サクラ・Leaf(おーばのつぶやき)

東京下町の零細企業で仕事をしながら日々の思いを綴ります。
様々に問題意識を抱えながら突破口を探しています。
元統一教会信者・現在は独り、世の矛盾にどう盾突こうかと悶々とする日々。
夏目友人帳
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    『夏目友人帳』という漫画があります。
    ずいぶん以前、十四夜さんが大好きだと言っていたもので、最近BSのアニメチャンネルで見かけて、ほっこりして気に入りました。

     

    夏目貴志という高校生の男の子に、他の人には見えない妖の姿が見える力があって、
    それ故に嘘つきな子供と言われて孤独になってしまった幼少期から、
    普通の人には見えないもののことは迂闊に口にしてはいけないことを学びます。
    彼は小さいときに両親を亡くして、親戚の家をたらいまわしになりながら最近遠縁の藤原夫妻に引き取られ、そこで初めて大切にされています。
    また、その家は、彼の祖母のレイコさんが暮らした地域でもあり、そのレイコさんも貴志と同じ力を持っていたことから、
    祖母を知る妖とと貴志の関係が生まれ物語が展開していきます。

     

    自分にしか見えない世界が、本当に自分にしか感じ取れないのであればただの幻覚かもしれません。
    しかし、他にそれを同じように認識できる存在があればそれは「客観的」実在であることが確認できます。
    物語の中では、最初にニャンコ先生という妖が現れます。
    (これは妖なので幻覚の疑いを晴らしきれるものではないのですが、猫という憑代に宿る彼は他の人達にも認識される存在なので現実に少し近づくものです。)
    次に、全く同じ世界を認識できる名取さんという「俳優」兼「祓い屋」という不思議な人物と出会うことで、貴志が感じて来た妖の世界の実在感がはっきりしてゆきます。
    他にも何となく感じ取ることができる友人が同じ高校の中に何人か現れてきます。
    ちょっと不思議な物語です。

     

    ここで思うのは、世界観を共有できることの重要性なのです。
    もしも貴志がニャンコ先生や名取さんに出会えなければ、彼は自分にしか見えない妖におびえてストレスを抱え続けることになったでしょうが、
    妖が実在するということを共通に認識できる他者を得ることで対処することができるようになるのです。
    特に名取さんと言う人は、祓い屋とかしているわけですからいろいろと詳しい人なんです。
    ただこの名取さん自身も子供の頃はその力を気持ち悪がられて悩んだ時代があったようですが。

     

     

    世界観を共有できる友人の存在が貴重であることを感じさせられます。

    | おーば | - | 15:39 | comments(0) | - | - | - |
    伝道
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      こういう文章を通して祈りに繋がっていく。
      回答は日々の歩みを通じてもたらされる。

       

      伝道とは、道を伝えることです。
      道とは何か?
      救済に至る道です。
      救済とは何か?
      対立する存在からの脅威が取り除かれることです。

       

       

       

       

      だから、サタンの讒訴による不幸から解放される道が祝福と先祖解怨なので、そのように導いてあげることが対象者への愛だと言うのが家庭連合。
      (なんて短絡的なんだろう。抽象化しすぎてもはや意味が分からないし論理性の微塵もない。)
      訳が分からないのはクリスチャンも同じで、信仰したからと言って病気が治るわけじゃないしお金持ちになれるわけでもない。
      ただイエス様が共にあって私達を生かし、死後御許に召していただけると言う。

       

      どちらも傍からはただの自己満足でしかないから、いきなり伝道されてもいい迷惑でしかない。
      なのでUCは霊感商法で対象者のニーズ(脅威)を探し出して、そこから解放される道として祝福や解怨を示す。

       

      クリスチャンは聖句を蒔いて寄ってくる人を引き入れる。
      聖句自体が対象者のニーズを引き出すことを期待しているようです。

       

       

       

      祝福はともかく、解怨はどこまで捧げれば完了するのか底が見えない。
      ゴールの見えない道です。
      聖書もみ言葉を学んで、教会に通う事で神様・イエス様・聖霊様に繋がっていることで安心を求めるけれど
      教会を通じなければ神様に繋がる確信が無いものだから、今回コロナ騒動で礼拝ができないとなると非常に弱い。

       

       

       

      ゆるぎない神様との関係を捕まえることが救済なのだが、
      神様が何者なのか分からないから、先ず神様と知り合うところから始まらないといけない。
      それが行義信仰だけれど、底なしの行義には疑問を持てなければいけない。
      その疑問がみ言葉に向かえばしめたもので、
      それはみ言葉と祈りによる神様との対話が始まるんだ。

       

      だけど何もしないで無条件に抱きしめて下さる神様を実感するまではセレモニーは不可欠になってしまうのですね。

       

      そういう意味でセレモニーや供え物は必要な時期がありますが、永遠に不可欠なものではありません。

       

       

       

      その次に来るものは、神様の理想を私の理想として実現したいという希望なんです。

       


      誰かに言われてこれが神様の願いなんだと思い込むのとは違います。
      神様と対話することによって、私に託された理想と希望が見出されるのです。
      その時には『神様』という感覚ではないかもしれません。

       

      そうするとね、
      困ったことに今度は人間的にとっても孤独になってしまうんですよ。
      人間の理解者が見いだせなくなるんです。
      だけど人は一人で生きるようには作られていないので、神様と繋がった者同士が手を繋いでいく時代が訪れようとしているんです。

       

       

       

      伝道と言うのは神様と繋がる為に行く道を伝えることかな。
      つまり八段階を行く道を伝えることなんだけどなかなか難しいものです。

       


      八段階のそれぞれに蘇生・長生・完成とあるんです。

       


      蘇生期はその段階に上がったばかりで何の疑問もないんです。

       

      長生期に入って、色々とうまくいかないことがあることに気が付くんです。
      気が付いたときに問題ときちんと向き合って解決のために努力することが必要です。
      問題なんかあるわけないんだと開き直ってしまったら蘇生期のままです。

       

      完成期は解決できない問題の存在をを理解して受け入れるんです。
      悪あがきを辞めたときにはじめて新しい段階が見えてくる。

      | おーば | - | 00:07 | comments(0) | - | - | - |
      題知らず
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        七つの封印を書いた後、コロナ騒動もあり脱力したまんまです。
        『次』が何かは自分でも良く分からないんですよ。

        『父』の段階が見えてくるのかとも思われる感じもあったのですが、そう簡単にはいかないようです。
        ここはやはり男性の領域だからでしょうか。

         


        男女同権とか、男と女は平等だとか言って、職業選択の平等と謳いつつ、男女に役割分担が存在することは偏見であり悪なのだという考え方が大勢を占めているように思える。
        違っている存在を等しく扱えば無難な標準値に全体を押し込むことになる。
        実際に男性は軟弱化し、女性は繊細さを失っている。
        猛々しい男性は野蛮と言われ、控えめな女性は時代錯誤と呼ばれる。


        自由を謳いつつ無個性なのっぺらぼうに持っていこうとする力が働いている。

        コロナ関連の情報を得るためにテレビを視聴する時間が増えた。
        そこに見えるのは様々な意図でした。
        それぞれの立場に有利になるように情報操作する有様がありありと見え、それはとても疲れるものでした。
        共鳴できるものは殆どありません。

         

        GoToTravelも、経済を動かすためと言いつつ、これは明らかに感染症対策とは真逆なもの。
        だけど政府はこれまでの経済政策の柱に観光業を置いてきたものですから他に手の打ちようがない。
        オリンピックもここまでに投資された金額があるから中止と言うことができない。
        中止と言うことでその金額の責任を取る矢面に立たされるから。
        開催して失敗すれば、責任の所在を別なところに押し付ける術を探すことができる。
        。。。死人が出なければ良いけれど。

         

         

         

         

        祈りが足りない。
        皆さん祈っておられますか?
        祈れていますか?

         

        常に祈っていなさい、呼吸するように祈りなさいと、、、これを実践すると改まった祈りをしなくなってしまいますね。
        今、キリスト教会の礼拝に参加しているけれど、この礼拝には個人が祈祷する時間が無い。
        UCの礼拝では『全体祈祷』で3分くらいわやわやとそれぞれ勝手に祈る時間があったけれどこれは教会にもよるのだろうか?
        今通っている教会では、礼拝前の祈祷会に参加すれば一人一人順番に声を出して祈るみたいなのはある。
        でもそこでは礼拝準備の祈りにしかならない。
        つまらない。

         

        UCのホームの祈祷室で涙と鼻水を流し、畳をたたきながら祈っていた兄弟姉妹のことを時々思う。
        一人や二人ではなかったですよね。
        そんな祈りは他ではなかなかお目にかかれない。

         

        オンラインで集まって祈祷会なんかやったら良いのかなと思ってみたり。
        そんなのに参加したいとか思う人はいますか?
        zoomとかwebデックスとか使い方を覚えないといけないなぁ。

         


         

        | おーば | - | 21:22 | comments(0) | - | - | - |
        『認知言語学入門』〜感想文
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          『認知言語学入門』籾山洋介著・2010年10月 研究社刊
          『フシギなくらい見えてくる!本当にわかる言語学』佐久間淳一著・2013年12月 日本実業出版社刊

           

          久しぶりに言語学についての書籍を読みました。
          Twitterである人から上の『認知言語学入門』を勧められたので。
          『フシギなくらい〜』は、Amazonで購入する際に目について一緒に購入したもの。

           

          言語学に関心を持ち始めた理由は何だったか。

           

          そもそも「言語学」なんて聞いたこともない人だっているでしょう。
          これは「国語」とは違いますし、多くの言葉を操ることを目標とするものでもありません。
          操ることについては「語学」が受け持つ分野かと思います。
          「言語学」は言葉の仕組みや成立・系統を明らかにしようとする学問です。

           

          このブログで言語学に言及したのが2010年11月
          その前の10月にホームページに天国の作り方のレポートの原型があります。
          言語学という言葉にはなっていませんが、「人に見せる文章を書く」というテーマは2001年5月に記述があります。
          人との交流のための言葉が重要だったのは、ネット上の交流で中々意思の疎通がしにくかったところからだったと思います。
          自分自身が統一教会の経験をどう捉えているのか、それ以前になぜ統一教会の道を選択したのか?
          その辺りを整理していきたかったのですが私は言葉を知らなかった。
          2000年当時のネットは未だSNSどころかブログも盛んではなく、(ブログっていつからあったんだろう?)
          BBS(掲示板)上でのやり取りと、個人のホームページからの発信。
          当時の私の関心の中心は統一教会と統一原理の本質についてだったので、元食口という人たちの文章を読み漁ってました。
          自分の宗教・哲学の知識の足らなさに泣きましたね。
          反論したい内容があっても知識が足りない、文章力が足りないで、BBSに書き込みたくても追いつかない。

           

          「分かっていることならば言葉で説明できるはず」と、よく言われます。
          少なくとも当時私が見ていたBBSにはちょくちょく出てきていたと思います。
          なので自分が書けないのは分かっていないからなんじゃないか。
          それならば、「分かる」ってどういうことなのかという疑問を抱いたのが言葉への興味の始まりだったと思います。

           

           

           

          佐藤さんのblog『言語学の嘘』に初めてコメントさせていただいたのは2012年だったようです。
          その時のやり取りが以下です。

           

          https://plaza.rakuten.co.jp/clg2009/diary/200904050000/comment/write/#comment

           

          始めまして   桜葉佳代 さん
          「ブログ村言語学カテゴリーから来ました。
          こちらのブログはとても興味深く感じます。
          言語学に関心があったのですが、
          言語学が思想哲学ではなく外国語カテゴリに存在していたところからフェイントでした。
          なるほど一般に言語学とは外国語のエキスパートがすることなのですね。
          私が関心を持ったのは認識や記憶に関わる言語の役割であったので、言語学で探してもなかなかピンと来る書籍やサイトに尋ね当たることはありませんでした。
          今仕事がとても忙しいのでじっくり読むことが出来ないのが残念ですがまた訪問させていただきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。」
           (2012.06.17 14:10:23)

           

          Re:始めまして(04/05)   CLG2009 さん
          「桜葉佳代さん
          メッセージありがとうございます。
          私の考える言語学とは、今一般的に言われている言語学とは全く違うといってもよいと思います。
          一言でいうと、記憶というキーワードを通して言語をとらえ直すことです。そしてその先にはもっと大きなテーマがあります。
          これからもお付き合いの程よろしくお願いいたします。」
           (2012.06.17 23:01:13)

           


          このやりとりで、やはり当時は認知言語学とか生成文法とかはあまりメジャーではなかったことが伺えますが、
          今『言語学』で検索すればいろんな情報が引っかかてきます。
          どんどん進歩している分野なのでしょう。

           


          認知言語学という分野に出会えなかった私は自分で思考実験を繰り返して似たようなことを考えてきました。
          それが前記事のPDFレポート『天国の作り方1-1』です。

           

          言葉というのは人の魂の骨格だと今の私は思っています。
          言語学者であるソシュールが、構造主義の発端となったのは言語に構造的な性質があったからなのだと思います。
          肉体の構造を支えているのは骨格ですし、骨の中には神経系や血液を作り出す重要なシステムが組み込まれています。
          その構造は「分かる」ということの構造でもあると考えます。
          言葉の機能を「区別」「圧縮」「固定」「拡大」に分類して考えました。

           


          先に『認知言語学入門』を読みましたが、その名の通り入門書です。

           

          ・認知言語学は言語の基盤として認知(能力)を重視する。
          ・基本的な認知能力として「比較」「一般化」「関連付け」がある。
          ・認知言語学は、言語習得の過程において経験(的学習)を重視する。
          ・私たちは、一般的な規則と個別的な知識を余剰的に持っている場合がある。

           

          上記4行は本の1〜2講(この本は章の代わりに講が使われている)に書いてあったことの抜粋です。

           

          「認知」とは即、「分かる」という意味です。
          Wikipediaには
          「心理学・言語学・脳科学・認知科学・情報科学などにおける認知とは、人間などが外界にある対象を知覚した上で、それが何であるかを判断したり解釈したりする過程のことをいう。意識と同義に用いられることもある」
          と、あります。
          私が持った問いと全く同じテーマでの『学問』が成立していたということで、自分の思考回路はそれほど突拍子もないことをしていたわけではないと少々安堵。
          この学問と出会えなかったことは、遠回りをしていたということなのか、あるいは自由な発想を展開するチャンスを持てたことなのかのどちらかなのだと思います。

           

          基本的な能力としての「比較」を私は「区別」と呼び、「一般化」を「圧縮」と呼び、「関連付け」をその結果としての「拡大」指向と呼びました。
          そして、私が「固定」としたのは三行目の「経験(的学習)」に相当する「記憶」だと解釈しています。
          「記憶」は『言語学の嘘』の佐藤さんも重視しているテーマですが、私は記憶のパーソナル性が個別の発話を複雑にし、時には同一の母国語を使っていても充分な意思疎通ができなくなる原因なのだと考えています。
          それが四行目の「個別的な知識を余剰的に持っている」という話ですね。

           

          この本では3講目以降に「カテゴリーとプロトタイプ」「同じものに対する異なる捉え方」「メタファー」「メトニミー」・・・と、認知言語学に用いられる用語とその実例を挙げて解説している。
          その中で感じたことは、見出された認知のシステムが言語生活においてどのように表れているか、それが応用展開されていく様を解説していくのだが、私が求めていた認知の構造そのものに踏み込んで行く気配を感じられなかった。
          つまり、結果として現れている言語生活のサンプルを集めて整理分類する作業に見える。
          とはいえこの本はあくまで入門書なので認知言語学者の中には、言語に現れている認知の構造、つまり原因について探求している人がいないとは言い切れない。
          いてくれるといいなと思ってしまいました。

           


          この本の著者は『生成文法』というのを意識して書いているようです。
          最後の14講で、「認知言語学の位置づけ」としているのですが、その内容は『心理学』からの継承と『生成文法』との比較になっています。
          なので、『生成文法』の中身に少々触れています。
          大きくは、認知言語学は経験主義であり、生成文法は生得主義であるという主張かと思われます。

           

          これは17世紀の哲学界でもこういう二派に分かれていたように思います。
          デカルトの「生得観念説」とロックに始まる「経験論」です。
          有神論と無神論みたいなものです。
          二派に分かれることで自身の思考に垣根を造り、自由な発想をできなくしてしまうことに陥りそうですね。
          とはいえ、この本に出て来る用語はこれから私の文章にも応用できそうなものが多いのでありがたいです。
          専門用語とはいえ、私以外の誰かが似たような概念を持っている事実を文章中に反映できるのです。
          助かります。

           

           

          | おーば | - | 00:08 | comments(0) | - | - | - |
          権利という空手形・平等という幻想
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            ああ、私としたことが、神も仏もない連投ですね。
            だけど“権利”と言う問題はこれまでにもずいぶん書いているようです。
            右側の「Search this site.」に“権利”と入れて検索すると30以上の記事が引っかかってきます。
            それ程のぶれも無いと思います。

             


            第二次世界大戦後、個人の自由と権利の追求が重視され、権利教育に重点が置かれてきました。

             

            国民は自由に生きる権利を有しているのです。
            職業選択の自由、住居選択の自由などですね。
            そして生命財産を犯されることのない権利。

             

            戦前、個人の権利が侵害されてきたこと、様々な権利の不平等があったことを反省して権利教育が盛んに行われました。

             

            権利があるとはいえ、希望の職種への就職は必ずしも叶うものではなく、
            どこそこのエリアのこんな間取りの家に住みたいと願っても高嶺の花で到底手が届かなかったりします。
            (住居選択の自由は、かつての部落問題のように差別によって特定の地域に住まわざるを得ない状況に追い込まれた人たちを念頭に謳われているものです。
            それは大分解消されてきていますが)

             

            子供たちには将来の夢を自由に大きく持つことが推奨されています。
            夢を持てと言われて有名になること、お金持ちになることを目標にする子供たちは少なくありません。
            地道な暮らしを願うことは恥ずかしいことのようにも思えるほどです。
            そんな子供たちばかりではないと思うのですが、メディアが伝えるのがそういう風潮ばかりなので、そこから影響を受ける子供たちも少なくはないはずです。
            幼い子供は自己中心的なのが当たり前なので、幼い心で将来の夢を描かせ意識させることは、将来の可能性を自己中心に限定しかねません。
            そして自己中心を実現することがカッコいい勝ち組的人生という事になってしまいます。
            教育はそれを後押しするべきではありませんが、権利教育というのは自身の自由の権利を主張することを良しと教えるのです。
            幼い夢を実現できる子供たちは一握りです。
            結果、子供たちが作る未来は競争社会となり、競争社会が生み続けているのがいわゆる『格差』です。
            勝利感を求めれば比較対象となる敗者の存在が必要なのです。
            個人の勝敗が現代的人生のテーマになれば公共心は前時代的なものであり、前時代的な公共心を教えることは洗脳教育ということになりかねません。

             

             

             

            昔は趣味と仕事は次元の異なるものでしたが、最近は趣味を仕事にする、できるのが個人の権利みたいに感じられています。
            これは実はメディアによってつくられたイメージなんですが、これを目指して挫折して敗北感に生きるなんてこともあります。
            気にしないで受け入れているように見える人たちもいますが、
            自由のイメージは一方でそれを実現しなければカッコ悪い負け組というプレッシャーを与えています。

             

            マズローの分析では、自己実現といって自身の能力をいかんなく発揮したいというものです。
            しかしこの現の理解も単に承認欲求に留まっていることが多いようです。
            承認の欲求というのは自己実現の一歩手前で、尊敬されたいというもの。
            世のため人のために生きて尊敬されるという発想よりも、
            自分の能力の高さを見せつけてマウントをとり相手を服従させたい発想に転びがちではないでしょうか?

             


            そして、権利意識というものは、一旦手にした権利を侵害されることに強烈な被害意識を生み出します。
            今回、自粛警察とか、マスク警察と言われる人たち、感染者に対する差別感情は、
            「私が日常生活を送る権利を侵害したものを許さない」
            (日常生活を維持する代償を自分は払っているにもかかわらずそれを奪われたという被害意識)
            からきているように思えます。
            そのような考え方でベーシックインカムのような制度が導入されれば
            平時はともかく有事(災害や戦争など)に給付金額が変動した時に社会に対する不満が爆発することでしょう。
            もっとも、最低限の生活費の保証の場合それが減額されると非常に問題なのは間違いありません。
            支給額が政治の道具にされることも懸念されます。

             

            社会保障とか、今回の給付金のこととか、福祉事業に対してもそこから利益をとろうとするハイエナがこの世の中には多すぎるし、
            彼らは確実に弱者を食い物にしてはばからない。
            いや失礼、彼らは社会が許容する範囲でできる限りの情報を収集して利潤を生むための最大限の工夫を凝らしているだけなのでしょう。
            そしてこの国の情報管理の甘さは彼らに情報を垂れ流しているとしか思えないし、ゆるい慣行があまりに多い。
            行政のオンライン化もそれ自体をビジネスチャンスとして権益の取り合いが繰り広げられるようです。
            そんな人たちばかりではないと思いたいのですが残念ながら私の周りには志の高い尊敬できる経済人の話は聞こえてきません。
            無邪気に成功を追い求め、成功体験を誇り、堪能している人たちばかりが目につきます。

             

             

             

            重ねて書きますが、ベーシックインカムを実現しようと考えれば、公共心の強い国民教育をしなければ不可能であると思われます。
            そして現状は反対方向に向かっているように見えます。
            この方向性は自由競争と言う弱肉強食社会で格差を拡大し、勝者の権利が強調され世襲される社会です。
            自由も権利も美しいものの様ですが、実際には社会的強者によって利用されています。

             

            そして大きな脅威にぶつかったときに人を守ることができず今回のようなちぐはぐな政策が打たれる結果を生むのです。
            権利に対する強い執着は、主に“僕”的情です。
            “僕”は賞罰に敏感というか、それを中心に考え行動します。
            “養子”にもそういう考えはありますが、彼らは奉仕精神も持ち合わせています。
            状況に応じて譲り合いができるのですが、強く主張されたときに引いてしまうので、弱者側に回ってしまうこともしばしばです。
            しかし譲り合う精神がなければ、昨今の厳しい環境の中でまともな社会を保っていくことは難しいでしょう。

             


            自己中心的に権利への強い執着を持つ人は権利を主張することに一生懸命になりますから権益を多く集めることができたりします。
            執着が少ない平和主義者であれば権益から遠ざけられることもあります。
            権利が奪い合う対象になれば自ずと勝者・敗者が生まれます。
            つまり、権利を中心にした社会は平等を実現することが難しいのです。

             

            変えなければならない価値観と言うのは権利を中心とした価値観です。
            とはいえ、一般人が権利を返上して為政者に委ねるなんてことをすれば、今の政治では庶民がひどい目に会わされることは目に見えています。
            政界で勝ち残っている人たちの多くは“権利”が大好きでそれを勝ち取ることに長けた人たちです。
            執着の少ない人が生き残れる世界ではありません。

             

            地方から立ち上がってくるリーダーシップ(地域振興を重視する企業・団体など)に期待を持つのがいいのかもしれません。

             

            | おーば | - | 01:27 | comments(0) | - | - | - |
            ベーシック・インカム
            0

              前記事はきつい内容ですよね。
              だけど向き合うべき現実は直視しないといけない。
              も一つきつい記事を書こう。
              これ故に私自身が重たくなっているのかもしれない。

               


              産業の構造に問題があったとしても人間、稼がなければ生きてゆけないのです。
              既存の構造の中で生きていく為の教育を受け、その中で工夫しながら生きることを学んできた私達ですから、
              そこに文句をつけてもどうにもならないと考えるのが普通のことです。
              だから既存の経済構造を無暗に壊すわけにはいかない。
              それをこの新型コロナ問題は有無を言わさずぶち壊しにかかってきたのです。
              この人命と経済の応酬の結末はまだ見えていませんが、多くのは元に戻ることを望むので既存の構造はそう簡単には壊れないでしょう。

               


              みんな現状維持を求めてしまうので、生活に精一杯の人達は、経済が傾くと死活問題ですが、
              そもそも余裕のある人にとっては利益が減ってしまう事を一大事と考えます。
              GoToトラベルで東京が除外されたと文句を言う人たちは、自分たちに旅行に出ようとする余裕が与えられていることに気づきもしていない。
              そこに生活の巻き返しをかけていた旅館や商店の皆さんには申し訳ないばかりですが。

               

              このままでは難しいと思ったとしても、稼業はそう簡単に切り替えることはできない。
              社会的なセーフティーネットが不足しているのと、
              そこまで積み上げた実績・歴史をほかすことなんか気持ちが付いて行けません。

               

               

               

              社会的なセーフティーネットの考え方に、ベーシック・インカムと言うのがあります。
              ベーシック・インカムというのは、全ての国民に生活するに足りる資金を継続的に給付する制度です。
              これは賛否両論です。
              私は賛同派ですが、ただやればいいというものではないです。
              これを少し考えたいと思います。

               

              賛同理由としては、貧富の格差が多くの人に与えている生きづらい状況の是正が必要だからです。

               

              雇用の不安定から生きてゆけない人が存在しているのは現実です。
              また、収入不足から結婚することができない若者もいますし、結婚したからと言ってほしくても子供を作ることができない夫婦がいます。
              子供を持てても一人でいっぱいだったりします。
              子供も生まれれば国民としてカウントされるのでベーシック・インカムの対象になりますので、家族設計と言う観点では自由度が増すことでしょう。

               

              また、生活のために不本意な仕事を選択せざるを得ないケースがあります。
              そして、今回の新型コロナウイルス感染流行のように、防疫の観点から仕事を継続できないケースがクローズアップされています。
              災害や社会変動によっていきなり職を失ってしまうこともあるのです。
              また、時代的な要請による事業転換が迫られる場合があります。
              現代社会においては、生活を確保するために新事業に移行する原資の準備ができず、
              時代に合わなくなった事業を継続するしかないようなことが頻繁におこります。
              こういったケースも、生活の心配はせずに納得のいく仕事をする準備ができるようになります。

               

               

               

              現在日本には生活保護制度があります。
              しかし、生活保護には様々な条件が付いてきます。
              贅沢品は禁止されますし、住まいについても限定されます。
              収入が無いのだからそんなの当り前だろうと考えがちですが、何が贅沢なのかが誰がどの様に判断するのでしょう。
              そして、頑張って収入を少し上げることができても、余分に稼げた分は生活保護費が減額されます。
              これは一旦生活保護の生活に入ると働くことのモチベーションを著しく下げ、抜け出すことを困難にしているようですが、
              ベーシック・インカムではプラスアルファがあっても給付金額が下げられることはありません。

               

              社会福祉士か、ソーシャルワーカーでしたか、担当者がついて暮らしぶりを監督するはずですが、十分な人材は割かれていません。
              人間が文化的な生活をするにはそれぞれが個性的であるべきです。
              その個性を生かして生きるには様々な生活様式があり得ます。
              それを理解した上での指導が必要になると思いますが、人手がなければ十分な指導は見込めません。
              それどころか、悪質な業者に食い物にされて保護費をだまし取られ続けるようなケースも聞こえてきます。

               

              また、日本の社会では生活保護は恥ずかしいことだという考えが強く、受給すれば親族から肩身の狭い思いをしなければならない。
              それを嫌って必要なのに生活保護申請をすることができず、生活を破綻させる人達もいます。

               

              ベーシック・インカムは国民一律無条件給付です。
              一律なので給付を受けても肩身が狭いことはありません。
              無条件ですから詳細な審査も必要なくなりますし、何を必要と考えるかは個々人の自由になります。
              審査が不要なので、他人からの生活指導は必要ないというのが前提になります。

               

              そして生活を大きく変えなければならない時、路頭に迷う不安がなくなるのです。
              今回の「夜の街」にも、生活があるからと心配することなく休業要請を出すことが可能になるでしょう。
              家賃、借金、リース料などのコストに対する考え方は新たに構築する必要はあります。
              休業ではなく廃業に繋がるケースもありますが、廃業によって人命が失われる心配はなくなります。
              経済構造変革の可能性が見えます。

               


              労働賃金は給付されるベーシック・インカムに上乗せされる形での収入になります。
              ただし、税率は上がることが想定されますので、現行の賃金体系から比べれば手取り賃金は減少します。
              仕事の価値は賃金を目的とする以上に社会参加が目的として重視されるようになるでしょう。
              しかし生産性の低下は懸念されます。(過剰な生産は抑制されるとも言えます。)
              大量生産大量消費の時代を終わらせると考えればいいかもしれませんが、必要な量の生産はどうやって確保したものか。

               

              贅沢さえしなければ生活に不安が無いのであれば、あくせく働く必要はありません。
              人が働くモチベーションはどうなるでしょうか?
              働く人がいなければ誰が社会を支えるのでしょうか?
              ローマ時代、市民には生活に足る食料と、娯楽が無償で提供されていましたが、そこからローマは退廃して滅んだという話もあります。
              ローマ市民の生活を支えていたのは奴隷制度ですが、現代社会にそれは考えられません。

               


              働くことへのモチベーションを維持するためには社会的な価値観の大幅な変更が必要になるのです。
              ベーシック・インカムを実現させるには、国民の意識改革は必須となります。
              個人の生活を成り立たせたいという動機で働くのが従来の経済システムですが、社会を支えたいという意識で働くことが個々人に求められます。
              そうしなければ回らない社会制度です。
              全体主義のようにも見えるかもしれません。
              かつて国家のために個人の自由が制限されていた時代があると考えられています。
              しかしあれは、国家を牛耳ろうとする個人的独裁が産んだ悲劇です。

               

              社会のために働くと言っても、イメージされるのは地域コミュニティからのスタートになります。
              地方自治が強化され、地域住民の生活レベルからの民主主義を立て、それに則った教育が必要になるのです。

               


              さもなくば、労働は強制的に課せられ、管理される者と管理する者との二極化が起こります。
              それは共産主義国が独裁的な政治を行うのと同じことになるでしょう。
              計画生産と言えば聞こえはいいのですが、職業選択の自由が与えられなくなることが予想されます。
              そうしないためには各個人が責任を持った社会参加をしなければなりません。
              日本人は自然災害などを通じてそれに近い訓練を受けてきましたが、社会的相互監視のようにもなりやすくバランスが難しいのです。
              前シリーズの『七つの封印』でお話した“僕”段階の気持ちでいたのでは相互監視社会になります。
              せめて“養子”段階の情で参加しなければならないし、リーダーには“庶子”段階の情をもって望んでほしいものです。

               


              先日のTOKIOの転身はなんだかこの方向に近い雰囲気を感じたので「おや?」って思いましたが、思い違いでなければいいなぁ。

               

               

               

              ベーシック・インカム簡単なことではないんですよね。

               

               

              | おーば | - | 14:37 | comments(0) | - | - | - |
              観光業に思う事
              0

                さてどこから行きましょうか?
                ブログを6月9日のコメ返から全く放置でゴメンナサイ。
                特にコメントを入れて下さった海がめさんとkogumaさん、ゴメンナサイ。
                まるっきり文章を纏めることができないでいました。
                書きかけては放置です。
                病気とかではありませんが、メンタルの問題なのでしょうか?
                あるいは情報処理能力が追い付かないためか?

                 

                世界中誰もが新型コロナウイルスの振る舞いに疲弊している時。
                そしてこの騒動で、これまで隠されていたけれども浮かび上がってきたものもあるかと思います。

                 

                外は雨。
                東京五輪のために用意された四連休でしたがそんなお祭りは消え去りました。
                日本政府はGoToトラベルキャンペーン成るものを仕掛けましたが、現場を知らない企業経営者が思い付きで強行したキャンペーンは負担ばかりが大きくてトラブルだらけになるのは目に見えています。
                この後にGoToイーツとか言っていますが、、、、順番逆じゃない?防疫を考えるならね。
                経済のカンフル剤としての考えだよね。
                最初に強いの打って継続させるために軽いのを続けて打つみたいな。

                 

                ウイルスを運ぶのは人間だと言っているけれども、お金を運ぶのも人間なので、片方だけを動かすのは難しいのかもしれません。
                観光業というものについて、冷静に考える必要があると思います。

                 

                地方再生とずいぶん昔から言われています。
                人口が中央一極集中してしまい、地方の過疎化が進み、地方創世金でしたっけ、1億円だったか地方に配られたこともありました。
                企業誘致とか上手く使えたところもあったと思いますが、金塊を買ってそれを目玉に人を集めようとかいうのもありました。

                 

                その頃くらいからでしょうか、地方は観光で稼ぐという流れが起こってきたのは。
                政府も旗振りしていたと思います。
                さらには、日本国という単位でも、「ものづくりニッポン」では国際的にみて稼ぎにくくなってきたから観光立国に舵を切って、インバウンド目当てに観光業を推進してきました。
                オリンピックも世界中から人集めするためのイベントです。
                オリンピック以外にもIR誘致(カジノ)、世界遺産登録などもそうですね。

                 

                観光業はこのコロナ禍で最もダメージを受けている業種と言えるでしょう。

                 

                コロナ禍以前、オーバーツーリズムという問題が言われていたことをご存じでしょうか?
                よく例に上がるのが京都で、舞妓さんが安心して街中を歩くこともできない、お茶屋さんで常連の旦那衆の足が遠のいてしまった。
                これはパパラッチよろしく舞妓さんを撮影しようとして追いかけまわしたり、私有地に平気で入り込んだりする外国人観光客の影響とか言われますが、単純に分かりやすい話として言われるのでしょう。
                失われていた古都京都の静けさは、コロナ禍によって取り戻され、京都行くなら今がチャンスとも言われています。
                京都の人の生活はなかなか取り戻せるものではなさそうです。

                 

                京都以前に問題になったのが富士山のごみ問題。
                これは外国人に限らず日本人登山客の問題でもあったようです。
                昔、登山はそれなりの知識と準備をもって敢行されるものでした。
                もっと昔には山には神様が宿るとされて安易に遊びに行くところではなかった。。。
                (昔は参拝も庶民の行楽的要素を持っていましたがそうそう頻繁に行くものではなかったのですよ。時間もかかるし危険も伴いましたから。)
                情報化社会になるにつれ、景色や交通などが知れ渡ると、「知っている」という気分は現実を身近に感じさせます。

                 

                身近に感じ、行きやすくなることで、大事なものが見落とされても気が付かない。
                富士山で見落とされたのは自然体系と登山の危険性。
                安易な計画で遭難事故も増えたそうです。
                一度遭難事故が起これば命にかかわることにならずとも、救難隊など他人に苦労を掛けるのですが、先行する身近なイメージはそんな予想には至りません。
                また、ごみのマナーもさることながら、気が付きにくいのはトイレ問題。
                人が集まれば処理すべきものはどうしても増える。
                山のてっぺんに下水設備が整っているはずもなく、これは持って帰るわけにもいかず、大掛かりな処理対策が必要になる。

                 

                京都や人が集まりすぎる観光地で見落とされてしまうのは地元の人の生活です。
                町はアミューズメントパークではありません。
                観光業に従事している人たちはある程度許容するでしょうが、そうでない人たちには観光客は騒々しい無礼な訪問者でしかありません。
                事業者ではない生活者が土地土地にいるのです。
                ディズニーランドで働く人たちの生活はディズニーランドの外にありますが、観光地の場合には必ずしも分離されていません。
                TDRの立地は埋め立て地だから少ないとは思うけど、アクセス途中の大渋滞に迷惑している住人はいるかもしれない。
                (ちなみに、我が家の近所のコインパーキングの価格が上がるのはTDR直通シャトルバスに乗り換える人たちの車の影響とも言われている。マジだろうか?)
                バックパッカーの増加は地域住民のためのコミュニティバスまで旅行者に占領されてしまうという話も聞く。

                 

                アクセスの問題では、長距離移動に使われる飛行機の問題もある。
                ジェット燃料によるCO2問題は、最近ようやく言われるようになってきました。
                何故言われなかったかというと、お金が儲かる話だからなのでしょう。
                今回コロナ禍で破綻しそうな航空会社が多数あるそうです。
                航空関連企業にお勤めの方々は雇用の減少、収入の減少などの脅威にさらされています。
                だからこそ政府はGoToトラベルとか言い出すのでしょう。
                が、一方で心配しているのは株価の下落です。
                これまで旗を振っていたのは投資による利潤を得られるという側面が無いと言えますか?
                今の政府が心配しているのはどちらかと言うと株価の方だと感じるのは私だけでしょうか?
                旅行代理店、旅客運輸業者にお金が落ちるキャンペーンですね。
                個々の宿屋は対象に入るか入らないか戦々恐々です。

                 

                インバウンド需要は99%減とニュースで聞きます。
                外国人の入国を規制しているのですから当然の数字ですね。
                インバウンド需要で生活していた人たちも大変な危機に見舞われていることでしょう。
                お見舞い申し上げます。

                 

                政府が旗を振ってそれに準じたことを誰が攻めることもできないでしょう。
                しかし、アフターコロナ、ウィズコロナと言われる中では観光・イベント関連は今まで通りにはいきません。
                コロナ禍が過ぎ去れば元に戻ると思いたいところですが、問題はそれ以外にも多いことに気が付かなければなりません。
                政府が旗振りをした産業だから永遠に持続するわけではないのです。
                戦前、国力増強のために振興された炭鉱業はどうなったでしょうか?
                戦後復興のために振興された林業は見捨てられてスギ花粉問題にまで発展しています。
                列島改造のために注力された土木建設・ゼネコンも、ハコもの公共事業への批判に晒されました。
                時代は移り変わります。
                人はその都度柔軟性を求められ対応してきましたが、多くの人々を取り残した現実もあります。

                 

                限られた部門に過度の期待をかけてはいけないのです。
                観光イベントには魅力と必要性があります。
                無くなっていいものではありませんが、そのスタイルの変更は必要です。
                量的にも膨らみすぎています。
                環境負荷への配慮、日常生活への配慮が必要ですが、稼ぎたいという欲心はその配慮を失わせます。

                 

                今観光業は安売りすべき時ではありません。
                需要喚起の方策は安売りキャンペーンしかないと考えれば、現場は疲弊するばかりです。
                供給可能な資源量(環境負荷)を越えてしまっているのですよ。
                残念ながらパイの縮小はまぬがれません。
                そうすることで上前を撥ねる大手企業と投資家を排除することに繋がるかもしれません。
                しかし、パイが縮小すればそれで生活できる人数が減ることも事実です。
                見落とされている生活の質にかかわる事業が起こることを期待したいです。
                コロナ禍は一極集中から地方分散の流れも作っています。
                起業家ではない私がこんなことを書いても無責任でしかありません。
                ただの希望です。

                 

                | おーば | - | 12:54 | comments(0) | - | - | - |
                PDFのお知らせ
                0

                  人間は成長するものです。
                  肉体と共に精神も成長します。

                  わたしはこのことを皆さんに伝える努力をもっとするべきなのだと最近思い始めています。

                   

                  成長のことはブログで何度も書いてきたことですが、ブログの魚拓版PDFを作ってみました。
                  ページ右側にあるカテゴリーの『心の成長』と『七つの封印』がそれを中心としたまとまった記事です。
                  カテゴリーで選択すると、新しい記事が前に来てしまって読みにくいのですが、PDFでは記事の順番通りに読めるように並べてあります。
                  以前に造ったレポートと、『夜の神・昼の神』も下記のダウンロードページに置いておきますので、関心のある方はページに飛んで該当ファイルをお持ち帰りください。

                  http://www.o-baka.com/Leaf-download/Leaf-top.html


                  心とか精神とか言いますが、これは霊や魂と同義です。
                  霊魂などというと肉体を持たない死者のことだと思ってしまいがちですが、人間は生きている時から霊魂を持った存在です。
                  肉体が死んだときに、霊魂だけになってしまうので、霊魂を指して死者と勘違いするのです。
                  肉体が生きているうちは、霊魂は肉体の中に納まっているので意識されにくいのですが、
                  肉体の命があるうちから、霊魂の方が個人の本体なのですよ。
                  見えないし触れないのでついつい忘れがちですが、見ている本体であり、感触している本体は心即ち霊魂なのです。

                   

                  霊的な成長と表現してしまうと、スピリチュアル系のアセンション(=次元上昇)というのが連想されます。
                  三次元から四次元、五次元へ。
                  更には十一次元くらいまであるんでしたっけ?
                  ただ数字で表現されますと、何やら階級制度みたいで胡散臭く感じてしまいます。
                  高次元にいる人たちから何やら見下されているような宇h会館を感じてしまいます。
                  実際に、スピリチュアルで語られているアセンションした人たちの話というのは聡明であり人を見下すような精神状態の人ではないのでしょうが、
                  この高次元とか低次元とか言う表現や数値で表される階層が、どうしても上下関係をイメージさせるのです。
                  上下関係でしかとらえられないのは、その人の精神が「その程度」なのだとここもバッサリ切り捨てられてしまいます。

                   

                  文師が語られた心情の八段階の成長段階はもっと酷い言葉を使っています。
                  「僕の僕」「僕」「養子」「庶子」「実子」「母」「父」「神」
                  封建時代の奴隷制度、家父長制度のごとしです。
                  「僕」「子」「父」「神」は聖書に出て来る格位なので、それを利用して説明しようとしたときに、
                  こういう段階になってしまったのだろうと私は理解しますが、それならスピリチュアルが数字で表現したのも何か致し方ない理由があるのかもしれないと考えるべきなのでしょう。
                  ちなみに、人間関係を上下関係でとらえるのは「僕の僕」から「養子」まででしょう。
                  「庶子」は達観というよりはドロップアウトしてるので。

                   

                  数字で表現されると、その内容を探る上での手掛かりに困りますが、どんな言葉でも言葉で表してもらうと何かしらの手掛かりを探れるものです。
                  今「認知言語学」というジャンルの本を読んでいますが、ここに出て来る言葉は解説するのに役立つかもしれません。
                  少々お待ちください。

                   

                  また、アフターコロナ、あるいはウィズコロナの社会を考えるために、横の八段階の考察をするべきかなというアイデアもあります。
                  「個人」「家庭」「氏族」「民族」「国家」「世界」「天宙」ですね。
                  こちらはまとまるかどうかは怪しいですね。
                  書くとなるとちょっと過激な表現になりかねない気もするので。

                   

                  | おーば | - | 21:04 | comments(4) | - | - | - |
                  COVID-19
                  0

                    新型コロナは色々な問題をあぶりだしました。
                    為政者と民衆の感覚の乖離が最たるものでしょうね。

                     

                    感染防止のためにできる限りリモートワーク(テレワーク)に切り替えてくださいと、聞いた時には情けなかった。
                    この発想は、命令を下す側の人間が、何をやらせようかという会議や、その資料の取りまとめをするオフィスワーカーだけに可能な事なのよね。
                    現場で汗を流す人間のことなんか眼中にないわけ。
                    そして、このテレワークで仕事をしているつもりの人間が、その報酬として現場か債権のような形でお金を吸い上げている。
                    今、商売をやっている人たちが家賃が払えないとか、リース料が払えないとか問題になっていますが、
                    家賃を受け取る大家さんが債務を持っていたらその支払いのために家賃を待つことができないという話です。
                    個人商店を止めるならばその川上で蜜を吸っている連中を止めなければ川下は死んでしまうしかないんだ。
                    川上は家で仕事するんじゃなくて家出休んでなさい!!

                     

                    原油価格が一時マイナスになりましたね。
                    今はどうなっているのかしら?
                    証券とか金融商品とか先物取引とかやっていないのでよく分かりません。
                    そのよくわからない市場の中に債権の取引も含まれています。
                    家賃とか、保険とか、預貯金までもがこういう市場に繋がっています。
                    この市場は大きな金額が日々動いていますが、ほとんどがネット上での数字のやり取りなのでしょう。
                    これらはテレワークで十分動きます。

                     

                    原油価格が暴落したのは何故ですか?
                    世界中で飛行機やクルーズ船が運航しないし、自動車も動いていないからでしょう?
                    現場が動いていないからなんですよ。

                     

                    もっとも、飛行機やクルーズ船はテレワークで仕事する人あるいはその家族たちが主に使っていたものなのだけれど、
                    今回の感染劇にはずいぶんな役割を果たしました。
                    この現場で働いていた人たちに何か悪意があったわけではありませんが、
                    彼らが相手にしていたお客たちにはいささか問題があると思えるのです。

                     


                    個人商店や中小零細企業は生き残りに必死です。
                    最近露店でマスク販売している人たちがいますが、普段衛生用品を扱わない会社がつてをたどって中間業者から仕入れたものを販売しているというケースらしい。
                    通常ルートのドラッグストアや薬局には入らないのは多分日本に入る時点で通常ルートじゃないからなのでしょう。
                    戦後の闇市みたいな感じですね。
                    戦後みたいに配給制で販売しちゃいけないものを売っているわけではないし、
                    営業できない人たちが生き延びるためにやっているんだからいいことだと思います。
                    庶民は逞しいのだ。
                    もっとも、マスクに関しては、国がきちんと数を仕入れて混乱しないように配給するくらいのことをしてほしかったですが、そんな能はありませんでしたね。

                     


                    この騒動の中で、麻生さんが言っていた「ウハウハなところ」というのは
                    スーパーマーケットとドラッグストアと、衛生用品関連、デリバリーショップ、通信販売、宅配業者、通信業者、通信機器関係、ネットコンテンツ事業、医療関係(?)
                    売上的にはウハウハかもしれないけれど、現場は修羅でしょう。

                     

                    飲食関係でアルバイトしていたような人たちが仕事を無くしているのだからそちらへ回ればいいのかもしれないとも思うのですが、
                    なかなかそうもいかないようですね。
                    実際、怖いからしかたない。

                     


                    子供たちの問題も今回浮き彫りになってきました。
                    学校が閉鎖されてしまったものだから給食が食べられない。
                    各地域での子ども食堂も“蜜”をつくるからと言って開催できなくなりました。
                    そこまでの貧困問題になっていない家庭でも、両親が共稼ぎの家庭では居場所がなくて大変なことになっていました。
                    一日中留守番させられる年齢ではなく、学童保育も“蜜”問題に引っかかる。
                    今回は祖父母に預けるという選択肢も高齢者が危ないという理由で塞がれました。
                    そもそも三世帯同居であれば同居家族ですからかまわなかったんじゃないのかな?
                    アフターコロナの新しい生活習慣に、子供たちの居場所の“蜜”問題は考えられているのかしら?

                     

                    そして家庭内DV問題も心配です。

                     


                    学校給食で契約しているから他へ流せない生産者。
                    一部地域でフードドライブに回し始めているようです。
                    ただ、子ども食堂が閉鎖されているからどうやって届けるべきかという問題があるようです。
                    子供給食だけではなく、路上生活者向けの炊き出しなどもできなくなっているようです。
                    都内でもネットカフェ難民と呼ばれる人たちが行き場を失っていて、支援団体は彼らがどこへ消えてしまったのか心配しています。

                     

                    社会の弱いところが助け合って回っていく仕組みが出来上がればいいのだけれど、これは現場からの知恵がなければ動かない。
                    「おうちで楽しむ術を見つけて過ごして下さっている皆さんありがとうございます」
                    などと言っている人には思いもつかないことなんだ。

                     

                    | おーば | - | 00:33 | comments(2) | - | - | - |
                    バカな呟きです
                    0

                      新型コロナウィルス問題が、古い世を滅ぼしてくれるのではないかという淡い期待を抱かなくもない。

                       

                       

                      日本で5月6月で落ち着きを取り戻せるのならばCOVID-19は黙示録の第五のラッパのイナゴの害なのかもしれない。
                      だとしたら、第五の教会であるサルディスの教会に奨められたことを実践する必要がある。

                       

                      「わたしはあなたの行いを知っている。
                      あなたが生きているとは名ばかりで、実は死んでいる。
                      目を覚ませ。死にかけている残りの者たちを強めよ。
                      わたしは、あなたの行いが、わたしの神の前に完全なものとは認めない。
                      だから、どのように受け、また聞いたか思い起こして、それを守り抜き、かつ悔い改めよ。
                      もし、目を覚ましていないなら、わたしは盗人のように行くであろう。
                      わたしがいつあなたのところへ行くか、あなたは決して分からない。
                      しかし、サルディスには、少数ながら衣を汚さなかった者たちがいる。
                      彼らは、白い衣を着てわたしと共に歩くであろう。
                      そうするにふさわしい者たちだからである。
                      勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。
                      わたしは、彼の名を決して命の書から消すことはなく、彼の名を父の前と天使たちの前で公に言い表す。
                      耳のある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。」

                       

                       

                      実は死んでいる人は新生を成し遂げている人、死にかけている者たちというのは、新生しようとしている人たちですね。
                      わたしの神という表現があるので、わたしと名乗る方は神ではないとするとメシアでしょうか?
                      ここで来られるメシアは第六の封印を解かれて新しいエルサレムを築かれる方でしょうか?
                      だとしたら第四アダムと呼ばれる方かもしれません。
                      あなたの行いはまだ不完全だからもっと頑張れと。
                      目を覚ましていれば知らせをもって訪れる。
                      (ラッパの音を聞きなさい。)
                      だけどいらしたとしても分からないというのは残念至極。
                      衣を汚していない少数の者たちはいるということなので、
                      彼らがメシアと共に歩くことができるように、これまで受け取ったものを活用しなければいけませんね。

                       

                      これを自分のこととして読むのはあまりにもおこがましいけれど、
                      ここで謙遜傲慢で失敗するのも悔しい事でしょう?
                      そもそも“おーばかよ”と名乗ってるんだからバカになりましょう。
                      衣を汚していないと自負する方もバカになって下さい。
                      願わくは、私が受けて聞いた事柄を活かす方法を共に考えてはくれませんか?
                      共感し、共有しなさいとも聞いているので。

                       

                       

                      | おーば | - | 23:22 | comments(0) | - | - | - |
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