要な「神の愛」には一切触れていません。
                独断的なのです。

                 


                一神教精神というのはこのブログで書くところの『僕』的な発想を指しています。
                善悪や行動の判断を自分で考えるのではなく、他者が決めたルールの中で決定します。
                行動の判断というのはどこへ向かうべきかと言う目的地の決定まで含まれています。
                自分で判断しないという事は、“誰か”から指示を受けるという事です。
                目的・目標を『神』とすれば、指示を出す人は代弁者であり、少数の権力者と位置付けられます。
                このピラミッド構造を一神教精神が作り上げているとして、
                彼は『ごく一部のスター成功者を支えているのが、圧倒的多数の失敗者達である』と表現します。

                 


                このルールを発信するのが教会なのか、学者なのか、ビジネスの成功者なのか、、、と言うようなところからこの本は始まっています。
                この辺りは彼の宗教遍歴や失敗談から実感的に展開して読者の共感を呼びつつ
                丁寧に人類の文明草創期からイエスキリストまでの史料を解説しています。

                 

                その後に川瀬さんが推奨する『ヌーソロジー』がこの問題を解決できるんじゃないかと触れてきます。
                ヌーソロジーは『冥王星のオコット』からのメッセージ(異言)を半田広宣さんが解読したものであり、
                人類の意識進化をもたらすものとして紹介されます。
                同時に宇宙をも変容させるかのようなセンセーショナルな表現と、それを裏付けるかのような太陽の活動のデータなどが紹介されます。
                人間、よく分からない難しい数字を出されると、なんだか信じてしまうものです。
                もちろん、そちらの方面に詳しい人達にはそれなりの裏付け資料として受け入れられるのでしょうが、この辺は私には無理。

                 


                ヌーソロジーは『意識進化』と表現しますが、これはこのブログで取り上げている八段階の心情の『成長』段階と似ているように感じさせます。
                一神教の本質である、神の下の平等は『僕』には実現できません。
                七つの封印-3で、
                「多くの人たちが知的な成長のみで世の中を構成しているのです。
                 心情世界が付いて行っていませんし、心情的成長の必要性を説く思想もありません。
                ここの理解がないので、『平等』の名の下、心情の幼さが放置されています。」と書かせていただいた通りです。
                人の心は幼いままでは理想的な世界を築くことはできません。

                 

                しかし私は『進化』という言葉を好みません。
                ダーウィンの進化論によれば、進化は突然変異と適者生存による淘汰がセットになるものであり、
                進化できないものは滅びの道に向かうのです。
                結局は、別なピラミッドを作って底辺を切り捨てる発想になりそうなそんな気配を感じてしまうのです。
                『成長』であれば、かかる時間に差こそあれ、みんな成長できる印象がありますよね。

                 

                 

                 

                オコットのメッセージはこの意識の進化というのを『歪曲した空間認識』を正常な状態に戻すこととしています。

                 

                これは絶対的な存在(神や真理などの権威、自分以外の他者)が認定する世界観の中に自分の位置を設定している意識から、
                自分を中心に感覚する世界観への変更になるのです。
                客観性からの離脱とでも言いましょうか。

                主体者意識というのは大切なことと私も考えます。
                この意識がなければ人は責任心情を持つことができません。
                しかし、ともすればとんでもない自己中心です。
                それでいいわけがないと思ってしまいますが、実は神と我の関係性を立てるとこれに近づきます。

                この本では書かれていませんが、この時に客観性を維持するポイントが『愛』になると私は考えています。
                しかし、この本はそこに触れません!

                 

                この本では、一神教精神=不幸な現実(悪と呼ばないところに川瀬さんのしたたかさを感じます。)なので、
                そこからの脱却がテーマです。
                他人の価値観に振り回され続ける人間の弱さにいかに立ち向かうかというところなのです。
                そのための視点の変更です。

                 

                この部分の解説に川瀬さんは『円心』という言葉を持ち込みます。
                「円と言うものは単独では存在し得ない」ここに一つの「円」がある場合、必ずその裏側に「中心と円周の関係が反転したもう一つの円」が隠れているというのです。
                と説明します。
                これは反対概念を調和させる考え方として「対化」「等化」という概念とセットと思われます。
                解説が複雑なのでここでは割愛しますが、対立する存在は高次元から(俯瞰的に)観察すれば回転運動によって同じものになってしまうというような考え方です。
                『円』と言いながら『球』が想定されているものと思われます。
                『球』の対立概念は『内』と『外』とされていましたので、中心と円周が等化される発想はここにあるでしょう。

                 

                絶対者を相対化してピラミッド構造を壊すことがこの本のテーマの一つなようです。

                 


                川瀬さんはニーチェのルサンチマンに言及します。
                弱者が強者に対して持つ怨念・ねたみのことです。
                「救いを求める」という宗教の根本的な動機そのものにルサンチマンが隠されているという話です。
                この本の冒頭は、川瀬さんの失敗談から始まっているため、
                ピラミッド構造の解体などというテーマは何かマルクス的怨みの思想を思わせるのですが、
                このルサンチマンを取り上げることで「そんなことは百も承知」という姿勢を見せているように感じました。
                このニーチェの見識について「外側に基準を持つ限り、人間はこの悲惨さからは逃れ得ない」と答えを見出します。
                それはそれで、自分で責任を負う姿勢でもあるので間違いではないのです

                 


                さらに構造主義を持ち込みます。

                 

                構造主義とは、2012年11月のこのブログ記事では以下の記述をしています。
                非常に簡単に表現すると、「人間の現実把握や思考は、その個人が所属する構造に規定される」と言うこと。
                「所属する構造」には民族、言語、国家、社会的階層などがある。
                この事実を理解することにより、自己の判断を客観化するのが「構造主義的な考え方」である。
                「〜の人たちにとっては大変なことでしょう」などの考え方がこれに該当する。

                http://blog.o-baka.com/?eid=187

                 

                自己の判断を客観化する。
                思考回路を可視化するみたいなことですね。
                計算式が分かっていれば対象物から導き出される結果も見えます。
                この考え方は何か突き放したような考え方だけれども、私はちょっと違う視点を持っています。
                各個人が持っている計算式は、所属する社会によって決定するような書かれ方をしているけれど
                実は生まれてこの方経験してきた記憶によって構築されていると私は考えています。
                人生経験は個人的な独自のもので他の誰とも全くの一致をみることはありません。
                これは個性です。
                個性真理体たる私の思考判断は独自的なのです。
                個人個人が理解する世界、価値観はそれぞれが中心になっており、誰もが同じ世界観を共有しているのではない。
                むしろそれぞれが異なった世界を見ているのだと私は考えています。

                 

                そして川瀬さんは構造主義の本質として、
                【自分のいる領域の「外部」に出ることで、閉ざされた領域からの視点が出て、その領域を包摂している上部の構造に視点が移動する。
                「相対化」によって、今までいた領域の何たるかが分かるようになる。
                「自分自身を知る」ということ】
                と書いています。

                 

                外側に基準を持つ限り解決しないと言いながら、視点だけは外側に持っていく。
                外の視点は自身の視点となりうるのだろうか?
                この人は『自己』をどう捉えているのだろうか?
                恐ろしいことにこの本では、『構造』について冷たい視線を送っているように感じます。
                構造を無機的に扱う事により「自我の消滅」をうたっている。
                この自我の消滅の向こうにヒトが神になるという世界観が繋がっていく。

                 

                「宮の頂上から飛び降りなさい。」
                これは自分自身の人生の主人であることを放棄しなさいという意味です。
                「我を拝せよ全てのものを与えよう。」
                これも同じです。

                 


                愛を切り離して知的な進化を追う世界観には幸福は縁遠いと私は感じます。
                人はルサンチマンを克服しなければならないし、克服することができます。
                自分自身が感じ取っている世界は自分で構築しているものだという視点は必要です。
                自分独自の視点・感性であるという自覚です。
                それによって、他者への怨恨を消す可能性が見えてきます。
                構築する「構造」を理解するために必要なのは自己分析であると考えます。
                自分は何故このように感じるのだろうか?
                自分は何故このように考えるのだろうか?
                その原因を見つけることは自分を客観視することに繋がりますが、単に俯瞰するのとは違います。
                俯瞰するだけでは結果しか見えませんのでパターン分析しかできず、その動機は見えません。

                 

                自分の構造を理解できると、他人の構造も理解しやすくなって相手の気持ちも予想しやすくなります。
                そして自分を愛することです。
                これも簡単なことではありませんが、
                自分を愛することを通じて自分を構築するために与えられたものに感謝する道が見えてきます。

                 


                もっとこの視点についての分析を、ゼロ次元、一次元、二次元とこの本にも書かれているのですが
                これは私が描いた立体図の「ニュートン力学」「相対性理論」「量子力学」の項目に通じるところがありました。
                でも、それ以前にこの本が訴えかけるテーマ(問題提起とその捉え方)に対する嫌悪感が先に立って書ききれるものではなかったです。
                構造分析についてはだいぶ詳しく凄いのですけどね。
                裏返しなのです。
                感想文として書くことは難しいようですので、機会があればどこかで引用分としては紹介するかもしれません。

                 

                そしてこの書籍はヌーソロジー研究そのものの本ではないので、この感想自体が直接ヌーソロジーへの評価であるとは限りませんのでご承知おきください。

                ヌーソロジーそのものについてはまだ判断が付くほどの理解はしていません。

                | おーば | - | 11:59 | comments(15) | trackbacks(0) | - | - |
                七つの封印-7
                0

                  前回、ちょっと書き散らかした感じがありますので改めて。

                   

                  庶子について重要なのは

                  ●神からも人からも捨て去られた立場に立ってなお神を愛する。

                  ●霊について正しくかつ具体的な認識をもってこれを主管する。(天使の屈服)

                  の、二点です。

                   

                  順番としては、

                  捨て去られてなお神を愛するその心情をもって天使を仮りに屈服し、

                  天使からの信頼を得るために天使からの試みを受ける。

                  その試練の過程に置いて、霊的存在の様相についてのレクチャーを受ける。

                   

                  この過程のハードルがそれぞれ結構高いという事に気づきます。

                   

                  1・神から捨て去られる

                  神に捨てられるには、一定の信頼関係を結んでいなければ捨てられることはありません。

                  養子圏で信義のみかえりをある程度実感していてこそ、『捨てられた』事実を知ることができます。

                  最初から信じていない僕の僕ならば神との関係が切れても何も気にしません。

                  具体的には与えられていた祝福が奪い去られたり、導きを感じられなくなったり。

                  他にもあるでしょうか。

                   

                  2・人から捨てられる

                  これも同様に、人との関係をある程度築いていなければ『捨てられた』とは思いませんよね?

                   

                  ちなみに、1は信仰基台で2は実体基台です。

                  この二つが立てられていることが庶子として踏み出す要件になります。

                  神と我の関係、兄弟姉妹との関係あるいは復帰した基台基盤。

                  家庭連合で教わる信仰基台・実体基台とは少し様子が異なります。

                   

                  3・人から捨て去られてなお神を愛する

                  自分が基盤として立っている足元が崩れ去るようなものです。

                  それまで大切に築き上げたものを失ったり、裏切られたような立場に立たされます。

                  多くの人が神を恨んで人に屈します。

                  これはヨブ記を読んでみてください。

                  ヨブはまさに神と人から捨て去られました。

                  そして彼の妻は神を捨てることをヨブにすすめています。

                  そして友人達もヨブのことを非難します。

                  また、教会に躓いた食口達の多くが教会を非難し、社会に復帰することを目標とします。

                  教会をたたき出されてなお、神様を慕って分派を立ち上げてしまうような人たちは、

                  大概ここまでをクリアしています。

                   

                  4・本当に神様を愛しているのか、霊的試練を受ける

                  イエス様の三大試練のように御言葉による試練です。

                  あ、「石をパンに変えよ」は3ですね。

                  神様との心情関係が試みられます。

                  祈りが通じない霊的な乾きが与えられます。

                  また、信じて行うことが裏目になったりします。

                  神に捨てられることで還俗する人も多いでしょう。

                  試練なれして神を試みようとする傲慢な心を少しでも見せれば、天使が神に代わって彼を守る振りをしながら逆主管してくるでしょう。

                  逆主管されたことに気づかず、自分は神に選ばれたと勘違いして僕の僕へと落ちるのです。

                  本当に打ち砕かれ、小さくさせられる試練です。

                   

                  5・神様の愛と理想を理解しているかが問われます。

                  力量の足りないことを自覚しながらもみ旨を愛する意思を問われます。

                  天使は世界を見せるその段階で実存について(霊界について)も教えてくれます。

                  その『真理』と引き換えに、『愛する』ことをやめるように要求してくるのです。

                  愛するというのは自分の事情ではなく神様の事情に立つことです。

                  『愛する』ことをやめればこれも自己中心的個人霊界に引き戻されますので僕の僕に堕ちます。

                   

                   

                   

                   

                   

                  必要な項目としてはこれでいいと思います。

                  キリスト教的信義の信仰の次のステップとして、峠・十字架を越えていかなければならない故に考えられる事柄。

                  庶子という言葉が示す意味合いとして、み言葉から読み取れる捨て去られた立場、社会からの廃絶。

                  実子として祝福される前に通過しなければならない本来的な条件として、神と我の関係の確立。

                   

                  これらのことは、統一教会を選択した時点で疑似的に通過したと感じる人も多いでしょう。

                  親を棄て、仕事を棄て、財産を捧げてこの道に来た時に、環境からおもいきり反対を受けた人も少なくはないはずです。

                  それはお父様から祝福を受ける条件となっているはずです。

                  それが条件的と言われ、完全なものになっていない理由は、完全な孤独の中に身を置くことになっていないからです。

                  すべて捨てたと言いながら、教会には兄弟姉妹がいたわけです。

                  真の父母が護ってくださる環境下にあったわけです。

                  入信当時の私たちには伝統的な信義の信仰は培われていませんでしたから、

                  いきなり孤独な環境で神と我の関係を築くことなど不可能でした。

                   

                   

                   

                   

                  何故このような試練が与えられるのか?

                  堕落の蕩減としての意味合いは原理で書かれているように、逆の経路をたどるということなんでしょう。

                  命がけで堕落したのだから命がけで帰らなければいけないとか、

                  戒めに反したのだから戒めを守らなければいけないとか、そういうことでしょうか?

                  否。

                  自立に必要な道筋であるからです。

                  人の心が成長するために必要な事柄だからです。

                  自立するために、親は干渉することができない。

                  簡単なルールではないのです。

                  簡単なルールであれば、失敗してもうまく取り入れば目こぼしして貰えるんじゃないかとか、

                  愛の神様ならば恩恵でもってそのうち皆救済してくださるんじゃないかとか思えますけれど、

                  これは化学反応みたいに厳密で、炭素は高温高圧に晒されて輝くダイヤモンドになりますが、足りなければ真っ黒な石炭です。

                   

                  通過しなければならないのです。

                   

                   

                  統一教会に入信してから統一原理と多くのみ言葉をいただいた私たちですが、

                  孤独に捨て去られた後にもう一度原理のような内容を教えていただくのです。

                  人間が霊肉の存在であることの詳細を理解するようになるのです。

                  原理講論では明確にされていなかった内容です。

                  何年か前にスピリチュアル系でよく耳にしたアセンションの問題でもあります。

                  霊的な事実を実感的に理解するようになります。

                  この時に指導に当たるのが霊的存在とのコンタクトになります。

                  指導霊とかハイヤーセルフとか表現できるのかもしれませんが、多くの人がこの指導霊に主管されてしまいます。

                  多くの元食口たちが神様から離れていくのをネットを通じて目撃しました。

                   

                   

                   

                  かなり端的な書き方をしましたが…ここまでやってきて失敗すれば心情世界において僕の僕です。

                  でも、外的には人やお金を集めることには成功する人もいます。

                  逆にクリアした人達の方が、外的には何も持っていないケースが多いんじゃないかと思います。

                  まだそういう時です。

                   

                   

                  とにかく、神の子女として自立した個性体であることが求められます。

                  命令通りに動くロボット、あるいは主人の好みを完璧にマスターした家政婦や執事が求められているのではありません。

                  宗教活動の大部分は、高級家政婦養成所のようです。

                  仕方ないこととも言えます。

                  神・メシアを『主』と仰げば、仰ぎ見る信者の立場は必然的に『僕』です。

                  宗教卒業の必要がここにあります。

                   

                  また、『主』の立場からの言葉は命令となり、命令に従うのは僕なのです。

                  自立して自らの行動に責任をもって選び取ろうとするときには、命令に従って行くことはできません。

                  「誰の言葉も信じてはいけない」というアボジのみ言葉も、この辺りを表しているのかもしれません。

                  そして、庶子としてゆくべき道についてはあからさまには語ることができないという『原理』が生じます。

                  『主』の立場からは語れないのです。

                   

                  私は書きますよ。

                  私には何の権威もありませんから、私ごときの言葉を参考にするかしないかは受け取った皆さんの自己責任ですから。

                   

                  | おーば | - | 17:02 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
                  七つの封印-6 天使の屈服
                  0

                    6回目でやっと『庶子』について書き始めます。
                    七つの封印というタイトルにしたからには、一回で一つの封印について書けばいいだろうと安易に思っていましたがとんでもないことになりました。
                    八段階を立体化したところから考えれば8回目ですし、去年の原罪についての記事も伏線になっていたようです。

                     

                    『庶子』と『養子』はあからさまに違う存在です。
                    『養子』は血のつながりがありませんが『庶子』は血がつながっているのです。
                    血統問題ですね。
                    『庶子』とは原罪の無い立場であり、神の血統に連なる立場ということになります。
                    祝福で原罪が脱げるのならば、祝福家庭はすべて庶子以上の段階に居なければなりません。
                    血統、原罪の問題であれば、『メシヤ』との関係性に触れる必要があります。

                     

                    先出の四研もこの『庶子』に拘ります。
                    ここら辺のことを考えていると、文師がなぜあからさまな表現でみ言葉を語り得なかったのか?
                    人間の責任分担って何なのか?
                    統一教会がどうして地上天国に到達できないのか?
                    などの事情が痛々しく感じられます。
                    だけどどこまで書ききれるだろう?

                     

                     

                     

                    さて、「血統転換であればメシアからの祝福を受ければそれでいいではないか」と考える人もいるでしょう。
                    祝福を受けるというのは外的な行為でしかありません。
                    行為をもって義とするのは『行義』の信仰であり『僕』の基準でしかないのです。
                    「いや、信じて受けるのだから少なくとも『信義』の『養子』基準はあるだろう」と言うかもしれません。
                    だけど、受けたくなかったけどカップルの片方が望むから受けたなどという人もあるわけで、
                    要は備えた基準によって恩恵が違うという事です。
                    このシリーズの“3”をもう一度ご覧ください。
                    『養子』の行程をきちんとクリアしていることは必須です。

                     

                    『条件祝福』ということばもありますね。
                    では『本然の祝福』の基準が何かと言うのです。
                    もっとも、『本然の祝福』はどうやら『実子』基準と思われますので、『庶子』は一つ手前の基準という事になります。

                     

                    『庶子』の立場は少し特殊なのかもしれません。
                    1969年の御言が訓読友の会から流れてきましたが、
                    「復帰路程というのは、個人復帰、家庭復帰、氏族、国家、世界というふうに展開していく。」と、始まっています。

                    http://kundoku.blog-fps.com/kyounomikotoba/

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                    『庶子』に対応するはずの『民族』が抜けています。
                    昔唱和していた『私の誓い』では「個人と家庭と社会と国家と世界と天宙」になっています。
                    八定式が1989年に行われる以前には『庶子』とは隠された立場だったのかもしれません。
                    (天聖経の中で八定式の項目89年4月の御言に『民族』の記述はありますね。…天聖経くらいは通読しないとだめかも…)

                     

                     

                     

                    内的に備える基準は何か?
                    図中に「天使の屈服」と表現しました。
                    聖書の中ではヤコブの「天使との組打」のエピソードが有名です。もう一つ、
                    イエス様の「三大試練」がありますが、これも試練の後に「天使が仕えた」とあり
                    ます。

                     


                    天使の屈服と言いましても、そもそも天使なんて見たこともないと言う人が殆どです。
                    そんなもの居るのか?という話でもあります。
                    屈服させるとか言うのならば先ず、出会わなければなりませんし、出会ってそれと分かるくらいに知らなければ困ります。

                     

                    原理講論的には、
                    天地創造の早い時期から存在
                    仕える霊・協助者・讃美者
                    人間始祖の養育係・守護者
                    くらいの解説があります。

                     

                    仕える、協助、讃美、人間の守護というのは存在の本質にかかわる属性ではないですね。
                    講論には使命という表現もありますが、これらは結果的な行為です。
                    使命という割には、それを離れて行動しています。

                     

                    存在論的には、
                    肉体を持たない霊のみの存在であり、
                    天地創造の業に関われる高い知性と、
                    讃美者というのは美への感性すなわち情緒性を持ち、
                    そして使命を離れて堕落の道を選びうる自由意思を有している
                    ということです。

                     


                    この存在は死者の霊たちとよく似ています。
                    私たちに接してくる霊というのはかつて地上生活を送ったことのある人間の霊か、
                    地上生活の経験がない天使の霊かということになります。
                    神の霊という可能性も無いとは言いませんが、こと『唯一神』はその狒潅劉瓩寮質から犖鎚明瓩療世膿祐屬領遒箸楼貔を画します。
                    狒潅劉瓩任△襪里倭和ぜ腓瞭胆ですから、『天使』には犖鎚明瓩あると考えられます。

                     

                    養子信仰の時には、人間同士の関係が平等であるように、
                    霊的存在との関係も平等に向かうことが鍛錬されます。

                    その鍛錬が祈りを通じた対話です。

                     


                    私たちは信仰生活を通じてこの霊たちに関する感性を身に着けていきます。
                    そのためにも正しい信仰指導を受ける必要があります。
                    そして祈りを通じて霊的な体験を多く積む必要があります。
                    キリスト教会などでも、『聖霊体験』は珍しいことではありません。
                    いたずらに怖がっていてはいけません。
                    霊を恐れ敬うような指導は、『僕』信仰の時点での指導です。
                    原理にも、私たちは天使をも主管する存在であるとされています。

                    霊的な存在の全てが『神』ではありませんので、霊的存在の「お告げ」は必ずしも正しいことだと考えてはいけません。

                     

                    天使にしても祖霊にしても、彼らには自由意思があるとすれば、『嘘』をつくこともできると知らなければなりません。
                    悪意の嘘なのか、善意の慰めの嘘なのかもしれません。
                    私たちは自分の人生に責任をもって生きる必要があります。
                    個性完成というのは、人柄がどうとか、他の人と比較してよりオリジナリティが高いとかいう問題ではありません。
                    それ以前に、自身に責任を持つという基本的な事からスタートしなければならないのです。
                    誰かから与えられたものを身に着けていればいいということはありません。
                    誰かから与えられたものがふさわしいものであるのかないのかを自分で判断して身に着け、あるいは手放すのです。
                    この判断力こそが『個性』を築き上げます。

                     

                    堕落した天使、してない天使(いるのかどうか知りませんが)、霊界にいる堕落人間の霊、あるいは聖霊であったとしても、
                    これらの誰が尋ねてきても、私たちは自らの行動の基準を彼らに任せてはいけません。
                    彼等の言葉を受け止めた上で判断すべき事柄は自分で考えて自身の愛の基準で行動することが必要です。
                    彼等を友人・隣人と認め、地上生活の友人・隣人と同様に対することが必要なのです。

                     

                    「天使が仕えた」というのは僕として仕えるというよりも友として尊敬されると考えるのが妥当でしょう。

                     

                    | おーば | - | 12:44 | comments(8) | trackbacks(0) | - | - |
                    七つの封印-5 原罪について
                    0

                      ここで『原罪』にも触れておきます。

                      『原罪』が関わるのは『僕』と『養子』の段階です。

                      『僕の僕』は原罪どころか『罪』など犂愀犬ない畴Ъ韻靴覆の場。

                      『庶子』以降は原罪を狠Δい性畩況であると考えます。

                       

                       

                       

                      そもそも、堕落せずに成長していれば、『原罪』としての概念は生じるものではありません。

                      だったら八段階と原罪は親和性のない話になりますから、ここで出すのもちんぷんかんぷんに見えるかもしれません

                       

                      『僕』にとっての原罪は、戒めと同じ様に存在します。

                      戒めを守るための『根拠』とでも言いましょうか。

                      原罪と関係がない本然での『僕』は家庭の中で保護者の指導のもと成長してゆきますので、

                      戒めを守ろうとする『根拠』は保護者からの働きかけに対する応答の必要です。

                      実際の家庭内での子供の躾はそのようになっています。

                       

                      しかし、神様との関係が“切れた”状態では神様の指導を直接受けるわけにはいきませんので、

                      神様の子供になるというご褒美を動機付けとしているのです。

                      もっとも、ご褒美の内容はよく理解できていませんので、第一イスラエルであるユダヤ教では取り立てて原罪を意識しているものではないそうです。

                      とにかく戒律を守ることが大切で、戒めを破ると地獄へ落ちる。

                      地獄に落ちるのはそもそも人間始祖が約束破ったからだと。

                      モーセの十戒が記された石磐は『契約の箱』に収められていましたね。

                      『原罪』もまた、『契約条件』の一項目のように捉えられているのです。

                      先に手形が切られているので、逃げたりさぼったりしてはいけない、堕落した『僕』の行動の動機付けです。

                      約束破りの物語が失楽園の物語であり、その物語のエピソードとしての原罪なのですね。

                       

                      そういう物語ですので、ある程度の成長を遂げてこの物語に対してみると様々な疑問が生まれます。

                      天使の立場は同情に値します。

                      先に来て、多くの働きをして、愛し、愛されて、ヤキモチを焼くくらいの情緒性を備えているのに、

                      あっさりと棄てられたような立場に立たされるわけです。

                      人間始祖が受けた試練などよりも何倍大変な立場ですか?

                      それでも、「彼は悪者なんだ」と教えられた子供は、悪者の気持ちを想像できるほどの情緒はないので、彼を徹底的に嫌うのです。

                      そして、彼は仕えることが使命であると教われば、対等に考えることなどありません。

                      とても傲慢な心を育てかねないのです。

                       

                      相手の事情を思いやるのは『養子』になってからなので、『僕』の立場からは『原罪』の背景とか、理論的な意味合いは関係なく、

                      守ったらもらえるご褒美だけが重要なのです。

                      直接指導できる養育者がいないので伝えられた、子供をやる気にさせるためのシステムの一環と言っては言いすぎでしょうか?

                       

                      自分はこれだけのことをしたのだから、それに見合った報酬が与えられるのは当然の権利である。

                      あたりまえなこの主張が僕の主張です。

                      気を付けなければならないのが、『僕』としての報酬を受け取ってそれで満足してしまうと、『養子』の段階に進むことができなくなります。

                      イエスの時も、福音を受け入れたのは『罪人』とされていた取税人や遊女、あるいは穢れた病人でした。

                      戒めの限界に対峙した先にあるのが福音だったのです。

                       

                       

                       

                      『養子』になると少し様子が変わります。

                      養子の特徴は対等な関係性なので、自分の事情だけ主張しては周りとの関係を築くことができません。

                      だから相手の事情が気になるのです。

                      そうすると、戒めにも意味を問いますし、『原罪』にも意味を問います。

                      「神との約束に不従順だったことが罪となった。」

                      「戒めを破ったことの責任を男と女とで擦り付け合った。」

                      などというのがキリスト教会での代表的な見解でしょうか。

                       

                      失楽園の物語も、その場面で猜_擦棒犬る立場瓩らはどのようにすべきなのかを問うのです。

                      つまり、堕落論で言うところの『堕落性本性』を持っていることが『原罪』がある証であり、『原罪』そのものだと捉えられています。

                      ですから、失楽園の物語が具体的な史実であるかなども関係なくなります。

                      どこまでがセーフでどこからがアウトかという問いもありません。

                      キリストの再臨にあって最後の審判で問われるのは『信仰』であって行動ではないのです。

                      旧約の信仰を『行義』と言い、新約の信仰を『信義』というのも聞いたことがあるでしょう?

                       

                      『原罪』に対する懲罰はキリストの代贖によって回避されていますので、戒めを守る必要は必ずしもありません。

                      戒めを、福音の教えを、守ろうとしても守り切れない弱い存在、不完全な存在であるのが罪人としての人間である。

                      その様な認識の下でなお、福音によってもたらされた『隣人愛』に生きようとするのが、『養子圏』にあるクリスチャンの生き方です。

                      しかしそれにさえ原罪ゆえに徹しきれない現実も、イエスの代贖により許されていて懲罰を受けることはないと信じます。

                      そして再び主にまみえる時(最後の審判)、完全に罪なき者として栄光に包まれる。

                      原罪は主の再臨の時に赦されるというのがクリスチャンの信仰ですね。

                       

                       

                       

                      こうやって見ると、堕落論は堕落性本性を開設していることから『僕信仰』と『養子信仰』を見据えた上で二段構造をとっているようにも見えます。

                      神様の前に信仰初心者である人々には、戒律的『僕信仰』が求められます。

                      そのためにまず、天使との淫行を強調した具体的な罪科を示し、それを克服するための『信仰基台』として献金・伝道を義務化しています。

                      信仰が育った上で、堕落性を脱ぐ人格完成が求められるのでしょう。

                      しかし最初の僕信仰の段階から『堕落性を脱ぐ条件』としての『実体基台』を形骸化して説いてしまったが故に、歪んで愛のないアベルカイン原則が横行し、

                      言われるがままの信仰生活を送るしかなく、『僕信仰』がいつまでも強要されるようになってしまったのではないでしょうか?

                      『実体基台』は兄弟との関係です。

                      親の前にはフラット、対等な関係性です。

                      ちなみに、『信仰基台』と『実体基台』を合わせて『メシヤのための基台』なので、メシヤを迎える前に『養子信仰』完成の必要を原理講論は訴えてるわけです。

                      ネット上の情報を散見するうえでは、『僕信仰』を徹底するのみで「祝福(メシヤを迎えた)によって原罪は清算された」という論が多く見られます。

                      いつのまにかメシヤに侍ることが実体基台であるという考えになっているようですが、メシヤに会う前に立てるのが実体基台ですから。

                       

                      | おーば | - | 13:13 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
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