サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
セレブリティの涙
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    よその国のことだけれど、日本のマスコミは大騒動した。
    株価とか、外交問題とか、大きな影響を被る国のことだから仕方ないことではあるのかな?

     

    とりあえずの大勢は見えて、後は訴訟とかいった戦いになってくるのでしょう。
    私はどちらの候補も好きではないけれど、青組の方が気持ちが悪くて仕方がなかった。

     

    日本のマスメディアでも青組応援の方が強かった気がします。
    「正義と良識は私たちにある」と言わんばかりの青組陣営には多くのセレブリティや有識者の姿がありました。
    開票によって有利が伝えられたころに流れた動画では「愛と平和の時が訪れる」と涙を流す姿が何度もテレビの画面に流れました。
    彼女はとても人気が高く好印象を持つ人なのでそのインパクトは大きいのでしょう。

     

    しかし、よく見てください。

     

    今回の赤組の得票数と青組の得票数を。
    とても僅差なのです。
    多くの得票を得た赤組は悪魔なのでしょうか?
    悪魔がそんなにも多くの支持を集めたのでしょうか?

     

    彼女はセレブリティなので、政治情勢によって被る影響は貧しい人たち程のことはありません。
    政治情勢によって収入に変化があるかもしれませんがそれで明日の食事に困ることはありません。
    彼女は心が広く慈愛に満ちているので、多くの人にとって最善の道が開かれたと感じて涙したのでしょうか?
    だけど得票が拮抗する情勢で、どちらか一方を最善だと判断できるのでしょうか?
    それは傲慢の極みだと私は思う。

     

    あるいは、赤組が勝つことが、彼女個人の立場のために本当に重要な事だったのかもしれない。
    だとすれば彼女の立場は特定の政治情勢の中で守られる、非民主的な立場だということになる。

     

    いやいやただのパフォーマンスだよって言うならば、何のためのパフォーマンスか?
    自分たちの正当性をアピールするための物でしょう。

     


    とにかくあの涙が気持ち悪かったんです私には。

     


    四年前、誰も予想しなかった赤組の勝利に驚きました。
    青組にとっては青天の霹靂だったので、どれほど地団駄踏んだことでしょう。
    二回目があってはならないと決心したはずです。

     

    彼女を含む青組には多くのセレブリティがいます。
    政治情勢に関わらず、多くのことをできる財力と影響力を持つ人たちです。
    それがこの四年間ぼんやりと過ごしていたでしょうか?
    涙を流して喜ぶほどの結果を得るために相当のことをしてきたんじゃないかと思うんです。
    その結果がこの僅差であることに驚かなければなりません。

     

     

    | おーば | - | 12:01 | comments(2) | - | - | - |
    統一原理は庶子の知?
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      庶子の知と言う話が、とんでもない文章量になるだろうからとまたいでいた件。
      すべてを記述することはできませんが、切り口を変えて少しずつなら書けるかもしれません。

       

      庶子の知は前記事の不完全な真理にあたります。
      説いた本人には自分自身の真理なので完全型だと思えるのだけれど、自身の視野の外側に確実には適用がきかない。
      この不完全な真理は他人から見て参考にはできるのだけれど妄信すると結果的には行き詰る。
      勿論、説いた本人は姿勢を間違わない限り新しい啓示を受け取り続けるので行き詰まることはない。
      ここで怖いのは姿勢を崩すこと。
      誤ると『偽キリスト』の道を行くことになる。

       

      庶子と言うのは霊的な世界を理解し、通じることができる存在です。
      夏目友人帳の話も、一般には認知されず、当然科学的にも立証できないような存在・世界に通じるという点で庶子の世界観と似ているのです。
      但し、幽霊をよく見るとか、金縛りとか霊現象に敏感だとかいうのとは違います。

       

      遠い過去の事件の実情とか、関わりの薄い他人の思いのように、
      一方的に膨大な情報を受け取るというのも違う気がします。
      それは真実を確認するすべのない『誰かの物語』でしかないと感じるのです。
      ヌーソロジーのオコットファイルは何か一方的な情報のようにも見えます。
      半田さんの事情はよく分かりませんが、全く関係のない情報を人は読み解くことができないと私は感じているので、
      半田さんの中に何らかの問があったのではないかとは思うのです。
      ポイントは対話ができると言う事。
      私の問いとか課題とかが予めある。
      問いや課題は真摯なものであり、興味本位なものではない。

       

      スピリチュアルで言うところの守護霊とか天使とかいうところとの対話。
      宇宙からのチャネリングと捉える人もいます。
      キリスト教的には聖霊。
      御言では良心がそれだと考える兄弟が多いようです。
      受け取る本人の世界観によって様々な表現があるようです。

       

      霊的世界を知ると、物質世界との関係性が分かります。
      世界観が転換するのです。
      世界観が変わり、物事を見る視点が変わるので、善悪の問題が解決され、死などに対する恐怖は消えます。
      知りたいと願った、いわゆる真理が解けたように思えます。
      ただし、知らない問に対する答えは基本的にはありません。

       

       

      庶子は子供の立場なので母子協助を受けないといけないんですが、いわゆる血分教義の中で考えるととんでもない方向ですが、理性的な考えから行くと、母の知(血ではありません)によって支えられるべきことなのです。
      母子協助によって兄弟を収集する責任が母にはあるんです。
      結論としては母の知であるところの心情の成長八段階で交通整理してあげると庶子たちのバラバラに見える意見がまとまりを得ることができると言う事。
      庶子の段階にあると思しき人たちは少なくはないんですが、それぞれ独自的な言葉でもって話をしてるものですから収拾がつかない。
      幸いにも、庶子と思しき何人かの人と対面でお話しさせていただきましたが、今自分が持っている真理が絶対的になってしまって他に目を向ける余裕がないと感じます。
      それぞれが必死に与えられたテーマと向き合って研鑽してる感じです。
      だからそれぞれが膨大な言葉になってしまっている。

       

      そして、昨今では神様ご自身が成長期間を通過しているという話もそれほど奇抜ではなくなってきています。
      すると、神様が成長されているならば、メシアだって成長期間を通過したであろうことは想像がつきます。
      アボジにも僕の僕、僕、養子、そして庶子の時代があったと考えることができます。(独生女には成長期間はなさそうですが…。)
      メシアはみ言葉を復帰しなければならない摂理がありましたが、そこが庶子時代と言えます。
      『原理原本』が完成したのは1950年。
      韓お母様との御聖婚前ですが、第一のお母様とは結婚しておられました。
      聖進様は1947年生まれだったと思います。
      人類にとって結婚は庶子時代を越えてなされるものですので、最終的な婚姻関係を結ぶまでの期間であれば庶子である可能性は十分にあり、『原理原本』もまた、庶子の知と言えそうな気がします。
      統一原理は文先生にとって庶子の知であり、最終的、完全な真理ではないと考えることができるのです。
      実際に、祝福についてとか八段階、夜の神様昼の神様の御言は、原理講論にはありません。

       

      原理原本は公式的には日本語訳されていませんが、個人で翻訳してweb上に公開してくださっている兄弟がいます。
      読みかけていますが完読はできていません。
      サンクチュアリでも翻訳にとりかかっているようですね。
      訳者によって文面も変わってくるのでしょう。
      訳者の思想的バイアスが強いと思い込んだ形に意訳してしまうことも起こり得ますので組織的なものはズレが生じやすいかもしれません。
      個人でも起こり得ますが動機が問われるところです。

       


      統一原理は少し特殊です。
      創造原理の部分が典型的な庶子の知の部分ですが、
      一方で僕に対する戒めとしての堕落論や復帰原理が同時に与えられています。
      ここは『誰かの物語』です。
      摂理的なものと考えるべきでしょうか。
      メシアの責任として戒めを持ってこられなければならなかったのかもしれません。
      メシアというのは人類を実子にまで引き上げるために来られると考えればの話です。
      対象となる人類は僕の僕〜庶子まで4段階いますから。

       

       

      イエス様の時にはモーゼの十戒がそのまま適用されたので必要なかったのでしょうね。
      もっともイエス様の時には僕の僕と僕しかいなかったと思われますので、
      福音は、庶子の知ではなく僕を養子へといざなうものでした。
      僕を直接庶子にまで引き上げることはできないからでしょう。
      でも養子では救済は完成しませんから人々の成長期間を経て再臨摂理が必要となったということでしょうか。
      イエス様の時代に一気に成長段階を駆け上がることができる弟子が表れれば、既に用意されていた仏陀の知恵が相続されて庶子の時代に突入できたのかもしれません。

       

       

      仏陀の悟りは庶子の知恵に通じます。
      色即是空空即是色。天上天下唯我独尊。ただここに愛の要素が伝えられていない。
      愛のない知だけでは人格の完成はあり得ません。

      | おーば | - | 00:08 | comments(4) | - | - | - |
      不完全な真理
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        周知のことではあろうけれども、統一原理は不完全なものです。

         

        だから後天時代に入り原理にはない様々な御言が語られたし、
        独生女理論が出てきたし、
        子女様方もそれぞれの主張をされ、
        他の分派では成約原理ほか、新しい真理を知らなければならないと主張するし、
        多くの兄弟たちがアボジの御言の真意を知ろうと様々に研究し、
        スピリチュアルや日月神事、死海文書、カタカナム、ヌーソロジーなど外部の資料にも目を向けて千々に分れ分れなのが現状と言えましょう。

         

         


        不完全な物など捨ててしまって新たに完全なものを探しなさい。


        などとは言えない。

         


        何故ならば、完全なものを探しに行ったからとて、それは見つけ出すことはできないからです。
        「誰のことも信じてはいけない。お父様のことも信じてはいけない。」
        それは完全なものがどこにもない事を暗示しているのだと思います。
        ただし気を付けなければならないのは、「信じるな」というのは「妄信するな」と考えるべきだと思うのです。
        誰をも信じられない世界は不安と恐怖の世界でしかない。
        そこに天国はありません。
        まぁ、信じちゃいけないのは一時的な事であって、その時を超えて愛と信頼の世界へ入って行くという考え方もできますが、
        時を判断することも難しければ疑心暗鬼の世界で愛の人格を磨くというのも酷な話でしょう。

         


        聖書には、「天の父が完全であられるようにあなた方も完全なものになりなさい。」というのがある。
        私達は不完全だからこんな地獄の歴史を築いてしまったのだから、完全なものに生みかえられなければ天国を築くことなんてできないと多くの食口は考えるだろう。
        だから『完全』を求める。
        求めることは悪くはないのですが、問題はどこに求めるかなのです。
        方々探して歩いても無理。
        幸せの青い鳥はどこにいましたか?
        御言の種をふんだんに頂いた私たちはそれを育てて完全なものにするのです。


        種はそのままでは完全ではありません。
        土に植えて水や肥料を与えて育てなければ美しい花も豊かな実りも得ることができません。
        美しく咲いた鉢植えの花を買ってきたとしてもそれは私自身ではないのです。

        私の個性真理体としての完全型は、誰かの完全型とは同じではありません。

        だからそこへ導いてくれる完全な真理も個々人で違います。

        よそから持ってきた真理は私自身にとっての『完全』ではないのです。


        不完全と見える、未完成な種を頂いて、

        私自身の内に根を張らせ水や肥料を与えながら育て、美しい花を咲かせ実りを付けることが私達への願いです。

        | おーば | - | 19:35 | comments(2) | - | - | - |
        夏目貴志の姿勢〜夏目友人帳
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          夏目友人帳の主人公、夏目貴志。
          彼の姿勢が良い。

           

          彼は自分の感性を信じて判断を他人任せにすることがない。
          判断を後悔してみたり、迷ったりすることはあるけれど、基本的に前向きです。
          そしてニャンコ先生や名取周一氏から助言を受けてそれに従うか否かも自分で決める。
          何を基準に判断してるかというと、自分の周りの存在を思いやって、彼らのために良い方向へと判断する。

           

          身の回りの存在というのは人であったり妖であったりする。
          妖というのは妖怪だけれども怪物というよりは幽霊のように描かれている。
          寂しがったり悲しがったり、変に律儀だったりする。
          理不尽な奴もいる。

           

          現実世界でも霊的な感性が強い人。
          よく、悪い影響を受けておかしくなってしまうなんて話も聞きますが、縁がないのか具体的には知りません。
          でも、人ならぬものを人ではないというだけで超越者として崇めてしまえば、
          それを知らない人たちからは異常者と受け止められるでしょう。
          見える世界と見えない世界の間でバランスをとることが難しかったりもするでしょう。
          双方が矛盾するものと感じられれば一方を否定して極端には敵視してしまったり。
          とにかく平安を得ることが難しい。

           

          夏目友人帳では、人の世界と妖の世界つまり見える世界と見えない世界の両方ときちんと向き合ってバランスをとっていこうとする貴志の成長が描かれていると思います。
          人でも妖でも理解し合える相手とは手を携え、理不尽を行う相手には毅然とした態度をとる。
          妖というよりは見えない世界、霊について受け入れている立場からは、貴志の姿勢がとても大切なのです。
          ニャンコ先生との関係は、まるで守護天使のようですね。
          主従関係ではなくお互いを気に入って大切にしている。
          時々書きますが、天使を屈服させるというのはこういう関係だと思います。
          一方的な関係ではないと思うんですよ。

           

           

          私のサイトではこの立場を「庶子」と言っています。
          「アセンション」による次元上昇した人とか、「解脱」とか「インディゴチルドレン」とか、「変換人」なんかもその類か、微妙な違いはあるんですが、そんな立場には夏目貴志のような姿勢が大切なんだと思うのです。

           

          | おーば | - | 17:01 | comments(0) | - | - | - |
          夏目友人帳
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            『夏目友人帳』という漫画があります。
            ずいぶん以前、十四夜さんが大好きだと言っていたもので、最近BSのアニメチャンネルで見かけて、ほっこりして気に入りました。

             

            夏目貴志という高校生の男の子に、他の人には見えない妖の姿が見える力があって、
            それ故に嘘つきな子供と言われて孤独になってしまった幼少期から、
            普通の人には見えないもののことは迂闊に口にしてはいけないことを学びます。
            彼は小さいときに両親を亡くして、親戚の家をたらいまわしになりながら最近遠縁の藤原夫妻に引き取られ、そこで初めて大切にされています。
            また、その家は、彼の祖母のレイコさんが暮らした地域でもあり、そのレイコさんも貴志と同じ力を持っていたことから、
            祖母を知る妖とと貴志の関係が生まれ物語が展開していきます。

             

            自分にしか見えない世界が、本当に自分にしか感じ取れないのであればただの幻覚かもしれません。
            しかし、他にそれを同じように認識できる存在があればそれは「客観的」実在であることが確認できます。
            物語の中では、最初にニャンコ先生という妖が現れます。
            (これは妖なので幻覚の疑いを晴らしきれるものではないのですが、猫という憑代に宿る彼は他の人達にも認識される存在なので現実に少し近づくものです。)
            次に、全く同じ世界を認識できる名取さんという「俳優」兼「祓い屋」という不思議な人物と出会うことで、貴志が感じて来た妖の世界の実在感がはっきりしてゆきます。
            他にも何となく感じ取ることができる友人が同じ高校の中に何人か現れてきます。
            ちょっと不思議な物語です。

             

            ここで思うのは、世界観を共有できることの重要性なのです。
            もしも貴志がニャンコ先生や名取さんに出会えなければ、彼は自分にしか見えない妖におびえてストレスを抱え続けることになったでしょうが、
            妖が実在するということを共通に認識できる他者を得ることで対処することができるようになるのです。
            特に名取さんと言う人は、祓い屋とかしているわけですからいろいろと詳しい人なんです。
            ただこの名取さん自身も子供の頃はその力を気持ち悪がられて悩んだ時代があったようですが。

             

             

            世界観を共有できる友人の存在が貴重であることを感じさせられます。

            | おーば | - | 15:39 | comments(0) | - | - | - |
            伝道
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              こういう文章を通して祈りに繋がっていく。
              回答は日々の歩みを通じてもたらされる。

               

              伝道とは、道を伝えることです。
              道とは何か?
              救済に至る道です。
              救済とは何か?
              対立する存在からの脅威が取り除かれることです。

               

               

               

               

              だから、サタンの讒訴による不幸から解放される道が祝福と先祖解怨なので、そのように導いてあげることが対象者への愛だと言うのが家庭連合。
              (なんて短絡的なんだろう。抽象化しすぎてもはや意味が分からないし論理性の微塵もない。)
              訳が分からないのはクリスチャンも同じで、信仰したからと言って病気が治るわけじゃないしお金持ちになれるわけでもない。
              ただイエス様が共にあって私達を生かし、死後御許に召していただけると言う。

               

              どちらも傍からはただの自己満足でしかないから、いきなり伝道されてもいい迷惑でしかない。
              なのでUCは霊感商法で対象者のニーズ(脅威)を探し出して、そこから解放される道として祝福や解怨を示す。

               

              クリスチャンは聖句を蒔いて寄ってくる人を引き入れる。
              聖句自体が対象者のニーズを引き出すことを期待しているようです。

               

               

               

              祝福はともかく、解怨はどこまで捧げれば完了するのか底が見えない。
              ゴールの見えない道です。
              聖書もみ言葉を学んで、教会に通う事で神様・イエス様・聖霊様に繋がっていることで安心を求めるけれど
              教会を通じなければ神様に繋がる確信が無いものだから、今回コロナ騒動で礼拝ができないとなると非常に弱い。

               

               

               

              ゆるぎない神様との関係を捕まえることが救済なのだが、
              神様が何者なのか分からないから、先ず神様と知り合うところから始まらないといけない。
              それが行義信仰だけれど、底なしの行義には疑問を持てなければいけない。
              その疑問がみ言葉に向かえばしめたもので、
              それはみ言葉と祈りによる神様との対話が始まるんだ。

               

              だけど何もしないで無条件に抱きしめて下さる神様を実感するまではセレモニーは不可欠になってしまうのですね。

               

              そういう意味でセレモニーや供え物は必要な時期がありますが、永遠に不可欠なものではありません。

               

               

               

              その次に来るものは、神様の理想を私の理想として実現したいという希望なんです。

               


              誰かに言われてこれが神様の願いなんだと思い込むのとは違います。
              神様と対話することによって、私に託された理想と希望が見出されるのです。
              その時には『神様』という感覚ではないかもしれません。

               

              そうするとね、
              困ったことに今度は人間的にとっても孤独になってしまうんですよ。
              人間の理解者が見いだせなくなるんです。
              だけど人は一人で生きるようには作られていないので、神様と繋がった者同士が手を繋いでいく時代が訪れようとしているんです。

               

               

               

              伝道と言うのは神様と繋がる為に行く道を伝えることかな。
              つまり八段階を行く道を伝えることなんだけどなかなか難しいものです。

               


              八段階のそれぞれに蘇生・長生・完成とあるんです。

               


              蘇生期はその段階に上がったばかりで何の疑問もないんです。

               

              長生期に入って、色々とうまくいかないことがあることに気が付くんです。
              気が付いたときに問題ときちんと向き合って解決のために努力することが必要です。
              問題なんかあるわけないんだと開き直ってしまったら蘇生期のままです。

               

              完成期は解決できない問題の存在をを理解して受け入れるんです。
              悪あがきを辞めたときにはじめて新しい段階が見えてくる。

              | おーば | - | 00:07 | comments(0) | - | - | - |
              題知らず
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                七つの封印を書いた後、コロナ騒動もあり脱力したまんまです。
                『次』が何かは自分でも良く分からないんですよ。

                『父』の段階が見えてくるのかとも思われる感じもあったのですが、そう簡単にはいかないようです。
                ここはやはり男性の領域だからでしょうか。

                 


                男女同権とか、男と女は平等だとか言って、職業選択の平等と謳いつつ、男女に役割分担が存在することは偏見であり悪なのだという考え方が大勢を占めているように思える。
                違っている存在を等しく扱えば無難な標準値に全体を押し込むことになる。
                実際に男性は軟弱化し、女性は繊細さを失っている。
                猛々しい男性は野蛮と言われ、控えめな女性は時代錯誤と呼ばれる。


                自由を謳いつつ無個性なのっぺらぼうに持っていこうとする力が働いている。

                コロナ関連の情報を得るためにテレビを視聴する時間が増えた。
                そこに見えるのは様々な意図でした。
                それぞれの立場に有利になるように情報操作する有様がありありと見え、それはとても疲れるものでした。
                共鳴できるものは殆どありません。

                 

                GoToTravelも、経済を動かすためと言いつつ、これは明らかに感染症対策とは真逆なもの。
                だけど政府はこれまでの経済政策の柱に観光業を置いてきたものですから他に手の打ちようがない。
                オリンピックもここまでに投資された金額があるから中止と言うことができない。
                中止と言うことでその金額の責任を取る矢面に立たされるから。
                開催して失敗すれば、責任の所在を別なところに押し付ける術を探すことができる。
                。。。死人が出なければ良いけれど。

                 

                 

                 

                 

                祈りが足りない。
                皆さん祈っておられますか?
                祈れていますか?

                 

                常に祈っていなさい、呼吸するように祈りなさいと、、、これを実践すると改まった祈りをしなくなってしまいますね。
                今、キリスト教会の礼拝に参加しているけれど、この礼拝には個人が祈祷する時間が無い。
                UCの礼拝では『全体祈祷』で3分くらいわやわやとそれぞれ勝手に祈る時間があったけれどこれは教会にもよるのだろうか?
                今通っている教会では、礼拝前の祈祷会に参加すれば一人一人順番に声を出して祈るみたいなのはある。
                でもそこでは礼拝準備の祈りにしかならない。
                つまらない。

                 

                UCのホームの祈祷室で涙と鼻水を流し、畳をたたきながら祈っていた兄弟姉妹のことを時々思う。
                一人や二人ではなかったですよね。
                そんな祈りは他ではなかなかお目にかかれない。

                 

                オンラインで集まって祈祷会なんかやったら良いのかなと思ってみたり。
                そんなのに参加したいとか思う人はいますか?
                zoomとかwebデックスとか使い方を覚えないといけないなぁ。

                 


                 

                | おーば | - | 21:22 | comments(0) | - | - | - |
                『認知言語学入門』〜感想文
                0

                  『認知言語学入門』籾山洋介著・2010年10月 研究社刊
                  『フシギなくらい見えてくる!本当にわかる言語学』佐久間淳一著・2013年12月 日本実業出版社刊

                   

                  久しぶりに言語学についての書籍を読みました。
                  Twitterである人から上の『認知言語学入門』を勧められたので。
                  『フシギなくらい〜』は、Amazonで購入する際に目について一緒に購入したもの。

                   

                  言語学に関心を持ち始めた理由は何だったか。

                   

                  そもそも「言語学」なんて聞いたこともない人だっているでしょう。
                  これは「国語」とは違いますし、多くの言葉を操ることを目標とするものでもありません。
                  操ることについては「語学」が受け持つ分野かと思います。
                  「言語学」は言葉の仕組みや成立・系統を明らかにしようとする学問です。

                   

                  このブログで言語学に言及したのが2010年11月
                  その前の10月にホームページに天国の作り方のレポートの原型があります。
                  言語学という言葉にはなっていませんが、「人に見せる文章を書く」というテーマは2001年5月に記述があります。
                  人との交流のための言葉が重要だったのは、ネット上の交流で中々意思の疎通がしにくかったところからだったと思います。
                  自分自身が統一教会の経験をどう捉えているのか、それ以前になぜ統一教会の道を選択したのか?
                  その辺りを整理していきたかったのですが私は言葉を知らなかった。
                  2000年当時のネットは未だSNSどころかブログも盛んではなく、(ブログっていつからあったんだろう?)
                  BBS(掲示板)上でのやり取りと、個人のホームページからの発信。
                  当時の私の関心の中心は統一教会と統一原理の本質についてだったので、元食口という人たちの文章を読み漁ってました。
                  自分の宗教・哲学の知識の足らなさに泣きましたね。
                  反論したい内容があっても知識が足りない、文章力が足りないで、BBSに書き込みたくても追いつかない。

                   

                  「分かっていることならば言葉で説明できるはず」と、よく言われます。
                  少なくとも当時私が見ていたBBSにはちょくちょく出てきていたと思います。
                  なので自分が書けないのは分かっていないからなんじゃないか。
                  それならば、「分かる」ってどういうことなのかという疑問を抱いたのが言葉への興味の始まりだったと思います。

                   

                   

                   

                  佐藤さんのblog『言語学の嘘』に初めてコメントさせていただいたのは2012年だったようです。
                  その時のやり取りが以下です。

                   

                  https://plaza.rakuten.co.jp/clg2009/diary/200904050000/comment/write/#comment

                   

                  始めまして   桜葉佳代 さん
                  「ブログ村言語学カテゴリーから来ました。
                  こちらのブログはとても興味深く感じます。
                  言語学に関心があったのですが、
                  言語学が思想哲学ではなく外国語カテゴリに存在していたところからフェイントでした。
                  なるほど一般に言語学とは外国語のエキスパートがすることなのですね。
                  私が関心を持ったのは認識や記憶に関わる言語の役割であったので、言語学で探してもなかなかピンと来る書籍やサイトに尋ね当たることはありませんでした。
                  今仕事がとても忙しいのでじっくり読むことが出来ないのが残念ですがまた訪問させていただきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。」
                   (2012.06.17 14:10:23)

                   

                  Re:始めまして(04/05)   CLG2009 さん
                  「桜葉佳代さん
                  メッセージありがとうございます。
                  私の考える言語学とは、今一般的に言われている言語学とは全く違うといってもよいと思います。
                  一言でいうと、記憶というキーワードを通して言語をとらえ直すことです。そしてその先にはもっと大きなテーマがあります。
                  これからもお付き合いの程よろしくお願いいたします。」
                   (2012.06.17 23:01:13)

                   


                  このやりとりで、やはり当時は認知言語学とか生成文法とかはあまりメジャーではなかったことが伺えますが、
                  今『言語学』で検索すればいろんな情報が引っかかてきます。
                  どんどん進歩している分野なのでしょう。

                   


                  認知言語学という分野に出会えなかった私は自分で思考実験を繰り返して似たようなことを考えてきました。
                  それが前記事のPDFレポート『天国の作り方1-1』です。

                   

                  言葉というのは人の魂の骨格だと今の私は思っています。
                  言語学者であるソシュールが、構造主義の発端となったのは言語に構造的な性質があったからなのだと思います。
                  肉体の構造を支えているのは骨格ですし、骨の中には神経系や血液を作り出す重要なシステムが組み込まれています。
                  その構造は「分かる」ということの構造でもあると考えます。
                  言葉の機能を「区別」「圧縮」「固定」「拡大」に分類して考えました。

                   


                  先に『認知言語学入門』を読みましたが、その名の通り入門書です。

                   

                  ・認知言語学は言語の基盤として認知(能力)を重視する。
                  ・基本的な認知能力として「比較」「一般化」「関連付け」がある。
                  ・認知言語学は、言語習得の過程において経験(的学習)を重視する。
                  ・私たちは、一般的な規則と個別的な知識を余剰的に持っている場合がある。

                   

                  上記4行は本の1〜2講(この本は章の代わりに講が使われている)に書いてあったことの抜粋です。

                   

                  「認知」とは即、「分かる」という意味です。
                  Wikipediaには
                  「心理学・言語学・脳科学・認知科学・情報科学などにおける認知とは、人間などが外界にある対象を知覚した上で、それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のことをいう。意識と同義に用いられることもある」
                  と、あります。
                  私が持った問いと全く同じテーマでの『学問』が成立していたということで、自分の思考回路はそれほど突拍子もないことをしていたわけではないと少々安堵。
                  この学問と出会えなかったことは、遠回りをしていたということなのか、あるいは自由な発想を展開するチャンスを持てたことなのかのどちらかなのだと思います。

                   

                  基本的な能力としての「比較」を私は「区別」と呼び、「一般化」を「圧縮」と呼び、「関連付け」をその結果としての「拡大」指向と呼びました。
                  そして、私が「固定」としたのは三行目の「経験(的学習)」に相当する「記憶」だと解釈しています。
                  「記憶」は『言語学の嘘』の佐藤さんも重視しているテーマですが、私は記憶のパーソナル性が個別の発話を複雑にし、時には同一の母国語を使っていても充分な意思疎通ができなくなる原因なのだと考えています。
                  それが四行目の「個別的な知識を余剰的に持っている」という話ですね。

                   

                  この本では3講目以降に「カテゴリーとプロトタイプ」「同じものに対する異なる捉え方」「メタファー」「メトニミー」・・・と、認知言語学に用いられる用語とその実例を挙げて解説している。
                  その中で感じたことは、見出された認知のシステムが言語生活においてどのように表れているか、それが応用展開されていく様を解説していくのだが、私が求めていた認知の構造そのものに踏み込んで行く気配を感じられなかった。
                  つまり、結果として現れている言語生活のサンプルを集めて整理分類する作業に見える。
                  とはいえこの本はあくまで入門書なので認知言語学者の中には、言語に現れている認知の構造、つまり原因について探求している人がいないとは言い切れない。
                  いてくれるといいなと思ってしまいました。

                   


                  この本の著者は『生成文法』というのを意識して書いているようです。
                  最後の14講で、「認知言語学の位置づけ」としているのですが、その内容は『心理学』からの継承と『生成文法』との比較になっています。
                  なので、『生成文法』の中身に少々触れています。
                  大きくは、認知言語学は経験主義であり、生成文法は生得主義であるという主張かと思われます。

                   

                  これは17世紀の哲学界でもこういう二派に分かれていたように思います。
                  デカルトの「生得観念説」とロックに始まる「経験論」です。
                  有神論と無神論みたいなものです。
                  二派に分かれることで自身の思考に垣根を造り、自由な発想をできなくしてしまうことに陥りそうですね。
                  とはいえ、この本に出て来る用語はこれから私の文章にも応用できそうなものが多いのでありがたいです。
                  専門用語とはいえ、私以外の誰かが似たような概念を持っている事実を文章中に反映できるのです。
                  助かります。

                   

                   

                  | おーば | - | 00:08 | comments(0) | - | - | - |
                  権利という空手形・平等という幻想
                  0

                    ああ、私としたことが、神も仏もない連投ですね。
                    だけど“権利”と言う問題はこれまでにもずいぶん書いているようです。
                    右側の「Search this site.」に“権利”と入れて検索すると30以上の記事が引っかかってきます。
                    それ程のぶれも無いと思います。

                     


                    第二次世界大戦後、個人の自由と権利の追求が重視され、権利教育に重点が置かれてきました。

                     

                    国民は自由に生きる権利を有しているのです。
                    職業選択の自由、住居選択の自由などですね。
                    そして生命財産を犯されることのない権利。

                     

                    戦前、個人の権利が侵害されてきたこと、様々な権利の不平等があったことを反省して権利教育が盛んに行われました。

                     

                    権利があるとはいえ、希望の職種への就職は必ずしも叶うものではなく、
                    どこそこのエリアのこんな間取りの家に住みたいと願っても高嶺の花で到底手が届かなかったりします。
                    (住居選択の自由は、かつての部落問題のように差別によって特定の地域に住まわざるを得ない状況に追い込まれた人たちを念頭に謳われているものです。
                    それは大分解消されてきていますが)

                     

                    子供たちには将来の夢を自由に大きく持つことが推奨されています。
                    夢を持てと言われて有名になること、お金持ちになることを目標にする子供たちは少なくありません。
                    地道な暮らしを願うことは恥ずかしいことのようにも思えるほどです。
                    そんな子供たちばかりではないと思うのですが、メディアが伝えるのがそういう風潮ばかりなので、そこから影響を受ける子供たちも少なくはないはずです。
                    幼い子供は自己中心的なのが当たり前なので、幼い心で将来の夢を描かせ意識させることは、将来の可能性を自己中心に限定しかねません。
                    そして自己中心を実現することがカッコいい勝ち組的人生という事になってしまいます。
                    教育はそれを後押しするべきではありませんが、権利教育というのは自身の自由の権利を主張することを良しと教えるのです。
                    幼い夢を実現できる子供たちは一握りです。
                    結果、子供たちが作る未来は競争社会となり、競争社会が生み続けているのがいわゆる『格差』です。
                    勝利感を求めれば比較対象となる敗者の存在が必要なのです。
                    個人の勝敗が現代的人生のテーマになれば公共心は前時代的なものであり、前時代的な公共心を教えることは洗脳教育ということになりかねません。

                     

                     

                     

                    昔は趣味と仕事は次元の異なるものでしたが、最近は趣味を仕事にする、できるのが個人の権利みたいに感じられています。
                    これは実はメディアによってつくられたイメージなんですが、これを目指して挫折して敗北感に生きるなんてこともあります。
                    気にしないで受け入れているように見える人たちもいますが、
                    自由のイメージは一方でそれを実現しなければカッコ悪い負け組というプレッシャーを与えています。

                     

                    マズローの分析では、自己実現といって自身の能力をいかんなく発揮したいというものです。
                    しかしこの現の理解も単に承認欲求に留まっていることが多いようです。
                    承認の欲求というのは自己実現の一歩手前で、尊敬されたいというもの。
                    世のため人のために生きて尊敬されるという発想よりも、
                    自分の能力の高さを見せつけてマウントをとり相手を服従させたい発想に転びがちではないでしょうか?

                     


                    そして、権利意識というものは、一旦手にした権利を侵害されることに強烈な被害意識を生み出します。
                    今回、自粛警察とか、マスク警察と言われる人たち、感染者に対する差別感情は、
                    「私が日常生活を送る権利を侵害したものを許さない」
                    (日常生活を維持する代償を自分は払っているにもかかわらずそれを奪われたという被害意識)
                    からきているように思えます。
                    そのような考え方でベーシックインカムのような制度が導入されれば
                    平時はともかく有事(災害や戦争など)に給付金額が変動した時に社会に対する不満が爆発することでしょう。
                    もっとも、最低限の生活費の保証の場合それが減額されると非常に問題なのは間違いありません。
                    支給額が政治の道具にされることも懸念されます。

                     

                    社会保障とか、今回の給付金のこととか、福祉事業に対してもそこから利益をとろうとするハイエナがこの世の中には多すぎるし、
                    彼らは確実に弱者を食い物にしてはばからない。
                    いや失礼、彼らは社会が許容する範囲でできる限りの情報を収集して利潤を生むための最大限の工夫を凝らしているだけなのでしょう。
                    そしてこの国の情報管理の甘さは彼らに情報を垂れ流しているとしか思えないし、ゆるい慣行があまりに多い。
                    行政のオンライン化もそれ自体をビジネスチャンスとして権益の取り合いが繰り広げられるようです。
                    そんな人たちばかりではないと思いたいのですが残念ながら私の周りには志の高い尊敬できる経済人の話は聞こえてきません。
                    無邪気に成功を追い求め、成功体験を誇り、堪能している人たちばかりが目につきます。

                     

                     

                     

                    重ねて書きますが、ベーシックインカムを実現しようと考えれば、公共心の強い国民教育をしなければ不可能であると思われます。
                    そして現状は反対方向に向かっているように見えます。
                    この方向性は自由競争と言う弱肉強食社会で格差を拡大し、勝者の権利が強調され世襲される社会です。
                    自由も権利も美しいものの様ですが、実際には社会的強者によって利用されています。

                     

                    そして大きな脅威にぶつかったときに人を守ることができず今回のようなちぐはぐな政策が打たれる結果を生むのです。
                    権利に対する強い執着は、主に“僕”的情です。
                    “僕”は賞罰に敏感というか、それを中心に考え行動します。
                    “養子”にもそういう考えはありますが、彼らは奉仕精神も持ち合わせています。
                    状況に応じて譲り合いができるのですが、強く主張されたときに引いてしまうので、弱者側に回ってしまうこともしばしばです。
                    しかし譲り合う精神がなければ、昨今の厳しい環境の中でまともな社会を保っていくことは難しいでしょう。

                     


                    自己中心的に権利への強い執着を持つ人は権利を主張することに一生懸命になりますから権益を多く集めることができたりします。
                    執着が少ない平和主義者であれば権益から遠ざけられることもあります。
                    権利が奪い合う対象になれば自ずと勝者・敗者が生まれます。
                    つまり、権利を中心にした社会は平等を実現することが難しいのです。

                     

                    変えなければならない価値観と言うのは権利を中心とした価値観です。
                    とはいえ、一般人が権利を返上して為政者に委ねるなんてことをすれば、今の政治では庶民がひどい目に会わされることは目に見えています。
                    政界で勝ち残っている人たちの多くは“権利”が大好きでそれを勝ち取ることに長けた人たちです。
                    執着の少ない人が生き残れる世界ではありません。

                     

                    地方から立ち上がってくるリーダーシップ(地域振興を重視する企業・団体など)に期待を持つのがいいのかもしれません。

                     

                    | おーば | - | 01:27 | comments(0) | - | - | - |
                    ベーシック・インカム
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                      前記事はきつい内容ですよね。
                      だけど向き合うべき現実は直視しないといけない。
                      も一つきつい記事を書こう。
                      これ故に私自身が重たくなっているのかもしれない。

                       


                      産業の構造に問題があったとしても人間、稼がなければ生きてゆけないのです。
                      既存の構造の中で生きていく為の教育を受け、その中で工夫しながら生きることを学んできた私達ですから、
                      そこに文句をつけてもどうにもならないと考えるのが普通のことです。
                      だから既存の経済構造を無暗に壊すわけにはいかない。
                      それをこの新型コロナ問題は有無を言わさずぶち壊しにかかってきたのです。
                      この人命と経済の応酬の結末はまだ見えていませんが、多くのは元に戻ることを望むので既存の構造はそう簡単には壊れないでしょう。

                       


                      みんな現状維持を求めてしまうので、生活に精一杯の人達は、経済が傾くと死活問題ですが、
                      そもそも余裕のある人にとっては利益が減ってしまう事を一大事と考えます。
                      GoToトラベルで東京が除外されたと文句を言う人たちは、自分たちに旅行に出ようとする余裕が与えられていることに気づきもしていない。
                      そこに生活の巻き返しをかけていた旅館や商店の皆さんには申し訳ないばかりですが。

                       

                      このままでは難しいと思ったとしても、稼業はそう簡単に切り替えることはできない。
                      社会的なセーフティーネットが不足しているのと、
                      そこまで積み上げた実績・歴史をほかすことなんか気持ちが付いて行けません。

                       

                       

                       

                      社会的なセーフティーネットの考え方に、ベーシック・インカムと言うのがあります。
                      ベーシック・インカムというのは、全ての国民に生活するに足りる資金を継続的に給付する制度です。
                      これは賛否両論です。
                      私は賛同派ですが、ただやればいいというものではないです。
                      これを少し考えたいと思います。

                       

                      賛同理由としては、貧富の格差が多くの人に与えている生きづらい状況の是正が必要だからです。

                       

                      雇用の不安定から生きてゆけない人が存在しているのは現実です。
                      また、収入不足から結婚することができない若者もいますし、結婚したからと言ってほしくても子供を作ることができない夫婦がいます。
                      子供を持てても一人でいっぱいだったりします。
                      子供も生まれれば国民としてカウントされるのでベーシック・インカムの対象になりますので、家族設計と言う観点では自由度が増すことでしょう。

                       

                      また、生活のために不本意な仕事を選択せざるを得ないケースがあります。
                      そして、今回の新型コロナウイルス感染流行のように、防疫の観点から仕事を継続できないケースがクローズアップされています。
                      災害や社会変動によっていきなり職を失ってしまうこともあるのです。
                      また、時代的な要請による事業転換が迫られる場合があります。
                      現代社会においては、生活を確保するために新事業に移行する原資の準備ができず、
                      時代に合わなくなった事業を継続するしかないようなことが頻繁におこります。
                      こういったケースも、生活の心配はせずに納得のいく仕事をする準備ができるようになります。

                       

                       

                       

                      現在日本には生活保護制度があります。
                      しかし、生活保護には様々な条件が付いてきます。
                      贅沢品は禁止されますし、住まいについても限定されます。
                      収入が無いのだからそんなの当り前だろうと考えがちですが、何が贅沢なのかが誰がどの様に判断するのでしょう。
                      そして、頑張って収入を少し上げることができても、余分に稼げた分は生活保護費が減額されます。
                      これは一旦生活保護の生活に入ると働くことのモチベーションを著しく下げ、抜け出すことを困難にしているようですが、
                      ベーシック・インカムではプラスアルファがあっても給付金額が下げられることはありません。

                       

                      社会福祉士か、ソーシャルワーカーでしたか、担当者がついて暮らしぶりを監督するはずですが、十分な人材は割かれていません。
                      人間が文化的な生活をするにはそれぞれが個性的であるべきです。
                      その個性を生かして生きるには様々な生活様式があり得ます。
                      それを理解した上での指導が必要になると思いますが、人手がなければ十分な指導は見込めません。
                      それどころか、悪質な業者に食い物にされて保護費をだまし取られ続けるようなケースも聞こえてきます。

                       

                      また、日本の社会では生活保護は恥ずかしいことだという考えが強く、受給すれば親族から肩身の狭い思いをしなければならない。
                      それを嫌って必要なのに生活保護申請をすることができず、生活を破綻させる人達もいます。

                       

                      ベーシック・インカムは国民一律無条件給付です。
                      一律なので給付を受けても肩身が狭いことはありません。
                      無条件ですから詳細な審査も必要なくなりますし、何を必要と考えるかは個々人の自由になります。
                      審査が不要なので、他人からの生活指導は必要ないというのが前提になります。

                       

                      そして生活を大きく変えなければならない時、路頭に迷う不安がなくなるのです。
                      今回の「夜の街」にも、生活があるからと心配することなく休業要請を出すことが可能になるでしょう。
                      家賃、借金、リース料などのコストに対する考え方は新たに構築する必要はあります。
                      休業ではなく廃業に繋がるケースもありますが、廃業によって人命が失われる心配はなくなります。
                      経済構造変革の可能性が見えます。

                       


                      労働賃金は給付されるベーシック・インカムに上乗せされる形での収入になります。
                      ただし、税率は上がることが想定されますので、現行の賃金体系から比べれば手取り賃金は減少します。
                      仕事の価値は賃金を目的とする以上に社会参加が目的として重視されるようになるでしょう。
                      しかし生産性の低下は懸念されます。(過剰な生産は抑制されるとも言えます。)
                      大量生産大量消費の時代を終わらせると考えればいいかもしれませんが、必要な量の生産はどうやって確保したものか。

                       

                      贅沢さえしなければ生活に不安が無いのであれば、あくせく働く必要はありません。
                      人が働くモチベーションはどうなるでしょうか?
                      働く人がいなければ誰が社会を支えるのでしょうか?
                      ローマ時代、市民には生活に足る食料と、娯楽が無償で提供されていましたが、そこからローマは退廃して滅んだという話もあります。
                      ローマ市民の生活を支えていたのは奴隷制度ですが、現代社会にそれは考えられません。

                       


                      働くことへのモチベーションを維持するためには社会的な価値観の大幅な変更が必要になるのです。
                      ベーシック・インカムを実現させるには、国民の意識改革は必須となります。
                      個人の生活を成り立たせたいという動機で働くのが従来の経済システムですが、社会を支えたいという意識で働くことが個々人に求められます。
                      そうしなければ回らない社会制度です。
                      全体主義のようにも見えるかもしれません。
                      かつて国家のために個人の自由が制限されていた時代があると考えられています。
                      しかしあれは、国家を牛耳ろうとする個人的独裁が産んだ悲劇です。

                       

                      社会のために働くと言っても、イメージされるのは地域コミュニティからのスタートになります。
                      地方自治が強化され、地域住民の生活レベルからの民主主義を立て、それに則った教育が必要になるのです。

                       


                      さもなくば、労働は強制的に課せられ、管理される者と管理する者との二極化が起こります。
                      それは共産主義国が独裁的な政治を行うのと同じことになるでしょう。
                      計画生産と言えば聞こえはいいのですが、職業選択の自由が与えられなくなることが予想されます。
                      そうしないためには各個人が責任を持った社会参加をしなければなりません。
                      日本人は自然災害などを通じてそれに近い訓練を受けてきましたが、社会的相互監視のようにもなりやすくバランスが難しいのです。
                      前シリーズの『七つの封印』でお話した“僕”段階の気持ちでいたのでは相互監視社会になります。
                      せめて“養子”段階の情で参加しなければならないし、リーダーには“庶子”段階の情をもって望んでほしいものです。

                       


                      先日のTOKIOの転身はなんだかこの方向に近い雰囲気を感じたので「おや?」って思いましたが、思い違いでなければいいなぁ。

                       

                       

                       

                      ベーシック・インカム簡単なことではないんですよね。

                       

                       

                      | おーば | - | 14:37 | comments(0) | - | - | - |
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