サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
『認知言語学入門』〜感想文
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    『認知言語学入門』籾山洋介著・2010年10月 研究社刊
    『フシギなくらい見えてくる!本当にわかる言語学』佐久間淳一著・2013年12月 日本実業出版社刊

     

    久しぶりに言語学についての書籍を読みました。
    Twitterである人から上の『認知言語学入門』を勧められたので。
    『フシギなくらい〜』は、Amazonで購入する際に目について一緒に購入したもの。

     

    言語学に関心を持ち始めた理由は何だったか。

     

    そもそも「言語学」なんて聞いたこともない人だっているでしょう。
    これは「国語」とは違いますし、多くの言葉を操ることを目標とするものでもありません。
    操ることについては「語学」が受け持つ分野かと思います。
    「言語学」は言葉の仕組みや成立・系統を明らかにしようとする学問です。

     

    このブログで言語学に言及したのが2010年11月
    その前の10月にホームページに天国の作り方のレポートの原型があります。
    言語学という言葉にはなっていませんが、「人に見せる文章を書く」というテーマは2001年5月に記述があります。
    人との交流のための言葉が重要だったのは、ネット上の交流で中々意思の疎通がしにくかったところからだったと思います。
    自分自身が統一教会の経験をどう捉えているのか、それ以前になぜ統一教会の道を選択したのか?
    その辺りを整理していきたかったのですが私は言葉を知らなかった。
    2000年当時のネットは未だSNSどころかブログも盛んではなく、(ブログっていつからあったんだろう?)
    BBS(掲示板)上でのやり取りと、個人のホームページからの発信。
    当時の私の関心の中心は統一教会と統一原理の本質についてだったので、元食口という人たちの文章を読み漁ってました。
    自分の宗教・哲学の知識の足らなさに泣きましたね。
    反論したい内容があっても知識が足りない、文章力が足りないで、BBSに書き込みたくても追いつかない。

     

    「分かっていることならば言葉で説明できるはず」と、よく言われます。
    少なくとも当時私が見ていたBBSにはちょくちょく出てきていたと思います。
    なので自分が書けないのは分かっていないからなんじゃないか。
    それならば、「分かる」ってどういうことなのかという疑問を抱いたのが言葉への興味の始まりだったと思います。

     

     

     

    佐藤さんのblog『言語学の嘘』に初めてコメントさせていただいたのは2012年だったようです。
    その時のやり取りが以下です。

     

    https://plaza.rakuten.co.jp/clg2009/diary/200904050000/comment/write/#comment

     

    始めまして   桜葉佳代 さん
    「ブログ村言語学カテゴリーから来ました。
    こちらのブログはとても興味深く感じます。
    言語学に関心があったのですが、
    言語学が思想哲学ではなく外国語カテゴリに存在していたところからフェイントでした。
    なるほど一般に言語学とは外国語のエキスパートがすることなのですね。
    私が関心を持ったのは認識や記憶に関わる言語の役割であったので、言語学で探してもなかなかピンと来る書籍やサイトに尋ね当たることはありませんでした。
    今仕事がとても忙しいのでじっくり読むことが出来ないのが残念ですがまた訪問させていただきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。」
     (2012.06.17 14:10:23)

     

    Re:始めまして(04/05)   CLG2009 さん
    「桜葉佳代さん
    メッセージありがとうございます。
    私の考える言語学とは、今一般的に言われている言語学とは全く違うといってもよいと思います。
    一言でいうと、記憶というキーワードを通して言語をとらえ直すことです。そしてその先にはもっと大きなテーマがあります。
    これからもお付き合いの程よろしくお願いいたします。」
     (2012.06.17 23:01:13)

     


    このやりとりで、やはり当時は認知言語学とか生成文法とかはあまりメジャーではなかったことが伺えますが、
    今『言語学』で検索すればいろんな情報が引っかかてきます。
    どんどん進歩している分野なのでしょう。

     


    認知言語学という分野に出会えなかった私は自分で思考実験を繰り返して似たようなことを考えてきました。
    それが前記事のPDFレポート『天国の作り方1-1』です。

     

    言葉というのは人の魂の骨格だと今の私は思っています。
    言語学者であるソシュールが、構造主義の発端となったのは言語に構造的な性質があったからなのだと思います。
    肉体の構造を支えているのは骨格ですし、骨の中には神経系や血液を作り出す重要なシステムが組み込まれています。
    その構造は「分かる」ということの構造でもあると考えます。
    言葉の機能を「区別」「圧縮」「固定」「拡大」に分類して考えました。

     


    先に『認知言語学入門』を読みましたが、その名の通り入門書です。

     

    ・認知言語学は言語の基盤として認知(能力)を重視する。
    ・基本的な認知能力として「比較」「一般化」「関連付け」がある。
    ・認知言語学は、言語習得の過程において経験(的学習)を重視する。
    ・私たちは、一般的な規則と個別的な知識を余剰的に持っている場合がある。

     

    上記4行は本の1〜2講(この本は章の代わりに講が使われている)に書いてあったことの抜粋です。

     

    「認知」とは即、「分かる」という意味です。
    Wikipediaには
    「心理学・言語学・脳科学・認知科学・情報科学などにおける認知とは、人間などが外界にある対象を知覚した上で、それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のことをいう。意識と同義に用いられることもある」
    と、あります。
    私が持った問いと全く同じテーマでの『学問』が成立していたということで、自分の思考回路はそれほど突拍子もないことをしていたわけではないと少々安堵。
    この学問と出会えなかったことは、遠回りをしていたということなのか、あるいは自由な発想を展開するチャンスを持てたことなのかのどちらかなのだと思います。

     

    基本的な能力としての「比較」を私は「区別」と呼び、「一般化」を「圧縮」と呼び、「関連付け」をその結果としての「拡大」指向と呼びました。
    そして、私が「固定」としたのは三行目の「経験(的学習)」に相当する「記憶」だと解釈しています。
    「記憶」は『言語学の嘘』の佐藤さんも重視しているテーマですが、私は記憶のパーソナル性が個別の発話を複雑にし、時には同一の母国語を使っていても充分な意思疎通ができなくなる原因なのだと考えています。
    それが四行目の「個別的な知識を余剰的に持っている」という話ですね。

     

    この本では3講目以降に「カテゴリーとプロトタイプ」「同じものに対する異なる捉え方」「メタファー」「メトニミー」・・・と、認知言語学に用いられる用語とその実例を挙げて解説している。
    その中で感じたことは、見出された認知のシステムが言語生活においてどのように表れているか、それが応用展開されていく様を解説していくのだが、私が求めていた認知の構造そのものに踏み込んで行く気配を感じられなかった。
    つまり、結果として現れている言語生活のサンプルを集めて整理分類する作業に見える。
    とはいえこの本はあくまで入門書なので認知言語学者の中には、言語に現れている認知の構造、つまり原因について探求している人がいないとは言い切れない。
    いてくれるといいなと思ってしまいました。

     


    この本の著者は『生成文法』というのを意識して書いているようです。
    最後の14講で、「認知言語学の位置づけ」としているのですが、その内容は『心理学』からの継承と『生成文法』との比較になっています。
    なので、『生成文法』の中身に少々触れています。
    大きくは、認知言語学は経験主義であり、生成文法は生得主義であるという主張かと思われます。

     

    これは17世紀の哲学界でもこういう二派に分かれていたように思います。
    デカルトの「生得観念説」とロックに始まる「経験論」です。
    有神論と無神論みたいなものです。
    二派に分かれることで自身の思考に垣根を造り、自由な発想をできなくしてしまうことに陥りそうですね。
    とはいえ、この本に出て来る用語はこれから私の文章にも応用できそうなものが多いのでありがたいです。
    専門用語とはいえ、私以外の誰かが似たような概念を持っている事実を文章中に反映できるのです。
    助かります。

     

     

    | おーば | - | 00:08 | comments(0) | - | - | - |
    権利という空手形・平等という幻想
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      ああ、私としたことが、神も仏もない連投ですね。
      だけど“権利”と言う問題はこれまでにもずいぶん書いているようです。
      右側の「Search this site.」に“権利”と入れて検索すると30以上の記事が引っかかってきます。
      それ程のぶれも無いと思います。

       


      第二次世界大戦後、個人の自由と権利の追求が重視され、権利教育に重点が置かれてきました。

       

      国民は自由に生きる権利を有しているのです。
      職業選択の自由、住居選択の自由などですね。
      そして生命財産を犯されることのない権利。

       

      戦前、個人の権利が侵害されてきたこと、様々な権利の不平等があったことを反省して権利教育が盛んに行われました。

       

      権利があるとはいえ、希望の職種への就職は必ずしも叶うものではなく、
      どこそこのエリアのこんな間取りの家に住みたいと願っても高嶺の花で到底手が届かなかったりします。
      (住居選択の自由は、かつての部落問題のように差別によって特定の地域に住まわざるを得ない状況に追い込まれた人たちを念頭に謳われているものです。
      それは大分解消されてきていますが)

       

      子供たちには将来の夢を自由に大きく持つことが推奨されています。
      夢を持てと言われて有名になること、お金持ちになることを目標にする子供たちは少なくありません。
      地道な暮らしを願うことは恥ずかしいことのようにも思えるほどです。
      そんな子供たちばかりではないと思うのですが、メディアが伝えるのがそういう風潮ばかりなので、そこから影響を受ける子供たちも少なくはないはずです。
      幼い子供は自己中心的なのが当たり前なので、幼い心で将来の夢を描かせ意識させることは、将来の可能性を自己中心に限定しかねません。
      そして自己中心を実現することがカッコいい勝ち組的人生という事になってしまいます。
      教育はそれを後押しするべきではありませんが、権利教育というのは自身の自由の権利を主張することを良しと教えるのです。
      幼い夢を実現できる子供たちは一握りです。
      結果、子供たちが作る未来は競争社会となり、競争社会が生み続けているのがいわゆる『格差』です。
      勝利感を求めれば比較対象となる敗者の存在が必要なのです。
      個人の勝敗が現代的人生のテーマになれば公共心は前時代的なものであり、前時代的な公共心を教えることは洗脳教育ということになりかねません。

       

       

       

      昔は趣味と仕事は次元の異なるものでしたが、最近は趣味を仕事にする、できるのが個人の権利みたいに感じられています。
      これは実はメディアによってつくられたイメージなんですが、これを目指して挫折して敗北感に生きるなんてこともあります。
      気にしないで受け入れているように見える人たちもいますが、
      自由のイメージは一方でそれを実現しなければカッコ悪い負け組というプレッシャーを与えています。

       

      マズローの分析では、自己実現といって自身の能力をいかんなく発揮したいというものです。
      しかしこの現の理解も単に承認欲求に留まっていることが多いようです。
      承認の欲求というのは自己実現の一歩手前で、尊敬されたいというもの。
      世のため人のために生きて尊敬されるという発想よりも、
      自分の能力の高さを見せつけてマウントをとり相手を服従させたい発想に転びがちではないでしょうか?

       


      そして、権利意識というものは、一旦手にした権利を侵害されることに強烈な被害意識を生み出します。
      今回、自粛警察とか、マスク警察と言われる人たち、感染者に対する差別感情は、
      「私が日常生活を送る権利を侵害したものを許さない」
      (日常生活を維持する代償を自分は払っているにもかかわらずそれを奪われたという被害意識)
      からきているように思えます。
      そのような考え方でベーシックインカムのような制度が導入されれば
      平時はともかく有事(災害や戦争など)に給付金額が変動した時に社会に対する不満が爆発することでしょう。
      もっとも、最低限の生活費の保証の場合それが減額されると非常に問題なのは間違いありません。
      支給額が政治の道具にされることも懸念されます。

       

      社会保障とか、今回の給付金のこととか、福祉事業に対してもそこから利益をとろうとするハイエナがこの世の中には多すぎるし、
      彼らは確実に弱者を食い物にしてはばからない。
      いや失礼、彼らは社会が許容する範囲でできる限りの情報を収集して利潤を生むための最大限の工夫を凝らしているだけなのでしょう。
      そしてこの国の情報管理の甘さは彼らに情報を垂れ流しているとしか思えないし、ゆるい慣行があまりに多い。
      行政のオンライン化もそれ自体をビジネスチャンスとして権益の取り合いが繰り広げられるようです。
      そんな人たちばかりではないと思いたいのですが残念ながら私の周りには志の高い尊敬できる経済人の話は聞こえてきません。
      無邪気に成功を追い求め、成功体験を誇り、堪能している人たちばかりが目につきます。

       

       

       

      重ねて書きますが、ベーシックインカムを実現しようと考えれば、公共心の強い国民教育をしなければ不可能であると思われます。
      そして現状は反対方向に向かっているように見えます。
      この方向性は自由競争と言う弱肉強食社会で格差を拡大し、勝者の権利が強調され世襲される社会です。
      自由も権利も美しいものの様ですが、実際には社会的強者によって利用されています。

       

      そして大きな脅威にぶつかったときに人を守ることができず今回のようなちぐはぐな政策が打たれる結果を生むのです。
      権利に対する強い執着は、主に“僕”的情です。
      “僕”は賞罰に敏感というか、それを中心に考え行動します。
      “養子”にもそういう考えはありますが、彼らは奉仕精神も持ち合わせています。
      状況に応じて譲り合いができるのですが、強く主張されたときに引いてしまうので、弱者側に回ってしまうこともしばしばです。
      しかし譲り合う精神がなければ、昨今の厳しい環境の中でまともな社会を保っていくことは難しいでしょう。

       


      自己中心的に権利への強い執着を持つ人は権利を主張することに一生懸命になりますから権益を多く集めることができたりします。
      執着が少ない平和主義者であれば権益から遠ざけられることもあります。
      権利が奪い合う対象になれば自ずと勝者・敗者が生まれます。
      つまり、権利を中心にした社会は平等を実現することが難しいのです。

       

      変えなければならない価値観と言うのは権利を中心とした価値観です。
      とはいえ、一般人が権利を返上して為政者に委ねるなんてことをすれば、今の政治では庶民がひどい目に会わされることは目に見えています。
      政界で勝ち残っている人たちの多くは“権利”が大好きでそれを勝ち取ることに長けた人たちです。
      執着の少ない人が生き残れる世界ではありません。

       

      地方から立ち上がってくるリーダーシップ(地域振興を重視する企業・団体など)に期待を持つのがいいのかもしれません。

       

      | おーば | - | 01:27 | comments(0) | - | - | - |
      ベーシック・インカム
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        前記事はきつい内容ですよね。
        だけど向き合うべき現実は直視しないといけない。
        も一つきつい記事を書こう。
        これ故に私自身が重たくなっているのかもしれない。

         


        産業の構造に問題があったとしても人間、稼がなければ生きてゆけないのです。
        既存の構造の中で生きていく為の教育を受け、その中で工夫しながら生きることを学んできた私達ですから、
        そこに文句をつけてもどうにもならないと考えるのが普通のことです。
        だから既存の経済構造を無暗に壊すわけにはいかない。
        それをこの新型コロナ問題は有無を言わさずぶち壊しにかかってきたのです。
        この人命と経済の応酬の結末はまだ見えていませんが、多くのは元に戻ることを望むので既存の構造はそう簡単には壊れないでしょう。

         


        みんな現状維持を求めてしまうので、生活に精一杯の人達は、経済が傾くと死活問題ですが、
        そもそも余裕のある人にとっては利益が減ってしまう事を一大事と考えます。
        GoToトラベルで東京が除外されたと文句を言う人たちは、自分たちに旅行に出ようとする余裕が与えられていることに気づきもしていない。
        そこに生活の巻き返しをかけていた旅館や商店の皆さんには申し訳ないばかりですが。

         

        このままでは難しいと思ったとしても、稼業はそう簡単に切り替えることはできない。
        社会的なセーフティーネットが不足しているのと、
        そこまで積み上げた実績・歴史をほかすことなんか気持ちが付いて行けません。

         

         

         

        社会的なセーフティーネットの考え方に、ベーシック・インカムと言うのがあります。
        ベーシック・インカムというのは、全ての国民に生活するに足りる資金を継続的に給付する制度です。
        これは賛否両論です。
        私は賛同派ですが、ただやればいいというものではないです。
        これを少し考えたいと思います。

         

        賛同理由としては、貧富の格差が多くの人に与えている生きづらい状況の是正が必要だからです。

         

        雇用の不安定から生きてゆけない人が存在しているのは現実です。
        また、収入不足から結婚することができない若者もいますし、結婚したからと言ってほしくても子供を作ることができない夫婦がいます。
        子供を持てても一人でいっぱいだったりします。
        子供も生まれれば国民としてカウントされるのでベーシック・インカムの対象になりますので、家族設計と言う観点では自由度が増すことでしょう。

         

        また、生活のために不本意な仕事を選択せざるを得ないケースがあります。
        そして、今回の新型コロナウイルス感染流行のように、防疫の観点から仕事を継続できないケースがクローズアップされています。
        災害や社会変動によっていきなり職を失ってしまうこともあるのです。
        また、時代的な要請による事業転換が迫られる場合があります。
        現代社会においては、生活を確保するために新事業に移行する原資の準備ができず、
        時代に合わなくなった事業を継続するしかないようなことが頻繁におこります。
        こういったケースも、生活の心配はせずに納得のいく仕事をする準備ができるようになります。

         

         

         

        現在日本には生活保護制度があります。
        しかし、生活保護には様々な条件が付いてきます。
        贅沢品は禁止されますし、住まいについても限定されます。
        収入が無いのだからそんなの当り前だろうと考えがちですが、何が贅沢なのかが誰がどの様に判断するのでしょう。
        そして、頑張って収入を少し上げることができても、余分に稼げた分は生活保護費が減額されます。
        これは一旦生活保護の生活に入ると働くことのモチベーションを著しく下げ、抜け出すことを困難にしているようですが、
        ベーシック・インカムではプラスアルファがあっても給付金額が下げられることはありません。

         

        社会福祉士か、ソーシャルワーカーでしたか、担当者がついて暮らしぶりを監督するはずですが、十分な人材は割かれていません。
        人間が文化的な生活をするにはそれぞれが個性的であるべきです。
        その個性を生かして生きるには様々な生活様式があり得ます。
        それを理解した上での指導が必要になると思いますが、人手がなければ十分な指導は見込めません。
        それどころか、悪質な業者に食い物にされて保護費をだまし取られ続けるようなケースも聞こえてきます。

         

        また、日本の社会では生活保護は恥ずかしいことだという考えが強く、受給すれば親族から肩身の狭い思いをしなければならない。
        それを嫌って必要なのに生活保護申請をすることができず、生活を破綻させる人達もいます。

         

        ベーシック・インカムは国民一律無条件給付です。
        一律なので給付を受けても肩身が狭いことはありません。
        無条件ですから詳細な審査も必要なくなりますし、何を必要と考えるかは個々人の自由になります。
        審査が不要なので、他人からの生活指導は必要ないというのが前提になります。

         

        そして生活を大きく変えなければならない時、路頭に迷う不安がなくなるのです。
        今回の「夜の街」にも、生活があるからと心配することなく休業要請を出すことが可能になるでしょう。
        家賃、借金、リース料などのコストに対する考え方は新たに構築する必要はあります。
        休業ではなく廃業に繋がるケースもありますが、廃業によって人命が失われる心配はなくなります。
        経済構造変革の可能性が見えます。

         


        労働賃金は給付されるベーシック・インカムに上乗せされる形での収入になります。
        ただし、税率は上がることが想定されますので、現行の賃金体系から比べれば手取り賃金は減少します。
        仕事の価値は賃金を目的とする以上に社会参加が目的として重視されるようになるでしょう。
        しかし生産性の低下は懸念されます。(過剰な生産は抑制されるとも言えます。)
        大量生産大量消費の時代を終わらせると考えればいいかもしれませんが、必要な量の生産はどうやって確保したものか。

         

        贅沢さえしなければ生活に不安が無いのであれば、あくせく働く必要はありません。
        人が働くモチベーションはどうなるでしょうか?
        働く人がいなければ誰が社会を支えるのでしょうか?
        ローマ時代、市民には生活に足る食料と、娯楽が無償で提供されていましたが、そこからローマは退廃して滅んだという話もあります。
        ローマ市民の生活を支えていたのは奴隷制度ですが、現代社会にそれは考えられません。

         


        働くことへのモチベーションを維持するためには社会的な価値観の大幅な変更が必要になるのです。
        ベーシック・インカムを実現させるには、国民の意識改革は必須となります。
        個人の生活を成り立たせたいという動機で働くのが従来の経済システムですが、社会を支えたいという意識で働くことが個々人に求められます。
        そうしなければ回らない社会制度です。
        全体主義のようにも見えるかもしれません。
        かつて国家のために個人の自由が制限されていた時代があると考えられています。
        しかしあれは、国家を牛耳ろうとする個人的独裁が産んだ悲劇です。

         

        社会のために働くと言っても、イメージされるのは地域コミュニティからのスタートになります。
        地方自治が強化され、地域住民の生活レベルからの民主主義を立て、それに則った教育が必要になるのです。

         


        さもなくば、労働は強制的に課せられ、管理される者と管理する者との二極化が起こります。
        それは共産主義国が独裁的な政治を行うのと同じことになるでしょう。
        計画生産と言えば聞こえはいいのですが、職業選択の自由が与えられなくなることが予想されます。
        そうしないためには各個人が責任を持った社会参加をしなければなりません。
        日本人は自然災害などを通じてそれに近い訓練を受けてきましたが、社会的相互監視のようにもなりやすくバランスが難しいのです。
        前シリーズの『七つの封印』でお話した“僕”段階の気持ちでいたのでは相互監視社会になります。
        せめて“養子”段階の情で参加しなければならないし、リーダーには“庶子”段階の情をもって望んでほしいものです。

         


        先日のTOKIOの転身はなんだかこの方向に近い雰囲気を感じたので「おや?」って思いましたが、思い違いでなければいいなぁ。

         

         

         

        ベーシック・インカム簡単なことではないんですよね。

         

         

        | おーば | - | 14:37 | comments(0) | - | - | - |
        観光業に思う事
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          さてどこから行きましょうか?
          ブログを6月9日のコメ返から全く放置でゴメンナサイ。
          特にコメントを入れて下さった海がめさんとkogumaさん、ゴメンナサイ。
          まるっきり文章を纏めることができないでいました。
          書きかけては放置です。
          病気とかではありませんが、メンタルの問題なのでしょうか?
          あるいは情報処理能力が追い付かないためか?

           

          世界中誰もが新型コロナウイルスの振る舞いに疲弊している時。
          そしてこの騒動で、これまで隠されていたけれども浮かび上がってきたものもあるかと思います。

           

          外は雨。
          東京五輪のために用意された四連休でしたがそんなお祭りは消え去りました。
          日本政府はGoToトラベルキャンペーン成るものを仕掛けましたが、現場を知らない企業経営者が思い付きで強行したキャンペーンは負担ばかりが大きくてトラブルだらけになるのは目に見えています。
          この後にGoToイーツとか言っていますが、、、、順番逆じゃない?防疫を考えるならね。
          経済のカンフル剤としての考えだよね。
          最初に強いの打って継続させるために軽いのを続けて打つみたいな。

           

          ウイルスを運ぶのは人間だと言っているけれども、お金を運ぶのも人間なので、片方だけを動かすのは難しいのかもしれません。
          観光業というものについて、冷静に考える必要があると思います。

           

          地方再生とずいぶん昔から言われています。
          人口が中央一極集中してしまい、地方の過疎化が進み、地方創世金でしたっけ、1億円だったか地方に配られたこともありました。
          企業誘致とか上手く使えたところもあったと思いますが、金塊を買ってそれを目玉に人を集めようとかいうのもありました。

           

          その頃くらいからでしょうか、地方は観光で稼ぐという流れが起こってきたのは。
          政府も旗振りしていたと思います。
          さらには、日本国という単位でも、「ものづくりニッポン」では国際的にみて稼ぎにくくなってきたから観光立国に舵を切って、インバウンド目当てに観光業を推進してきました。
          オリンピックも世界中から人集めするためのイベントです。
          オリンピック以外にもIR誘致(カジノ)、世界遺産登録などもそうですね。

           

          観光業はこのコロナ禍で最もダメージを受けている業種と言えるでしょう。

           

          コロナ禍以前、オーバーツーリズムという問題が言われていたことをご存じでしょうか?
          よく例に上がるのが京都で、舞妓さんが安心して街中を歩くこともできない、お茶屋さんで常連の旦那衆の足が遠のいてしまった。
          これはパパラッチよろしく舞妓さんを撮影しようとして追いかけまわしたり、私有地に平気で入り込んだりする外国人観光客の影響とか言われますが、単純に分かりやすい話として言われるのでしょう。
          失われていた古都京都の静けさは、コロナ禍によって取り戻され、京都行くなら今がチャンスとも言われています。
          京都の人の生活はなかなか取り戻せるものではなさそうです。

           

          京都以前に問題になったのが富士山のごみ問題。
          これは外国人に限らず日本人登山客の問題でもあったようです。
          昔、登山はそれなりの知識と準備をもって敢行されるものでした。
          もっと昔には山には神様が宿るとされて安易に遊びに行くところではなかった。。。
          (昔は参拝も庶民の行楽的要素を持っていましたがそうそう頻繁に行くものではなかったのですよ。時間もかかるし危険も伴いましたから。)
          情報化社会になるにつれ、景色や交通などが知れ渡ると、「知っている」という気分は現実を身近に感じさせます。

           

          身近に感じ、行きやすくなることで、大事なものが見落とされても気が付かない。
          富士山で見落とされたのは自然体系と登山の危険性。
          安易な計画で遭難事故も増えたそうです。
          一度遭難事故が起これば命にかかわることにならずとも、救難隊など他人に苦労を掛けるのですが、先行する身近なイメージはそんな予想には至りません。
          また、ごみのマナーもさることながら、気が付きにくいのはトイレ問題。
          人が集まれば処理すべきものはどうしても増える。
          山のてっぺんに下水設備が整っているはずもなく、これは持って帰るわけにもいかず、大掛かりな処理対策が必要になる。

           

          京都や人が集まりすぎる観光地で見落とされてしまうのは地元の人の生活です。
          町はアミューズメントパークではありません。
          観光業に従事している人たちはある程度許容するでしょうが、そうでない人たちには観光客は騒々しい無礼な訪問者でしかありません。
          事業者ではない生活者が土地土地にいるのです。
          ディズニーランドで働く人たちの生活はディズニーランドの外にありますが、観光地の場合には必ずしも分離されていません。
          TDRの立地は埋め立て地だから少ないとは思うけど、アクセス途中の大渋滞に迷惑している住人はいるかもしれない。
          (ちなみに、我が家の近所のコインパーキングの価格が上がるのはTDR直通シャトルバスに乗り換える人たちの車の影響とも言われている。マジだろうか?)
          バックパッカーの増加は地域住民のためのコミュニティバスまで旅行者に占領されてしまうという話も聞く。

           

          アクセスの問題では、長距離移動に使われる飛行機の問題もある。
          ジェット燃料によるCO2問題は、最近ようやく言われるようになってきました。
          何故言われなかったかというと、お金が儲かる話だからなのでしょう。
          今回コロナ禍で破綻しそうな航空会社が多数あるそうです。
          航空関連企業にお勤めの方々は雇用の減少、収入の減少などの脅威にさらされています。
          だからこそ政府はGoToトラベルとか言い出すのでしょう。
          が、一方で心配しているのは株価の下落です。
          これまで旗を振っていたのは投資による利潤を得られるという側面が無いと言えますか?
          今の政府が心配しているのはどちらかと言うと株価の方だと感じるのは私だけでしょうか?
          旅行代理店、旅客運輸業者にお金が落ちるキャンペーンですね。
          個々の宿屋は対象に入るか入らないか戦々恐々です。

           

          インバウンド需要は99%減とニュースで聞きます。
          外国人の入国を規制しているのですから当然の数字ですね。
          インバウンド需要で生活していた人たちも大変な危機に見舞われていることでしょう。
          お見舞い申し上げます。

           

          政府が旗を振ってそれに準じたことを誰が攻めることもできないでしょう。
          しかし、アフターコロナ、ウィズコロナと言われる中では観光・イベント関連は今まで通りにはいきません。
          コロナ禍が過ぎ去れば元に戻ると思いたいところですが、問題はそれ以外にも多いことに気が付かなければなりません。
          政府が旗振りをした産業だから永遠に持続するわけではないのです。
          戦前、国力増強のために振興された炭鉱業はどうなったでしょうか?
          戦後復興のために振興された林業は見捨てられてスギ花粉問題にまで発展しています。
          列島改造のために注力された土木建設・ゼネコンも、ハコもの公共事業への批判に晒されました。
          時代は移り変わります。
          人はその都度柔軟性を求められ対応してきましたが、多くの人々を取り残した現実もあります。

           

          限られた部門に過度の期待をかけてはいけないのです。
          観光イベントには魅力と必要性があります。
          無くなっていいものではありませんが、そのスタイルの変更は必要です。
          量的にも膨らみすぎています。
          環境負荷への配慮、日常生活への配慮が必要ですが、稼ぎたいという欲心はその配慮を失わせます。

           

          今観光業は安売りすべき時ではありません。
          需要喚起の方策は安売りキャンペーンしかないと考えれば、現場は疲弊するばかりです。
          供給可能な資源量(環境負荷)を越えてしまっているのですよ。
          残念ながらパイの縮小はまぬがれません。
          そうすることで上前を撥ねる大手企業と投資家を排除することに繋がるかもしれません。
          しかし、パイが縮小すればそれで生活できる人数が減ることも事実です。
          見落とされている生活の質にかかわる事業が起こることを期待したいです。
          コロナ禍は一極集中から地方分散の流れも作っています。
          起業家ではない私がこんなことを書いても無責任でしかありません。
          ただの希望です。

           

          | おーば | - | 12:54 | comments(0) | - | - | - |
          PDFのお知らせ
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            人間は成長するものです。
            肉体と共に精神も成長します。

            わたしはこのことを皆さんに伝える努力をもっとするべきなのだと最近思い始めています。

             

            成長のことはブログで何度も書いてきたことですが、ブログの魚拓版PDFを作ってみました。
            ページ右側にあるカテゴリーの『心の成長』と『七つの封印』がそれを中心としたまとまった記事です。
            カテゴリーで選択すると、新しい記事が前に来てしまって読みにくいのですが、PDFでは記事の順番通りに読めるように並べてあります。
            以前に造ったレポートと、『夜の神・昼の神』も下記のダウンロードページに置いておきますので、関心のある方はページに飛んで該当ファイルをお持ち帰りください。

            http://www.o-baka.com/Leaf-download/Leaf-top.html


            心とか精神とか言いますが、これは霊や魂と同義です。
            霊魂などというと肉体を持たない死者のことだと思ってしまいがちですが、人間は生きている時から霊魂を持った存在です。
            肉体が死んだときに、霊魂だけになってしまうので、霊魂を指して死者と勘違いするのです。
            肉体が生きているうちは、霊魂は肉体の中に納まっているので意識されにくいのですが、
            肉体の命があるうちから、霊魂の方が個人の本体なのですよ。
            見えないし触れないのでついつい忘れがちですが、見ている本体であり、感触している本体は心即ち霊魂なのです。

             

            霊的な成長と表現してしまうと、スピリチュアル系のアセンション(=次元上昇)というのが連想されます。
            三次元から四次元、五次元へ。
            更には十一次元くらいまであるんでしたっけ?
            ただ数字で表現されますと、何やら階級制度みたいで胡散臭く感じてしまいます。
            高次元にいる人たちから何やら見下されているような宇h会館を感じてしまいます。
            実際に、スピリチュアルで語られているアセンションした人たちの話というのは聡明であり人を見下すような精神状態の人ではないのでしょうが、
            この高次元とか低次元とか言う表現や数値で表される階層が、どうしても上下関係をイメージさせるのです。
            上下関係でしかとらえられないのは、その人の精神が「その程度」なのだとここもバッサリ切り捨てられてしまいます。

             

            文師が語られた心情の八段階の成長段階はもっと酷い言葉を使っています。
            「僕の僕」「僕」「養子」「庶子」「実子」「母」「父」「神」
            封建時代の奴隷制度、家父長制度のごとしです。
            「僕」「子」「父」「神」は聖書に出て来る格位なので、それを利用して説明しようとしたときに、
            こういう段階になってしまったのだろうと私は理解しますが、それならスピリチュアルが数字で表現したのも何か致し方ない理由があるのかもしれないと考えるべきなのでしょう。
            ちなみに、人間関係を上下関係でとらえるのは「僕の僕」から「養子」まででしょう。
            「庶子」は達観というよりはドロップアウトしてるので。

             

            数字で表現されると、その内容を探る上での手掛かりに困りますが、どんな言葉でも言葉で表してもらうと何かしらの手掛かりを探れるものです。
            今「認知言語学」というジャンルの本を読んでいますが、ここに出て来る言葉は解説するのに役立つかもしれません。
            少々お待ちください。

             

            また、アフターコロナ、あるいはウィズコロナの社会を考えるために、横の八段階の考察をするべきかなというアイデアもあります。
            「個人」「家庭」「氏族」「民族」「国家」「世界」「天宙」ですね。
            こちらはまとまるかどうかは怪しいですね。
            書くとなるとちょっと過激な表現になりかねない気もするので。

             

            | おーば | - | 21:04 | comments(4) | - | - | - |
            COVID-19
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              新型コロナは色々な問題をあぶりだしました。
              為政者と民衆の感覚の乖離が最たるものでしょうね。

               

              感染防止のためにできる限りリモートワーク(テレワーク)に切り替えてくださいと、聞いた時には情けなかった。
              この発想は、命令を下す側の人間が、何をやらせようかという会議や、その資料の取りまとめをするオフィスワーカーだけに可能な事なのよね。
              現場で汗を流す人間のことなんか眼中にないわけ。
              そして、このテレワークで仕事をしているつもりの人間が、その報酬として現場か債権のような形でお金を吸い上げている。
              今、商売をやっている人たちが家賃が払えないとか、リース料が払えないとか問題になっていますが、
              家賃を受け取る大家さんが債務を持っていたらその支払いのために家賃を待つことができないという話です。
              個人商店を止めるならばその川上で蜜を吸っている連中を止めなければ川下は死んでしまうしかないんだ。
              川上は家で仕事するんじゃなくて家出休んでなさい!!

               

              原油価格が一時マイナスになりましたね。
              今はどうなっているのかしら?
              証券とか金融商品とか先物取引とかやっていないのでよく分かりません。
              そのよくわからない市場の中に債権の取引も含まれています。
              家賃とか、保険とか、預貯金までもがこういう市場に繋がっています。
              この市場は大きな金額が日々動いていますが、ほとんどがネット上での数字のやり取りなのでしょう。
              これらはテレワークで十分動きます。

               

              原油価格が暴落したのは何故ですか?
              世界中で飛行機やクルーズ船が運航しないし、自動車も動いていないからでしょう?
              現場が動いていないからなんですよ。

               

              もっとも、飛行機やクルーズ船はテレワークで仕事する人あるいはその家族たちが主に使っていたものなのだけれど、
              今回の感染劇にはずいぶんな役割を果たしました。
              この現場で働いていた人たちに何か悪意があったわけではありませんが、
              彼らが相手にしていたお客たちにはいささか問題があると思えるのです。

               


              個人商店や中小零細企業は生き残りに必死です。
              最近露店でマスク販売している人たちがいますが、普段衛生用品を扱わない会社がつてをたどって中間業者から仕入れたものを販売しているというケースらしい。
              通常ルートのドラッグストアや薬局には入らないのは多分日本に入る時点で通常ルートじゃないからなのでしょう。
              戦後の闇市みたいな感じですね。
              戦後みたいに配給制で販売しちゃいけないものを売っているわけではないし、
              営業できない人たちが生き延びるためにやっているんだからいいことだと思います。
              庶民は逞しいのだ。
              もっとも、マスクに関しては、国がきちんと数を仕入れて混乱しないように配給するくらいのことをしてほしかったですが、そんな能はありませんでしたね。

               


              この騒動の中で、麻生さんが言っていた「ウハウハなところ」というのは
              スーパーマーケットとドラッグストアと、衛生用品関連、デリバリーショップ、通信販売、宅配業者、通信業者、通信機器関係、ネットコンテンツ事業、医療関係(?)
              売上的にはウハウハかもしれないけれど、現場は修羅でしょう。

               

              飲食関係でアルバイトしていたような人たちが仕事を無くしているのだからそちらへ回ればいいのかもしれないとも思うのですが、
              なかなかそうもいかないようですね。
              実際、怖いからしかたない。

               


              子供たちの問題も今回浮き彫りになってきました。
              学校が閉鎖されてしまったものだから給食が食べられない。
              各地域での子ども食堂も“蜜”をつくるからと言って開催できなくなりました。
              そこまでの貧困問題になっていない家庭でも、両親が共稼ぎの家庭では居場所がなくて大変なことになっていました。
              一日中留守番させられる年齢ではなく、学童保育も“蜜”問題に引っかかる。
              今回は祖父母に預けるという選択肢も高齢者が危ないという理由で塞がれました。
              そもそも三世帯同居であれば同居家族ですからかまわなかったんじゃないのかな?
              アフターコロナの新しい生活習慣に、子供たちの居場所の“蜜”問題は考えられているのかしら?

               

              そして家庭内DV問題も心配です。

               


              学校給食で契約しているから他へ流せない生産者。
              一部地域でフードドライブに回し始めているようです。
              ただ、子ども食堂が閉鎖されているからどうやって届けるべきかという問題があるようです。
              子供給食だけではなく、路上生活者向けの炊き出しなどもできなくなっているようです。
              都内でもネットカフェ難民と呼ばれる人たちが行き場を失っていて、支援団体は彼らがどこへ消えてしまったのか心配しています。

               

              社会の弱いところが助け合って回っていく仕組みが出来上がればいいのだけれど、これは現場からの知恵がなければ動かない。
              「おうちで楽しむ術を見つけて過ごして下さっている皆さんありがとうございます」
              などと言っている人には思いもつかないことなんだ。

               

              | おーば | - | 00:33 | comments(2) | - | - | - |
              バカな呟きです
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                新型コロナウィルス問題が、古い世を滅ぼしてくれるのではないかという淡い期待を抱かなくもない。

                 

                 

                日本で5月6月で落ち着きを取り戻せるのならばCOVID-19は黙示録の第五のラッパのイナゴの害なのかもしれない。
                だとしたら、第五の教会であるサルディスの教会に奨められたことを実践する必要がある。

                 

                「わたしはあなたの行いを知っている。
                あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
                目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。
                わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。
                だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。
                もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。
                わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたは決して分からない。
                しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。
                彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。
                そうするにふさわしい者たちだからである。
                勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。
                わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。
                耳のある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」

                 

                 

                実は死んでいる人は新生を成し遂げている人、死にかけている者たちというのは、新生しようとしている人たちですね。
                わたしの神という表現があるので、わたしと名乗る方は神ではないとするとメシアでしょうか?
                ここで来られるメシアは第六の封印を解かれて新しいエルサレムを築かれる方でしょうか?
                だとしたら第四アダムと呼ばれる方かもしれません。
                あなたの行いはまだ不完全だからもっと頑張れと。
                目を覚ましていれば知らせをもって訪れる。
                (ラッパの音を聞きなさい。)
                だけどいらしたとしても分からないというのは残念至極。
                衣を汚していない少数の者たちはいるということなので、
                彼らがメシアと共に歩くことができるように、これまで受け取ったものを活用しなければいけませんね。

                 

                これを自分のこととして読むのはあまりにもおこがましいけれど、
                ここで謙遜傲慢で失敗するのも悔しい事でしょう?
                そもそも“おーばかよ”と名乗ってるんだからバカになりましょう。
                衣を汚していないと自負する方もバカになって下さい。
                願わくは、私が受けて聞いた事柄を活かす方法を共に考えてはくれませんか?
                共感し、共有しなさいとも聞いているので。

                 

                 

                | おーば | - | 23:22 | comments(0) | - | - | - |
                趣味と信仰 十字架と復活
                0
                  暗い世相に「ヨハネの黙示録」なんていかがなものかと思えるが、どうやら私は『7年の艱難』を『7段階の教練』と読み替えたようだ。
                  『死』を『古い価値観の死』と読み替えるのは決して目新しい話でもないので大した楽観論でもないだろう。

                   

                  あちこちのキリスト教会が会堂での礼拝を中止しでオンライン礼拝に切り替えているらしいです。
                  私が礼拝に通っている教会はそれでも集まって礼拝をしています。
                  もともと規模の小さい教会で、この自粛令の影響もあり参加人数は当然のように半減しています。
                  私はサンデークリスチャンなのですが、それでも教会の役員みたいなことをやっているので基本参加しないと不都合が出ます。
                  11日土曜日に「受難日礼拝」12日日曜日に「イースター礼拝」があったので参加しました。

                   

                   


                  クリスチャンにとって『礼拝を守ること』というのはそこに信仰をかけているようです。
                  統一教会を経て来た私には、そういう価値観はちょっと違和感ありますが、クリスチャンの心情を理解することも必要だと思っています。
                  教会員の中には、家族全員で信仰している人もあれば家族の中で一人だけという人もいます。
                  そういう人たちはこの状況で礼拝に参加するのは難しいようです。
                  『信仰』というのは傍から見れば『趣味』と同じようなものです。
                  多くの人たちが今は『趣味』を我慢して巣ごもりしています。

                   

                   

                  だけど『趣味』はその人の人生を変える。
                  『趣味』が高じて生業になる人も多いのだ。
                  アスリートとかアーティストとか呼ばれる人たちの多くは学生時代からの趣味を職業にした人が多いのではないか?
                  『信仰』を職業にするのは牧師とか僧侶なのかな?
                  信仰者にとって、信仰は趣味と一緒にされては困るものでしょう。
                  でも、傍目からはアイドルの「おっかけ」とどこが違うのかということになる。
                  どこが違うか説明できますか?
                  出来ないんですよ。
                  アイドルを追っかけている人たちの気持ちが分からないでしょ?
                  神様について十分に語り切れますか?

                   

                   

                  クリスチャンはイエス様のおっかけです。
                  ジーザスクライスト・スーパースター!!!

                   

                  新しい宗教は教祖様のおっかけです。

                   

                   

                  雨が降ろうが槍が降ろうがコンサートに集まるファンたちはアイドルに自分たちの愛情と熱意を示したい。
                  外出自粛が出ている時に礼拝に集まるクリスチャンはイエス様に自分たちの信仰を証したい。

                   

                  アイドルへの情熱は時に冷めるけど信仰は違うのか?
                  やっぱり冷める人は冷める。
                  一般にアイドルよりも信仰の方が少々賞味期限が長いかもしれない。

                   

                  アイドルはコンサートやメディアに露出するときと、素の顔はイコールではない。
                  多くの人が様々な演出をしてキャラクターを創っている。
                  長いことやっている人はうまくバランスを取りながら素の顔を少しづつファンの前にも出している人もいるかな?

                   

                   

                  宗教の教祖はどうなんだろう?
                  演出なんかではないと信者は言うけれど、一体どれだけ理解できているだろう。

                   

                   

                  私は文師も好きですし、イエス・キリストも好きです。
                  だけどどのくらい理解できているかと問われると難しいよね。
                  そして、元統一教会員としてはイエス様に対する理解がキリスト教だけを信じてきたクリスチャンとは少しずれる。
                  礼拝はエンターテインメントなので、行けば気持ちが上がることもあるし、外れればそれなりのことだってある。
                  ネット配信よりも生の方がいいのは当然。

                   

                   

                  イエス様は罪のない方なのに、私の罪を負って十字架上で亡くなられた。
                  という信仰観が私には無いのです。
                  旧約的に、供え物を捧げることで自分たちの罪が赦されるという信仰があればイエス様が供え物となってくださったことが「私の救い」に繋がるかもしれないけれど、私にはそんな信仰は無い。
                  クリスチャンが羊やハトを捧げないのはイエス様に優る捧げものはないからで、十字架以降捧げられるべき供え物の全てをその身をもって代えて下さったと考えるからなのでしょう。
                  もっとも、そこまで考えている人はほとんどいませんが。

                   

                   

                  勿論、十字架に意味が無いとは言わない。
                  イエス様の十字架と復活があったから、弟子たちの人生が変わった。
                  十字架なんかなくっても、弟子たちの心に火が付いていれば伝道は進み、み言葉の種を広めていくことができたであろうけれども、
                  エルサレム入城の前に、弟子たちが考えていたことはイエス様がイスラエルの政治的な王様になって自分たちは出世できるというようなことだったらしい。
                  そんな考えでいたらみ言葉の真意なんて理解できるわけはないのだ。
                  御言葉に相対することができなかったその『罪』がイエス様を十字架に付けたとは言えるかもしれない。

                   

                   

                  その弟子たちの姿が自分なのだと重ねて考えることを牧師は勧める。
                  弟子たちの有様を我がこととして悔い改めなさいと言う。
                  悔い改めればいいのか?
                  そこから先に進まなければイエス様の願いに生きることなどできない。
                  クリスチャンは悔い改めが好きだけれどなかなか先に進めていない。
                  悔い改めようとする以上にみ言葉に生きて先に進もうとは思えないのか?

                   

                   

                  イースターにイエス・キリストは復活した。
                  違う。
                  復活させられたのは弟子たちの信仰だったんだよ。だけどそこから進めていない。。。。

                   

                   

                  食口達は?????進んでますか??????

                   

                  | おーば | - | 16:51 | comments(6) | - | - | - |
                  七つの封印-21完結 ヨハネの黙示録(後編)
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                    後編−本題です。

                     

                    まず、第一段階は『僕』です。僕に上がるために『戒め』を必要とします。
                    第一の教会エペソにあてた手紙には何と書いてあるのかというと、律法的に生きて「初めの愛から離れてしまった。」と書かれています。
                    初めの愛とは、キリストの教会であれば『キリストの愛』と考えて問題ないでしょう。
                    そして「あなたはニコライ宗の人々のわざを憎んでおり、わたしもそれを憎んでいる。」という記述は悪魔的所業を戒める立場を書いているように読めます。
                    第一の教会はイスラエル民族を表していると考えられます。
                    そして第一の封印が解かれた時にあらわれた者は冠を与えられ勝利を重ねるというのは『王』の風貌であり、『主』である。
                    つまり僕として使えるべき主人がやってくることが書かれているのです。
                    第一のラッパで「地上の三分の一が損なわれる」というのは、『僕の僕』の三分の一が『僕』としてあがなわれるととれるでしょうか?
                    第一の災いで獣の像を拝むものというのはやはり偶像崇拝を思い起こさせます。

                     

                     

                     

                    第二段階は『養子』です。養子になるために『福音』という愛の御言葉を必要とします。
                    第二の封印が解かれた後に現れる赤い馬に乗った「地上から平和を奪い取ることを許され」大きな剣が与えられたのは、マタイによる福音書10:34 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。」と言うイエスにみごとに一致しています。
                    第二の教会であるスミルナへの手紙には、この教会が「ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくてサタンの会堂に属する者たちにそしられている」と書かれており、まさにイエスの福音に生きること、すなわちクリスチャンとしての信仰が示されています。
                    ここにイスラエルではなく、ユダヤという名称が使われているのが空恐ろしいのですが…。
                    の三分の一は血となり」も、血は生きたものの象徴という原理講論の主張を取り入れることで、『僕』の三分の一が『養子』としてあがなわれたととれるでしょう。
                    「血」の表現は第二の災い、第三の災いのほか、衣を血で洗う、血染めの衣等の表現も、生きた者の象徴という解釈をする方が意味が通りやすい。

                     

                     

                     

                    第三は『庶子』の段階です。第三からが問題になるかもしれない。
                    ペルガモにある教会は困難の中にも信仰を立てつつも、第一の教会エペソで憎まれる「ニコライ宗」や「バラム教」を奉じてみたり不品行に陥ったりしている。
                    霊的に明るくなることによって、却って霊に主管されてしまう危険が伴うことから僕の僕へ陥ってしまう危険性が指摘されているように感じました。
                    そして第三の封印が解かれた時に黒い馬に乗ってあらわれた者は「はかり」を持っています。
                    はかることは判断することです。
                    ただ従って行く段階から自ら判断する段階に踏み入れたことを表すように考えられます。

                     

                    第三のラッパに「にがよもぎ」の記述があります。
                    1986年4月26日、ソ連(当時)のチェルノブイリ原発事故が発生しましたが、チェルノブイリというのが「にがよもぎ」を意味しているんだというのを聞きました。

                    (Wikipediaにも記述があります。https://ja.wikipedia.org/wiki/チェルノブイリ原子力発電所事故#チェルノブイリと聖書)


                    ラッパというのは時を告げるものともされます。
                    封印の時というのは、一人一人の成長に応じて個人的に迎える“時”と、
                    別に、全人類的に初めてその段階が解かれる“時”があるのです。

                     

                    1986年に、UCで何があったのか?
                    愛勝日(1984年)の後アベルとして霊界に行った興進様を思い、長男の孝進様が悔い改めの基準を立てて勝利され、注目を浴びていたころかと思います。
                    あるいは、ブラック興進様が表れた頃かもしれません。
                    この時、例えば聖進様はどうしていらしたのかは知りませんが、心情的には複雑だったのではないかと思います。
                    本家以外にいらした子女様が本家の長男に抱く嫉妬心はとても強いと思いますが、本家の長男がもてはやされるこの時に、庶子の立場でその嫉妬心を克服していたことがあったかもしれません。
                    そしてブラック興進様の問題は霊的問題であり、庶子が越えていくべき課題の一つでもあります。
                    文師にささやかれる女性問題はこの『庶子』のような立場を作り出す為であったとも言えるのかもしれません。

                     

                    第三のラッパと災いは川とその水源と書かれていますので、これは“泉”を指すと読むことができます。
                    聖書の泉と言えば、イエスの御言枯れることのない泉、命の泉、福音に他なりませんね。
                    つまりクリスチャン『養子』の立場に与えられる災いであり、『養子』から『庶子』の心情圏に成長するための“災い”となります。
                    聖進様のような庶子的立場にとってのニガヨモギは孝進様という事、そういう読み方です。

                     

                     

                     

                    第四の教会テアテラには女性の問題、姦淫の問題が挙げられています。
                    カップルの問題を越えていかなければならない段階に通じます。
                    実子圏に上がる段階であるので、勝利を得るものには諸国民を支配する権威が授けられ、「明けの明星」が与えられます。
                    「明けの明星」はルーシェルの象徴ですが、サクラleafでは「ルーシェル」は昼の神の幼名とも言うべき名前であり、女性として目覚めていない状況であると考えます。
                    詳細は過去記事をご覧ください。

                     

                    http://blog.o-baka.com/?eid=344

                    (↑13回シリーズの一回目のリンク)

                     

                    第四の封印が解かれると、青白い馬に乗った「死」が登場します。
                    『実子』の段階は名実ともに神の血統に入る立場であると考えれば、ここで訪れる「死」こそ正真正銘の「死」になるのでしょうか。
                    対象となるのは“太陽・月・星”、八段階の順番から行くと『庶子』であり、『第三イスラエル=成約聖徒』ですね。
                    “太陽・月・星”はヨセフの夢解きでは“父・母・子”なので、祝福家庭を象徴しているかのようにも捉えられます。
                    ラッパが鳴るときには暗くなり、災いの時には太陽だけ燃え盛るという、振る舞いが一貫していません。
                    庶子の立場ならば、判断は各自に任されているので一貫しないこともあるのでしょう。

                     

                     

                     

                    女の問題、太陽・月・星と言うと、12章から書かれている女が気になります。
                    「太陽を着て、足の下に月を踏み、その頭に十二の星の冠をかぶっていた。」とある。
                    『庶子』圏の女性ならば単に『月』と表されてもよさそうだが、『月』の“上”に立っているのならばこの女性は『実子』以上の女性、
                    第五段階ということになる。
                    『実子』を対象とするのは第五の封印であり、『母』に向かう段階です。
                    また、17章に「大淫婦」というのが出て来る。
                    彼女もまた「地の憎むべきものの母」と書かれています。
                    彼女は赤い獣にのっているが、この獣は12章に描写される「赤い龍」と同じ特徴で書かれています。
                    赤い龍、赤い獣は13章にも描写されており、淫婦とともにかなりヤバイ、ラスボスのようです。
                    多くの人はこの獣についての謎解きを期待するでしょうが、今の私にはそこまでできませんので悪しからず。
                    第五の災いは獣の座を対象としています。
                    つまり、第三の封印では男女の問題でしたが、第五の封印では女性単体での攻防になるようです。
                    攻防と言っても「月を踏む女」は防戦一方のようですが。

                     

                    第五の教会サルデスでは「死」を宣告され、「死にかけているのこりの者たちを力づけなさい。」とあります。
                    そのまま読むと現在の疫病との攻防を彷彿とさせますが、「死」が新生のためのものであるとすれば「死にかけ」るのは新生の前触れです。
                    12章の女は生みの苦しみを受けていますので一致しますね。
                    そしてサルデスには「白い衣」を汚さない者が出てきます。
                    第五の封印でも、神の証を立てた故に殺されたとする者たちに白い衣が与えられます。
                    子羊の婚宴に招かれたもの、都に入るために衣を洗う者、十四万四千人の描写の後「数えきれないほどの大ぜいの群衆」が白い衣をまとっています。
                    気を付けて読んでみるとなぜか十四万四千は衣について書かれていません…?。
                    イスラエルでなくとも白い衣を着ることはできるようです。
                    この脈絡ですと、衣を与える『母』と受け取る『子』の立場があるようですね。

                     

                    第五のラッパの時、天から一つの星が落ちると言うのですが、子女の誰かということになるのでしょうか?
                    底知れぬ所の穴を開くというのですが、これは何を意味するのかよく分かりません。
                    ただ、続いている文章は、イナゴが人に五か月間害を与えるとあります。
                    イナゴは「金の冠のようなものをつけ」とあるのが冠=コロナと読めてしまい気持ちが悪い。
                    彼らの王は「ヘブル語でアドバンと言い、ギリシャ語ではアポルオンと言う」これらは破壊神のことだが、アポルオンは太陽神アポロンに通じる。
                    太陽もコロナと近いですね。
                    現在の騒動が五か月(日本で6月、世界レベルでは8月いっぱいというところかな?)で収束または目処でも付くなら“今”かもしれませんが、どうなのでしょう?
                    現在の状況から夏に収束する気配は見えませんよね?笑って見過ごしてください。
                    そしてイナゴの害を受けても聖書的には「死ぬ」ことはないと書かれているので、イナゴと「新生」は無関係のようです。

                     

                     

                     

                    第六の教会ヒラデルヒヤ。
                    この教会はべた褒めです。
                    しかし、ここでもう一度「サタンの会堂に属する者、すなわち、ユダヤ人と自称してはいるが、その実ユダヤ人でなくて、偽る者たち」が出てきます。
                    彼らを連れてきて平伏させると書かれています。
                    私は陰謀論とかあっても不思議はないかと思うので頭から否定するつもりはありませんが、積極的にそうだと決めつけようとは思いません。
                    しかし、イスラエルの子らと書かずにユダヤ人と書かれると、今、陰謀を巡らせている輩を降参させるよと書いてあるみたいでなんだか変な感じです。

                     

                    第六の封印については掘り下げていないので十分な考察はできないのだけれど、このヒラデルヒヤの教会で勝利を得る者の褒美の中に
                    「わたし神の御名と、わたし神の都、すなわち、天とわたしの神のみもとから下ってくる新しいエルサレムの名と、わたしの新しい名とを、書きつけよう。」とあります。
                    私はここに注目しています。
                    都と言うのは社会システムの中心地にあたります。
                    「聖なる都、新しいエルサレム」の記述は21章。
                    エルサレムと対比される都「バビロン」は17章から「大淫婦」の正体として描きだされ、18章で滅びが描かれます。

                     

                    第六の封印はほぼ天変地異状態。
                    第六のラッパは人間の三分の一を殺しに来る四人の天使。
                    四人の天使の挿話は7章にある。
                    十四万四千人に印を押してしまうまでは、地と海と木とを損なってはならないと「もうひとり」から命を受けているので、守護しているのか、攻撃を準備しているのかである。
                    また、14章にも天使の記述がある。
                    ただし「もうひとりの」「第二の」「第三の」「もうひとりの」「もうひとりの」「もうひとりの」と、6人くらいいそうなので一人多いかな?的外れかもしれない。
                    天使の記述はもう少し読み込めば何か見えるものがあるのだろうか?

                     

                    二億の騎兵と、火と煙と硫黄、ハルマゲドン、これらが恐らく古いシステムを壊すのだろうけれども一体何を表すのか?
                    今回のコロナ蔓延の中で『ポストコロナ』というのが囁かれているようです。
                    新型コロナの蔓延はグローバル経済にダメージを与えるので、システムの再構築が必要になるのではないかという話です。

                    パンデミックにはそのくらいの力がある。
                    四十二か月間の世界政府でもできるのだろうか。(ただの思い付きです)

                     

                     

                     

                    第七の教会ラオデキヤ。
                    各教会への手紙は必ず「勝利を得る者には」の記述があります。
                    ここでは「わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。」と書かれています。
                    七番目の封印を解いて上がればそこは『神』の圏ですからまさしくその通りですね。
                    第六の教会はべた褒めだったのですが、ラオデキヤはけちょんけちょんに能無しあつかいです。
                    足りない者なので色々なものを買いなさいと勧めます。

                     

                    第七の封印が解かれた後は半時間の静けさです。
                    第七のラッパの後は「この世の国は、われらの主とそのキリストの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう。」
                    第七の災いは激しい雷と地震ですが、これは前の段階に留まる者への災いです。
                    なので災いの前に「事はすでに成った。」と書かれています。

                     

                    第七の封印の簡単明瞭な封印の内容とは、「何もするな」ということです。
                    『僕』段階の人がこれを言われればいともたやすく従うでしょう。
                    しかし、『父』や『母』の段階の人はそれまでに様々な建設・運営に携わってそこまで来るのです。
                    後から来る人達のやっていることにはあれこれ口や手を出したくなるものですが、そこをこらえて、彼らを信頼して見守りなさいということです。

                     

                     

                    さて皆さんは今、どの封印にチャレンジしているのでしょう?

                    飛び級はほぼほぼ認められませんので目の前の課題に真剣に取り組みましょう!

                     

                    ご意見、質問などコメント欄など通じていただければ幸いです。

                    都内であればミーティングも可能ですよ。。。コロナ騒動が終わってからの方がいいかな。。。?

                     

                     

                     

                    | おーば | 七つの封印 | 01:13 | comments(6) | - | - | - |
                    七つの封印-20 ヨハネの黙示録(前編)
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                      第七の封印について、これは私の中では比較的早くから簡単明瞭な結論が付いていて大した説明も無いのです。
                      これを書けばこのシリーズも完了です。
                      去年の1月から書いていますから、かれこれ一年以上かけてると思うと我ながらよくやったかなぁと。


                      第七の封印の前に、ヨハネの黙示録について触れておこうかと思います。
                      新コロナウィルスの禍中でここに触れるのもいかがなものかと思われますが、時が重なってしまいました。

                       

                      七つの封印というのはご存知のこととは思いますが、新約聖書の中のヨハネの黙示録に出てくる言葉です。
                      おととしの暮れにこの言葉を持ち出したときには、実はほとんど思いつきのようなものでした。
                      なんとも重たいタイトルを付けてしまったものだと今思います。
                      私は黙示録についてそれほどよく読み込んでいたわけではありません。
                      太陽を纏い月を踏む女については書いたことがありますが、実に断片的な読み方しかしていませんでした。
                      (あ、通読くらいはしていますよ。)
                      実に比喩の多い謎めいた文章です。

                       

                      ふとした思いつきが後から大きく意味を持ち、きちんとした整合性を持ってくるということは割とよくあります。
                      そこで黙示録を通して読み直ししてみましたので、その辺のお話を書いてみましょう。
                      しかし、ここで書く動機が問われています。
                      何を目的として書くのか?これによって文章が全く違うものになってしまいます。
                      そもそも、この黙示録が書き残された理由は何なのか?
                      こんなに恐ろし気で訳の分からない文章がどうして聖書に残されているのか?
                      信徒たちからしてみれば、最後の時には恐ろしいことがあるから十分に備えなさいという警告かもしれませんが、
                      一体どんな備えをしたらいいのかもわからないような文章です。
                      これもまた『時』に備えて解明されることを見越した暗号伝文なんでしょうか?

                       

                      これを解き明かせばちょっとカッコイイですよね?
                      でも、そんな動機で書くとまともな文章にはならないのです。
                      かっこよく見せようとする思いが文章の端々に出てしまいますし、何より正確な読みと気をするためのひらめきが与えられません。
                      何を動機とすべきかというと、このシリーズを書いている動機と同期することになります。
                      この一連の記事は、食口の皆さんが、成長していただく一助となればという願いをもって書いています。
                      また、様々な考えを持っている方々と意見交換のたたき台になれればいいとも思っています。

                       

                      ですから、黙示録についても滅亡の書ではなく、希望的に読んでいくべきだと考えます。

                       

                      これは、黙示録から心情の八段階を解いたのではなく、心情の八段階を前提として黙示録を読むことで黙示録を解く試みです。(※注:完全網羅してはいませんのでご了承ください。)

                       

                       

                       

                      黙示録を読んで思うのは、全体に訳が分からないにもかかわらず、何か恐怖心をあおる内容になっているということです。
                      何かをしなければ大変なことになるという恐怖心、逆に、何かをしたらとんでもない目に合うという恐怖心。
                      これを強調して人を動かす宗教は『恐怖信仰』と呼ばれます。

                       

                      恐怖信仰というのは『僕』の信仰です。
                      『養子』の信仰は、恐怖を(やせ我慢でも)越えて、許されていることを信じる信仰です。

                       

                      キリスト教自体は愛と赦しの宗教と言っていますが、聖書の中にはこういう警告というか脅しのような文章は少なくありません。
                      信仰の入り口として戒めを守る必要があるのと、いきなり養子信仰に到達することができないからなのだと思われます。
                      黙示録の冒頭には、ヨハネは自らを僕であると書いています。
                      これは信仰の段階として僕信仰だと表明しているわけではありませんが、『主なる神の僕』という意味合いです。
                      しかし、裏を返せば『父なる神の子供』ではないわけです。
                      (養子は父なる神という表現はできても、神の子という表現はなかなかできないものです。
                      何故か神道は人間を神様の子供であるという意識がしっかりあるようですが。)

                       

                      黙示録が難解で、恐怖におののくような内容になっているのは、記述者であるヨハネの視点が『僕』の立場にあるからだと考えられます。
                      これは彼の時代的に致し方ない事です。

                       


                      死や滅びについての記述は、古い価値観の終焉として読み直してみましょう。
                      これはなのも目新しい事ではなく、新生するためには一旦死ななければならないというクリスチャンにはおなじみの考え方です。
                      洗礼を受ける時に一旦水に身を沈めることを『古い私の死』と位置付けています。

                       

                      ヨハネはキリスト者ではありますが、八段階的に捉えるならば僕の段階であり、そこから上がっていくにはまだ六つの段階があると考えられます。
                      その段階ごとに封印が解かれていくならば、その都度新しい価値観を受け入れていかなければならないことが想像できます。
                      それを一段階を越えたばかりの第二段から見るとすれば、そら恐ろしい事だったことは想像できます。

                       

                       

                       

                      黙示録には同じ言葉が文章をまたいで繰り返されているところもあります。
                      キーワードと言っていいのでしょう。
                      これらを解く試みは皆さんやっていらっしゃるのだろうなと思います。
                      私はこれまで取り立てて関心を持ってこなかったので、ここでの解き方はありきたりな解き方かもしれませんね。

                      桜葉はそういう読み方をしてるのかくらいに読んで下されば幸い。

                       

                      そして、七つの封印以外に、七数がいくつか出てきます。
                      他にも数字は出てきますが、今回は七数に注目して読みます。
                      七つの燭台、星、教会、み使い、封印、ラッパ、獣の頭、災い。
                      この中で、1番目〜7番目までの解説がついているのが『教会』『封印』『ラッパ』『災い』です。
                      七つの教会にそれぞれ宛てた手紙が紹介され、
                      封印が一つ一つ解かれるごとに起こった事柄が書かれ、
                      次いで七つのラッパが吹き鳴らされるごとに災いが起こり、
                      「神の怒り」の七つの鉢から災いが繰り広げられていく。
                      第七の災いの後、バビロンの大淫婦が滅ぼされ、千年王国が来るわけですが、扱うのは七つの災いまでにします。

                       

                      文脈としては『七つの教会』→『七つの封印』→『七つのラッパ』→『七つの災い』なのですが、
                      『第一の教会、第一の封印、第一のラッパ、第一の災い』
                      →『第二の教会、第二の封印、第二のラッパ、第二の災い』
                      →『第三の教会、、、、』と読んでみます。

                       

                      このように読むとき、繋がりがあることに気が付きます。
                      全てに繋がりを見出すわけではありませんが単純なところでは、
                      第一のラッパは血のまじった雹と火が『地上』をそこない、第一の災いは「神の激しい怒りの七つの鉢を、地に傾け」と、
                      『地』という言葉が第一の数字に関連付けられています。
                      同様に、第二は『海』、第三は『川』『水源』、第四は『太陽・月・星』または『太陽』。
                      第五のラッパと災いについては他と記述方式が違っているので明確ではありません。
                      しかし、教会で「勝利を得るものは白い衣を着せられ」、第五の封印が開かれた時神のあかしを立てた故殺された人々に白い衣が与えられています。(白い衣は第六、七にも関連する言葉がありますが、第四までにはありません。)
                      第六は『大ユウフラテス』なのですが、これはラッパと災いの記述に出てくるだけで他とつながりを見出せません。
                      第七は『天』または『空中』です。

                       


                      ここに更に心情の八段階の言葉を重ねて考えていきますが、長くなるので一旦止めます。

                       

                       

                      | おーば | 七つの封印 | 22:20 | comments(2) | - | - | - |
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