おーばのつぶやき

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
七つの封印-7
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    前回、ちょっと書き散らかした感じがありますので改めて。

     

    庶子について重要なのは

    ●神からも人からも捨て去られた立場に立ってなお神を愛する。

    ●霊について正しくかつ具体的な認識をもってこれを主管する。(天使の屈服)

    の、二点です。

     

    順番としては、

    捨て去られてなお神を愛するその心情をもって天使を仮りに屈服し、

    天使からの信頼を得るために天使からの試みを受ける。

    その試練の過程に置いて、霊的存在の様相についてのレクチャーを受ける。

     

    この過程のハードルがそれぞれ結構高いという事に気づきます。

     

    1・神から捨て去られる

    神に捨てられるには、一定の信頼関係を結んでいなければ捨てられることはありません。

    養子圏で信義のみかえりをある程度実感していてこそ、『捨てられた』事実を知ることができます。

    最初から信じていない僕の僕ならば神との関係が切れても何も気にしません。

    具体的には与えられていた祝福が奪い去られたり、導きを感じられなくなったり。

    他にもあるでしょうか。

     

    2・人から捨てられる

    これも同様に、人との関係をある程度築いていなければ『捨てられた』とは思いませんよね?

     

    ちなみに、1は信仰基台で2は実体基台です。

    この二つが立てられていることが庶子として踏み出す要件になります。

    神と我の関係、兄弟姉妹との関係あるいは復帰した基台基盤。

    家庭連合で教わる信仰基台・実体基台とは少し様子が異なります。

     

    3・人から捨て去られてなお神を愛する

    自分が基盤として立っている足元が崩れ去るようなものです。

    それまで大切に築き上げたものを失ったり、裏切られたような立場に立たされます。

    多くの人が神を恨んで人に屈します。

    これはヨブ記を読んでみてください。

    ヨブはまさに神と人から捨て去られました。

    そして彼の妻は神を捨てることをヨブにすすめています。

    そして友人達もヨブのことを非難します。

    また、教会に躓いた食口達の多くが教会を非難し、社会に復帰することを目標とします。

    教会をたたき出されてなお、神様を慕って分派を立ち上げてしまうような人たちは、

    大概ここまでをクリアしています。

     

    4・本当に神様を愛しているのか、霊的試練を受ける

    イエス様の三大試練のように御言葉による試練です。

    あ、「石をパンに変えよ」は3ですね。

    神様との心情関係が試みられます。

    祈りが通じない霊的な乾きが与えられます。

    また、信じて行うことが裏目になったりします。

    神に捨てられることで還俗する人も多いでしょう。

    試練なれして神を試みようとする傲慢な心を少しでも見せれば、天使が神に代わって彼を守る振りをしながら逆主管してくるでしょう。

    逆主管されたことに気づかず、自分は神に選ばれたと勘違いして僕の僕へと落ちるのです。

    本当に打ち砕かれ、小さくさせられる試練です。

     

    5・神様の愛と理想を理解しているかが問われます。

    力量の足りないことを自覚しながらもみ旨を愛する意思を問われます。

    天使は世界を見せるその段階で実存について(霊界について)も教えてくれます。

    その『真理』と引き換えに、『愛する』ことをやめるように要求してくるのです。

    愛するというのは自分の事情ではなく神様の事情に立つことです。

    『愛する』ことをやめればこれも自己中心的個人霊界に引き戻されますので僕の僕に堕ちます。

     

     

     

     

     

    必要な項目としてはこれでいいと思います。

    キリスト教的信義の信仰の次のステップとして、峠・十字架を越えていかなければならない故に考えられる事柄。

    庶子という言葉が示す意味合いとして、み言葉から読み取れる捨て去られた立場、社会からの廃絶。

    実子として祝福される前に通過しなければならない本来的な条件として、神と我の関係の確立。

     

    これらのことは、統一教会を選択した時点で疑似的に通過したと感じる人も多いでしょう。

    親を棄て、仕事を棄て、財産を捧げてこの道に来た時に、環境からおもいきり反対を受けた人も少なくはないはずです。

    それはお父様から祝福を受ける条件となっているはずです。

    それが条件的と言われ、完全なものになっていない理由は、完全な孤独の中に身を置くことになっていないからです。

    すべて捨てたと言いながら、教会には兄弟姉妹がいたわけです。

    真の父母が護ってくださる環境下にあったわけです。

    入信当時の私たちには伝統的な信義の信仰は培われていませんでしたから、

    いきなり孤独な環境で神と我の関係を築くことなど不可能でした。

     

     

     

     

    何故このような試練が与えられるのか?

    堕落の蕩減としての意味合いは原理で書かれているように、逆の経路をたどるということなんでしょう。

    命がけで堕落したのだから命がけで帰らなければいけないとか、

    戒めに反したのだから戒めを守らなければいけないとか、そういうことでしょうか?

    否。

    自立に必要な道筋であるからです。

    人の心が成長するために必要な事柄だからです。

    自立するために、親は干渉することができない。

    簡単なルールではないのです。

    簡単なルールであれば、失敗してもうまく取り入れば目こぼしして貰えるんじゃないかとか、

    愛の神様ならば恩恵でもってそのうち皆救済してくださるんじゃないかとか思えますけれど、

    これは化学反応みたいに厳密で、炭素は高温高圧に晒されて輝くダイヤモンドになりますが、足りなければ真っ黒な石炭です。

     

    通過しなければならないのです。

     

     

    統一教会に入信してから統一原理と多くのみ言葉をいただいた私たちですが、

    孤独に捨て去られた後にもう一度原理のような内容を教えていただくのです。

    人間が霊肉の存在であることの詳細を理解するようになるのです。

    原理講論では明確にされていなかった内容です。

    何年か前にスピリチュアル系でよく耳にしたアセンションの問題でもあります。

    霊的な事実を実感的に理解するようになります。

    この時に指導に当たるのが霊的存在とのコンタクトになります。

    指導霊とかハイヤーセルフとか表現できるのかもしれませんが、多くの人がこの指導霊に主管されてしまいます。

    多くの元食口たちが神様から離れていくのをネットを通じて目撃しました。

     

     

     

    かなり端的な書き方をしましたが…ここまでやってきて失敗すれば心情世界において僕の僕です。

    でも、外的には人やお金を集めることには成功する人もいます。

    逆にクリアした人達の方が、外的には何も持っていないケースが多いんじゃないかと思います。

    まだそういう時です。

     

     

    とにかく、神の子女として自立した個性体であることが求められます。

    命令通りに動くロボット、あるいは主人の好みを完璧にマスターした家政婦や執事が求められているのではありません。

    宗教活動の大部分は、高級家政婦養成所のようです。

    仕方ないこととも言えます。

    神・メシアを『主』と仰げば、仰ぎ見る信者の立場は必然的に『僕』です。

    宗教卒業の必要がここにあります。

     

    また、『主』の立場からの言葉は命令となり、命令に従うのは僕なのです。

    自立して自らの行動に責任をもって選び取ろうとするときには、命令に従って行くことはできません。

    「誰の言葉も信じてはいけない」というアボジのみ言葉も、この辺りを表しているのかもしれません。

    そして、庶子としてゆくべき道についてはあからさまには語ることができないという『原理』が生じます。

    『主』の立場からは語れないのです。

     

    私は書きますよ。

    私には何の権威もありませんから、私ごときの言葉を参考にするかしないかは受け取った皆さんの自己責任ですから。

     

    | おーば | - | 17:02 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
    七つの封印-6 天使の屈服
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      6回目でやっと『庶子』について書き始めます。
      七つの封印というタイトルにしたからには、一回で一つの封印について書けばいいだろうと安易に思っていましたがとんでもないことになりました。
      八段階を立体化したところから考えれば8回目ですし、去年の原罪についての記事も伏線になっていたようです。

       

      『庶子』と『養子』はあからさまに違う存在です。
      『養子』は血のつながりがありませんが『庶子』は血がつながっているのです。
      血統問題ですね。
      『庶子』とは原罪の無い立場であり、神の血統に連なる立場ということになります。
      祝福で原罪が脱げるのならば、祝福家庭はすべて庶子以上の段階に居なければなりません。
      血統、原罪の問題であれば、『メシヤ』との関係性に触れる必要があります。

       

      先出の四研もこの『庶子』に拘ります。
      ここら辺のことを考えていると、文師がなぜあからさまな表現でみ言葉を語り得なかったのか?
      人間の責任分担って何なのか?
      統一教会がどうして地上天国に到達できないのか?
      などの事情が痛々しく感じられます。
      だけどどこまで書ききれるだろう?

       

       

       

      さて、「血統転換であればメシアからの祝福を受ければそれでいいではないか」と考える人もいるでしょう。
      祝福を受けるというのは外的な行為でしかありません。
      行為をもって義とするのは『行義』の信仰であり『僕』の基準でしかないのです。
      「いや、信じて受けるのだから少なくとも『信義』の『養子』基準はあるだろう」と言うかもしれません。
      だけど、受けたくなかったけどカップルの片方が望むから受けたなどという人もあるわけで、
      要は備えた基準によって恩恵が違うという事です。
      このシリーズの“3”をもう一度ご覧ください。
      『養子』の行程をきちんとクリアしていることは必須です。

       

      『条件祝福』ということばもありますね。
      では『本然の祝福』の基準が何かと言うのです。
      もっとも、『本然の祝福』はどうやら『実子』基準と思われますので、『庶子』は一つ手前の基準という事になります。

       

      『庶子』の立場は少し特殊なのかもしれません。
      1969年の御言が訓読友の会から流れてきましたが、
      「復帰路程というのは、個人復帰、家庭復帰、氏族、国家、世界というふうに展開していく。」と、始まっています。

      http://kundoku.blog-fps.com/kyounomikotoba/

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      『庶子』に対応するはずの『民族』が抜けています。
      昔唱和していた『私の誓い』では「個人と家庭と社会と国家と世界と天宙」になっています。
      八定式が1989年に行われる以前には『庶子』とは隠された立場だったのかもしれません。
      (天聖経の中で八定式の項目89年4月の御言に『民族』の記述はありますね。…天聖経くらいは通読しないとだめかも…)

       

       

       

      内的に備える基準は何か?
      図中に「天使の屈服」と表現しました。
      聖書の中ではヤコブの「天使との組打」のエピソードが有名です。もう一つ、
      イエス様の「三大試練」がありますが、これも試練の後に「天使が仕えた」とあり
      ます。

       


      天使の屈服と言いましても、そもそも天使なんて見たこともないと言う人が殆どです。
      そんなもの居るのか?という話でもあります。
      屈服させるとか言うのならば先ず、出会わなければなりませんし、出会ってそれと分かるくらいに知らなければ困ります。

       

      原理講論的には、
      天地創造の早い時期から存在
      仕える霊・協助者・讃美者
      人間始祖の養育係・守護者
      くらいの解説があります。

       

      仕える、協助、讃美、人間の守護というのは存在の本質にかかわる属性ではないですね。
      講論には使命という表現もありますが、これらは結果的な行為です。
      使命という割には、それを離れて行動しています。

       

      存在論的には、
      肉体を持たない霊のみの存在であり、
      天地創造の業に関われる高い知性と、
      讃美者というのは美への感性すなわち情緒性を持ち、
      そして使命を離れて堕落の道を選びうる自由意思を有している
      ということです。

       


      この存在は死者の霊たちとよく似ています。
      私たちに接してくる霊というのはかつて地上生活を送ったことのある人間の霊か、
      地上生活の経験がない天使の霊かということになります。
      神の霊という可能性も無いとは言いませんが、こと『唯一神』はその狒潅劉瓩寮質から犖鎚明瓩療世膿祐屬領遒箸楼貔を画します。
      狒潅劉瓩任△襪里倭和ぜ腓瞭胆ですから、『天使』には犖鎚明瓩あると考えられます。

       

      養子信仰の時には、人間同士の関係が平等であるように、
      霊的存在との関係も平等に向かうことが鍛錬されます。

      その鍛錬が祈りを通じた対話です。

       


      私たちは信仰生活を通じてこの霊たちに関する感性を身に着けていきます。
      そのためにも正しい信仰指導を受ける必要があります。
      そして祈りを通じて霊的な体験を多く積む必要があります。
      キリスト教会などでも、『聖霊体験』は珍しいことではありません。
      いたずらに怖がっていてはいけません。
      霊を恐れ敬うような指導は、『僕』信仰の時点での指導です。
      原理にも、私たちは天使をも主管する存在であるとされています。

      霊的な存在の全てが『神』ではありませんので、霊的存在の「お告げ」は必ずしも正しいことだと考えてはいけません。

       

      天使にしても祖霊にしても、彼らには自由意思があるとすれば、『嘘』をつくこともできると知らなければなりません。
      悪意の嘘なのか、善意の慰めの嘘なのかもしれません。
      私たちは自分の人生に責任をもって生きる必要があります。
      個性完成というのは、人柄がどうとか、他の人と比較してよりオリジナリティが高いとかいう問題ではありません。
      それ以前に、自身に責任を持つという基本的な事からスタートしなければならないのです。
      誰かから与えられたものを身に着けていればいいということはありません。
      誰かから与えられたものがふさわしいものであるのかないのかを自分で判断して身に着け、あるいは手放すのです。
      この判断力こそが『個性』を築き上げます。

       

      堕落した天使、してない天使(いるのかどうか知りませんが)、霊界にいる堕落人間の霊、あるいは聖霊であったとしても、
      これらの誰が尋ねてきても、私たちは自らの行動の基準を彼らに任せてはいけません。
      彼等の言葉を受け止めた上で判断すべき事柄は自分で考えて自身の愛の基準で行動することが必要です。
      彼等を友人・隣人と認め、地上生活の友人・隣人と同様に対することが必要なのです。

       

      「天使が仕えた」というのは僕として仕えるというよりも友として尊敬されると考えるのが妥当でしょう。

       

      | おーば | - | 12:44 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
      七つの封印-5 原罪について
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        ここで『原罪』にも触れておきます。

        『原罪』が関わるのは『僕』と『養子』の段階です。

        『僕の僕』は原罪どころか『罪』など犂愀犬ない畴Ъ韻靴覆の場。

        『庶子』以降は原罪を狠Δい性畩況であると考えます。

         

         

         

        そもそも、堕落せずに成長していれば、『原罪』としての概念は生じるものではありません。

        だったら八段階と原罪は親和性のない話になりますから、ここで出すのもちんぷんかんぷんに見えるかもしれません

         

        『僕』にとっての原罪は、戒めと同じ様に存在します。

        戒めを守るための『根拠』とでも言いましょうか。

        原罪と関係がない本然での『僕』は家庭の中で保護者の指導のもと成長してゆきますので、

        戒めを守ろうとする『根拠』は保護者からの働きかけに対する応答の必要です。

        実際の家庭内での子供の躾はそのようになっています。

         

        しかし、神様との関係が“切れた”状態では神様の指導を直接受けるわけにはいきませんので、

        神様の子供になるというご褒美を動機付けとしているのです。

        もっとも、ご褒美の内容はよく理解できていませんので、第一イスラエルであるユダヤ教では取り立てて原罪を意識しているものではないそうです。

        とにかく戒律を守ることが大切で、戒めを破ると地獄へ落ちる。

        地獄に落ちるのはそもそも人間始祖が約束破ったからだと。

        モーセの十戒が記された石磐は『契約の箱』に収められていましたね。

        『原罪』もまた、『契約条件』の一項目のように捉えられているのです。

        先に手形が切られているので、逃げたりさぼったりしてはいけない、堕落した『僕』の行動の動機付けです。

        約束破りの物語が失楽園の物語であり、その物語のエピソードとしての原罪なのですね。

         

        そういう物語ですので、ある程度の成長を遂げてこの物語に対してみると様々な疑問が生まれます。

        天使の立場は同情に値します。

        先に来て、多くの働きをして、愛し、愛されて、ヤキモチを焼くくらいの情緒性を備えているのに、

        あっさりと棄てられたような立場に立たされるわけです。

        人間始祖が受けた試練などよりも何倍大変な立場ですか?

        それでも、「彼は悪者なんだ」と教えられた子供は、悪者の気持ちを想像できるほどの情緒はないので、彼を徹底的に嫌うのです。

        そして、彼は仕えることが使命であると教われば、対等に考えることなどありません。

        とても傲慢な心を育てかねないのです。

         

        相手の事情を思いやるのは『養子』になってからなので、『僕』の立場からは『原罪』の背景とか、理論的な意味合いは関係なく、

        守ったらもらえるご褒美だけが重要なのです。

        直接指導できる養育者がいないので伝えられた、子供をやる気にさせるためのシステムの一環と言っては言いすぎでしょうか?

         

        自分はこれだけのことをしたのだから、それに見合った報酬が与えられるのは当然の権利である。

        あたりまえなこの主張が僕の主張です。

        気を付けなければならないのが、『僕』としての報酬を受け取ってそれで満足してしまうと、『養子』の段階に進むことができなくなります。

        イエスの時も、福音を受け入れたのは『罪人』とされていた取税人や遊女、あるいは穢れた病人でした。

        戒めの限界に対峙した先にあるのが福音だったのです。

         

         

         

        『養子』になると少し様子が変わります。

        養子の特徴は対等な関係性なので、自分の事情だけ主張しては周りとの関係を築くことができません。

        だから相手の事情が気になるのです。

        そうすると、戒めにも意味を問いますし、『原罪』にも意味を問います。

        「神との約束に不従順だったことが罪となった。」

        「戒めを破ったことの責任を男と女とで擦り付け合った。」

        などというのがキリスト教会での代表的な見解でしょうか。

         

        失楽園の物語も、その場面で猜_擦棒犬る立場瓩らはどのようにすべきなのかを問うのです。

        つまり、堕落論で言うところの『堕落性本性』を持っていることが『原罪』がある証であり、『原罪』そのものだと捉えられています。

        ですから、失楽園の物語が具体的な史実であるかなども関係なくなります。

        どこまでがセーフでどこからがアウトかという問いもありません。

        キリストの再臨にあって最後の審判で問われるのは『信仰』であって行動ではないのです。

        旧約の信仰を『行義』と言い、新約の信仰を『信義』というのも聞いたことがあるでしょう?

         

        『原罪』に対する懲罰はキリストの代贖によって回避されていますので、戒めを守る必要は必ずしもありません。

        戒めを、福音の教えを、守ろうとしても守り切れない弱い存在、不完全な存在であるのが罪人としての人間である。

        その様な認識の下でなお、福音によってもたらされた『隣人愛』に生きようとするのが、『養子圏』にあるクリスチャンの生き方です。

        しかしそれにさえ原罪ゆえに徹しきれない現実も、イエスの代贖により許されていて懲罰を受けることはないと信じます。

        そして再び主にまみえる時(最後の審判)、完全に罪なき者として栄光に包まれる。

        原罪は主の再臨の時に赦されるというのがクリスチャンの信仰ですね。

         

         

         

        こうやって見ると、堕落論は堕落性本性を開設していることから『僕信仰』と『養子信仰』を見据えた上で二段構造をとっているようにも見えます。

        神様の前に信仰初心者である人々には、戒律的『僕信仰』が求められます。

        そのためにまず、天使との淫行を強調した具体的な罪科を示し、それを克服するための『信仰基台』として献金・伝道を義務化しています。

        信仰が育った上で、堕落性を脱ぐ人格完成が求められるのでしょう。

        しかし最初の僕信仰の段階から『堕落性を脱ぐ条件』としての『実体基台』を形骸化して説いてしまったが故に、歪んで愛のないアベルカイン原則が横行し、

        言われるがままの信仰生活を送るしかなく、『僕信仰』がいつまでも強要されるようになってしまったのではないでしょうか?

        『実体基台』は兄弟との関係です。

        親の前にはフラット、対等な関係性です。

        ちなみに、『信仰基台』と『実体基台』を合わせて『メシヤのための基台』なので、メシヤを迎える前に『養子信仰』完成の必要を原理講論は訴えてるわけです。

        ネット上の情報を散見するうえでは、『僕信仰』を徹底するのみで「祝福(メシヤを迎えた)によって原罪は清算された」という論が多く見られます。

        いつのまにかメシヤに侍ることが実体基台であるという考えになっているようですが、メシヤに会う前に立てるのが実体基台ですから。

         

        | おーば | - | 13:13 | comments(2) | trackbacks(0) | - | - |
        七つの封印-4 四研成約原理について
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          八段階の知覚的相関図図中に、四研の『成約原理』は『福音』と同じ位置に書いてありますが、あてずっぽうではありません。
          こんなことを書くとクレームが入りそうですが、いつまでも触れないわけにはいかないので書きましょう!

           

          キリスト教会は“僕の僕”を、“僕”“養子”にまで引き上げると前記事で書きましたが、
          “僕の僕”を“僕”に引き上げるためには『戒め』が必要です。
          教会には名残としての戒律がきちんと残されています。
          カトリックとプロテスタントで若干違いますが、『洗礼』『聖餐式』『礼拝』『献金』などの遵守がそれにあたるでしょう。

          勿論、複合的な意味合いもありますから、これらの事柄を否定するものではありません。

           

          福音書の中では、割礼や安息日について縛られる必要はない旨が書かれています。
          しかし中世キリスト教会では、信徒たちは福音から遠ざけられて、教会の権威と儀礼によらなければ天国への門は閉ざされているかのようでした。
          これではイスラエル民族が戒律に従うことを強要していたのと変わりありません。
          つまりキリストの教会も一時期『僕信仰』をしていた時代があったという事です。
          ここから「福音に帰れ」と言って『養子圏』への扉を開いたのがマルティン・ルターです。
          このことは四研の岡本さんにもなんとなく自覚があるようで「自分はルターだ」と言ってもいたようです。

           

          僕の僕にあるものが、いきなり養子や庶子にはなれません。
          だから僕信仰は通過しなければならない道なのですね。
          この成長段階を踏襲する必要性が『同時性』を生んでいる要素のひとつかもしれません。

           

          同じように統一教会も、僕の僕を集めて作られた教会なので、『僕信仰』や『養子信仰』を経なければ『庶子信仰?』や『実子信仰?』にはたどり着けないという事です。

          (はてなマークがついているのは、庶子や実子は宗教卒業する必要がありそうなので『信仰』という言葉が当てはまらないかなと言う意味です。)
          だからエクレジア(初代教会)を経て後、やたらと戒律的な「〜しなければならない」だらけの宗教団体が成立したわけです。
          UCは御言から全く乖離してしまったわけではなく、訓読会などを重視してきましたから、『僕信仰』一色にはなっていなかったとは思います。
          ですから『僕』的に生きている人と、『養子』的に生きている人とが共存している感じも受けます。
          しかし、「〜しなければならない」という戒律の方に、重点を置かれてきた印象がぬぐえません。

           

          UCのエクレジアは1990年代までの献身者を中心にしたホーム生活を送っていたころまでなのかなぁ。

           

           

           

          四研の概ねの主張をざっくり書いてみると
          お父様の御言に立ち返り、ホームチャーチを成して第四アダムを迎えましょうという事になります。
          もちろんこれらには、多くの御言の裏付けと理論展開が付いていますがここでは詳細は書きません。

           

          ★御言は暗号で書かれているので文字のまんま読んではいけない。
          代表的なのが乗り物が出てきたらそれはホームチャーチを表しているんだとか。
          『み旨』と『摂理』を混同してはいけないとか。
          これは原理講論に書かれている『新しい真理』の条件に比喩や象徴によらずあからさまに誰にでも分かるように表現されなければならないというのに引っかかって反撃されています。
          しかし、御言はあくまでも『御言』であって、必ずしも『新しい真理』ではないんですね。
          そして全く新しい概念の話をするときに、何の例えも使わずに語れるわけはないんです。
          実際に、ホームチャーチの概念や、庶子の概念をどうやって説明するのか、考えて見れば分かることです。
          だから“暗号”とまでは言わずとも、背後の理想や心情を理解したいという動機をもって御言に臨む必要はあります。
          四研の御言に対する姿勢は尊敬に値ます。

           

          ★そしてその『ホームチャーチ』ですが、従来は、アンケートなどによる“個別伝道”ではなく、
          戸別訪問による“地域伝道”のことを言うんだと考えられていたようですが、
          四研では祝福家庭が三家庭共同生活するのがホームチャーチなんだと言っています。
          この祝福家庭というのも、一定の心情基準を達成している必要があり、四研でもこの八段階を用いて説明していますが私がここで書いているのとは違った基準になっていますので混同しないようにしてくださいね。
          「とにかく皆さん、神の僕の位置になれるように頑張ってください」と言うので、一段階のハードルはここでの説明よりも高そうです。
          だけど各段階の詳しい説明はまだ聞いたことがないんです。
          ただ、段階を上がればその時は自覚できるんだと言っています。

           

          ★第四アダムと言うのは文鮮明師の庶子の更に庶子の立場のお孫さんとしています。
          (四研は六マリアは事実だったと認める立場をとっていますが、それは庶子の必要性のためだという事です。)
          第四アダムはホームチャーチを作って待っていれば向こうから尋ねてきてくださるという話になっています。
          洗礼ヨハネは自分でイエス様を探しに行ったのではなく、イエス様の方が洗礼ヨハネを訪ねてくださったんだという話ですね。

           

          ★そしてこのホームチャーチ運動をするのが第四イスラエルなんだと言います。
          第四イスラエルとは、イスラエル民族、クリスチャン、成約聖徒(食口)…に続くメシアのための基台ということですね。

           

           

           

          この中で、ホームチャーチの定義が伝道手法ではなく、祝福家庭の共同生活とされていることに注目します。
          主従関係ではないフラットな関係がここで築かれます。
          御言を中心に据えたフラットな関係ですから、出来上がればかなり洗練された養子圏の環境が整います。
          (ここでいう『養子』はこのブログ上での意味合いです。ややこしくてスミマセン。)
          自主独立した環境での対話を持った関係です。
          この環境があって『庶子』は現れることができます。
          この『庶子』は心情の段階としての『庶子』ですが、恐らく四研はこの庶子を見出すことはできないんじゃないかと感じています。

          メシアと言うのはこれまでそうであったように、願った姿でいらっしゃるお方ではなさそうですから。

           

          『庶子』については回を改めて書いてゆきます。

          | おーば | - | 14:17 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
          七つの封印-3
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            私の文章の根拠というのは、自らの信仰経験に基づくとしか言いようがない。
            み言葉を探して研究するというスタイルではありません。
            個人の見解と言ったらそれっきりですが、信仰の証は共有され多くの実りをもたらす性格のものでしょう?
            そもそも信仰自体がみ言葉に沿った人生であり、み言葉を検証し続ける生き方なんですから。

             

             

             

            さて、人はいつまでも家庭の中だけに留まることはできませんので、次の段階に進みます。
            公園デビューなのか、幼稚園入園とか、小学校入学なのか。
            とにかく対等な関係の他者との出会いです。

             

            家庭にある『僕』段階では、ルールの決定権がない代わりに一方的に保護を受ける立場でした。
            『養子』の立場は氏族という環境に入りますが、ここでは相手との関係によりルール設定を自分たちで話し合いの上創ることが可能になります。
            なぜなら、相手との関係が対等だからです。
            これが『福音』です。
            福音は隣人愛を説くものであり、隣人と私の関係は対等であることが前提です。
            僕と主人のように一方的な関係ではありません。
            そして、『隣人』であるからには、顔が分かり、どういう人なのかが分かるのです。

             

            家庭環境の中で調和的愛に至った私たちは、氏族圏の中で対等な関係の隣人を『知り』
            今までのように一方的な保護ではなく、ある時は容赦なく要求を持ってきたりする隣人との付き合い方に『葛藤』し、
            葛藤を越えたところで関係の中に喜びを見出して調和的な『愛』に至ります。

             

            この時に、前の段階での戒めとの葛藤を解決せずに来てしまうと、次の段階の福音は受け入れることができません。
            すると関係ないローカル・ルールを持ち込んでみたり、
            理不尽な要求を受けたと感じて、相手を裁くようになるのです。
            それは家庭内で保護される一方だった時には何も責任がなかったのですが、
            氏族圏では一定の責任を果たす必要があることを理解できていないが故なのです。

             

            そして相手のことを理解しようとはせず、保護者から与えられたルールにのみ従い、
            そのルールさえ一面的な考え方で捉え、一方的な権利の主張をするに留まります。
            僕のルールは行動を規定する義務です。
            責任とは、行動がもたらす結果を見据えることです。

             

            『権利と義務』の発想は僕的発想。
            『自由と責任』の発想は養子的発想
            と言えるのでしょう。

             

            なんだか子供が育っていくうえで当たり前のことばかりを書いているように見えるかもしれません。
            私たちの信仰生活と何の関係があるものでしょうか?

             


            現代社会は養子・氏族段階が社会的に展開されています。
            出所性別関係なく平等であるべきことが謳われる社会です。

             

            しかし、全ての家庭、全てのコミュニティが円満な環境をつくることができているわけではありません。
            ですので、知的には社会や国家、世界を知っていても心情的には僕の情から抜け出せていない人たちも多くいるのです。
            当然のことですが、『庶子』『実子』『母』『父』『神』の情に至っている人などほぼいないのですから『国家』『世界』に生きるにふさわしい人などまだほとんどいないのです。
            なので円満な安定した国家は現れませんし、国際紛争も絶えることがありません。

             


            つまり、多くの人たちが知的な成長のみで世の中を構成しているのです。
            心情世界が付いて行っていませんし、心情的成長の必要性を説く思想もありません。
            ここの理解がないので、『平等』の名の下、心情の幼さが放置されています。
            この心情教育を何とかしようとするのが宗教団体の使命かもしれません。

             

             

             

             

            私は今キリスト教会に籍を置いているのですが、
            統一原理ではイスラム教を僕の信仰と呼び、キリスト教を養子の信仰、統一教会を実子の信仰と位置付けてきました。
            どの教会にいるから僕だ養子だという問題ではないのです。
            教えを受け入れる個人が、その教えを義務的に感じているのか、使命的に感じているのか、
            そういう問題なのです。

             

            キリスト教会にも色々あって、大きくはカトリックかプロでスタンとかはたまた正教会かとあります。
            私が籍を置く教会はプロテスタントのバプテスト連盟に所属する教会です。
            この教派は各個の教会の自治を尊重し、自治なもんですから独立会計ですし、牧師の給料も各教会で工面するものですから牧師がいない教会まであります。
            牧師の任免権は信徒会にあり、信徒会が教会の中心という事なんでしょう。
            プロテスタントでも、中央組織から牧師が派遣されるところも多く、そういうところは中央からの規制も多くあるそうです。
            自由の大きさと責任の大きさは比例するという事ですね。

             


            この教会に来て5年ほどだと思いますが、やっとクリスチャンの信仰というのがどんなものなのかおぼろげに見えてきたような気がします。
            彼等の救済観はあくまでも個人的な救済のようです。
            責任は負うのだけれど実績を伴わなくとも責め立てられるものではありません。
            なんでそれで責任を負ったことになるのかというと甘受しちゃうからなんです。
            力及ばず結果を出せず、苦難を受けるようなことになっても、その苦難を受け入れて時を待つ。
            そうすればこの世を離れた暁にはパラダイスが待ってるという事です。
            勿論、苦難のさなかにはイエス・キリストが共に歩んでくださるから恐れることはないのです。

             


            ナルホド、眠りの中なのですね。
            個人的な救済というのは『僕の僕』の情を家庭的調和、氏族的調和の『養子』まで引き上げます。
            しかし、家庭そのもの、氏族そのものを救済するには至りません。
            その様な思想は持っていないのです。

             


            一時期氏族メシヤという言葉をよく耳にしました。
            氏族とは養子の群れです。
            養子たちを救済できるのは養子以上でなければ困難です。
            つまり、庶子か実子でなければなりません。
            統一教会にはそういう思想がありましたが、庶子・実子の情に至る人材が育っていたでしょうか?


            ここまでの書き方でお気づきの方もいらっしゃるでしょうか?
            『家庭』に調和して『僕』を完成し、『氏族』に調和して『養子』として完成する。
            つまり、『庶子』として完成するには『民族』基盤、『実子』として完成するには『国家』基盤が必要と言うことになります。
            堕落世界には未だ神の国が立っていないので、天の側の実子は完成することができないという理屈になってしまいますね。

             

            「氏族復帰」「国家復帰」はただの掛け声ではなく深刻な問題だったのです。

             

             

            | おーば | - | 00:09 | comments(8) | trackbacks(0) | - | - |
            七つの封印-2
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              書きたいことがまとまりません。
              八段階を立体化したのは、その段階の状況を理解するためです。
              七つの封印を解き明かすことが目標ではありません。
              もっとも、私がおぼろげにでも感じられるのは5つ目位まででしょうか。

               

              どちらかというと、これらの封印がどの様なふるまい、役割を果たしているのかを書ければしめたものなのです。

               

               

              僕の空間

               

              図は僕の状況です。
              家庭という環境の中に漂っています。
              家庭の外のことは分かりません。

               

              この、『分かる』という事柄さえも実は単純ではありません。

               

              僕の僕であった私は、私以外のことを考えません。
              私以外のことが分からないので
              不快なことがあれば怒って泣き、興味深いものや楽しいものがあればそれを存分に楽しもうとします。
              周りの事情など知らないから気にもなりません。

               

              でも、僕の立場に立つと周囲にも他者がいることに気づくのです。
              先ず、知的な理解を持ちます。
              自分が思ったことは思っただけではそのごとくにはならないので何か働きかけなければならないことに気づきます。
              これは自分の欲求が先に立ち、その欲求を叶えるために必要に迫られて知るようになり、次いで行動になります。
              最初の行動は我儘な要求でしかありません。

               

              次に分かるのは、周囲に欲求を通すためにはやり方(ルール)があることを知るのです。
              それが戒めです。

               

              戒めは、自由奔放な私が環境に適応するための外壁のように存在します。
              私と環境の境界線です。

               


              知的に分かれば、ルールにのっとって行動しますが、
              それは面倒なだけですから可能であれば無視して気ままにやりたいのです。

               

              しかし、働きかけるべき相手に立場や感情があることを情緒的に分かると
              ルールは面倒で煩わしいだけの物から相手を喜ばせるための心地よいツールにまで変貌していきます。

               


              このステップを踏むために、家庭という環境をスタートする私は家庭の中で最も小さく、保護を受けるだけの存在なのです。

               


              私たちは心情の成長を八段階として教えていただきましたが、他に成長には三段階あることを学んでいます。
              これは四位基台に起因するもので
              蘇生長生完成の三段階であり、正分合の三段階でもあります。

               

              僕の段階で言えば、
              僕の僕として楽しい事と嫌な事の感情的欲求が出来上がって欲求を成就しようとする意志をもって蘇生期的『正』です。
              この時、欲求を持っていることが大切で、人生を生きる上での気力がここから始まるのです。
              僕の僕をきちんと完成しないと『アダルトチルドレン』の傾向を持つようになるでしょう。

               

              次いで自分の周囲に働きかけるべき環境があることを分かった段階で長生期的『分』に入ります。
              長生期には環境と敵対関係にあるように感じて葛藤が多くあります。
              この時点ではまだ情緒的には『僕の僕』なんですね。
              この情のまま知的な理解だけで情を抑え込むこともできます。
              しかしそれでは情の成長はありませんし、苦しいだけになってしまいます。

               

              最後に環境を好ましく感じるようになって調和的な愛を感じて完成期的『合』段階に至ります。
              これが一つ目の封印が解かれた状態だと考えていいかもしれません。
              ここで『分』のまま、次のステップの蘇生期に入ると次の養子段階に調和することが難しくなりますが、
              そのような人は少なくありません。
              | おーば | - | 16:13 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
              ネアンデルタール人に霊人体はあるのか?
              0
                七つの封印の記事を書きたいところなんですが、
                最近、Twitterの方でネアンデルタール人に霊人体はあるのか?という話題に出くわし、
                それが気になって仕方ないので脱線です。

                 


                ネアンデルタール人に霊人体はあるのか?
                霊人体があるのはアダムとエバ以降の人間であれば、
                アダムとエバは現生人類の姿であったろうからホモサピエンスであろうと思うので、
                ネアンデルタール人にはないんじゃないの?って考えます。

                 

                 

                この話題について中心になって語っていたのが在米の二世男性なんですが、
                彼は現在、原理を科学的ではないとして否定する立場にいます。
                彼が言うには、現代人のほとんどは純粋なホモサピエンスではなくネアンデルタール人のDNAが混ざってる、
                交雑してるんだから神様が作ったもともとの純血の人類なんてもういないんだって言うんですね。

                 

                 

                Wikipediaでホモサピエンスについて調べてみるとこんな解説があります。
                《古人類学では、ホモ・サピエンスの起源でアフリカ単一起源説と多地域進化説(英語版)の2つの仮説が長年激しく対立したが、現在はアフリカ単一起源説が主流である。更新世が始まる250万年前から現在まで、世界中の各地域で人類がそれぞれ独自に進化してきたとする多地域進化説は、ミルフォード・H・ウォルポフ(英語版)が人類の進化を説明するため、1988年に提唱した。
                人類が共通の祖先を持つとする仮説は、1871年にチャールズ・ダーウィンが著した『人間の由来(英語版)』の中で発表された。この説は古い標本に基づいた自然人類学上の証拠と近年のミトコンドリアDNAの研究の進展により、1980年代以降に立証された。遺伝的な証拠や化石の証拠によると、非現生人類のホモ・サピエンスは20万年前から10万年前にかけておもにアフリカで現生人類へ進化したのち、6万年前にアフリカを離れて長い歳月を経て世界各地へ広がり、先住のネアンデルタール人やホモ・エレクトスなどの初期人類集団との交代劇を繰り広げた。
                現生人類すべての起源が東アフリカにあるとする説は、科学界でほぼ合意されている。ネアンデルタール人のゲノムを解析した研究チームは、サハラ以南のアフリカ以外に起源を持つすべての現生人類は、ゲノムにネアンデルタール人のDNAが1パーセントから4パーセント含まれる、としている。この研究は同時に、ヒトとネアンデルタール人が古代の遺伝系統を共有する別の理由がある可能性を指し示している。ケンブリッジ大学の科学者はこの結論に疑問を呈し、DNAの重複はネアンデルタール人と現生人類の双方の共通の祖先の名残り、と仮定する研究結果を2012年8月に発表した。》

                 

                ミトコンドリアイブという人類共通の祖先である女性が存在したっていう話は話題になりましたね?
                アダムとエバが実在することを科学が認めたとか食口達は言ってたと思います。

                 

                 

                10万年から20万年前、アフリカの一人の女性から現生人類はスタートしている。
                人間が、埋葬などの宗教的な行動、火の使用、象徴表現(原始的な言語表現)を始めたのが10万年くらい前からだそうですので、
                ここに人間の期限を求めるのは妥当なところと感じます。
                (人類歴史6000年というのは、創造が7日で成されたというのと同じく、年数の数え方が違うんだよねと納得してる。)

                 

                しかしながら、聖書の記述からすると、アダムとエバが人類共通の祖先であって、この二人から今の人類は産み増えたんだと考えやすいんですが、どうも違うらしい。
                アダムとエバの子供たちは兄弟姉妹で結婚して産み増えたわけではないらしい。
                そもそも近親婚なんて、現代のモラルから考えてどうなのよ?って原理を聞いたころに思った人も少なくないはず。
                そして、カインの花嫁ってどこから来たの?という話も時々出てきます。
                カインはアダムとエバのもとを離れたのちにその妻を知ったことが聖書に記述されています。
                アダムとエバの子孫以外でも人類の祖先になってるってこと?

                 

                 


                人類が現在の形質を得るのに、神様が土をこねて人型を作ってそこに息を吹き込まれたと文字通りに信じている人は食口には少ないと思います。
                進化論のように、肉体が何万年物時を経て単純な生物から高等な種に至る工程は否定せず、
                その過程が偶然に支配されたものではなくて神様がそのように導いて形作られてきたという考え方があります。
                インテリジェンスデザイン(ID)理論です。
                そして、肉体の形が出来上がったところに神は息を吹き込まれて人を生きたものと成さった。
                アダムとエバにも肉体的な両親がいただろうと考える人も少なくはないはずですが、ここに定説はなさそうな気はします。
                しかし、肉体的な両親が存在するならば、形質的に似た存在の人のような存在は、アダムとエバの当時他にも存在してたということになります。
                類人猿など、ヒトに近い種は群れで生活するものです。
                人がその肉体を完成するその時に、やはり近い種の中で完成させたのならば一つの群れの中で生まれたに違いないでしょう。
                良く分かってないというのが本当のところですね。

                 

                 

                 

                さて、ネアンデルタール人に霊人体はあるのか?
                ネアンデルタール人に限らず、アダムとエバに近い同じ群れの中で霊人体を持っていたのはアダムとエバだけだったのか?
                霊人体というのは、人間の肉体を形状として、その性相的な部分であり、
                肉体の死後、霊界において永生する霊の体です。
                地上生活を通じて成長し、完成させなければならないものです。

                そもそもこれがどんな風に存在しているのかも、私たちはよく知りません。
                人の性相部分であれば、今生きている私たちは自身の構成要素として霊人体を今現在持っているにもかかわらず分かっていません。
                人によっては、死んだ後の体だと考えて、今の自分自身にそれがあるとは思っていないような人もいます。

                 

                私はしばらく前から一つの仮説を持っています。
                霊人体とは人の記憶から出来上がっていると。

                今のところこれを覆す要因には出くわしてはいません。

                 

                 


                記憶を構成するうえで重要な役割を果たしているのは言語です。
                そして言語を操るのは人間だけです。
                人間以外の動物もその生涯にそれぞれの経験をもちますが、それらは言語化されることが無く、人間の記憶のように緻密に整理させることがありません。
                そして聖書の記述によれば、『はじめに言葉があった。言葉によらないものはない。』とあります。
                神話を伝えるのも言葉によって伝えられるものですから、ヒトが言葉を神聖視するのも分かる気がします。
                言語は重要なものです。
                原理講論にはその重要性は書かれていませんが、項目として、父母と同じ言語を話さなければならないと、韓国語の勉強を推奨していましたね。
                これは未だその重要性を理解できていなかった弟子が表現しうる限界だったのではないでしょうか。

                 

                 


                統一原理的には霊人体の有無が人とサルを分けるように思えます。
                万物には霊人体がないと言われます。
                考古人文学的には、二足歩行、火の使用、道具の使用、言語の使用、宗教性なんかが言われます。
                すると、神の息とは、記憶を構成する重要な要素としての言語なのかもしれないと思い至るのです。

                 

                霊人体の繁殖は肉身の繁殖を土台として成されます。
                だから女性の胎の中で、受精することによって霊人体も同時に繁殖するものだと思い込んでいましたが、
                肉身生活の経験の全てが記憶になって残っていくことを考えますと、
                記憶もまた、肉身の繁殖に伴って生成されるものと言えます。

                 

                それならば、アダムとエバ達と共に暮らしていた群れの仲間が、アダムとエバを通じて言語を習得できたとしたらどうなるでしょう?
                習得し、使いこなして記憶の形成ができるようになったとすれば、彼らもまた万物ではない人類として数えることが可能になりはしませんか?
                アダムとエバの肉身の親である個体が、子供たちから言語を習得した場合、遺伝学上は親であっても、霊的には子の立場に立つようになるでしょう。

                 

                すると、ネアンデルタール人と混血した場合、霊人体はどうなるのか?
                言語を持つ人類が、ネアンデルタール人と出会い、彼(彼女)に言語を教えることが可能ならばネアンデルタール人も霊人体を持つことができるという結論に至ります。
                混血したとしても、親から正しく言語を学ぶことができれば子供たちもきちんと霊人体を育てることができます。

                 

                何かに似ていませんか?
                霊の親子関係です。
                子供が先に教会に導かれて、その父母を伝道した場合には父母は子の霊の子になります。
                伝道するときに伝えるのは何ですか?
                み言、言葉ではありませんか?

                 

                私たちは真の父母から何をもらいましたか?
                おびただしいみ言ですね。

                 

                すると、生物学的な血統が問題にはならなくなります。
                はじめに言葉があった。
                その言葉を正しく継承することが神の血統を守るという結論に至ります。

                 

                だからみ言を失ったことが堕落なんだと言えるのですね。
                | おーば | - | 15:02 | comments(6) | trackbacks(0) | - | - |
                七つの封印-1 律法と堕落論
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                  八段階の知覚的相関図

                   

                  何度か書いていると思いますが、私が八段階の内容を考えるベースになっているのは信仰の三段階です。

                   

                  四位基台に根拠を置く、蘇生・長成・完成の三段階については原理講論にも書かれているので考える材料は結構ありました。
                  旧約時代を蘇生期とし、行う事によって義とされる僕の信仰。
                  新約自時代を長成期とし、信じることで義とされる養子の信仰。
                  成約時代を完成期とし、自ら悟って侍ることで義とされる実子の信仰。

                  そのように位置付けた説明を原理講義だったか信仰講座の中で何度も聞きました。
                  そして旧約以前を無原理圏、僕の僕と称していた記憶があります。

                   

                  3年前に取り上げましたが、18世紀、英国教会のジョン・ウェスレーが似たような表現をしているものも見つけました。
                  http://blog.o-baka.com/?eid=311

                   

                  私は献身していたころには行義の信仰から抜け出すことができなくて非常に悩みました。
                  成約、侍義の時代に何をやっているのだろうかと思ってました。
                  もっとも、養子圏から実子圏に上がるには祝福を通過する必要は語られましたが。

                   

                   


                  それらの話と現実を見聞きして今回の図を作りました。
                  異論を唱えられそうなところは自覚があります。

                   

                  先ず、律法と堕落論を同列に於いてあるところに多くの人が疑問を感じると思います。
                  そして、福音(新約聖書)と四研の成約原理を同列にしてあります。
                  更に更に、上位段階に原始仏教などという項目が書かれています。

                   

                  そもそも、成約時代の真理であるはずの堕落論が何故律法と同列になるのでしょうか?
                  それは『僕』の性質を考慮してのことです。

                   

                  僕段階というのは、心に喜びや感謝がありません。
                  主人の言うがままに行動して自分で善悪判断などしません。
                  主人の言うことが正義です。
                  行動の根拠は〜せねばならない、〜してはならない等の義務形です。
                  律法はまさにそのごとくですね。
                  そして、自由気ままに生きる僕の僕とは一線を画して妙なエリート意識を持っています。
                  律法を誇りとして受け入れているので非情に排他的です。

                   

                  ここに僕段階の厄介さががあります。
                  僕の僕を極端に嫌う傾向です。

                   

                  食口たちの多くはクリスチャンとして生活してきたわけではありません。
                  多くは、自由主義と個人の権利の中で自身の喜びに生きる世界、

                  つまりは僕の僕的な世界から、いきなり信仰の道へと飛び込んできました。
                  そこにより高い栄光への道があると信じたのです。
                  自由奔放な僕の僕を否定して修身の世界に飛び込んだわけですが、
                  堕落論の戒めがその入り口になっているのです。
                  まさに信仰としては蘇生的な段階から順当なスタートを切っているのです。

                   

                  前々回ちょっと書きましたが、僕の僕=個人の段階は八段階全体の核心です。
                  この段階では情操を自由に成長させる必要があります。
                  人間らしい喜怒哀楽の感性の基がここで育ちます。
                  善いことも悪いこともとりあえずは気にしないで好奇心の赴くままにエネルギーを蓄える必要があります。
                  個人と言う段階なのでひたすらに自己中心ですが、だからこそ家庭の内側で保護されて育てられます。
                  一部の祝福二世たちは、物心ついたころからいきなり『神の実子』の基準を求められて、
                  この情操部分を育てることができずに悩んでいるようです。

                   

                  神の実子の基準と言っても、僕の段階ではそれがどんなものだかも実は理解していませんので、
                  自分たちが生命視する戒めをとにかく守らせることが大切なんだと考えてしまいます。
                  僕たちにとっては、僕の僕の自由奔放さこそが『罪』と感じられているのです。

                   

                  結果、情緒的なエネルギーを持つことのないままコアが空っぽの状態で戒めで固めた上に僕としての家庭生活を送るようになります。
                  コアが弱いので、次の段階に進み出るのに十分なエネルギーが湧いてこないのです。
                  本人たちにとって、これは非常に深刻な問題としてのしかかっています。

                   

                  祝福二世に限らず、一般の家庭においても似たような事例は見られます。
                  それは『機能不全の家庭で子供時代を送って成人した人たち』=『アダルトチルドレン』と呼ばれていますので
                  関心のある方は調べてみてください。
                  一世自身もこのアダルトチルドレンであるケースが少なくありません。
                  アダルトチルドレンについては一般には親側の責任を追及しがちです。
                  親子の問題には間違いありませんが、そう単純な問題ではありませんので状況理解にとどめて対策を丸呑みしないようにご注意ください。

                   


                  僕たちの信仰動機は基本が個人的な動機になっています。
                  目標値は「神様のために」と言いますが、自身が地獄に落ちないことという本音を我知らず抱えているようです。
                  僕の僕の段階が個人だと考えやすいのですが、僕の僕は『個人』と言う意識さえなく相手を全く考えない段階です。
                  情緒性を完成して初めて『個人』としての歩みが始まります。
                  奔放な情緒性から他の人を認識して我慢しなければならないこともあるのだと認識を持つこと、
                  そこに個人的な存在としての自覚が生まれます。
                  我慢することで自身の身を護り、争いを避けらることを知り、戒律を受け入れるようになります。

                   

                  戒律的な宗教の教えの多くを、この封印の列に加えることが可能です。
                  律法と堕落論は全く同等でしょうか?
                  少し違うのは、堕落論には、その先の封印を解くための伏線が隠されています。

                   

                   

                  | おーば | - | 19:31 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                  八段階にはそれぞれどんな事柄があるのか
                  0

                    八段階の知覚的相関図

                     

                    前回の立体図を切り取って思い当たる事柄を書き入れてみました。

                    勿論、私はすべてを把握しているわけではありませんから中途半端感は否めません。

                    他にも書き込まれるべきことは多々あるでしょうし、修正されるべきことも出て来るかと思います。

                    しかし、ナント、黙示録の『七つの封印』に相当するものが浮かんできました。

                    おいおいここの事柄について書いて行こうかと思います。

                    | おーば | - | 13:15 | comments(0) | trackbacks(0) | - | - |
                    心情の八段階を立体化してみました
                    0

                      心情の八段階の図はいつも扇型で描かれています。

                       

                       

                      縦横の八段階

                       

                       

                      3年前亨進さまの『はげ頭と苺』を読んだときに印象に残っている部分があります。

                      それは『完成の八段階』と表記されていましたが、以下引用です。
                      『お父様が完成の八段階の図を書かれるのを見ると、決して階段のような描き方をされたことはありません。常に、それを何重にも重なる同心円として描かれます。このことは、何を教えてくれるのでしょうか。実は、円は一つしかないのです----一つの中心しかないのです。それらは、すべてつながっていて、互いに浸透しています。』

                       

                      これはもしかすると円と言うよりも球体として表現してもいいのではないでしょうか?

                      と思ったので作ってみました。

                       

                      心情八段階立体

                       

                      僕の僕、個人の段階が赤い部分、全体のオレンジ色が神です。

                      まわりをぼかしてあるのは無限性を表現するためですが、図示するには限界がありますね。

                       

                      扇型に切り取った縦も横も、どちらも層の高さになってしまうので、同じ“高さ”になってしまいます。

                      高さだと、縦の表現にしかなりません。

                      横を探してみると水平に当たる部分を見出します。

                      この球体を地球のように見立ててもらえば、球体の表面、球面部分が水平にあたります。

                       

                      「僕の僕から僕に上がれば、もう一度一番端まで行ってずーっと上がっていかなければなりません」

                      というような表現。

                      つまり球面の全てを巡って全体を包み込んで上がっていくというイメージが見えてきました。

                      そして、これまで一番下になっていた『僕の僕』『個人』の立場が実は中核で大切なものではないかと思えるのです。

                       

                      おもしろいですね。

                      天動説的な平面の大地から地動的な球形へのパラダイムシフトです。

                      | おーば | - | 00:52 | comments(4) | trackbacks(0) | - | - |
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