サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
七つの封印-19 母そして父へ
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    珍しくの連投です。

     

     

    個人 −家庭−氏族−民族−国家−世界−天宙−神
    僕の僕−僕 −養子−庶子−実子−母 −父 −神

     

    第四の封印ペアシステムの話は国家・実子に向かう時に開く。
    次に来るのは世界・母になる封印。

     

    実はこれは八段階の御言そのものなのです。

     

    人としての成長段階を理解した上で子供たちを育て教育してゆくのが母です。
    八段階の御言は、母の国日本の姉妹たちがコディヤックの水産工場で何年も缶詰加工の仕事を続けて立てた勝利圏によって語られたものです。
    女性に関係の深い御言なのです。

     

    八段階の御言は、
    母−父−神とするものと、
    夫婦−父母−神とする話を聞きます。

     

    『母』としてしまうと女性だけ、『父』としてしまうと男性だけになってしまうので、
    『夫婦』『父母』とすることが正しいんだと考える人もありますが、
    サクラLeafでは『実子』の段階でカップルが一体不可分になるという前提で、先に『母性』の完成があるという話になります。
    恐らくは、この母性の完成によって、男性もまた育まれる世界があり、第六の封印を解く方向へ向かうこととなるのでしょう。

     


    知的にはこのシリーズ全体が第五の封印について書く試みということになりますので、ここで書くべきことはありません。
    心情的には子女を愛する基準が必要なので、これは黙示録に書かれている『月を踏む女』と被るように思います。

     

    http://blog.o-baka.com/?eid=336

     

    ↑過去記事

     

    『蛇は、口から川のように水を女の後ろに吐き出して、女を押し流そうとした。しかし大地は女を助け、口を開けて、竜が口から吐き出した川を飲み干した。』
    去年この光景を見ましたね〜。
    台風19号の時の地下神殿はまさにそのものですね。
    2012年からだったかに運用開始しているものなので、既に時なのかなと思わされます。

     

    女が生んだ男の子は天の御座に引き上げられ、
    そして荒野で女と他の子供たちが養われます。
    黙示録からすると、5番目には『白い衣』がかかわってきます。
    衣を洗うものは幸いである。
    この衣を配るのが母なのでしょうか。
    何故衣と表現されているのか?
    礼節を知らしめるものなのでしょうか。

     

     

     


    では第六の封印はどういうものなのでしょうか・
    ここまでに個性完成と子女繁殖までが解かれてきました。
    万物主管が残されていますね。
    『父』の段階は横的には『天宙』を指します。
    天宙は万物世界をも含めた世界です。

     

    昔のホーム生活で万物主管と言えば身の回りの生活用品を管理することを指していました。
    だから万物主管は個性完成をするまでにクリアする問題だと考える人もあります。
    そんな次元ではありません。

     

    もっと大きな規模で物理的な万物は主管する必要はないのでしょうか?
    物理的世界を主管するのは科学に任せればよいでしょうか?

     

    そうです、私たちは社会システムとしての政治と経済システムを見出す必要があります。
    このシステムは八段階の成長過程を踏む子供たち全てが幸福に暮らせるものであり、
    その成長を助ける社会システムであるはずです。
    共生共栄共義。
    ここにはホームチャーチの理想も実現されています。
    ホームチャーチを実現するのはコミュニタリズムになると思われます。
    資本主義も影をひそめることでしょう。
    共産主義社会はサタンが先駆けて実現した理想社会の模擬形体だと言われています。
    現在の共産主義国家は独裁国家でしかないでしょう。

     

    八段階は全人類が行かなければならない道だと語られています。
    つまり、母も父も人類の中で唯一の存在というわけではありません。
    真の父母という立場は唯一かもしれませんが、教育を担当する母と社会システムを治める父は唯一ではありません。
    協議を通じて運営されるものとなるはずです。
    それは利己主義を克服した成人によってなされるものです。
    その様な父母たちの下子女たちは生まれ育ちまた父母へと成長していきます。

     

    第三の封印までは一人で解くか、あるいは長上に導かれて解くものなのだと思いますが、
    第四の封印からは対等または後から来る者たちと向き合い、愛してゆくことが求められます。
    中心にぶら下がってついて行くだけでは上がっていくことができませんし、
    愛の対象を持たなければ先に進むことができません。
    勿論、幼い時代は誰しもが通過しなければならない時代ですし、
    その幼い存在が、先行する人たちを同時に育てていく構図になります。
    しかし、幼いものもいずれは成長して後進を育てる立場になっていかなければ、天国で最も小さなものに留まることになるでしょう。

     


    このように八段階を踏まえた成長をしてきた者たちは小さな存在を抱えて自らを育てていくので、
    彼らが暮らす地域と時代に応じて社会的な運営をせざるを得ません。
    八段階は縦の関係と共に横の関係を示しています。
    これまで万物に隷属してきた歴史は万物と共存する歴史へと切り替えられることでしょう。
    地上天国はそのように運営されるものです。
    専制君主制でも独裁国家でもありません。

     

    そのシステムの詳細を示すのは女性である私の任ではないだろうが、
    断片的なアイデアは与えられているので機会を改めて書くことができればとも思います。

     

     

    | おーば | 七つの封印 | 17:31 | comments(2) | - | - | - |
    七つの封印-18 自由意思と運命
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      さて、男女の問題について、『男はかくあるべき』『女はかくあるべき』と決めつけたくはないと思うのはどういうことなのか?

       

      『自由』の問題なのです。
      『個性』の問題かもしれません。

       

      『意思』というのは『自由』な存在であると定義せざるを得ない。
      これが『不自由』であるとき、自立性が失われ、他者からの影響に拘束されることを意味する。
      拘束を受けるということは意思を発動できない状態です。
      『自由意思』と言うけれど、『不自由意思』というのは聞いたことがない。

       


      意思について、今一度考えてみたい。
      自らの欲求に基づき行動を決定するのが意思であろう。
      行動と言うのは何らかの運動または変化の表出と考えます。
      静止・変化しないという意思もありますので、形体的表現とすべきかな?

       

      以前マズローに触れたけれども、彼が言うには以下のように段階を踏んで欲求は変化していく。


      マズローピラミッド

       

       ○生理的欲求 (Physiological needs)
       ○安全の欲求 (Safety needs)
       ○社会的欲求 / 所属と愛の欲求
        (Social needs / Love and belonging)
       ○承認(尊重)の欲求 (Esteem)
       ○自己実現の欲求 (Self-actualization)

       

       

       

      生理的欲求というのは肉体的な情報の中で個体の維持と成長に関わる事柄を指し、その中で快不快を得ていく。
      安全の欲求では、個体以外の対立する存在を認めた上で個体維持が保てる環境を快適と感じる。
      ここまでは、肉体的環境に拘束されていることに気が付くだろうか?

       

      “肉体の維持に必要な”という条件は、肉体の構造に規定されているのです。

       

      社会的欲求の中身は、自身が知っている社会環境の中からセレクトして求めるのです。

       

      欲求は自由に発動するものと思いがちですが、実は環境によって規定されているのです。
      感覚し、知り得た範囲からしかセレクトすることができません。

       


      ある程度の規定を受けた中でいくつかの選択肢を得てその中からセレクトできるのが自由な意思です。
      まるっきりのやりたい放題はありません。

       

      選択肢がない事柄も少なくはありません。
      私たちには空気がよどんでいるからといって呼吸しない自由はありません。
      カロリーを消費したくないといって心臓を動かさない自由はありません。
      しかし自由を制限されたとしても、私たちは日常的にそれを不自由だとは感じず、受け入れています。

       

      これは地球上に哺乳類として生まれた生命の運命です。

       

      男として生まれること、女として生まれることも運命として受け入れざるを得ない内容です。
      自分でセレクトできることではありません。
      男として許される選択肢はどこまでなのか?
      女として許されている選択肢はどこまでなのか?
      ここは問われ続けることだと思いますが、ここの選択肢を理解するためには実子圏の知恵が必要であり、
      幸福な選択をするためには実子圏の心情を持たなければできないということになります。

       

      実子としての意思を持ててから結論を出すべきことなのでしょう。
      ですから、今、僕や養子段階で言われている男らしさとか女らしさと言うのはまるっきり的外れである可能性があるのです。

       

      統一教会における祝福式も、長成期完成級に到達せずに受けているのですから、
      その価値が発揮されることも理解されることもあるわけがありません。
      長成期完成級と言うのは庶子を示していると考えています。
      養子圏の社会性と天使の屈服に象徴される霊的自立を確立したうえで初めてパートナーを選択する自由意思を持つことができます。
      それ以前には自力での選択はある意味では博打でしかありませんので誰かに頼ってみたり、失敗もする。
      具体的に付け加えるならば、霊的な協助の問題を主管できること。
      主管するというのは周囲の意見に振り回されずに目的に叶う選択をできる意思を発動するという意味です。
      言われることを鵜呑みにしない判断力。

       

      まぁ、これができないから『霊的に守られるように』献金で徳を積むという話になるけど責任を霊界に押し付けてるだけでしょう。
      誰も実子圏に届いていないのですから、完璧なカップルはそうそうできませんが、それでも自らの意思で決定することで
      はた目からは失敗に見えても、当人たちには経験として有意義になり得ますし、成長にも繋がり得ます。
      カップルを形成した後から心情的成長により見出される世界もあるでしょう。

       


      個々人のケースは個性に応じて色々あると思うのですが、唯一、真の父母という立場についていえば、
      唯一の創造主夜の神と、世界を展開するために支えるもう一柱の昼の神を各々臨在させるお立場であれば、
      その規定性は見えてきます。
      絶対愛、絶対信仰、絶対服従…これを死守しなければならないのが真の母の立場ではないかと思います。
      夜の神と昼の神が一つでなければ天宙は基軸を失うのです。
      非情に不自由なお立場となりますが、父母には子女を放り出す自由はありません。

       

      その中で、様々な選択肢を見出し創造性が発揮される世界が形成されていくことになると考えます。
      自由意思が発動されることがなければ愛は存在する余地がないからですね。

       

       

       

      | おーば | 七つの封印 | 18:14 | comments(0) | - | - | - |
      七つの封印-17 男女の問題についての考察(迷走気味)
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        男性と女性の差異について語ろうとするときには、
        「○○でなければならない」という表現は絶対に避けたいと考えます。
        必ず個体差があるし、「〜ねばならない」という表現は『僕』段階の思考形式だからです。
        この思考方式は『庶子』の段階で消え去ります。
        お釈迦様の蒟蒻問答は「〜ではない」という形で展開しますがこれは『庶子』段階なのかもしれません。

        今扱おうとする男女の問題は『僕』段階でのテーマではなく『実子』段階でのテーマです。
        なので断定形式は避けたいと思います。
        表現の曖昧さを避けるため、ところどころ断定系の言い回しになることもあるかと思いますが、あくまで傾向的なものと考えるべきでしょう。



        絶対的な『無』の認識に基づく『存在・存続』への固い意志。
        これを真の主体性だとして、一般の男性がどうやってここに辿り着くことができるのか?
        『在る』ことが当たり前の世界に生まれ育っているのだからどうしようもない。

        これは夜の神から相続するしか他にないのだが、アダムがこれに失敗している。
        つまり道が閉ざされている「ケルビムと回る炎の剣」によって。
        『生命の木』、生命の根源としての意志なのか。

        もっとも、世界に責任を負う主体は一人いればいい。
        それ以外はそれぞれが分け持つ責任の中でオンリーワンであればいいわけです。
        ただし、自分が成さなければ代わる者はないという心情は必要でしょう。



        『僕の僕』時代に喜怒哀楽の感性を身に着け、
        『僕』時代に原理規範の必要性を理解し、
        『養子』時代に協調性を身に着け、協調する中での個性を確認し、
        『庶子』時代に霊性と主体性を確立する。


        それらを踏まえた上で、置かれた環境と向き合い、ミッションを見出してゆく。

        これは完成した『庶子』の立場であるが非常に孤独な境地での歩みになる。
        この時にミッションを通じての協調関係が生まれてくるのでしょう。

        養子時代の協調関係と異なるのは責任心情の差でしょうか。
        向き合うミッション自体が、自ら選び取るものであることも重要。
        養子時代の環境は保護者の笠の下である。

        現代社会に於いて、例えば社内のプロジェクトチームでチームリーダーになるのは、会社からの任命か、あるいは自発的発案によるものか。
        会社からの任命は養子圏に近いかもしれない。
        自発的プロジェクトや起業などであれば、それに対する責任心情と主体性はとても強い。
        会社からの任命であれば同等の主体性は発揮できないかという訳ではないが、そこに霊的な必然性(運命)を見出せるか否かでしょう。

        女性起業家や女性リーダーはあり得ないのでしょうか?
        現代社会には山ほどいる。
        不可能ではないはずです。
        女性だってミッションを得ることはできるのです。
        ただし、それは養子圏に留まることを意味し、実子圏への扉は開かれない。

        リーダーの下にサブが育つ。
        そこに相対関係が生まれやすいが、『サブ』という表現は誤解をされるだろう。
        そのミッションに共感する『同士』として協調関係を築く者である。
        異性であるとは限らないが、同性である場合には相対関係にはなり得ないのだが、
        あくまでも実子圏での話であり、養子圏においてはここでパートナーシップを感じて同性愛に向かうカップルも現れる。
        (仕事ばかりではなく生活圏内に於ける目標・目的全てがミッション足りうる可能性があるので、様々なシーンで協調関係は生まれる。)




        私には偏見があるのだろうか?
        それは抜け出したいと願う問題です。
        ちょっと疑問点・気になるところを書き出して迷走します。


        男女のカップルになることにどんな意味があるのでしょうか?
        子孫を残すことが可能なのは男女のカップルだけなので永遠性へとつながる?
        それならば子供を授かることができなかったカップルは意味を持たないのでしょうか?
        そんなことはないはずだ。

        異性を排除することは真の愛をもたらさない?
        これはあるかもしれない。
        同性カップルだけでは男性であること、女性であることの意味を見出す可能性は排除されている。

        女性は真の主体性を持つことはできない?
        男性ならば可能であるという根拠はどこにあるのでしょう?

        愛に二つある。
        相似形合流と相対形合致。
        相似合流は共鳴して流れを一にするが、いずれ別れることもある。
        相対合致は凸凹関係なのできっちり組み合って離れにくい。
        相似と相対の両方を兼ね備える愛が最も強くなるのは目に見える。

        同性カップルでもどちらかが陽陰の役割分担をする。
        交互に分担するとしても常に陽陰の関係性でつながるものでしょう。

        女性は対象格位をとりやすのだろうか?
        それは肉体的な弱さによるのか?
        だとしたら虚弱な男性は存在してはならないのか?


        夫婦愛(実子的協調・陽陰を踏まえる)と友愛(養子的協調・陽陰を前提としない対等)
        男女のカップルだとしても友達夫婦はゴマンといる。
        というよりは完成した男女がいない現状でほとんどが友達夫婦だと言っていいのでしょう。
        その友達次元の夫婦を見ていれば、同性カップルは社会的に認められないことに不満を持つのは当然のこと。

        対等意識は友達関係。
        主体的責任心情の必要性。
        主体的責任心情を育むのは対象からの刺激。


        前近代的と言われる家父長制度は本然的だろうか?
        近いものはあると思うけれど、男女ともに個性完成せずにカップルになっている。
        『家』に対する責任の発端が僕的に「〜ねばならない」という動機に始まらざるを得ない。
        そうすれば養子的協調以前の僕的従属となる。
        『家』に対する十分な誇りを持ち、それを理解する花嫁を迎えた場合にはかなりいいカップルになるかもしれない。
        『家』が運命的ミッションとしての役割を果たすということ。
        名家の場合、地域社会への貢献が生活に密着したミッションを引き受けている場合がある。
        名君というのは生まれ得ると思う。


        ならば祝福家庭はどうだろう?
        絶対的主体(メシア)に侍ることにより、女性は対象としての性質を獲得。
        侍るというのは絶対信仰絶対服従なのでしょう。
        形状的に従うのではなく、心情世界に至るまで相対する必要があるのです。

        メシアに侍る如くに侍ることで主体者を育てる。
        メシア(=神)を愛することは天宙を愛することなので存在全てを愛するのと同義。(正確には天宙以上の存在)
        メシアを立てる如くに主体者を立てることで立てられた主体者は立ち方を覚えることができるのかもしれない。

        ただし、庶子完成(霊性と主体性の確立)までは人の責任分担である。
        祝福前の条件として万物復帰と人材復帰というのがあるが、これが天使の屈服の象徴なのだと思われる。
        残念ながら本当の意味で天使の屈服を成し遂げたことにはならない。
        庶子完成に至ってから祝福を受けたカップルって私は知らない。
        多くが僕、養子の基準で祝福を受けているように思う。

        絶対的主体性はみ言葉によって相続する。
        それならば、み言葉によって主体性を獲得すれば個性完成できるか?
        庶子完成までは充分に可能なことだと感じます。

        対象格位が対象性獲得する方が問題なのかもしれません。
        だからこそ、文師は女性を重視し教育してきたと感じます。




        究極的陽陰は『剛』『柔』(硬軟)かもしれない。
        女性は柔軟であるからこそメシアの固い意志に相対して自らの形を変えていくことが可能になる。
        勿論、個体差があるから『剛』にも『柔』にも程度や部位の佐賀あると思います。
        ...原理用語やみ言葉に出てきた記憶はないなぁ。

        剛硬は頑なさに通じる。
        場合によっては僕的勧善懲悪に陥るかもしれない。
        柔軟は方向性を失いやすい。
        技巧に走って目標を見失うのだ。

        優柔不断な男子は無価値だと言うのか?
        頑なな女子は無価値だと言うのか?

        これは幼さと考えるべきだろう。
        優柔不断は女子にも歓迎しにくい性質だし、
        ただ頑ななだけではリーダーシップにはならない。
        正しい知識と愛情によって改善の余地があると思う。

        硬質な脆さを理解するとき、柔軟は強さになる。
        このことに気づくのは女性が対象格位としての愛情に目覚める一助となるかもしれない。


        『剛』は男性の身体的特徴と言えるし『柔』は女性の身体的特徴と言える。
        そのまま心情的性質に反映されている特徴と考えられるものではなかろうか?

        そして相似形の愛はミッション(=目的)を同じくすること。
        相対的合致の愛は剛柔凸凹という主に形状的性質とまとめられるかもしれない。

        | おーば | 七つの封印 | 17:10 | comments(2) | - | - | - |
        七つの封印-16 陽性実体と陰性実体
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          人間個体は単体では自身が男なのか、女なのかを知ることができない。

           

          なんて書くと「何をバカな」と言われそうですね。
          まぁ、極論です。

           

          男というのは陽性実体、女というのは陰性実体です。

           

          陽性か陰性か…ウイルス判定は持っているか持っていないかが陽陰ですが、人間の場合はあれを持っているかいないか…じゃなくて魂の問題として陽性か陰性かという問題。
          肉体としても、生殖器で判断しますが男性器か女性器かは学習するまでは理解しない。
          学習するというのは家族の中で学ぶ段階ですが、自分の肉体だけを見ていても男か女かは理解しない。
          また、誰かから男の子だから、女の子だからと言われるまでは分からないし、その意味も理解してるわけじゃない。
          誰かから教わる性の問題は総じてジェンダー(社会的性)と考えていいかもしれない。
          それに順応できる個人と順応できない個人があって、LGBT問題なんかがおこっている。

           

          その問題を抱えている人たちには、「ジェンダーなんか気にするな、あなたはあなたなんだ」と伝えたい。
          肉体の形によって社会的立場が決定されるのはちょっと理不尽だ。

           

          だけど私は女性が女性らしく、男性が男性らしいのは好ましいと思う人種でもある。
          肉体の形によって(機能的な問題を含め)、心持も変わって来る。
          思春期以前の性差は小さなものだけれど、初潮や射精を経験する頃には肉体からの影響で行動にも差が生まれる。
          行動が変われば経験が変わる。
          経験が変われば考え方も変わるのだ。

           

          それ以前に社会文化的に男だから、女だからという教育で、社会順応的に男らしさや女らしさを身に着けたり、あるいは不自然な反発を持ったりするのだが、これは教育論的な問題だから詳しくは突っ込まない。
          社会という関係性が集約されている場での性。
          肉体的な感覚・機能から影響される「らしさ」。
          「らしさ」の方には個体差があるものなのだから、社会的な性を四角四面に押し付けてもいけない。
          押し付けるまでもなく明らかに違うのだ。
          押しつけによって生まれた反発は、自分の肉体の感覚さえも否定してしまう。
          それは不幸だ。

           


          現代日本ではジェンダーの影響を全く取り払うことなど現実として不可能なことではあるけれど、
          全く無垢な状態で思春期の男女が出会ったと想定した場合どうなるだろうか?
          肉体的な差異つまり体力とか行動パターンによって二者の間に陽陰の差が見出されるだろう。
          肉体的な性衝動によって結ばれることも考えられる。

           

          ここで問われるのが陽性と陰性によって生じる主体性と対象性の問題だと思う。
          体力的な差異で支配的に主体に立つことは心情世界を中心とする人間にはあるまじきことである。
          ジェンダーの知的理解で男は主体、女は対象というのもあてはまらない。

           

          真の主体性とはなんであろうか?

           

          八段階の問題から振り返れば、この陽陰の問題の前に霊肉の問題での主管性が問われる段階がある。
          庶子における、霊的主管性、天使の屈服の問題だ。
          男も女もどちらも霊的な主管位を確立してから陽陰の問題に向き合うのが『本然』なのだ。
          アダムもエバもこの霊的な主管位を立てる前に男女の関係を結んでいる。
          特にエバは主管性を立てる試練に失敗した物語が聖書の中に書かれている。
          天使に主管された立場でアダムと向き合ったのです。

           

          しかし、仮に女性が天使の主管に成功した立場で、男性からの主管を素直に受けることができるかというとこれも難しい事のように感じる。
          男性も女性も主管位を立てていれば主体格同士、プラスとプラスになってしまうから反発することが予想されます。
          女性は主体格位を立てた立場から対象格位として主体格の男性に屈服できなければならないということになる。
          これはちょっとしたハードルである。
          一方男性は、天使の主管以上の主体性を発揮して女性を自然屈服できる主管力が求められる。

           

          これは、夜の神様と昼の神様の間にも生じた問題だったと考えられます。
          独立した意識体であるにはそれぞれに主体性が必要です。
          特に、霊的な存在である夜の神様と昼の神様の間では、『肉体的差異』による陽陰は決定的ではないと予想できますから、問題はさらに大きかったと思えます。

           

           

           

           

          創造主は絶対的な主体である。
          これは存在の根源であるから揺らぐことは許されない。
          根幹が揺らげば存在は根拠を失うのである。

           

          例えば、紙の上に描かれた美しい絵はその用紙があるからそこに姿をとどめていられますが、紙が無くなってしまえば散り散りになってしまうしかありません。
          不思議なことにここで描き出される主体は実にベーシストなのです。
          とても地味に対象の意味づけをし続けています。
          絶対的な主体であればリードをとる存在だと錯覚しますが、どうも違うのです。
          派手なパフォーマンスを好むのは対象格位です。
          華やかなパフォーマンスは確実なベースの上に成り立ちます。

           

          夜の神は絶対的な無を知っているので存在に対する強い愛着を持っています。
          なので意味の根幹であるところのメトロノームのようなリズムを崩すことはない。
          そのリズムの上に様々なメロディーは繰り広げられる。
          これは無を知っているという記憶の形によってその情動が決定されているのです。
          昼の神にとっては在ることが当たり前なので、それ以上の変化を求めるのかもしれません。
          当たり前に在ることの意義を理解したところで初めて、昼の神は夜の神に首を垂れることになるのでしょう。

           

          真の主体性というのは存在存続への固い意志かもしれません。

           

          そんな地味で退屈な主体という立場を昼の神はねたんだのでしょうか?
          その立場に自分が立てばもっと素晴らしい創造ができると思ったのでしょうか?
          多分後者なんだろうなぁ。
          自分がやればもっといいものができる。
          驕りですね。

           

          さて、アダムは夜の神様から、そういう固い意志を受け継いでエバを迎えなければならなかったということか。
          アダムは夜の神様との対話を通じ、また被造世界の美を愛することを通じて自分の意志としてそれを受け継ぐはずだったんでしょう。
          でもその意思を固める以前にエバを迎えてしまったのかな。
          エバはエバで、驕りによって主体者意識を持った昼の神にそそのかされて、主体の意を汲んでいこうとする姿勢は一切ない。
          結果、原初の創造理想の秩序を受け継ぐものが誰もいない真の主体性を持つものがいない
          世界が出来上がってしまったわけですね。

           

          夜の神の悔恨としては、昼の神に対して主体的な愛を示し受け入れてもらえなかったこと。
          そのことに責任を強く感じておられるのだと思います。
          昼の神はやってみたけれどしっちゃかめっちゃかな人類歴史を築いてしまって、あらどうしましょうと思っているのかな?
          だけど元を作ったのは夜の神なんだから自分だけのせいではないと思っているんだろうか?

           

          だからメシアは男性として来る。
          存在と存続への固い意志を夜の神から相続して、地道なベースを構築する方である。
          この地道なベースに呼応できるのは対象格女性。
          女性が対象格位としての自覚を呼び覚ますこと。
          主体的な陽性実体を前にしなければこの自覚は生まれない。
          陽陰は関係性の中にしか表れないから。

           

          なのでキリスト教でも主は花婿としてやって来る。
          信徒は新婦の立場なのね。
          絶対的な主体が立って初めて対象格は自らが対象格位であることを自覚することができる。

           

          | おーば | 七つの封印 | 22:23 | comments(6) | - | - | - |
          七つの封印-15 堕落論に直結する性形陽陰の問題
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            新年あけましておめでとうございます。
            本年も、遅々とした更新ですが細々とやっていきますのでよろしくお願いいたします。

             

             

            今やっていることは第四の封印についての考察です。
            最初に図を描いた時にはペアシステムではなくて原相論と書いていたけれど、ペアシステムの根本はやっぱり原相論にあるという話になってきている。
            結果オーライだけれどズレてはいなかったようです。

             

            第四の封印、庶子から実子への封印は本然の祝福であり、ペアシステムの問題が解かれていく。
            第三の封印、養子から庶子への封印は天使の屈服であり、人間の霊肉の問題が解かれている。
            第二の封印、僕から養子への封印は神への信頼・和解であり、隣人愛の問題が解かれている。
            第一の封印、僕の僕から僕への封印は戒律を受け入れることであり、神への義が解かれている。

             

             


            考え方の基本として、「無から有を生ぜしめた神」とは、意思を持つ存在であること。
            古今東西、神と呼ばれる存在は意思を持って動かれる。
            意思を持っていない神の話を私は聞いたことがない。

             

            意思を持つということは、何らかの目的とそれを達成するための判断基準になるデータベースを持っているということ。
            自らの存在を維持するのにはポテンシャルも必要である。
            そして志向性あるいは嗜好性にもポテンシャルが必要と感じられる。

             

            ポテンシャルは増大すれば『快』に、減少すれば『不快』に直結すると予想できる。
            そして『快』『不快』を感覚するのは『情』の分野である。

            このポテンシャルについての検証はまだ十分ではないと感じられるけれど先に進む。

             


            前回の記事までで、ロゴス(=言、概念=データベース)としての神まで記述できたと思います。
            無から有を生ぜしめる段階においては先ず自らを自己創造する必要があったはず。
            無と有の狭間に於いて構築可能な存在は一次元から始めざるを得ず
            一次元的にはバイナリーデータのように複雑な情報も記述が可能なことが分かるが、その時には一次元と言いながらも二重構造が必要になる。
            私たち人間が概念構築するためには既にあるものの情報をベースにして構築するこ
            とを考えると、何もないところから概念構築するというのはそれだけでとんでもない発想力であるし、
            記述するだけでもそうとうのエネルギーを感じます。

             


            記述した内容(記憶=知)を対象化してそこから刺激を受ける。
            記述自体はご自身の存在様相として形状化する以外にない。
            (これはポテンシャルの増大と減少の時間経過を伴うパターンとして現れると想定。)
            形状的対象と、それを観察する主体的・性相的自我(現在形エネルギー・ポテンシャル自体)にご自身を分立しているということです。
            この時の「形状」と「性相」は一次元存在の中でどのように分立しうるのかが非常に分かりにくいのです。


            ただ言えるのは、性相主体、形状対象の主体対象関係がここに生じていることが理解できるのです。
            そして、陽陰の二性性相は、形状的対象の属性であると言えます。
            性相の中にも陽陰の要素はありますが、性相の中の陽陰を判別しようとしたときには、それは観察対象となっているので形状化されているのです。


            つまり性相を形状化するのが陽陰の分別であり、離散化ということです。

            性形の二性性相は明確に主体対象の関係になりますが、陽陰の二性性相は分立された二者に主体対象の関係は必ずしも成立しません。
            陽陰の二性がそれぞれ分立された実体として立てられた場合、それぞれの実体には陽陰の自覚は生じません。
            実体のそれぞれに性相的な感性が備わる場合には、性相は形状に対しての主体格位を自覚するので、
            陽性実体と陰性実体のそれぞれが主体的意識を持つようになることは避けられないのではないでしょうか?

             

            つまり神の立場から見て人間存在の「陽性」と「陰性」であったとしても、

            陽陰の各人はそれを自発的に自覚することは不可能であり、
            「神と同じ立場に立てない」という堕落性として原理講論に書かれている事項は

            偶発的に生じるのではなく、必然的に生じることになります。
            トンデモ発言ですね。

             


            さて、一次元的記述方式では、音楽を聴いているようなもので

            常に時間性をともなって形状を観察することになります。
            全体像を同時に鑑賞したいと思ったらどうしたらいいでしょうか?
            離れるしかありません。

             

            離れる方法は二つ。
            二重構造の軸を二つに割いて俯瞰するか、
            自分と全く同じ形をコピーして離れるか。

            これは多分、DNA二重螺旋の振る舞いを思い浮かべれば前者ではないかと思います。
            二重に組み合わさった螺旋がほどけて組みなおされるのは生殖細胞でしたっけ?
            まだ確証には至っていません。

             

            しかし、二つに分かれてもそれぞれが自立するためにはそれぞれにポテンシャルを要し
            それぞれのポテンシャルは形状を纏うようになるので、性形陽陰を持つ二軸を立てることになります。
            これはコピーを立てる時にも同じことが言えます。
            性形陽陰とは、性(=ポテンシャル・情)形(=記憶・知)陽陰(形状の具体的様相)ということです。

             


            コピーかほどかれたのかいずれにしても、二軸が立ち上がることによって二次元平面が生じることになり、これは視覚的世界が広がることを意味します。
            見ることにより瞬間に得られる情報量が飛躍的に増えるのです。
            視覚を象徴するのが光ですね。
            問題になるのが自立した二軸の関係性です。

             

            先に生じた軸から見れば後から現れた軸は形状的対象です。
            しかし、当の本人には自立のためのポテンシャルが与えられていればそこに感情が生じるようになります。
            感情を持てばそこには主体者意識が芽生えるのは必然的なのです。

            主体者意識は統一原理によれば『男性格』とされますので、後から来た男性として神様の弟の立場です。

             


            そもそも統一原理に於いては、
            どうして主体格位=男性(陽)、対象格位=女性(陰)と位置付けられるのでしょうか?

             

              男 - 女
              強 
            - 
              明 - 暗
              大 - 小
              凸 - 凹
              鋭 - 鈍
              剛 - 柔
              押 - 引
              動 - 静
              発 - 受
              授 - 受

             

            思いつく陽陰の組み合わせを書いてみましたが、主体対象の問題に関係がありそうなのは授受作用の動作に関わる性質でしょうか?
            授受の関係を結ぶ際に授け手に回る性質を『陽』、受け手に回る性質を『陰』と呼べそうです。

             

            つまり独自的には陽でも陰でもなく、性相的主体意識を持つ同士であっても、二者が相対基準を造成して授受作用を持つときには
            一方が陽であり、他方が陰となるということですね。


            陽陰は形状的な属性ですから、主体格位か対象格位かは形状的性質で決定づけられるということになります。

            堕落論の言わんとするところが透けて見え始めました。
            (私は堕落論は地上人だけの問題だとは考えていません。)

             

             

            | おーば | 七つの封印 | 00:08 | comments(0) | - | - | - |
            七つの封印-14
            0

              やーーーー、書きたくってうずうずしてるんですよ。
              中身が伴うかは別として、書くことつまり共有することに、私の存在価値があるような気がするんです。
              すみません。ここの所全く更新できてなくって。
              11月で仕事はピークを越えるはずだったんですが、今年はイレギュラーな動きがひどくてまだよれよれです。
              それでも毎月のアクセス数があまり変わらないのは過去記事も読んでくださる読者さんがいらっしゃるということですね。
              感謝です。

               


              さて、中途半端になっている『無から有へ』『神のはじめ』
              なぜこのテーマを『実子』の項目にいれているのかというと、夫婦愛とペアシステムの根源に触れたいからです。

               

              人が存在を認識できるのは自分自身とそのほかに他者存在を感覚できるからです。
              無をイメージする為に書いた四つ前の記事(7月5日)にあるように、究極的には自身の肉体を客体化して観察(感覚)するところへ行き着きます。
              だから『有る』=『存在』と言うのは自我が自信を客体化して観察することから始まるんです。
              観察主体と観察対象。
              つまり、一者であって二者。
              この感覚の発展、展開した先に陽陰とペアシステム、夫婦愛が表れるのではないかと考えるわけです。

               

              感覚とは何でしょうか?肉体を持つ私たちには視・聴・嗅・味・触の五感がすぐに思い浮かびますが、これらは三次元空間上で様々な物質に囲まれているから生まれる感覚です。
              しかし、三次元的なこれらの刺激を受けたときに、人の内部で何が起こっているかと言うと、とりあえず脳内では『脳波』に変化が表れます。
              詳しくはありませんが、脳波と言うのは電気信号みたいなものでしょう?
              つまりエネルギー変化です。
              感覚主体が感覚対象から影響を受けて変化する授受作用をもって、存在の基本である四位基台が成立する。
              一者(正)が自らの中に形状化した対象を見出して二者になった所が天の三位基台。
              存在としての自覚が合成体として存在の四位基台となる。

               

              最初に感じたご自身の姿(二者として分割された時点)とは、まだ五感のような複雑な感覚はありませんから極単純な感覚でしかなかったはずです。
              多分概念的な無と有、あるいは白と黒、1とゼロのような明滅的、二値的なものだったでしょう。
              しかし二値の表現でモールス信号やバイナリーデータは様々に複雑な意味を書き出すことが可能です。
              そして先に書いたように記憶の重要性ですね。
              この記憶、単に明滅の記憶では複雑な意味は書き表すことができません。
              ここに必要なのは離散化メッシュです。
              『明』がいくつ続いたのか?『滅』がいくつ続いたのかという単位です。

               

              ※追記-----以下に図を入れていますが、これはあくまで二次元的な表現です。

              一次元的に感覚するならば、このように俯瞰することはできません。

              仮に無と有、明滅を光と闇に例えるならば、闇と光が交互に通過していくだけです。---追記終わり※


              デジタルデータの場合は0と1という文字数=一文字一枡で離散化され、モールス信号の場合には『時間』という見えざるメッシュで区切られて「トン」と「ツー」が判別されます。

              一次元

              離散化メッシュという言葉は数学で使われる表現です。
              今書いているのは一次元的な話なのでメッシュ(=面)ではありません。

              ラインです。

               

              言語学で使われる『離散化』の内容の方が多分近いです。
              言語学の離散化は、人の話す言葉の「音素」を解析します。
              機械的な時間や距離で離散化するのではなく対象の状況に応じて離散化するんですね。
              アフリカ大陸の国境線とヨーロッパ大陸の国境線くらいに違います。

               

              離散化される対象(=記憶)のラインと、離散化する目盛付きのメジャーのようなライン。
              二本のラインが並んで意味を織りなす。
              これをイメージした時に、私はDNAの二重螺旋の原型がこれなのかなと思いました。
              そして
              「神様が拍子をとるのに合わせて皆さんは踊る」
              みたいな表現が御言の中にあったと思います。(毎度うろ覚えで申し訳ありません。)
              これもまた、メトロノームが一定のリズムを刻むのとは違う、指揮者とオーケストラが互いに呼吸を合わせて振られるタクト、
              或はライブの楽器の掛け合いでベースのリズムを叩くドラムがイメージされます。

               

              これが杓子定規だったり、メトロノームだったりすると、おそらく天国はあり得ない。
              白人が勝手に引いたアフリカ大陸の国境線も不幸だよね?
              ヨーロッパ大陸が幸せかと言うとまた別の問題が絡むけど。

               


              ここで観察主体は観察対象から刺激を受ける情緒、
              観察対象は観察主体の形であり記憶となる。

               

              今、刺激を求める心は情緒と呼ばれ、刺激を与える観察対象は体であり過去記憶と考えることができます。
              観察主体はリズムを刻む、拍動するエネルギーということになる。
              形状化した過去記憶がどこに蓄積されるのかと言うと、やっぱりエネルギーによって再演されるしか蘇りようがない一者であるジレンマ。

               


              原初、主体と対象の関係は性相と形状の関係である。
              四位基台の主体と対象には陽陰があてられることが多い。
              陽陰は対象の形状の中に主体が感じ取る内容ではないか。

               


              次に考えられる展開は二次元平面展開にです。
              二次元に展開するとはどういうことなのか?
              一次元の場合には一つのエネルギーが明滅しながら過去を積み重ねることによって時間軸というラインを形成する。
              二重螺旋のような形状は、右手と左手で別々のリズムを叩くような、一体不可分の一筋のラインである。
              これを二次元化するには直交する二軸にする必要がある。
              しかしこれは結果である。
              一次元存在から二次元は創造し難い。
              三次元存在であう私たちに四次元が概念的にしか空想できないのと同じく、実感的には捉えどころがないのである。

               

              要は記憶を俯瞰したいと願ったのではないかと思います。
              自身を複製して眺めるという、究極の自己愛の世界ですが、存在が自身しかない場合には他者を愛することなど不可能です。
              材料は、自身の記憶(形状・体)とそれを支えるエネルギー(性相・心)のみです。
              それを分割して自立する対象、他者存在を形成する。

               

              この場合、喜びの対象としての創造の第一歩と考えられます。
              そうすると良いものだけで構成することを考えるでしょう。
              そして、自身の存在を懸けて対象を創造するのですから手を抜くことはありません。
              恐らく、自立した他者のイメージはありませんからあくまでも自身を複製するイメージです。
              対等なものを造りたいと考えたのではないかと思います。

               

              エネルギーを分割して、そこに形を与えていく。
              或は、形を強くイメージしてそこにエネルギーを乗せていく。
              どちらだろうか??
              自身を複製するのだからそれは性形の存在であり、形があればそこに陽陰が備わる。
              自立するエネルギーは同時に外部からの影響を受け得る感性を持つ。
              エネルギーは波なので、波は干渉を受ける性質を持ち、干渉こそが外部刺激に対する反応であり感覚の原型なのです。
              過去記憶と現在感情が揃えば未来を求める意思も付いてくる。
              もう一つの『意識的存在』が立ち上がってくることになります。
              しかしこれも、先にあるものと後から来たものとの差がありますが、これをもって陽陰の関係とは言いにくい。

               

              この二者も一体不可分の関係です。
              繋がっていなければ元の木阿弥の孤独な世界に戻ります。
              それぞれが自立しつつ一体であるとき、二つの軸を持つ二次元世界を形成できます。
              つまり視覚的要素が存在しうる世界を形成する。
              この二つの意識的存在が「夜の神と昼の神」だと考えています。

               

              昼の神は夜の神の対象(相対?)として現れた。
              対等存在として産み出されているのに何故男神と女神なのだろう?
              美しく生み出されたことは疑う余地がない。
              対等とはいえ、後から来ればスタート時には小さな存在であったかもしれないから、大小の観点からは陰性?
              小さければ弱いから陰性?
              とりあえず、絶対的な『無』を経験していない。
              喜びの存在として産まれたならば、負の記憶は与えられていない可能性がある。
              だったら陽性?
              いずれにしても、性相的な要素を持つ以上は主体性を持つ存在になる。
              主体性を持った対象という矛盾が堕落への導引であったと想像できる。

               


              経緯から考えて、二者の性質には次のような差があると思われます。

               

              夜の神
              孤独への耐性が強いが孤独を嫌う。
              何もないところから構築していく創造性に長ける。
              単純作業をこなせる。

               

              昼の神
              受動的性質
              有ることが当たり前なので、もっぱら応用力に長ける。
              夜の神と比べれば思慮は浅いかもしれない。(無自覚)

               

              これを男性的性質と女性的性質と考えるのは短絡的かもしれないし、世の人間を見渡しても必ずしもその通りではない。

              個人差と普遍性の問題もあります。
              そして御言が正しいのなら、世の中の人間は男も女も昼の神様の影響下にある。

               

              夜の神様の性質は庶子段階に求められる性質でもあるなぁ。
              昼の神様の性質は、この段階では僕の僕。
              生み出されたばかりだから当然のことですね。
              この後二柱の神として創造を進めることで成長するはず。

              | おーば | 七つの封印 | 22:28 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              近況とちょこっと
              0

                台風、豪雨被害、凄まじかったですね。
                未だ不便な生活を余儀なくされる方々には心よりお見舞い申し上げます。
                私も、荒川切れたらどうにもならないよっていうエリアに住んでいますので、
                今回は、朝目が覚めたら周り中水浸しなんてこともあるかもと思ったのですが、
                上流の方で被害はあったものの家の近所は無事でした。

                 

                そして、少々近況報告。
                10、11月は仕事が忙しくって書き物をしている時間があまりとれません。
                元々更新頻度が少ないものを、2か月以上放置しちゃいましたね。
                今年はキリスト教会の方でも役員3年目でちょっと仕事が重たいのに加えて記念冊子を作ろうという話から編集を担当せざるを得ない立場になり、これに相当時間をとられた気がします。
                時間ではないですね。
                意識をとられる感覚です。
                意識をとられている間にも、物理的時間は経過していきますし、物理的な行為を行うためには多少なりとも意識を注いで計画が必要です。
                こちらの冊子の話は先月末にようやっと手を離れたので、あとは生業の方です。
                これは今月 20、21日に地獄を見ることになりそうです。
                あと今月いっぱいは気が抜けないかな。。。。
                10・11月は礼拝休みます宣言してあるのですが、多分クリスマスのチラシの依頼が多分来るんだろうなぁ。。。。。。。。

                 

                ここのところ、会社の方は社長が始めて三年経とうという副業の方が本業かと思えるような動きをしているので、
                年々本業の私にかかって来る負担が大きくなっているように思えるんですが、、、
                その社長がいきなり介入してきて妙なスケジュールの詰め方をしてくる。
                落っこちていた手配もあったので、たまの介入は必要でもあるんですが、ふむ。

                 


                もやもやとした気分もさることながら、書きかけていた記事が難しすぎるかなというのも問題ですね。
                どうやったら分かりやすく書けるのか?突っ込んで説明しようとする程ドツボに嵌っていくのが見えます。
                『庶子の知』というのはやはりネックですね。
                存在についての理解があって初めてペアシステムの意義が見えてきて、その意義の向こう側に男女=陽陰=主体と対象の関係性とそれぞれの特性を探ることができるようになります。
                書くことで問題点が浮き上がって来ます。
                そうすると、また後に書きまとめる役に立つというものです。
                そして今回、教会の記念誌の編集をすることで、書籍編集のスキルアップにもなったので、いずれきちんと電子版配布できるといいですよね。

                 


                前回記事で『運動』と『時間』と『記憶』について触れましたが、なんだか運動が存在の根本のような表現になってしまってますね。
                『運動』とは、『エネルギー』の存在の『基本形』と考えるべきであり、『エネルギー』=『心情』又は『愛』。
                『記憶』とは、経験値によって得られる『情報』及び『知識』。
                『時間』とは、『エネルギー』と『知識』を投入して意識的にする行為の積算。
                ああ、時間には『能動的時間』と『受動的時間』の二種類が存在するようですね。(こういう思い付きみたいなことを挟むから混乱するんだね。)
                『能動的時間』がそのまま『意思』の表現であり、主体性でもあるのかな。

                 


                お仕事しないといけないから、今日はこの辺で。

                | おーば | 七つの封印 | 12:38 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
                七つの封印-13 神のはじめ
                0

                  つぶやきと呼ぶにはなんだか長ったらしい文章ばかりなのでブログタイトルを変更してみました。
                  サクラ・Leafって、名前そのまんまですが、葉っぱというのは書き記された用紙を意味するものなのでいいかなと。
                  ついでにサクラも日本を象徴する花なので和風な考え方(?)という意味合いも載せましょう。

                   

                   


                  私たちは、そもそも三次元の世界に生み出された存在なので、存在と言えば三次元的なものを思い浮かべがちですし、三次元空間自体は神以前に広がっているもののように捉えがちです。
                  あったのかもしれませんが、空間が空間として認識されるには三次元的な存在が生まれてからのことになります。

                   

                  認識することで存在が確定されるというのは量子論的な考え方ですが、
                  統一原理も実はそのような発想で書かれているところがあります。
                  創造本然の価値を語るときに、素晴らしい博物館を建てても観客たる人間がいなければ存在価値がないと言います。

                   

                  価値があるかないかと存在するかしないかは別だろうと思われるかもしれませんが、
                  これを分離して考えるのは唯物思考あるいは物心二元論です。
                  統一原理は唯物論ではありません。
                  霊的存在を貴重に考えています。
                  では、唯心論でしょうか、物心二元論でしょうか?
                  宗教と科学の統一を図ることから、科学をも尊重する立場をとるため、物心二元論的立場を模索していたようですが、あいまいです。
                  物心二元論の弱点は、精神と物質がどうやって関係を持っているかというあたりのあいまいさです。
                  神を奉じる立場であれば、精神の優位性を信じる傾向が強い事と思いますが、その優位性をどのように説明するかと言う問題です。

                   

                  唯物論と言うのは比較的理解しやすいと思います。
                  精神は物質の副産物であるという考え方で、人間の心は脳内で作られているので脳の活動が終わったら精神は消えてしまい、霊など存在しないという立場です。

                   

                  唯心論というのはその逆になります。
                  物質は人間の精神が作り出しているもので、実は実体がないという考え方です。
                  これをそのまま受け入れてしまうところころ変わる人間の考えによって世界が影響されてしまうため現実世界との整合が悪くなります。

                   

                  唯心論で世界の合理的な説明を付けられないと考えることが普通のようで、理性的な主張の多くは物質を客観的存在として考えます。
                  そもそも、人々の心がバラバラで、個人においても考えが替わることがよくあるのが人間です。
                  そんな人の心を基準として世界が構築されていたとしたら安心して生活することはできません。

                   

                  それでも私はこのブログ上では唯心論をとろうと考えています。
                  唯心論と言っても、個人の考え方で客観的現実がデタラメに変わるわけではありません。
                  主観と客観の関係性について冷静に思考できればと思います。
                  そこに至高の精神と言うべき神の霊が、宗教と科学の根源であり統一体として存在する世界観の可能性を語っていきたいと考えます。

                   

                   

                   

                  さて、唯心論的立場を表明しましたので、創造の初めに神ご自身が一次元的な存在であれば、世界もまた一次元的存在であったと言えます。
                  唯心論的立場からは、世界は精神に認識される場・環境でしかありません。
                  精神のための器です。
                  二次元キャラクターはモニタまたは紙の上の二次元に収まっていますね?三次元空間を必要としません。
                  そして一次元の神は一次元の場に収まっています。
                  これは性相と形状の二性性相でもあります。
                  精神が形状としての環境と相対基準を結んでいる状態です。
                  精神が表れる以前はその環境も無かったということです。

                   

                   

                   

                  ★記憶としての存在


                  創造の始まりは、一次元的でしかありえないのは、三次元や二次元の概念が、一次元を経ずには現れ得ないからです。
                  そのステップをもう少し丁寧に記述してみましょう。

                   

                  前記事で書いた最初の「感じ」も、三次元的な気配ではなく、二次元的・視覚的な色や光でもありません。
                  何かしら、痛みの様な感覚かもしれません。
                  想像するのが難しいですが、その「感じ」が強弱をもって拍動するのです。

                   

                  拍動とか、振動とか何か存在しているならば、それが運動することは理解できます。
                  しかし、存在しないものが運動するでしょうか?

                   

                  逆なのです。
                  『運動』を『感覚』したので、その『感覚』を対象化して存在としたのです。
                  存在とは、感覚された『そのもの』を指します。

                   


                  一次元的感覚というのは、一瞬の時には一つの感覚でしかありません。
                  二次元的な言葉で表現すると、辺り一面真っ白とか、真っ赤とか真っ黒とか、一色しか見えないみたいなものです。
                  視界に映る一面が一色で塗りつぶされていたなら、私たちはそこに何かがあるとは感じにくいものです。
                  暗闇や、あるいは雪の中で「ホワイトアウト」して道に迷うような感覚でしょう。
                  しかし、その前の瞬間に、あるいは次の瞬間に、別な色があればどうでしょうか?
                  時間の流れを通じてコントラストを味わうことができます。
                  「意味」が表れてくるのです。
                  有無の拍動は、過去と現在のコントラストによって生じてきます。

                   


                  過去と現在のコントラストを味わうために必要なものがあります。
                  「記憶」です。

                  今と違った過去があったことを思い出せなければ、今が過去とは違うことを認識することができません。
                  現代科学では人の記憶は脳に書き込まれているものだと考えているようですが、どうなんでしょう?
                  少なくとも、原初の神様には脳みそは無いでしょう。

                   

                  記憶に「運動記憶」というのがあります。
                  身体が覚えてるというやつで、自転車の乗り方などは頭で覚えているというより運動記憶らしいです。
                  慣性の法則など、運動が保存されている状態も、そのものが運動を覚えていると言えないでしょうか?
                  一定方向に進みつつ、突然方向を変えたりしませんよね?
                  心臓や肺も一定のリズムで動いています。
                  脳が動かしていると言いますが、全てが脳の指令ではありません。
                  水産物などでは、捌いてる最中にも筋肉が動いたりしますが、その動きはデタラメな方向に動くわけではありません。
                  運動の中に記憶が息づいている例は少なくないでしょう。
                  三次元世界での記憶は、物質そのものに刻まれています。
                  過去の運動の結果が今の物質の状態を決定しています。
                  柔らかい地面の上を動物が歩けばそこには足跡が残ります。
                  それもまた、物質に残された記憶です。

                   

                  一つの運動を繰り返せば、その動きは無意識に繰り返されることがあります。
                  しかし、一次元的な運動が記憶化されるには、そうとうな繰り返しによる定着が必要だったのではないかと想像します。

                   

                   

                   

                  ★記憶と時間の矢

                   

                  記憶とは、運動パターンとして蓄積されている可能性を感じますが、その分析は置いておくことにします。
                  過去の瞬間の記憶と、現在の瞬間の感覚との差異が、構造を生ぜしめて有無の存在を決定していると考えると、
                  存在の根源に記憶があると言うことができます。
                  現在の存在を過去の記憶が支えているということです。
                  その前に、過去と現在の間に差異を生ぜしめるものが感覚内容の変化であるということは、運動がさらにその根源であるということです。

                   

                  運動が時間を生み、記憶がそれを支える。
                  運動による変化が時間を生み、変化を支えているのが記憶。
                  (運動がない静止した瞬間には過去の概念が立ち入る余地さえもない。)

                   

                  0次元というのが座標原点であり、
                  1次元というのは、0次元に時間運動を加えた直線である。
                  2次元平面は、1次元直線に時間運動を乗じたものである。
                  3次元は、2次元の時間運動の結果である。

                   

                  つまり、加算あるいは乗ぜられた記憶が存在を支えている。
                  そうすると、現存在である私は、過去存在に支えられている存在であるので、
                  過去存在を記憶として閲覧できるけれど、過去存在当事者にはなることができない。
                  現存在は確定した過去存在があるから存在が可能であるから、過去存在と現存在は存在として兼ねることはできないし、
                  過去存在は変更可能な現存在と同じ可能性を持つことはできない。
                  過去存在の変更は、現存在を否定することになる。
                  『過去への介入の禁止』これはSF小説やコミックでよく出てきますよね?

                   


                  存在そのものはプラス方向にしか向かえず、時間は逆行しない。
                  反物質と虚数空間はまさに虚構であり概念上の存在でしかありえない。
                  (では、何故概念上に現れたのか?思うところはあるのですがそれは別な機会に論じてみたい。)

                   

                  そして在って在る神は、在ることを選ばれたので後戻りせず、イザナキノミコトも産むことを選んでいる。

                   

                   


                  ★意思の発生

                   

                  『運動・変化』(変化は運動の副産物なので以下運動とのみ記述)と『時間』と『記憶』と『存在』について記述しています。
                  ここまでは過去を参照する現在までの存在です。
                  神を信ずる立場は、神に人格性を見出します。
                  人格とは、喜怒哀楽の感情と、意思性です。

                   

                  運動、時間、記憶、存在の中で、
                  『記憶』というワードは明らかに知的分野のワードです。
                  『存在』については、対象格位、過去の裏打ちを持つ客観性の可能性です。
                  『時間』は『運動』により生まれ、過去と現在に次いで未来の可能性を示唆します。
                  『運動』はエネルギーを秘め、興奮など、情緒的可能性が見出せます。(エネルギーが満ちれば喜び、枯渇すれば悲しみ。)

                   

                  心や精神は、情知意と表現されます。
                  ここまでに、『運動』と『記憶』という形で『情』と『知』が登場しました。
                  では、『意』が何かというと、『意識』としての現在であり『意思』としての未来への要望。

                   

                  正の位置に『運動』(無意識的原因)

                  分-主体の位置に『記憶』(原因認識)

                  分-対象の位置に『時間』(認識対象・付随的)

                  合の位置に『存在』(結果)

                   

                  第一次的にこうしていいかもしれない。

                  運動によって生じた記憶であり時間です。

                  第二次以降は、

                   

                  正の位置に『存在』(在って在るという目的)

                  分-性相の位置に『運動』(情緒的方向性-快・不快)

                  分-形状の位置に『記憶』(目的達成のための方向性判断対象・存在基盤)

                  合の位置に『時間』(意思的未来)

                   

                  かな?

                  少しすっきりしない。

                  『記憶』というのはそれ自体にエネルギーが感じられないが、

                  神の全知性を支える体のように感じている。

                  おそらくワードの選択の問題だと思います。

                  まだ言い当て切れていないのでしょう。

                  ニュアンスで拾っていただければいいのですが…。

                   

                   

                  Twitterで二世の男性が
                  「意思とは物理現象であることにまちがいない」
                  と、つぶやいていた。
                  三次元物理世界に生きる私たちにとって、それは真であろうと思い印象に残っています。
                  この世界では『存在』とは物理現象であることはまちがいない。

                   

                  しかし、意思が二次元的にも一次元的にも生じ得るとすればどうでしょう?
                  それは物理現象とは限らなくなりそうです。

                   

                  | おーば | 七つの封印 | 13:42 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  七つの封印-12 『無』から『有』へ
                  0

                    『無』について書きましたが、これが『ペアシステム』とどう関係するのか理解することができるでしょうか?

                    恐らく簡単ではないと思います。

                     

                    『無』に至って、そこから何ができるのか?

                    原初の『無』の瞬間には時の流れさえもありません。

                    時が移るべきコマが無いのですから。

                     

                    次の瞬間に『有』が現れたとしても、その『有』という存在には何の歴史もありません。

                    歴史を持たないその存在には『記憶』もありません。

                    無垢の『有』は、いったい、何をもって『有』と主張できるでしょう?

                    それはささやかな『構造』を持つことです。

                     

                    この、構造をもって『有』と主張した存在が「あってあるもの」としての創造主他なりません。

                    私たちは全ての存在が創造主によって創られたと考えるからです。

                    この存在が、「いや私は某乃何兵衛だよ」と名乗ったとしても、私たちが信頼する創造主はこの存在です。

                    経験しえない『無』の記憶を持たれる唯一の方。

                    そして、『有る』ことを選択し、『有る』ことを愛された方です。

                     

                     

                    何の記憶も持たない存在が、いきなり複雑な構想を持つことは不可能です。

                    知識の乏しい幼い子供の発想は、時に大胆にはなりますが、緻密さは持ち得ません。

                     

                    幼い子供とは何事か、神と言えば、それが一神教の創造の主であるとするならば、

                    全知全能の何も欠けたところのない存在としてイメージすることが普通でしょう。

                     

                    しかし、無から有を生み出した瞬間に、一体何を知っていることができるでしょうか?

                    知りうることは「世界には何もない」ということだけではありませんか?

                    未来を知っているのでしょうか?

                    未来はそこから創られるものであれば、空想したとしても知ることではありません。

                    空想するにしても、そこには感覚できる内容が何もないので、色も形も音さえも無いのです。

                    感覚できないということは、経験することができないということです。

                    経験できないということは何の記憶も持ち得ないということです。

                     

                     

                     

                    本当に単純な構造とは、無と有を分け隔てるところから始まらざるを得ません。

                    無と有を隔てることで時間が生まれます。

                    『無』の瞬間と『有』の瞬間です。

                    『有』と言っても何かの物質的な存在であるわけではなく、ぼんやりとした何かの、かすかな『感じ』程度でしかないでしょう。

                    何しろ身体さえも持ち得ない瞬間です。

                    オカルトか、何かのファンタジーの世界のようですね。

                    (ああ、そういえばミヒャエル・エンデのネバーエンディングストーリーに書かれている脅威は『無』でしたね。

                    人が書く、様々な物語の中にも実は啓示的な内容が少なからず含まれます。

                    その出所は様々なので、有益なものを見極める、あるいは有益に読み取る心を持つのが庶子です。)

                     

                     

                    時間を刻むことはリズムを産むことができます。

                    『無』を訪ねたときに最後に残った心音のようです。

                    人は母の胎に居たときには、母の心音に包まれています。

                     

                    原初には音でさえもなかったでしょう。

                    『感じ』の粗密が感覚され強弱となり、音として意味づけることでそれは音になるのです。

                    途方もないプロセスを経て、『感じ』は『音』になり、やがて『声』になるのでしょうか。

                    古事記において独り神が現れては身を隠すプロセスが重なってきます。

                     

                    ゼロと1だけで書かれた言語がありますね?

                    バイナリ―データです。

                    バイナリ―データはコンピュータ言語ですから、その表現内容はとんでもない世界です。

                    あるいはモールス信号も音と無音の組み合わせで表現される言語です。

                    そしてこれらは立体であるはずもなく、平面でさえありません。

                    直線的な一次元の世界でしかありません。

                     

                    そうして創造主は様々な幾何学パターンから複雑な意識を構築されていったと考えられます。

                    人が神様と言うときに、意思をお持ちになる存在であることはあまり注目されませんが重要なポイントです。

                    創造神にせよ、八百万の神がみであろうと、人が神様と呼ぶ存在はそれぞれに意志を持つ存在です。

                    神様が意志をお持ちなので、御機嫌を損ねることのないようにお祭りするのです。

                    信仰を持っていなくても、宇宙に根本的な原因があるはずだと人は考えます。

                    科学者たちはビッグバンを宇宙の始まりだと言いますが、そこには誰かの意志を認めません。

                    偶然の産物だというのが多くの科学者の暗黙のルールでしょう。

                     

                     

                    このように、意識を構築されるプロセスは夜の神様と呼ばれる「光あれ」以前の神様の経験です。

                    神様の自己創造でもあったと言えます。

                    このご自身の意識が神様にとっての最初の『対象』です。

                    ご自身の意識を対象化して自己分析するかのように成長されたということです。

                    これは内的な陽陰の授受作用と表現されるところかもしれません。

                    陽陰の中和体であられた存在が陽と陰をあるいは性相と形状を分立されて授受作用をされたと言えるかもしれません。

                    多くの宗教は「光あれ」以前の神様に注目することはありません。

                    統一食口の一部がみ言葉の中から『成長する神様』に注目をするようになってきました。

                    また、シュタイナー思想の中に、神様とは認識せずに神様の成長の歴史に触れる部分があるようです。

                     

                     

                    『無』から『有』を見出され、それを選択された神様の御意。

                    『有』の根源となる『対象』の存在はどれほど愛おしいものでしょうか。

                    気の遠くなるような『無』を意識することによって、対象を愛おしむ神様のご心情への信頼を深めることができるのです。

                    | おーば | 七つの封印 | 18:30 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    七つの封印-11 『無』への理解
                    0

                      記事に上げる前のテキスト量はなんだかすごい量になってきましたが、実際のアップが進まないのはどうにも表現が難しいからです。

                      何故難しいかというと、庶子の知について十分に書けていないからなのでしょう。

                      八段階は飛び級ができないのですね。

                      これはすでにある建物のフロアを上がっていく行程ではなくて、何もないところに建物を立てていく工程だからです。

                      二階部分の柱が立っていなければ三階部分を造ることができません。

                      なので、庶子の段階をきちんと理解しなくては実子を正しく理解することができません。

                      それを簡単に解説しようとするから書くことができないのだと理解しました。

                       

                      ですから、僕と養子を絡めて書いたように、実子も庶子と絡めながら書くことにしましょう。

                      書き切ろうと思うと長丁場になるかもしれません。

                       

                       

                       

                       

                      「世界はペアシステムでできています」

                      そう言われればそうなんだろう、実際世の中見渡せばそういう組み合わせになってる事柄が沢山ある。

                       

                      この程度の理解では足りないんです。

                      「ああ、そうだったのか!」と感動できる理解が必要です。

                       

                      そのためには、神様が最初に創造を始められた時に思いを馳せなければなりません。

                       

                       

                       

                      『無』について深く考えたことがある人はどのくらいいるのでしょう?

                      神様は『無』から『有』を生じせめたお方です。

                      『無』について知らなければ、神様の創造の動機をきちんと知ることはできません。

                      愛の対象がほしかったという、『愛』の切実さを知るためにも『無』を考えなければならないのです。

                      逆に、これを理解すれば神様との距離はぐんと縮まります。

                       

                       

                      ちょっと思考実験をしてみましょう。

                      『無』についてどれくらいイメージすることができるか。

                       

                      ●先ず、水の入ったコップを思い浮かべてください。

                      普段ご自身で使っているコップで大丈夫です。

                       

                      ●次にコップの水を飲みほしてください。

                      実際にやらないで、思い浮かべるだけですよ。

                      コップは空になります。

                      コップの中には何も『無い』状態です。

                       

                      ●次にコップを片付けてください。

                      コップがあなたの視界から『無くなり』ました。

                      何がありますか?

                      何も無いテーブルがそこにあるかもしれません。

                      テーブルの上は『無』ですね。

                      でもそこにテーブルが『有り』ます。

                       

                      ●あなたのイメージの中からそのテーブルも消してください。

                      テーブルが無くなりました。

                      そこは『無』でしょうか?

                      いいえ、おそらくは部屋の中ではありませんか?

                       

                      ●そうしたら、建物を消してください。

                      実際に消すことは難しいですが、イメージだけですから大丈夫。

                      建物という建物を全部消してください。

                       

                      ●何もなくなりましたか?

                      広い原っぱでしょうか?砂漠でしょうか?何も『無い』状態ですか?

                      誰かいますか?

                      誰かいるようならばその人や動物もイメージの中から消してください。

                      これだけでも、とても寂しくて不安な感覚になりませんか?

                       

                      ●それでもまだ、完全な『無』にはなっていません。

                      足元に何かありませんか?

                      地面、地球ですね。

                      これを消すとどうなるでしょうか?

                      宇宙空間に放り出される?

                      それをイメージしてみましょう。

                       

                      ●真っ暗な宇宙空間、ここには空気も水もありませんが、イメージだけなので生命の心配はしなくて結構です。

                      宇宙遊泳を楽しんでみましょう。

                      地球が無くなると、重力を感じることがありません。

                       

                      どちらが上でどちらが下なのか?

                      自分が立っているのか寝ているのかもわかりません。

                      宇宙飛行士が宇宙に出ると人生観が変わると言いますが、『無』重力の体験はやはりインパクトの強いものでしょう。

                      地球を消さずに似たような経験をできるとすれば、深い水の中に溺れる経験でしょうか?

                      手足につかまるものが何も『無い』状況。

                       

                      ●さて、どこか別な星の上を想定してはいけませんよ。

                      全ての星を消してみましょう。

                      辺りは暗闇です。

                      何の音も聞こえてきません。

                      上か下かもわからない、

                      自分が移動しているのか止まっているのかも目印になるものが無くなると判断が付かないものです。

                      これが完全な『無』でしょうか?

                       

                      ●一つ聞こえているものがあるかもしれません。

                      あなたの心音、呼吸音です。

                      映画などで宇宙飛行士が宇宙を漂うときには「ヒュー、ヒュー」っと、効果音が入ることがよくあります。

                      『無』に至るために最後に消さなければならないものがあります。

                      あなた自身の肉体です。

                       

                       

                      ●これで完全な静寂が手に入りました。

                       

                      ●あなたは死後の世界を信じていますか?

                      信じていたとしたらこれでも完全な『無』を手にすることはできません。

                       

                       

                       

                      どこまでイメージできましたか?

                      これで完全な『無』でしょうか?

                      私自身が消えたからと言って、他の人たちが大勢どこかにいるではないかと思えますね。

                      でも、とりあえずはあなた自身にとっての『無』です。

                      見る、聞く、嗅ぐ、触れる、味わうという五感に働きかけてくるものが何もない状態。

                      それどころか上下の方向感覚さえも持ち得ない。

                      時を刻むものが何もない。

                      『無』です。

                       

                      死後の世界が無いと信じている人たちにとっては、『死』と『無』は同じ意味になるかもしれません。

                      だから特に宗教を信じていない人たちでも、漠然と天国と地獄をイメージしていたりするものです。

                      完全な『無』とは想像しきれないほどに苦しいものなのです。

                       

                       

                       

                       

                      全ての事柄には始まりがあります。

                      全てを始められたのが神であるのならば、神は一番初めにこの『無』を経験する処から始められたということになります。

                      何もないところからのスタートであれば、それこそ『記憶』さえもありません。

                      何の記憶もなく、何もない闇の中に漂う感覚をイメージできますか?

                      | おーば | 七つの封印 | 20:02 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
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